2010-07
| 日記のメニューへ | | 一つ前に戻る | | 次へ進む |
121 2010年09月26日(日) すごい小説です。浅田次郎著『終わらざる夏』上・下    

 今年の夏も、たくさんの本に巡り会えることができました。
 前ページを書いた時、「太平洋戦争を描いたものとしては、今年は、百田尚樹(ひゃくたなおき)氏の小説、『永遠の0(ゼロ)』で窮まったかな」と思っていました。
 しかし、そうしているうちに、2010年7月発売の、浅田次郎著『
終わらざる夏』の評判が次第に高まってきました。この時代が、「専門」の私としては、「これは読むべき本かな」とは思いつつも、これまでもいくつかあったように、「いい映画だ」と言われて見てみると、駄作・凡作だったということになりはしないかというのが心配で、しばらく逡巡していました。
 そのうち、3男からも、
「父さん、浅田次郎の『終わらざる夏』、読んだ?読んだら貸して?」との問い合わせが入りました。
「いや、まだだ。読んでいない。」
「な〜んだ。読んでないの。いいって話だよ。」

 まあ、ここまできては、読まにゃなるまいと思い、上下2巻、各1700円を購入してきました。余談ですが、よく考えると、今日の本は、映画1本見る(私たちは夫婦50歳割引で1000円)よりは高価です。


 2010年9月20日に撮影した、岐阜市近郊の某本屋の店頭に置けるディスプレイの状況。『終わらざる夏』は、一番目立つ場所の一つに鎮座。左下には、百田尚樹の『永遠の0(ゼロ)』がたくさん平積みになっています。 


 『終わらざる夏』は、8月の下旬に購入しました。
 そして、月末の金土日月の4日間で上下900ページ余りを、一気に読み終えました。
 結論から言えば、こうして日記のページで紹介する価値のある本だと思います。ストーリが面白いです。泣かせるストーリーです。
 以下に、
千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を舞台にした「終戦後の戦い」を描いた、この作品のポイントをざっと紹介します。 

 1

 まず基本的に、ストーリーの中心舞台となった、占守島の戦いそのものが、1945(昭和20)年8月15日の終戦後の、8月18日の開戦というミステリアスな戦いであり、「どうしてそんな戦いをしなければならないのか」という根本的な疑問が、はっきりとしています。
 それに対して、どうして戦いが起こったか、つまり「日本軍の大義」が、作者なりにはっきり表現されており、そこには、「負け戦」ばかりで惨めな戦いとなりがちな太平洋戦争後半期の日本軍の戦いとは違った、ある種の「凛々しさ」を感じることができます。

 2

 「日本軍の大義」とは別に、個々の兵士たちは何のために戦ったのか?このことへの解答が、戦前の歴史を背景にした一人一人の生き様としてを、奥行き深く描かれています。この部分が浅田作品の真骨頂となっている部分で、一人一人の生き様にただ涙、涙です。

 3

 戦争によって人々の運命がどうなっていくのか。今までもいろいろな表現の仕方があったと思われますが、この作品では、参謀本部や市町村役場の「動員」の仕組みを克明に表現し、国家という大きな歯車が動き出すと、国民はいかにその中でもてあそばれていくのか、悲しいまでにリアリティに満ちた表現で示されています。

 4

 主役たちの多くは、岩手県の出身です。これは、浅田次郎の作品では、『壬生義士伝』の吉村貫一郎の世界です。東北の貧しさが、この作品でも、重要な背景となっています。 


 この作品を読んだあと、以下の作品も読みました。

 1  中山隆志著『一九四五年夏最後の日ソ線』(国書刊行会1995年)
 2  大野芳著『8月17日、ソ連軍上陸す 最果ての要衝・占守島攻防記』(新潮社 2008年)
 3  池上司著『八月十五日の開戦』(角川書店 2004年) 

 それぞれ、戦記記録・ノンフィクション・小説と終戦後の占守島の戦いの謎に迫ったいい作品です。全部読むと占守島の戦いとソ連参戦やスターリンの企図が、はっきりわかります。
 
なぜ、8月18日に戦いが始まったかについては、クイズで解説しています。
 →こちらです。クイズ日本史:戦後「終戦後に戦いが始まった場所は?」



 地図01は、1945年8月の千島列島周辺の動きです。
 若干の解説をします。
 太平洋戦争開戦2年目、日本は、アメリカ本土へ迫るために、北では
アリューシャン列島キスカ島アッツ島、中部太平洋ではミッドウエイ島の攻略を計画します。
 防備の手薄だったアリューシャン列島の2つの島は、1942年6月に簡単に日本軍の手に落ちます。ところが、よくご存じのようにミッドウエイでは日本海軍が大敗を喫し、このためアメリカ本土に迫るという計画は、画餅に帰します。
 アメリカの反攻は、1943年に入って本格化しますが、キスカ島とアッツ島は、「アメリカ本土から一番近い島の奪還」という目標の下、早期の侵攻目標になりました。数的に圧倒的に上回るアメリが軍の上陸により、
アッツ島は1943年5月に全滅しました。「玉砕」ということばが最初に使われた島となります。ただし、取り残されたキスカ島守備隊は、海軍第5艦隊の決死の活躍によって全員撤退に成功し、事なきを得ます。

 しかし、これによって、
千島列島の北端の占守島が、アメリカ軍の侵攻を受け止める最前線となりました。
 このため、占守島と隣の幌筵島(ぱらむしろ)には、
第91師団が陣地を構築し、1944年5月には、満州から精鋭の戦車第11連隊が移ってきて守りを固めました。 



 ※この地図02は、上記の中山1995年、大野2008年の両書に掲載の地図、記載事項を参考に作成しました。 


 ソ連軍は、日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦布告をしたばかりか、俗っぽく言えば、「戦争後の分け前」を増やすために千島列島に侵攻してきました。
 「戦争終結のための進駐だった」といういいわけもありますが、そんなことはありません。「進駐」なら、だれが真夜中の0時前後に上陸してきますか。明らかに攻撃です。
 激戦は8月18日の1日一杯行われ、さらに、19日〜21日まで各所で戦いが続きました。両軍の死傷者は日本軍1018名ソ連軍1567名のあわせて約2600人でした。

 この戦いの意義は、どう位置づけたらいいのか?
 中山隆志氏は、次のように述べています。
 

「8月14日深夜、日本政府がポツダム宣言の最終的受諾通告を発電し、終戦が確定した後、ソ連は8月15日、一方的に継戦を声明し、急ぎ千島上陸命令を発した。とにかくソ連としては、ありあわせの在カムチャツカの部隊、艦船だけで、8月18日、千島北端から軍事占領作戦を開始した。
 さらに北海道北部占領作戦もスケジュールに上がる。これは第二次作戦の樺太占領が進捗してはじめて可能になる第三次作戦であった。8月16日にスターリンがトルーマン宛に、これまで参戦条件として全く持ち出したことのなかった北海道北部占領を追加要求し、トルーマンの拒絶の書簡を18日に受領した。しかしスターリンはしばらくの間、トルーマンに返事出さず、極東ソ連軍へ中止の指令も出していない。スターリンが決断して作戦中止となったのは22日である。
 本作戦断念の直接的理由の一つは、トルーマンの拒否にある。従ってロシアの研究者が指摘するように、戦後における米ソ関係をこわしたくなかったことも重要な判断要素ではあった。しかし、作戦準備を進行させながら、スターリンが四日間逡巡した理由は、できれば北海道北部の占領を、日本の正式降伏調印前に既成事実化できるか否かの判断にあったというのが筆者の推論である。作戦を強行して降伏調印以後にずれ込み、もし米軍と衝突した場合、圧倒的に優勢な海空軍を持つ米軍に対して、北海道では勝ち目がない。このことは絶対的要素となる。
 正式降伏調印前に既成事実化できないと判断させたとすれば、それは北海道占領作戦開始の遅れであり、その原因は日本軍の頑強な抗戦にある。ソ連の企図を正しく判断した第5方面軍の指導に基づき、樺太において第88師団は8月15日以後も懸命に戦い、作戦準備基地となる樺太南部の占領が遅れてしまった。北海道作戦開始の時期のめどがたたない。
占守島の第91師団は、押っ取り刀でカムチャツカから駆けつけたソ連軍と激戦を交え、幌筵島以南への進出が遅れてしまった。スターリンとしては悲願ともいうべき千島の占領を優先せざるを得ない状況であった。
 北海道を断念したら、千島や満州方面で穴埋めしたいと考えるのは、スターリン流には自然なことかも知れない。千島を南下して、もし米軍がいたら引き返せばよい。ここなら抜き差しならない事態にはならないから、米軍の在否を確認しながら遂に南千島、色丹島、歯舞諸島まで進出する。これには、日本の正式降伏調印が、日本側の都合と台風による受け入れ準備の遅延によって、当初のマッカーサー司令部の予定より五日間延期されたことにも助けられた。その上、米軍がいないことをさいわいに、降伏調印後にしかも正規の命令によらずして、歯舞諸島は占領され、事後承認されたのである。地上軍大兵力がものをいう満州方面は、ソ連にとつてこつちのものである。全域を占領し、捕虜も資産も思うままに処理した。
 独裁者スターリンの心理を断定する根拠はまだ明らかでないが、その判断に及ぼした軍事作戦の影響が大きく、その間の経緯から主として樺太、千島における日本軍の善戦が北海道分割を未然に防ぐことに貢献したことは間違いない。
 ソ連は、終戦翌日の8月16日、捕虜のソ連領移送は行わないと指示しておきながら、8月23日、日本軍捕虜50万名のシベリア等移送の極秘指令を発し、約60万名の日本軍人らを、長期間(最長1956年まで11年余)劣悪な環境に抑留、労役させ、約6万名の死者を出したのである。8月23日付指令によるシベリア等への抑留は、ロシアの研究者の多くが北海道占領断念の代償であったとしている。これも決定的根拠をもつて断定はできないが、前後の経緯からその可能性が高いということはいえよう。」

中山隆志著『一九四五年夏最後の日ソ線』(国書刊行会1995年)P219−220 


 この作品は、登場する主役の多くの将兵が死にます。その意味ではハッピーエンドの作品ではありません。しかし、「人間いつかは死ぬとしたら、生きた証に何を残していけばいいのか」という、究極のそして非日常的な疑問に、ごく自然に答えを出してくれます。
 その一つを紹介します。
 地図02の最下段に記載しましたが、占守島と幌筵島には、カムチャツカ半島周辺で採れた鮭を加工するために、
日魯漁業という民間会社の工場が2カ所在り、夏期のこの時期には、女性の従業員約4〜500名が働いていました。この女性たちを乗せた20数隻の船が、1隻の例外を残して無事北海道にたどり着いたことだけでも、その時間を稼いだこの戦いの意義はあったと言うことでしょう。ソ連軍の進駐、武装解除時に彼女たちがこの島々に残っていたとしたら、一体どんな過酷な運命が待っていたでしょうか?
 それは、満州での数々の悲劇を当てはめれば自明なことです。


「 赤、白、黄色、青、紫。捺し花は夏の匂いとともに命をとどめていた。
 草原に花を摘む少年兵と、物知りの老准尉の姿がありありと胸に浮かんだ。たまさか軍人であった彼らが、あたら落とさずともよい命を投げ出した理由を、菊池は知った。
 兵士たちは、この花々を守ろうとしたのだ。花の命はおのれの命にまさるとしんじて、彼らは死んだ。
 軍人ではなく、花守りであったのだ。」
  ※『終わらざる夏』下巻 P445−446 


 読書の秋です。是非お手元に。 


| 一つ前に戻る | | 次へ進む |