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『漢委奴国王』金印への新たな疑問1
 
 金印への新たな疑問 12/04/09作成 

 「漢委奴国王」の金印については、発見直後の江戸時代後半から、偽印であるとの主張がなされてきました。戦後においては、1950年の文化財保護法の制定に伴って金印が新しく国宝に指定される際にも、文字の彫り方等をめぐっていくつかの疑問が出されました。そして、結果的にこの時、金印は国宝に指定されましたが、この時点では、まだ疑問点は残るという状況でした。
 しかし、1956年の中国雲南省における金印 「
滇王之印」の発見と、1981年の同じく中国の江蘇省における金印「廣陵王璽」の発見によって、状況は変わりました。 
 その結果、現在では一般には、「今では『後漢書』に記された「印綬」に間違いないと考えられている。」と言う状況となりました。
 しかし、最近になって、また新たな疑問が示されています。
 ここでは、
鈴木勉氏・三浦佑之氏によって示された疑問が妥当なものか、またそれについての再反論について、検討します。

金印の現物教材は、→現物教材日本史:「漢委奴国王」金印レプリカ で紹介しています。
全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
 

 
金印への疑いが消えた理由
新たな疑問を提示した研究者
鈴木氏の主張:彫り方における「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」との距離
三浦市の主張:これまでの真印説への反論
再反論と今後の課題
目次へ
 金印への疑いが消えた理由          | このページの先頭へ |

  1956年の中国雲南省における金印 「滇王之印」の発見と、1981年の同じく中国の江蘇省における金印「廣陵王璽」の発見は、どのようにして、「漢委奴国王」金印への疑問を消し去ったのでしょうか。
 そもそも「漢委奴国王」印に提示されていた疑問のうち、私なりに重要と思われるものを列挙してみます。 

 まずは、そもそもの疑問です。『後漢書』という書物が書かれたのは、紀元後5世紀です。その「東夷伝」に記された金印が、光武帝の下賜から1700年以上も経た江戸時代に発見(発見は1784(天明4)年)されるということ自体が、確率的に非常に疑わしいことと思われます。話ができすぎています。

 

 後漢の国制では、周辺諸民族の長や諸国王に金印等を下賜する場合、その印の鈕(つまみ、音読みではちゅう)には、亀の形や駱駝の形が使用されるのが決まりとなっています。しかし、「漢委奴国王」金印の鈕は、「蛇」の形をしており、漢の制度とは矛盾します。

 「漢委奴国王」金印と類似の技法で製作されたほかの印がなく、漢代に製作されたという技術的な裏付けがなされていない。

 これらの疑問を解決したと考えられたのが、二つの発見とその間に行われた日本における科学的な調査です。


 写真01-01・02  「漢委奴国王」金印のレプリカの鈕の部分     (撮影日 12/02/20)

 上の「蛇」型の鈕は、レプリカだから適当につくってあるわけで、決してありません。本物を忠実に再現しています。
 学者の方の中にも疑問をもっておられる方がいますが、そもそもこの形を「蛇」をとらえることができる人は、よほど鋭い方です。私には、とても「蛇」形には見えません。


 まず、1956年に中国雲南省から発見された「滇王之印」は、これまでにあまり類のなかった「蛇」型の鈕(略して「蛇鈕」)をもっていました。
 雲南省は中国南西部の省です。「蛇鈕」印がほかにも存在することによって、漢王朝が、北西の乾燥地帯への匈奴(きょうど)や鮮卑(せんぴ、世界史の教科書に出てきます)などの首長に下賜する印には駱駝の形の鈕を、東及び南方の湿潤地帯の首長に下賜する印には蛇の形の鈕を用いることが通制となっていたことが認識されました。
  ※参考文献1 岡崎敬著春成秀爾編『魏志倭人伝の考古学 九州編』P185

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 この「 滇王之印」の鈕は、蛇の形をしていることがよくわかります。


 ついで、1966年5月から6月にかけて、それまではあまりなされなかった金印の実物の観察及び計測がなされました。これは意外な感じがしますが、金印は江戸時代の発見以来、はじめは福岡を領する大名の黒田家の所蔵となり、のちには東京国立博物館に保管されていたため、一般人はもちろん考古学者等においても実際に観察したり科学的に計測したりする機会は、なかなか訪れなかったということです。
 計測は通産省工業技術院計量研究所の専門家がマイクロメーターという100分の1の制度の計測器をもって行い、四辺の平均が2.347cmという結果が出されました。
 また、印面も観察され、「文字は両面よりやげんぼりにほられ、底部がさらわれている。しかし文字の先端はきわめて鋭利で力強い。」との報告がなされました。
 質量は107.729グラム、体積6.062立方センチメートル、比重は17.94であり、金と銅との合金と考えるなら、金と銅との体積比は、86.84:13.16という数値が報告されました。
  ※参考文献1 岡崎敬前掲書 P178-179
「漢委奴国王」金印の成分分析
95.1% 
4.5% 
0.5% 

 ただし、金印の組成については、1989年に福岡市美術館で金印の蛍光エックス線分析が行われ、本田光子氏らによって、右のデータが示されました。
 こちらの新しい分析によれば、金印の純度は高く、およそ23Kとなります。1966年の計測より金の純度が上がっています。


 そして、1981年2月には中国の江蘇省から金印「廣陵王璽」が発見されました。
 発見から二ヶ月後に、南京博物院でこの金印を観察した岡崎敬氏は、この金印が後漢の明帝の永平元年(紀元58年、これはなんと光武帝の金印下賜の建武中元2年=紀元57年の翌年)に廣陵王に授けられたものであり、鈕こそ蛇鈕ではなく亀鈕であるものの、鈕の部分にある魚々子紋様や薬研彫りの印文など共通するところが多く、「洛陽の同一工房の製作になる疑いがもたれる」と報告しました。
 「疑いがもたれる」とはまた一般的な文章としてはふしぎな表現ですが、岡崎氏自身は、「廣陵王璽」を見て、これは「漢委奴国王」と非常に似ており、「洛陽の同じ工房で作ったのであろう」という確信もったということでしょう。
  ※参考文献3 鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』P19

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 このように、二つの発見と科学的な調査の結果、「漢委奴国王」の金印については、疑問点の提示や偽作・贋作の疑いはもはや示されなくなりました。
 たとえば、2000(平成12)年に刊行された、寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』では、「金印研究の歴史は長く、私印説や贋作説まで生む結果となったが、今では『後漢書』に記された「印綬」に間違いないと考えられている。」として、次の4点の理由を挙げています。それぞれの( )内は、引用者の補足説明です。
【「漢委奴国王」金印が疑いなく光武帝下賜印とされる理由】

 印面が正確に後漢時代の一寸(2.35センチ)にあたっている。(江戸時代の人間が偽作するとしても、この寸法を知り得ることは非常に難しい。)

 同一規格で陰刻篆体の薬研彫り字体をもつ「廣陵王璽」の金印(江蘇省揚州市邘江件甘泉二号墓出土)が、1年違いの永平元年(58)8月に下賜されている。(「漢委奴国王」金印と同じ時期に作られた同じ工房の作製と思われる金印が存在している。)

 同じ蛇鈕で同規格の「滇王之印」の金印(前109年、武帝が下賜)が、雲南省晋寧県石塞山六号墓から見つかった。(蛇鈕も漢の国制として、湿潤地帯の首長に下賜するという仕組みが存在したと推定される。)

 純度95.1パーセントで、滇王之印や中国大陸の砂金の純度や他の金属組成とも一致する。(金属組成からいっても、金印は偽作とは思われない。)

 ※参考文献4 寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)P217-218 

 この結果、高等学校の教科書にも、ごく普通に光武帝の下賜金印=志賀島発見の「漢委奴国王」金印と扱われています。
「【本文】
 また『後漢書』東夷伝には、紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむいて光武帝から印綬を受け、107年には倭国王帥升が生口160人を安帝に献じたことがしるされている。奴国は今の福岡市付近にあった小国で、同市の志賀島からは奴の国王が光武帝からさずかったものと考えられる金印が発見されている。
【写真説明】
 金印  1784(天明4)年、福岡県志賀島で一農夫が偶然に掘り出したもの。印には「漢委奴国王」とあり、ふつう「漢の委の奴の国王」と読まれている。「奴」は博多付近の小国であった。こうした印は、文書の秘密を守るための封印に用いられたもの。(一辺2.3センチ、重さ109グラム、福岡市博物館蔵)」 
  ※参考文献5 『詳説日本史 改訂版』(山川出版 2007年)P16-17

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 新たな疑問を提示した研究者          | このページの先頭へ |

  「漢委奴国王」金印への新たな疑問を呈したのは、鈴木勉氏と三浦佑之氏です。
 鈴木氏は、早稲田大学理工学部を卒業した古代の技術分野の専門家で、NPO工芸文化研究所の理事長として、石上神宮七支刀の復原研究等を行ってきた方です。
 また三浦氏は、現在千葉大学教授で古代文学・伝承文学の専門研究者です。
 
 先に反論を唱えたのは、鈴木氏の方です。
 鈴木氏は、これまで金印の研究の中では、金印をどのように作製したかという技術論の分野の研究がほとんどなされていないことから、実験考古学的という新たな見地から研究を進め、通説とは異なるる結論に至りました。結論を簡単に言ってしまえば、これまで漠然と似ていることが強調されてきた「漢委奴国王」金印と1981年発見の「廣陵王璽」金印は、実は作成方法が異なっているというものです。
 鈴木氏は、2000年から4つの論文を発表して「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」との間に技術的距離があることを主張してきました。これは、上記の【「漢委奴国王」金印が疑いなく光武帝下賜印とされる理由】の中の、「2」を全面的に否定する主張です。
 しかし、鈴木氏自身が言っているように、なかなかその主張を評価する動きは出てきませんでした。おりしも、同じく「漢委奴国王」金印の彫り方を技術的に論考した先達の西川寧氏の論文(1952年発表「金印の刻法」『書品』28)がなかなか顧みられなかったこともあって、本人は50年もたてば誰かが取り上げてくれると思っていたそうです。

 しかし、2006年に氏の論文を高く評価し、その他の疑問点も含めて再び金印偽造説を提唱する研究者が現れました。それが、三浦氏です。氏は、ほかの論点や状況証拠から、金印を偽造した人物を推理し、大胆に偽造説を展開しています。その著書が、『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』(参考文献2)です。

 一方、鈴木氏の方は、最初の論文執筆時にはなしえていなかった、金印の実物を調査して再検討するという機会を得、あらためて自説をまとめて三浦氏の偽造説を支援します。その著書が、『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』(参考文献3)です。

 「漢委奴国王」金印の実物の再調査は、2008年3月24日に現在の金印の所蔵館である福岡市博物館で行われました。鈴木氏をはじめ、今津節生氏(九州国立博物館)、菅野清氏(九州産業大学)らが参加しました。
その報告は、大塚紀宜氏(福岡市博物館)によってまとめられています。
参考文献6 大塚紀宜著「マイクロスコープによる金印の表面観察とその検討」『福岡市博物館研究紀要第19号』(2009年)

 鈴木氏は、この10年間の経緯を次のように説明しています。
「 小論1~4(以下「小論」と表記)は、その後他の研究者から引用されることは無かった。筆者としては「50年くらい後に、もの好きな研究者が現れて拾ってくれたらいい」と考えていた。前項で紹介した西川寧氏の論考(13)を最初に取り上げたのが、その発表の約50年後の筆者であったからでもある。そう思いながらも、小論は、すでに企画段階にあったある拙著に掲載すべく、筆者はさらにわずかであるが筆を加えていた(小論5)。それを終えた日の翌日、そう、2006年12月14日に、読売新聞朝刊に掲載された三浦佑之著『金印偽造事件「漠委奴囲王」のまぼろし』(14)(以下『金印偽造事件』という)の紹介記事(15)に出会った。私はすぐに同書を買い求め、一気に読了した。
 三浦氏はそこで筆者の小論を度々引用して下さり、「鈴木勉の実験的分析」の項目を設けて次のように指摘された。

 こうした実験考古学的な手法をとる科学的な分析を前にして、「廣陵王璽」と「漢委奴囲王」とが同一工房の作品だと主張する研究者たちは、どのように反応するのであろうか。興味深いところだが、現在のところ、鈴木論文は無視されており、反論は一つも眼にしていない。(『金印偽造事件』132頁)

 ご指摘の通り、小論を引用する人も反論する人もなかったので、筆者は、誰かの目に止まるのは良くて概ね50年後のことと考えていた。そういう意味では、想定外の早い時期に三浦氏が取り上げてくれたことになる。大変嬉しく感じられたが,その反面、私は責任の重さを一層感じることとなった。」
  ※参考文献3 鈴木前掲書P45

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 さて、氏の「漢委奴国王」金印の彫り方についての考察はどのようなものか、また氏の主張を偽造の確信に置きつつも、さらに広い見地から偽造犯を推定する氏の考え方とは?その妥当性は?
 次のページで説明します。

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 【「漢委奴国王」金印への新たな疑問1 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

岡崎敬著春成秀爾編『魏志倭人伝の考古学 九州編』(第一書房 2003年)

 

三浦佑之著『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』(幻冬舎 幻冬舎新書 2006年)

鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』(雄山閣 2010年)

寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)

石井進他著 『詳説日本史 改訂版』(山川出版 2007年)

 

大塚紀宜著「マイクロスコープによる金印の表面観察とその検討」『福岡市博物館研究紀要第19号』(2009年)


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