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 まずは群馬県富岡市の位置です | 全行程目次・地図へ | | 説明図06北関東の地図へ |

 8月10日(日)、上越新幹線高崎駅で下車して駅前で予約していたレンタカーを借り、群馬県富岡へ向かいました。レンタカーのナビは、高崎駅前から山越えの県道を通るルートを指定しました。曲がりくねった道を北西に向かって18km程、時間にして30分と少し走って、富岡市の中心部に着きました。
 富岡製糸場は、市の中心部にあります。まずは下の地図をご覧ください。


上の地図は、NASA World Windhttp://worldwind.arc.nasa.gov/index.html)の写真から作製しました。


 富岡市は、群馬県の西北部にあります。上の写真で分かるように、関東平野も高崎あたりで終わり、そこから西は、なだらかな丘陵地帯や河岸段丘となっています。
 私jはレンタカーで高崎から向かいましたが、公共交通機関で行く場合は、上信電鉄という私鉄で向かうのが一番です。高崎駅から上州富岡駅までは、電車で40分前後です。駅から富岡製糸場までは歩いて10分弱です。
  ※上信電鉄の時刻表はこちらです。http://www5.ocn.ne.jp/~jdk-popo/jikoku/jikoku.html  
  


 写真03−01                                         (撮影日 08/08/10)  

 富岡製糸場の裏(南)を西から東へ向かって流れる鏑川(かぶらがわ)。西の上流を方面を向いて撮影。遠くの山は群馬・長野県境の荒船山。峰のすぐ南は信濃へ抜ける十石峠です。写真には写っていませんが、さらに南には、1986年の日航機墜落現場、御巣鷹山があります。


 生糸の生産の基本  | 全行程目次・地図へ | | 説明図06北関東の地図へ | | 先頭へ |

 富岡製糸場は、群馬県のほかの絹産業遺産群とともに、「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、2007(平成19)年に世界文化遺産の暫定リストに掲載されました。
  ※世界文化遺産の候補の一覧については、前ページ参照(→)
 
 まず、ここでは、またまた黒板クイズを使って、生糸生産の基本を紹介します。
 


 このページの解説や基本データは以下の資料を参考にしました。

佐滝剛弘著『日本のシルクロード 富岡製糸場と産業遺跡群』(中公新書ラクレ 2007年)


今井幹夫著「富岡製糸場の歴史と文化 フランス人技術者ブリュナを中心として」洞口治夫編『大学教育のイノベーター 法政大学創立者・薩■正邦と明治産業社会』(書籍工房早山 2008年)(■の字は「土」偏に「垂」)

長谷川秀男著「富岡製糸場と近代産業の育成」高崎経済大学附属産業研究所編『近代群馬の蚕糸業』(日本経済評論社 1999年)

農林水産省「最近の蚕糸業を巡る事情  http://alic.lin.go.jp/topics/18silksaiseikoubo-2.pdf

 特に1の書物は、新書版ですので、富岡製糸場の過去と現代を理解するには、内容・価格ともに、最高の参考文献です。


 明治から昭和前半にかけて、日本の生糸の主要生産国であり、海外特にアメリカに輸出されて、外貨獲得に貢献しました。しかし、当然ながら現在では、生糸の原料となる養蚕業や生糸生産業は、日本では希少価値のものとなってしまいました。
 そこで、先ずその状況を確認します。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 日本の近年の生糸生産の状況は、じり貧状態となっています。21世紀になってからの生産高の推移は右のとおりです。
 このまま減少してい行けば、まもなくゼロに近づいてしまう、「絶滅危惧種」です。昔の面影はありません。 
 一方、世界では、中国・インドが圧倒的な生産量を誇っています。


 生糸生産がさかんだったころはどのくらい生産していたのでしょうか?
 また、養蚕農家は現在と昔とはどう変化しているでしょうか?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 1935年の日本の生糸生産高、43,732トンは、なかなかの数字です。現在の世界総生産高14万5000トンや生産高第1位の中国の56,000トンに比べでも相当なものです。もっとも20世紀前半は現在のように化学繊維がなく、生糸の需要は圧倒的でした。
 2006年の生産高は、117トンでしたから、70年あまりの間に0.27%に衰弱してしまいました。
 また、養蚕農家は、
221万6602戸から1345戸へと減少してしまいました。毎年15%程減少しており、養蚕農家はまさに絶滅危惧種です。
 ※生産高は、帝国書院のHP「いろいろな統計 養蚕及び生糸生産量」によりました。
         →こちらです。http://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index11.html
 ※農家戸数は、佐滝剛弘前掲著P54より引用しました。

 これで、最盛期の生糸生産と、現在の生糸生産の様子の概略が確認できたと思います。
【注 記述訂正】11/09/09
 当初は、引用資料の生糸の生産高の単位を錯覚していましたので、上記の43,732を1000倍多く記載していました。読者の方のご指摘で誤りに気がつき訂正しました。感謝申し上げます。 


 これがかの有名な富岡製糸場です  | 全行程目次・地図へ | | 先頭へ |

 さて、富岡製糸場です。
 誰もが、日本史の時間に習った工場名です。明治政府が、フランス人技術者を呼んで作らせた初めての
官営器械製糸工場です。教科書には次のように書かれています。
「政府は民間工業を近代化し、貿易赤字を解消しようと輸出の中心となっていた生糸の生産拡大に力を入れ、1872(明治5)年、群馬県に官営模範工場として富岡製糸場を設け、フランスの先端技術の導入・普及と工女の養成をはかった。」
  ※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ら著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P244


 写真03−02 富岡製糸場正門                                   (撮影日 08/08/10)  

 現代の富岡製糸場の正門です。上信電鉄上州富岡駅から歩いて10分弱です。町の真ん中に正門があります。
 いきなり正面に見える煉瓦造りの建物が、1872年の創建当時のものです。


 富岡製糸場そのものについて、一つクイズをします。
 佐渡金山と同じく、この工場の操業がいつまで続いたのかについてです。 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 この工場も、つい最近の、1987(昭和62)年まで操業をしていました。佐渡金山と同じく、自分が教員になった頃(1977年)はまだ現役の工場だったわけです。そんなこととは夢にも思わず、ずっと「過去の遺物」として扱ってきました。大反省です。
 この工場の場合、工場の敷地面積が広く、また、工場の建屋も十分大きかったことが、幸いしました。中味の器械は変わっても、建物そのものを壊して作り直すということにはならなかったからです。
 以下に富岡製糸場の略歴を示します。

1872(明治 5)年

官営富岡製糸場操業開始

1893(明治26)年

明治政府、工場を三井へ払い下げ

1902(明治35)年

三井、工場を原合名会社へ譲渡

1939(昭和14)年

原合名会社、工場を片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業株式会社)へ譲渡

1987(昭和62)年

富岡製糸場、操業停止

2005(平成16)年

7月、富岡製糸場が国の史跡に指定される
9月、片倉工業、富岡製糸場の建物を富岡市に無償譲渡(土地は売却)

2006(平成18)年

富岡製糸場の創業時の建造物が国の重要文化財に指定される

 富岡製糸場に取って最大の幸運だったのは、3つ目の民間所有会社が、当時世界のシルク王と呼ばれている片倉製糸紡績株式会社だったことです。片倉は、当時全国に62の製糸工場を持ち、従業員総数は3万8000人という、世界最大級の製糸会社でした。
 上の黒板クイズで勉強したように、現在は製糸業は衰退の一途をたどっており、大規模製糸工場もピーク時の1951年には288工場7ありましたが、現在では2工場に激減しています。
 そんな中で、現在の片倉工業は、製糸業からは撤退したものの、繊維製品・自動車部品製造・ショッピングセンター経営など多角的経営をしている年間売上高500億円前後の大会社と存続しています。このため、1987年に富岡製糸場が操業を停止しても、同工場の存在意義を認識続け、年間2000万円に及ぶ固定資産税や時には1億円を超えることもあった維持管理費を払い続けました。
 これらの幸運が富岡製糸場を結果的に創建時の形のままで残し、文化財として保存されることを実現しました。


 写真03−03  写真03−02の1階にある資料展示場の桑の葉と蚕です。  (撮影日 08/08/10)  


 写真03−04 繭です。 この白さには神々しさを感じます。  


 写真03−05 生糸です。  繭や生糸を現物教材として利用する場合はこちらへ(→)どうぞ。 


  建物群の紹介は、次ページに掲載します。


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