原始〜古墳時代1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2012年03月04日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題

011

03/04/06

 旧石器時代の記述について、2001年発行までの教科書と、2003年発行の教科書とでは、次のような違いがあります。どうしてこのような記述の違いが生じたのでしょうか。

2001年発行まで

現在までに知られているもっともさかのぼる時期の旧石器時代の遺跡は、宮城県の上高森遺跡で、ほぼ60万年前とされ、原人段階のものである。

2003年発行

日本列島で発見されている旧石器時代の遺跡の多くは約3.55万年前以降の後期旧石器時代のものであるが、各地で中期(約3.5〜13万年以前)旧石器時代にさかのぼる遺跡の追究が進められている。

017

08/06/22

【ナウマン象シリーズ1】 
 右の?マークをクリックしてください。湯たんぽのようなものが現れます。これは発見された
ナウマン象の体の化石の一部です。体のどの部分の化石でしょうか'n01-17Nauman_teeth_up.jpg',627,362,627,362 
 ※説明の中に、長野県野尻湖ナウマン象博物館の説明があります。 

001

06/06/11
追加

【ナウマン象シリーズ2】
 1991年11月大阪府住吉区の山之内遺跡から約10万年前の
ナウマン象の足跡が発見されました。足跡の大きさはどのくらいでしょうか。

018 06/06/11
追加
【ナウマン象シリーズ3】
 この時代の狩猟民が、ナウマン象を1頭しとめると、一体、何人の何日分の食料を手に入れたことになるでしょうか。 

008

02/04/07

 考古学上の発見には、時にしてひらめきが重要です。
 横浜市霧ヶ丘の縄文遺跡では、
狩猟用のたくさんの落とし穴が見つかりました。とはいっても、当時の地表面に空いている穴が、落とし穴かどうかを確認するには、穴だけを見ていてはわかりません。 ところが、穴の底をよく調べると、あるものが発見できました。
 そのおかげで、落とし穴と確定できたのです。さて底にあったものとは?(右の?マークをクリックすると、模式図が現れます。)n01-08joumonotosiana.gif',228,335,228,335

006

01/06/24

 縄文時代人が何を食べていたかは、貝塚の様々なゴミからいろいろなことが分かっていました。
 
福井県鳥浜貝塚の発掘では、あるものの化石が大量に見つかり、縄文時代人の食事の実態(食性)が、さらに明らかに成りました。その化石とはなんでしょう。

012

06/07/22

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ1】
縄文時代、
東日本と西日本とでは、どちらが人口が多かったでしょうか?

013

06/07/29

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ2
 縄文時代、東日本と西日本の人口格差を生んだ理由は、それぞれの社会の食糧の供給力の違いにありました。
 どんな点が違っていたのでしょう。
  ※をクリックして解答と解説へ行ってください。冒頭に問題のヒントがあります。

014

06/08/06

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ3
 弥生時代の始まり
についての問題です。
 
1989年の高校日本史の教科書(1987年文部省検定済み)には、弥生時代の始まりについて、次のように記述されています。

「日本でもこのような大陸状勢の影響をうけて、
紀元前3世紀ころ、九州北部に新しい文化がおこり、農耕社会が成立した。新文化は水稲農業と金属器の使用を特徴とし、またこれまでの縄文土器にかわって、弥生土器とよばれる薄手で赤褐色の土器が使用された。この文化を弥生文化とよび、紀元3世紀ころまでつづいた。」

 この記述のうち、赤線部の開始の年代については、
現在の教科書(2004年版 2002年文部科学省検定済み)では、これと異なった表記となっています。
 どうなっているでしょうか。

015

06/08/13

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ4
 弥生時代の開始時期は、1980年代の教科書に比べて、現代の教科書はずいぶん早くなっています。
 しかし、
岡山県の総社市の南溝手遺跡からは、縄文時代後期(縄文時代6時代区分の後から2つ目)の終わりころ(今から3000年ほど前)と推定される、モミの圧迫痕(土器を作る際に柔らかい段階でイネのモミが粘土に押しつけられて、それがそのまま土器として焼かれて残ったもの)がある土器が見つかりました。
 
このモミは、どうやって日本に伝わったのでしょうか?
 ヒント、照葉樹林文化のひとつです。
  

016

近々掲載予定

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ5
 現在の日本史の教科書には、次の記述があります。
「九州北部や中国・近畿地方などで発見されている
弥生人骨の中には、縄文人骨に比べて背が高く、顔は面長で起伏の少ないものが見られる。」

 こうした渡来系の新しい日本人の形質は、
現代の日本人にどのようにつながっているのでしょうかその分布の地域的差違はあるのでしょうか?

005

01/06/03

 現代日本人のルーツは、大きく分けると、旧石器時代・縄文時代からこの列島に住み着いていた人と、弥生時代の始まり以後に列島にわたってきた人の二つに区分することができます。
 前者は、
熱帯で発生した人類の形質をそのまま受け継ぐ人であり、後者は、アジア大陸北部の寒冷地で寒冷地用に適応した新しいタイプです。
 さて次の身体的特徴は、どちらに属するものでしょうか。
 ・手足が長い  ・耳あかが湿っている  ・鼻が低い  ・一重まぶた  ・体毛が濃い
 ・酒に弱い

007

02/04/07

 邪馬台国がどこに存在したかという「邪馬台国位置論争」は、それまでの畿内説に対して、江戸時代に九州説が提唱されて以来、200年以上にものぼる長い歴史を持っています。
 「魏志倭人伝」の記述を読むと、邪馬台国は、九州北部から、南へ南へと進むと到達できると記述してあります。
 ところが、九州北部からの道程が、水行30日・陸行1月と記されているため、このまま正確に読みとると、邪馬台国は、九州本島をでてはるか南の島となってしまいます。このため、この記述は、あやまり、または何らかの錯誤があると考えられ、「魏志倭人伝」にのみではなく、ほかの文献、考古学、その他いろいろな角度からの研究が積み重ねられています。にもかかわらず、未だに、結論はでていません。
 右の?をクリックしてください。中国でこの地図が使用されていたことは、
畿内説九州説のどちらかに有利になりました。どちらに有利になったでしょうか。(もちろん理由も考えてくださいね。)n01-07tatenaganihonntizu.gif',203,293,203,293

002

01/05/06

 弥生時代に使われた青銅器のひとつに銅鐸があります。銅鐸が発見される場所として、次のどれが正しいでしょうか。
 ・おもに前方後円墳の石室(遺体を埋める場所) 
 ・おもに前方後円墳以外の埋葬者の遺体のそば
 ・墓以外の場所

003

01/05/06

 銅鐸は、小さなものから大きなものまでいろいろなタイプが発見されています。これまでに発見された銅鐸のうち、最大のものはどのくらいの大きさ(高さ)のものがあるでしょうか。

004

01/06/02

 前方後円墳はどんな形かご存じですね。
 それでは、もしタイムマシンか何かができて、完成したばかりの前方後円墳を見ることができたとしましょう。
真横から見た古墳の色は次のどれでしょう。
@ A B C D

009

02/04/21

 古墳からは、物品の形を象った埴輪、形象埴輪が出土します。
 そのうちには、動物の形をしたものがずいぶんありますが、
トリの形のものは、ほとんどある種類のトリのものに限られます。そのトリとは何でしょうか。

010

02/04/21

 地名としての「から」という言葉は、日本語ではどのような意味を持っているのでしょう。またその語源は、どこにあるのでしょう。