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2 舞鶴引揚記念館その1          

 この小旅行記の2では、京都府舞鶴市にある引揚記念館とシベリア抑留についてお話しします。 

@

舞鶴という町

A

引揚について

B

満州とシベリア

C

舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア1

D

舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア2


@ 舞鶴という町                             | このページの先頭へ |

 昼前、11時45分に、若狭三方縄文博物館をあとにして、国道27号線を若狭湾に沿って西に進むと、次の町は小浜、そして、そのすぐ西から、舞鶴若狭自動車道路(2006年8月の時点でここが東の起点)の小浜西インターチェンジに入りました。
 そして、13時15分、
東舞鶴着。第2の目的地です。 

上の地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。


 舞鶴は、東舞鶴西舞鶴に別れていて、二つの港と二つのJRの駅があります。
 二つの町は、異なった歴史をもっています。

 
西舞鶴は、舞鶴の語源となった田辺城を中心とする城下町の歴史をもつ町です。
 田辺城の別名が「鶴が舞う姿」にたとえられ舞鶴城と呼ばれたことから、舞鶴という地名になりました。

 この城を築造したのは、織田信長時代の大名、
細川幽斎・忠興父子です。細川父子は、1580年織田信長によって丹後を領国として与えられ、この地に田辺城を築造します。
 関ヶ原合戦の前に、徳川方に与しようとする細川氏に対して、石田三成は1万5千人の軍勢をもってこの田辺城を包囲しました。籠城する細川幽斎は、わずか500人程度の、手勢しかなく、落城は必至と思われました。
 しかし、幽斎は、平安時代以来の「古今和歌集」の秘密の解釈を口伝によって継承する、いわゆる「古今伝授」の秘事口伝の人物であったため、時の後陽成天皇が、古今伝授の廃絶を憂慮して、包囲を解く命令を出し、これによって、幽斎は救われました。
 のち、細川家は、熊本に去り、江戸時代は、京極氏・牧野氏の城下町として栄え、明治維新まで続きました。

 そして、
東舞鶴はといえば、こちらは、明治時代中期に、海軍鎮守府が置かれて以来、軍港として栄えてきました。
 日本海軍は、本土を、4つの管区にわけ、拠点となる軍港に4鎮守府を置く計画をもっていました。日本海側に置く鎮守府の適地として、入口が狭く、たくさんの艦船が停泊できる良港をもつ舞鶴が選ばれ、1889年には、舞鶴鎮守府を設置する旨の閣議発表がなされました。
 しかし、すぐに日清戦争がおこったため、具体化の計画は遅れ、日露戦争を前にした
1901年に第4海軍区舞鶴鎮守府が開庁しました。ちなみに、初代長官は、のちに連合艦隊司令長官となるあの東郷平八郎中将(当時の階級)です。
 舞鶴には、日露戦争の前年1903年には、海軍工廠も建設されました。

 大正時代後半の、ワシントン海軍軍縮条約の締結によって、舞鶴は鎮守府から「要港部」に格下げとなりましたが、太平洋戦争を前にした1939年、再び鎮守府となっています。
 1945年敗戦によって、鎮守府制度は廃止されました。
 しかし、自衛隊の前身の保安隊の発足にともない、1952年には
舞鶴地方隊が発足し、海上自衛隊に受け継がれました。
 現在では、第24護衛隊が基幹となって島根県から秋田県までの日本海を守っています。北朝鮮の工作船出現への対応など、横須賀や呉や佐世保とは別の意味で、緊張感ある任務に就いていると言えるでしょう。
 また、海上自衛隊の4つの護衛隊群のひとつ、
第3護衛隊群の母港となっています。 


 舞鶴を母校とする第3護衛隊群の第63護衛隊所属、イージス艦「妙高」。2006年8月現在、海上自衛隊が保有する4隻のイージス艦のうちの1隻です。
 この艦が、あの
映画『亡国のイージス』では、主役の護衛艦、「いそかぜ」に扮しました。
(撮影日 06/08/11 自衛隊桟橋の横の駐車場から)


 さて、このまま護衛艦の写真を掲載していくと、昨年の「横須賀軍港めぐり」の2番煎じとなってしまいますから、やめます。
   ※旅行記「横須賀軍港めぐり見聞記」はこちらです。
  その2のテーマは、舞鶴のもう一つの戦後、引き揚げについてです。重いテーマですが、おつきあいください。 


A 引き揚げについて                          | このページの先頭へ |

 舞鶴といえば、「軍港」であると同時に、戦後長い間、「引揚(引き揚げ)」の港でした。

「おれはな、高等小学校を卒業して、義勇軍で満州へいった。15歳になる前やぞ。それから、戦争に負けて捕虜になって、シベリアに連れて行かれ、昭和24年9月に、舞鶴に帰ってくるまで、4年もシベリアにおった。23歳の時までや。」

「満州ってどこ、シベリアってどこ?」

「まだ、おまえには、わからん。大きくなったら自分で勉強しやあ。」

 今から40数年前、この10月でちょうど80歳になる父と、まだ小さかった私との間に、何度となく交わされた会話です。
 
満州シベリア舞鶴
 小学校に行くかいかないかのころの私の耳に、何度となく入ってきた地名・・・・。
 その一つの舞鶴に、自分が52歳になってようやく行きました。

舞鶴に、引揚記念館というのができてるんだけど、行くかね。」

「まあ、ええ。昔のものは何も残っとらん。もう、ええ。K(私の子ども、つまり父の孫)たちに、舞鶴シベリアのことを説明してやってくれ。」

 今回の旅行は、父の戦中・戦後の青春時代とそれを「理解」してきた私の思いを再確認する、「時間旅行」を兼ねた重い旅でもありました。
 
1945(昭和20)年8月15日の敗戦の時点で、現在の日本の領土以外の場所に、およそ630万人以上の日本人が残されていたと推定されています。
 敗戦によって、太平洋の島から、東南アジアから、中国本土から、満州から、軍人や民間人が、続々と帰国してきました。 これを「
引揚」と呼びました。

厳密な言葉遣いをすれば、戦地からの軍人の帰還は「復員」、民間人の帰国が「引揚」です。しかし、ソ連の収容所からの将兵の復員も、ここでは「引揚」と呼んでいます。
舞鶴に於いては、「引揚」とは、イメージ的には、民間人の引き揚げではなく、シベリア等ソ連の収容所からの引揚が主役となっています。

 当初、敗戦直後は、引き揚げは無秩序の行われました。
 しかし、敗戦から3か月後の、1945年11月に、地方引揚援護局官制が制定され、引揚者の援護を、
舞鶴の他、浦賀(神奈川県)・佐世保下関博多鹿児島など指定された10港に置かれた地方引揚援護局で行うことになりました。これらの港は「引揚港」と呼ばれました。

引揚者は、着の身着のままで帰ってきます。
援護局では、検疫・病人の治療・看護を初め、国内の目的地へ向かうまでの一時滞在の宿舎、日常生活品の支給、故郷までの列車の手配等、一連の援護を行いました。

 下表のように、引揚者総数は、600万人を超えています。

表の数値は戦後直後だけではなく、たとえば、日中国交回復後の中国残留日本人孤児の帰国者数など、新しい時代の者も含んでいます。
若原泰雄著『戦後引揚げの記録』(時事通信社 1991年)P252-253より作成。主な地域のみを記載。ハワイ、ニュージーランドなどいくつかは省略しました。ただし総数の中には含めています。


 ところが、たくさんある引揚港の中で、舞鶴だけは、特別な引揚港となりました。
 右の表をご覧ください。
 「表1」の引揚者総数629万のうち、509万人以上は、敗戦から1年4か月後の1946年の12月までに帰国を実現していました。総引揚者数の81%に当たります。
 それ以降は、74万、30万と年次別引揚者数は急速に減少していきます。

 ソ連からの引揚者は、1947年の20万余がピークとなりそれ以後減少していきますが、全体に占める割合は、次第に高くなります。
 
1950(昭和25)年においては、この年の総引揚者の90%以上は、ソ連からの引揚者でした。

  ソ連からの引揚者が上陸する港は舞鶴でしたから、舞鶴は、1947年、48年、49年と年が経るにつれて、引揚の中心の港となっていきました。
 実際、地方引揚援護局は、引揚者の減少につれて次々と閉鎖され、最後には
舞鶴ただ1港のみが、引揚港となりました。
 
舞鶴が最終的に引揚港の役目を終えるのは、戦争から12年を経た、1957(昭和32)年のことです。
 
つまり、引揚といったら舞鶴、舞鶴といったら、ソ連からの引揚というのが、戦後の「常識」となったのです。


B 満州とシベリア                         | このページの先頭へ |

 シベリアからの引揚者というのは、どうして発生したのでしょう。また、どうして、他の地域よりも引揚が遅れたのでしょう。いつのものよう、ちょっと回り道しながら説明します。

 敗戦時満州にはたくさんの日本人が在住していました。対ソ防衛の任に当たる
関東軍の将兵、満州鉄道・鞍山製鉄所に代表される企業の社員・関係者、そして、多数の農業移民などです。

 補足その1、まず、関東軍についてです。
 関東軍は、日露戦争によって日本が植民地とした遼東半島の先端部の関東州(関東とは華北と満州の境にある山海関という関の東の地域という意味)と同じく日本が所有した南満州鉄道の線路および付属地を警備する目的で設置されました。
 当初は、独立守備隊6個大隊と国内から後退で駐屯する1個師団の合計1万5千人程度の兵力でしたが、満州国の建国によって対ソ防衛の必要性が高まるにつれその勢力は拡大し、
1945年8月8日のソ連参戦時には、陸軍の歩兵師団だけで13個師団を数え、総兵力70万人にふくれあがっていました。
 ただし、1944年後半から、それまで対ソ戦用に訓練を積んでいた精鋭部隊を、アメリカ軍の攻勢に備えるために南方や本土防衛に引き抜くということが数多く行われました。その後には、満州の現地にいた成年男子を急遽
現地召集して人数を埋め合わせただけの部隊が編成され、装備も訓練の度合いも不十分な状況でした。この結果、関東軍の「実力」は著しく低下していきます。このため、関東軍自身も無理な計画はやめにして、もしソ連が参戦してきた場合は、満州全土の防衛をすることはあきらめ、その4分の3は放棄して、満州南東部に引き下がり、その地で持久戦を行うことを決定していました。

森武麿著『集英社版 日本の歴史S アジア・太平洋戦争』(集英社 1993年)P310

大江志乃夫著『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(小学館 1983年)P255-257


 補足その2、農業移民についてです。
 満州国の建国(満州事変は1931年、建国は1932年)のあと、関東軍は、積極的に満州移民を進めます。その目的は、満州の統治と治安維持の担い手の養成、そして、もしソ連との戦争が発生した場合には、防衛力に転化させる為の者でした。
 その中心は、
農業移民です。
 新たに大日本帝国の「支配地」となった満州は、昭和恐慌に苦しみ農民にとって、魅力的な大地に映りました。当初は、軍隊退役者によって結成されていた在郷軍人が中心でしたが、1936年からは、20カ年に100万戸の移民計画にもとづき、一般の農民が満州に渡りました。これが、
満州移民開拓団です。開拓団の人々は、ソ連参戦時には、30万人以上となっていました。
 移民の方法は、各村からバラバラと希望者を募るのではなく、ひとつの村や郷の農民の一部が集団で移民するという方式、分村・分郷方式がとられました。
 わが岐阜県からも、東白川・郡上などから分村・分郷移民(うち6開拓団は他県と合同)が行われました。
  農業移民のもうひとつ柱が、
満蒙開拓青少年義勇軍です。
 これは、1938年から実施された制度で、当時の高等小学校(1941年からは国民学校高等科)を卒業した満14歳の少年(現代でいうと、中学校2年生を終えた生徒に当たります)を毎年各県別に200〜300人程度の中隊に編成し、一定の訓練ののち、農業開拓者兼辺境防衛予備軍として満州の辺境に送り込むものです。現地での訓練ののちは、通常の農業開拓団と同じように、特定の開拓地に入植して、青少年開拓団となります。
 現代の年端もいかない少年がこのような義勇軍に応募すること自体が想像しにくいですが、当時は、貧しい農村の状況や、学校における教師の薦め等が誘因となり、たくさんの少年が満州へ向かいました。
 1945年の終戦の年までに、全国から85,630名が義勇軍として渡満しました。
 わが岐阜県からは、通常の移民開拓団と義勇軍をあわせて、33の開拓団が送られ、合計8489人が渡満しました。
 もちろん、ソ連の侵入によって大きな犠牲者が出たことはいうまでもありません。
 8489人のうち、帰還者は4602人(帰還率54.2%)、3887人が帰らぬ人となりました。

森武麿著「満州開拓地を跡を訪ねて考える」『年報日本現代史第10号 「帝国」と植民地』(現代史出版 2005年)P153−183

岐阜県編『岐阜県史 通史編近代上』(大衆書房 1980年)P640−648

 1945年8月のソ連参戦時に満州にいた関東軍70万のうち、戦死や移動したもの以外、60万人ほどが終戦によってソ連軍により武装解除をうけました。
 日本が受諾したポツダム宣言によれば、武装解除をうけた捕虜は、可能な限り速やかに本国へ送還することになっていました。
 しかし、60万人の将兵の運命は、復員・本国帰還とは別なものとなってしまいました。
捕虜を満州の各地から捕虜を乗せた列車は、朝鮮半島やナホトカではなく、シベリアに向かったのです。シベリア抑留のはじまりです。

 なぜ、ソ連が約束を破って満州の日本軍将兵をシベリアに連れ去ったのか、分かりやすいように年表にしました。
満州の日本軍将兵のシベリア抑留関係出来事

事         件

1945年

8/08

ソ連、対日宣戦布告

8/09

ソ連の第1、第2極東方面軍、ザバイカル方面軍、ソ満国境から満州国へ侵攻

8/15

日本無条件降伏(終戦の詔勅)

8/16

ソ連共産党書記長スターリン、アメリカ大統領トルーマンに対し、北海道の北半分(留萌−釧路線以北)の占領を実施する旨の秘密書簡送付

8/17

トルーマン、スターリンの北海道占領を拒否

8/22

スターリン、極東方面軍に対し北海道上陸作戦の中止を命令

8/23

スターリン、日本軍捕虜「50万人」のシベリア移送を命令


 つまり、スターリンは、北海道占領という計画を放棄した代わりに、満州の将兵をシベリアに連れ去る命令を発令したのでした。
 抑留の目的には、捕虜を労働力として活用するという経済的側面と、対ソ宣伝工作によって共産主義の支持者を作り出すという政治的側面の二つでした。

 厚生省の調査では、シベリアへ送られた将兵は、56万2800人。加えて、官吏・技術者・警察官など1万1730人も連行されました。さらに、予定していた将兵等が員数に足らない場合は、開拓民や義勇軍の青年なども連行されました。こうして、
おおよそ60万の日本人がシベリアの収容所に送られたのです。
 このうち、
無事帰還したものは47万2942人、つまり、10万人以上がシベリアの地で亡くなったなったことになります。
 このようなソ連の不法行為に対して、連合軍の占領下にあった日本政府には、残念ながら外交的に解決する術はありませんでした。

 しかし、二つのことが、ソ連の施策を切り替えました。
 ひとつは、アメリカの力です。
 日本を占領する最高司令官の試問を受けるために設置されていた
対日理事会の場に於いて、アメリカはソ連の行為を非難し続けました。
 そしてもうひとつは、劣悪な収容所の設備と不十分な食糧供給から
1945年から46年の冬にかけて、30125人もの抑留者が収容所で死亡したことです。ソ連は、捕虜を収容して労働させることの効率の悪さと多くの死亡者を出すことへの国際的な非難を気にせざるを得なくなります。
 この結果、
1946年10月4日には、スターリンは日本人抑留者の帰国を決定します。
 しかし、国際的非難を受けながらも使える労働力はできるだけ使おうと考えたしぶといソ連は、連れ去る時は2か月あまりであっという間にやってしまった移動を、今度はできるだけゆっくりと進めます。

 このため、なかなか帰れない人がたくさんでます。また、何らかの理由で、政治犯とされてしまった人は、もっと引揚は遅れました。もちろん、10万人近い人がおもに酷寒の冬が越せずに亡くなっていました。
  この結果、いつ帰るか分からない夫や子どもを舞鶴の港で待つ妻や母、かの「
岸壁の母」や妻の物語が生まれることになるのです。

 シベリア抑留に関する記録は、長い間秘密のままでした。ソ連政府の指導者で、初めて公式にシベリアでの死亡者等に触れたのは、ペレストロイカを進めたかのゴルバチョフ共産党書記長(のち大統領)でした。
 その後、ソ連崩壊によって、秘密文書の公開も進み、1990年代以降、ロシア人研究者によるシベリア抑留の研究も進んでいます。
 上の記述では、ロシア人の著書を参考にしました。




ヴィクトル・カルポフ著 長勢了治訳『シベリア抑留 ソ連機密資料が語る全容 スターリンの捕虜たち』(北海道新聞社 2001年)
エレーナ・カタソノワ著 白井久也訳『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか 米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』(社会評論社 2004年)


 わが父は、下図の中央、バイカル湖の西のタイシェット近辺の収容所に4年弱抑留されていました。


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