戦後期2
<解説編>
1007 この魚の写真と瓶の写真とで語る戦後史とは?                  問題編へ

 まずは、二つの写真の解説から始めます。


 左の写真では、魚屋さんの店頭に、「当店では原子マグロは買いません。乞ふ安心!!」という張り紙が見えます。原子マグロというのは、ちょっと変な表現に思えますが、放射能に汚染されたマグロというわけです。この張り紙は、そういう危険なマグロは仕入れていないから、安心して買ってくださいという、魚屋さんのお客に対するメッセージです。

 右の瓶は、事件当時、放射能を帯びた塵(いわゆる死の灰)を集めて、東京大学などへ分析を依頼したもののひとつで、静岡大学の塩川教授が分析したのもです。


 正解は、第五福竜丸事件、つまり静岡県焼津のまぐろ漁船第五福竜丸がビキニ水爆実験で被ばくした事件です。

 上の二つの写真は、いずれも、東京都江東区夢の島にある都立第五福竜丸展示館で撮影し、同館の担当から、HPでの掲載と紹介の了解を得ているものです。以下に掲載する写真のすべては同博物館で撮影したものです。
 同博物館については、下で説明します。
 左上の写真は、朝日新聞社提供のもの、右上の写真は、展示品を撮影しました。

 このクイズのような質問の仕方は、授業では冒頭の問題提起の場面を想定しています。ただし、内容的が豊富なこの話題では、以下に登場する写真を利用して、色々なアプローチが考えられます。


 このクイズの解説では、次の項目について説明をします。

 
1 第五福竜丸と水爆ブラボー
2 歴史学習と第五福竜丸
3 都立第五福竜丸展示館について


ここでの解説は、主に次の5つの文献を参考にしました。

・第五福竜丸平和協会編『第五福竜丸ものがたり−この船の名を告げ合おう』(第五福竜丸平和協会2000年)
・川崎昭一郎著『岩波ブクレットNo628 第五福竜丸 ビキニ事件を現代に問う』(岩波書店 2004年)
・河井智康『漁船「第五福竜丸」それは世界史を動かした』(同時代社 1997年)
・豊崎博光・安田和也著『水爆ブラボー 3月1日ビキニ環礁・第五福竜丸』(草の根出版会 2004年)
・大石又七著『ビキニ事件の真実』(みすず書房 2003年)


1 第五福竜丸と水爆ブラボー
 山川出版の高校日本史の教科書には、第五福竜丸事件については、次のように簡潔に取り扱われています。
 ※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版2004年)P365
「左右社会党・共産党・総評などの革新勢力は,こうした吉田内閣の動きを占領改革の成果を否定する「逆コース」ととらえ,積極的な反対運動を組織した。とくに,内灘(石川)・砂川(東京都立川市)などでのアメリカ軍基地反対闘争,第五福竜丸事件を契機に原水爆禁止運動などが全国で高まりを見せた。」
 
 まずは、
第五福竜丸事件の概要です。
 1954(昭和29)年1月22日、遠洋マグロ漁船第五福竜丸は、焼津港を出発しました。2週間後、当初予定していた漁場であるミッドウエイ島海域に到着し、2月7日第一回目の投縄を開始しました。
 しかし、以後4日間の操業で、期待したメバチマグロの漁獲は少なく、思い切って、南に方向を転じてマーシャル諸島方面向かう決断をします。
 これが、この船の悲劇の幕開けとなりました。 


 左は、第五福竜丸の模型。
 前掲参考書の著者で当時の乗組員の一人の大石又七さんが作成したもの。前掲書によれば大石さんは、合計7つの模型を作成し、第五福竜丸展示館の他、広島原爆記念館、長崎平和記念館などに展示されています。
 船は、木造で99.09ton(占領当時許可なく建造できる木造船の上限は100ton以下であったため、多くの船が99トンとなっています。しかし、実際には、第五福竜丸は、140tonありました。)、長さ25.20m、幅5.70mでした。
 右は、
マグロ延縄(はえなわ)漁の説明図。      


 2週間後、マーシャル諸島海域に入った第五福竜丸は、2月27日から操業を開始しました。しかし、ここでも、漁獲は芳しくはありませんでした。
 しかし、出発してからすでに1ヶ月あまり、そろそろ食糧と燃料も限界が近付いており、3月1日の投縄を最後として、寄港することに決まりました。
 その運命の3月1日。
 午前1時過(現地時間)ぎから4時半過ぎまでかかって延縄を海に投じて、乗組員は休息に入りました。ところが、午前6時45分、乗組員は、まるで西から太陽が昇ったかのように思える不思議な現象に遭遇します。
 これこそが、第五福竜丸のいた海域の西160kmのビキニ環礁で、アメリカ軍が行った水爆実験でした。
 数分後に大爆発音がとどろき、乗組員はあわてて延縄を引き上げる作業に入りますが、2時間後、作業している乗組員に不思議な白い灰が降りかかります。
 水爆の爆発によって粉々になって空中に巻き上げられた珊瑚礁が、放射性物質に汚染された「死の灰」となって、降りかかってきたのです。

 この被ばくによって、23名の乗組員は、当時の新聞用語で「原子病」、医師団の用語でいう「
急性放射能症」と表現された、放射線障害を受けてしまったのです。(問題に使ったマグロの写真の「原子マグロ」というネーミングは、この「原子病」に由来しています。)


 第五福竜丸の航路です。 
 1954(昭和29)年1月23日に焼津を出航し、ミッドウエイ海域を経てマーシャル諸島海域にいたり、操業中の3月1日にビキニ環礁で水爆実験が行われました。
 操業を中止して急いで帰路につき、3月14日に帰港しています。


 アメリカは、1954年の前半に一連の水爆(原爆)実験を計画していました。その実験計画全体をキャッスル計画といい、連続6個の水爆(原爆)には、ブラボー、ロメオ、クーン、ユニオン、ヤンキー、ネクターというコードネームが付けられていました。
 
 3月1日の実験は、その最初のもの、ブラボーの爆発実験でした。
 ビキニ環礁の高さ50mの鉄塔の上にあったブラボーが点火され、TNT火薬に換算して推定15メガトンのエネルギーが生まれました。これは広島型原爆およそ1000倍の威力でした。
 爆発のあと、珊瑚礁に直径1600m、深さ66mの大穴が空き、50万トンの珊瑚が空に吹き上げられたと考えられています。
 ※河井前掲書『漁船「第五福竜丸」それは世界史を動かした』(同時代社 1997年) P31−33 


2 歴史学習と第五福竜丸

 このクイズでは第五福竜丸についてすべてを説明することはできません。
 おもに、前掲の参考資料の引用から、学習上のポイントなる点を、いくつか指摘します。
@ アメリカの態度

 この水爆実験について、アメリカは、兵器開発に場合に往々にしてあることですが、自国本位の解釈と秘密主義的態度に終始しました。
<例1>
 現在では、被災当時の第五福竜丸は、アメリカ自身が告示した「危険水域」の外にいたことが明らかになっていますが、当初は、告示を無視して、危険水域に入り、アメリカの実験を「スパイ」していたという「嫌疑」をかけられました。
 乗組員の証言では、爆発の閃光をみてからどれぐらいに後に爆発音を聞いたかということについて、曖昧な点がありました。4〜5分から10分ぐらいと複数の証言があったのです。
 音の伝わる早さを、340m毎秒ほどとすれば、4〜5分と10分とでは、100キロ以上の差が生じます。
 アメリカは、音を聞くまでの時間について乗組員の短い証言があることを取り上げ、第五福竜丸危険水域内にいたと疑ったのです。
 乗組員にしてみれば、まったくいわれない嫌疑でした。

<例2>
 アメリカは、第五福竜丸の乗組員が被ばくしたことが明らかとなったあとも、どのような仕組みの水爆で、どのような育成物が生まれたのかを発表しませんでした。
 このため、乗組員の治療にあったった医学者は、放射性物質を突き止めるため、第五福竜丸の灰を分析しなければなりませんでした。
 
<例3>
 ビキニ環礁の東には爆心地から約180kmの地点にロンゲラップ島があり、80名が被ばくしました。
 実験当日、気象観測で予想に反して西よりの風が吹いており、ロンゲラップ環礁をはじめ、東側の島々に影響をあたえる懸念が大きかったにもかかわらず、実験は強行されました。
 水爆実験は、マーシャル諸島の多くの住民の生活を破壊しましたが、アメリカの対応は不十分なもので、とても誠意あるものではありませんでした。

 ソ連との水爆開発競争におけるこの時のアメリカの状況は、次のように説明されています。
「。しかし、1949年8月29日、ソ連はカザフ共和国のセミバラテンスク実験場で最初の原爆実験を行い、アメリカに追いついた。
 そこでアメリカのトルーマン大統領は、翌50年1月31日、水爆開発を命令した。水爆の開発は、これ以上破壊力の強い核兵器は必要ないと反対する核物理学者オッペンハイマー博士などの反対を押し切って発表され、機密保持のため、水爆を「熟核装置」あるいは「スーパー爆弾」などと呼んだ。
1952年11月1日、アメリカはエニウェトク環礁で世界最初の水爆を爆発させた。この水爆は、アメリカが広島に投下した原爆の約700倍の爆発威力だったが、二階建ての構造物で、重さ旧65トンもあり、飛行機に積める兵器ではなかった。
 世界初の水爆実験をアメリカは秘密にしていたが、1953年8月12日、ソ連も最初の水爆実験を行った。このソ連の水爆はアメリカを驚かせた。採取した塵と雨水を分析した結果、ソ連の水爆は飛行機に積むことができ、実際に使うことができる水爆であることが分かったからである。
 秘密に製造、実験したにもかかわらず、わずか9カ月後にソ連が水爆を実験し、しかもより進んだ水爆を製造したことでソ連を追う立場になったアメリカは、急きょ、使える水爆の開発を始めた。
アメリカが目指した水爆は、飛行機に積める高性能なもので、そして量産可能、すなわち簡単な構造で安価な水爆であった。こうして作られた水爆は当然、爆発実験を行わなければならなかった。それがキヤツスル作戦とよばれる核実験で、当初7回が予定されていた。しかし、実際に行われたのは6回で、そのうちブラボーを含む5回が水爆実験だった。
 キヤツスル作戦ではもうひとつ、水爆が生みだす死の灰による人間への影響を調べることも目的としていた。それは、米ソ間で水爆による戦争がおきた場合、生き残った人びとにどのような影響が現れるかを知ることであった。」
 ※豊崎博光・安田和也前掲著『水爆ブラボー 3月1日ビキニ環礁・第五福竜丸』(草の根出版会 2004年)P42

A 日本政府の態度

 23名いた乗組員のうち、被災から半年後の1954年9月に死亡した久保山愛吉さんはじめとして、現在(2004年10月)までに、12名が比較的若い年齢で亡くなりました。
 
 彼らは、1955年にアメリカ政府から日本政府に支払われた「慰謝料」200万ドル(当時の日本円で7億2000万円)の一部、一人当たり200万円を受け取りましたが、多くの人が、被ばく者という事実を隠して、ひっそりと生きることを余儀なくされました。

 存命中の乗組員で、自らの経験を語り、第五福竜丸事件を後世に積極的に伝えようとしている人がいます。大石又七さんです。
 事件当時満20歳だった大石さんは、事件のあと東京でひっそりとクリーニング業を営んでいましたが、1983年から第五福竜丸事件の講演をはじめ、1990年代以降は、学校など多くの場で子どもや若者たちに事件を語っています。
 その人生は、前掲大石又七著『ビキニ事件の真実』(みすず書房 2003年)に詳しく語られています。なかでも、おそらくは放射線障害の後遺症のため、第一子死産というつらい経験をされたことが印象に残ります。1954年の事件は、乗組員の生涯にわたる過酷な体験の始まりを意味しました。

 その大石さんが、日本政府の対応について、つぎのように批判しています。
「 俺たちの苦しむ外側で、日米政府はビキニ事件をうまく利用して、水面下でもう一つの外交取引をしていた。
 ビキニ事件が起こつたとき、外務省は 「損害賠償を請求できる」と外交文書の中では言っている。なのに、なぜ日本政府は損害賠償の請求もしないで一気に政治決着させたのか。
 その答えは、一九九四(平成六)年三月、NHKが放送した現代史スクープ・ドキュメント 「原発導入のシナリオ」という番組の中にあった。以下、番組が伝えた内容を中心に紹介したい。
 1955 (昭和30)年1月4日、正式にビキニ事件が決着すると、その一週間後の11日、アメ
リカから日本政府に濃縮ウランの受け入れを打診する書類が届けられた。しかし、外務省はこのことを外部に対して一切秘密にした。核実験反対で盛り上がっている国民世論の猛反発を恐れたからだ。
 その3日後の1月14日、ソ連は、中国、東欧五カ国に対して、原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表した。ソ連も共産圏に核のブロックを作ろうとしていたのだ。
 外務省がひた隠しにしていたアメリカからの濃縮ウラン提供の申し入れは、三カ月後に朝日新聞のスクープによって明るみに出た。
 このスクープの一週間後に開かれた日本学術会議では、この問題をめぐつて議論が沸騰した。濃縮ウランの受け入れに反対する科学者たちは、原子力を通じて日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれる可能性を指摘し、原子力はあくまで自主開発すべきだと主張した。
 物理学者の武谷三男さんも、当時、濃縮ウラン受け入れに反対する一人だったようだ。
 「アメリカでの、いろんなやっていることを見ると、軍事との区別がないわけですよ。英国でもそ
うですけどね。軍事のおこぼれが平和利用という格好になっている。そういう出発ですから−」。 
 これは武谷さんの言葉である。
 この頃ソ連は、世界初の商業用原子力発電所の稼働に成功し、諸外国に対して原子力平和利用の技術援助を行う用意があることを発表した。アメリカでは、まだ最初の商業用原発の建設がはじまったばかりだつた。
 先を越されたアイゼンハワー大統領は、それまで打ち出していた国際原子力機関(IAEA)による原子力の国際管理案をいったん棚1げして、西側同盟諸国と「濃縮ウランや原子力技術の協定」を結ぶ方針を打ち出す。濃縮ウランを外交カードとして西側同盟国を勢力下におき、核の軍事ブロックを作ろうとしたのである。こうした状況下で、アメリカ原子力蚕貞会の国際部長ジョン・ホールは、ビキニ事件の渦中にある日本政府との交渉の時期を模索していた。そのアメリカは、極東地域で反共の砦となるべき日本との関係が、ビキニ水爆実験によって悪化していくことを特に恐れた。もしビキニ事件の膨大な賠償金を支払うことにでもなれば、それは議会の承認を得なければならない。それでは時間がかかりすぎて核戦略の計画も遅れてしまう。
 一方、元日本側にとっても、ビキニ事件は原子力技術と原子炉を早急に導入するための格好の取引材料になつた。アメリカの言う通りに太平洋での核実験には反対しない。被害に対する膨大な賠償金も、ゎずかな見舞金でいい。その代わりに日本が求めている、原子力技術と原子炉の要求を早く進めてもらおう。このような日本側の思惑とアメリカ側の計画がここで一致した。そして
アメリカは、7億2000万円というわずかな見舞金を議会にはかることなく国際開発局(AID)から支出することができた。
 こうした取引を裏付けるように、ビキニ事件が決着すると、その年、1955(昭和30年6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印され、翌年には、原子炉が茨城県東海村に送られてくるという早さだつた。日本の原子力発電はそこから始まる。つまり、ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ。」
 ※大石又七前掲著『ビキニ事件の真実』(みすず書房 2003年)P83−84

B 原水爆禁止運動

 最初に引用した日本史の教科書にあるように、この第五福竜丸事件をきっかけに、原水爆禁止運動が盛り上がり、事件翌年の1955(昭和30)年8月には、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。
 日本は、太平洋戦争終結の年、1945年に広島、長崎で多くの市民が被爆しました。それから、10年も経ているのに、なぜ、この第五福竜丸事件がきっかけとなったのか。
 その事情について、次のように考えなければなりません。
「なによりも、広島・長崎の被害と被爆者の状況が国民の中に浸透しっつあったことがあげられよう。1952年のサンフランシスコ講和条約発効により、それまで連合国の占領下で禁止されていた原爆に関する報道ができるようになった。『原爆の子』(長田新編)、『原爆詩集』(峠三吉)、『アサヒグラフ』(完五二年入月六日号)の原爆写真特集が出版され、映画『原爆の子』(新藤兼人監
督)、『ひろしま』(関川秀雄監督)などが上映された。画家丸木位里・俊「原爆の図」の巡回展示会も行われた。
 そのなかで起こったビキニ水爆による第五福竜丸乗組員の被災と放射能症による苦しみ、死の灰の恐怖、放射能雨による日本全土の汚染への不安が人々に声をあげさせ、行動にかり立てたのである。
 長く続いた戦争が終わり、耐乏生活状態もしだいに改善し、やっと希望が持てるようになったときに、突然、水爆実験、原水爆の恐怖が襲いかかってきた。1950年から三年余り朝鮮半島で戦争が続き、日本は戦争の影響で一時的に好景気に見舞われたこともあったが、占領が解かれると、日本の再軍備が論ぜられ、日本各地で駐留アメリカ軍の基地を建設する動きも活発になる。国民の中に、平和が脅かされるのではないかという不安や心配が浸透していった。そういう人々の気持ちも原水爆反対の運動を一気に広げたといえよう。
 署名運動のきっかけとして、1950年に世界的に進められた「原子兵器禁止」のストックホルム・アピールの署名があったことも忘れてはならない。」
 ※川崎昭一郎著『岩波ブクレットNo628 第五福竜丸 ビキニ事件を現代に問う』(岩波書店 2004年)P26


3 都立第五福竜丸展示館について

  最後に、第五福竜丸展示館についてです。
 第五福竜丸は、事件のあと政府に売却され、1956年からは東京水産大学の所属船となって、「はやぶさ丸」と改称されました。
 学生の練習船として活躍した後、1967年廃船処分となり、解体業者に売却されました。
 エンジンをはずされた船は、東京湾のゴミ埋め立て地「夢の島」に放置されました。(写真右、展示館より)

 このままでは朽ち果てる運命にあった第五福竜丸に対して、保存運動が起こりました。そのきっかけのひとつとなったのが、1968年3月10日付けの『朝日新聞』の「声」欄に掲載された、「沈めてよいか第五福竜丸」という投書でした。


 この結果、保存運動の輪が広がり、船は地元の保存運動グループに買い取られ、保存の方法が模索されました。
 ついで、このような市民運動に理解を示した東京都(当時の東京都知事は美濃部亮吉)が、保存運動への協力を表明し、1969年「第五福竜丸保存委員会」設立、1970年船名を「はやぶさ丸」から戻す「刻名式」、1973年「財団法人・第五福竜丸保存平和協会」設立、1976年「都立第五福竜丸展示館」開館となりました。

 建物の建造は東京都、業務は平和協会という形で、第五福竜丸の保存が実現したのです。

 ※都立第五福竜丸展示館の公式サイトはこちらです。


 投書の主は、当時26歳の会社員、武藤宏一さんでした。(展示館のパネルより)  


船首

甲板

船腹

舵とスクリュー