飛鳥〜平安時代1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2012年05月14日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題

204

02/04/14

 我が日本国で、自ら正式に「日本」という国号(国の名前)を使用したのは、いつからでしょうか。


210


07/03/03

 現在日本にある神社と寺院、その数を比べるとどっちが多い、少ないでしょう?次から選んでください。

寺院の数が神社の数より圧倒的に多い。

寺院の数が神社の数より少し多い。

寺院の数と神社の数はほぼ同じ。

神社の数が寺院の数よりすこし多い。

神社の数が寺院の数より圧倒的に多い。

   ※このクイズの解答は、「現代社会 文化」の欄に掲載しています。


211


07/03/11

 現在の日本の神社を祭神(祀られている神様)によって分類すると、一番多い神様は何という神様でしょうか。次から選んでください。
 
1 伊勢(天照大神)    2 天神(菅原道真)   3 八幡   4 稲荷
 ※このクイズの解答は、「現代社会 文化」の欄に掲載しています。

212

07/05/17

 わが岐阜県(美濃・飛騨)の神社、寺院の種類(神社名別、宗派別の数)はどれが一番多いでしょうか。
 ※このクイズの解答は、「現代社会 文化」の欄に掲載しています。


214
 

12/05/14 

 「刀筆の吏」という言葉があります。一般的にはほとんど使われない「古語」ですが、一体どんな意味で、その語源は何でしょうか?意味は次の選択肢からお考え下さい。
 1下級武士 2上級武士 3下級文官 4上級文官
 


215

12/05/21

 平城京の平城宮跡は現在整備されて広大な遺跡公園となっています。その一画に平城宮跡資料館があります。そこに展示されている出土物の中からのクイズです。
 次の?マークをクリックしてください。写真が登場します。写真に写っているものは、平城宮の人々が何に用いていたものでしょうか?用途を答えてください。

203

01/06/10

 右の?マークをクリックしてください。明治時代の紙幣のデザインにされた日本史の教科書に登場するある人物の顔です。さてこれは誰でしょう。
(画像からここへ戻る時は、エクスプローラーの「戻る」をクリックしてください。)

207

02/08/18

 8世紀の初頭、寺院の金銅仏が盗まれるという事件が頻発しました。さて、犯人は、金銅仏を盗んで何をしようとしたのでしょうか。

206

02/07/21

 平安時代の始め、地方を治める国司から中央政府に、「神火」が発生したという報告が届くようになります。これは、一体何のことでしょうか、また、どのような地方情勢を示しているのでしょうか。これは、桓武天皇が勘解由使を設置するきっかけとなります。

213

08/08/11

 2000(平成12)年6月に石川県(旧加賀国)で、大きな木製の札が出土しました。この札から合計344文字が読み取られ、平安時代前期、9世紀半ばの国家支配の様子がうかがい知れる貴重な発見となりました。さてどんなことが分かったでしょうか?
 これは、この欄で問題にすることはちょっと難しいですから、解答ページに写って、黒板などを利用して出題します。

201

01/01/28

 平安時代の天皇の中に、古代の日本の乳製品(チーズと思われる)を意味する言葉を名前にしている人がいます。なに天皇でしょうか。

205

02/07/07

 平安時代後期には、教科書用語で言う「寄進地系荘園」が本格的に展開していきます。その荘園の領域(荘域を表すことばに関するクイズです。もともと、中央政府から不輸の権利を認められた荘園の本体部分に対して、荘園側が、新しく開墾したり、公領を取り入れたりして荘域を拡大した部分を何と言うでしょうか。
 ちょっと難しいですが、ヒントがあります。他地域の人には申し訳ありませんが、ここ問題の答えは、岐阜市内では地名となっており、岐阜市の中学校・高等学校の名前にもなっています。そういう名字の方もしばしば見られます。

208

03/08/24

 平安時代後期、子どもが文字をならう教科書のひとつとして、源為憲著の『口遊』というのがありました。その中に、当時の大建築物のベスト3が記載されています。3位は平安京の大極殿、2位は奈良東大寺の大仏殿でした。では、第一位は、何でしょうか。
 ヒントです。『口遊』の表現は、雲太・和二・京三となっています。

209

06/07/09

 源平の争乱も終わりに近づいた壇ノ浦の決戦の前、源氏・平氏の双方から味方になることを求められた熊野神社の別当湛増(べっとうたんぞう)は、どちらに味方すべきか迷って決断しきれなかったため、ある動物を赤白に分けて戦わせ、その勝敗によって、どちらに味方すべきか決めたと、『平家物語』には記されています。
 さて、その動物とは何でしょうか?

202

01/05/13

 源氏と平氏の戦いのクライマックスは、1185年の壇ノ浦の戦い。源氏軍の指揮官源義経は、本来源氏が苦手とする「海戦」に勝利して、平氏を滅亡に追いやります。この時、義経が命じた「必勝のための作戦」とは何でしょうか。

<解説編>

201 平安時代の天皇の中で、その時代のチーズを意味する名前の人は誰。   問題へ  

 平安時代の天皇は、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇田・醍醐・朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・鳥羽・崇徳・近衛・後白河・二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽です。
 摂関政治や院政を教える時にはたくさん名前が登場します。

 正解、その中で、チーズを意味する言葉を天皇名をもつ天皇は、
醍醐天皇です。

 中世や近世のように仏教思想が庶民にまで広がるまでは、日本人は牛乳を結構飲んでいました。律令制の時代には、政府は諸国に命じて牛乳や乳製品を献納させています。

 牛乳を煮詰めて凝縮し(コンデンスミルク)、その時に上に浮く油脂成分からバターを作り(これを古代は酪(らく)といいました)、バターを取り除いた脱脂乳の蛋白だけを凝固させてチーズを作ります。これを漢字一文字では、酥(そ)といいました。
 酥は別の言い方があって、それが「
醍醐」(だいご)です。
  ※樋口清之『日本人の歴史A食物と日本人』(1979年講談社)P70

 誤答としては、イメージから、
清和が一番多くなります。

 チーズは当時としては珍味、貴重な味だったのでしょう。そこから醍醐のような味はすばらしい、醍醐味という言葉が生まれます。これを教えると生徒諸君は、「へぇー」となります。

 但し醍醐天皇がチーズをつくったわけではありません。
 醍醐は京都市の東部、山科盆地にある地名です。真言宗を開いた空海(弘法大師)の孫弟子に当たる理源大師がこの地の峰に登った時、仙人が現れ「醍醐味の水」であるといって神水を与えました。大師はそこに庵を結んで自ら観音像を彫ってあがめたそうです。
 貞観16年、西暦874年のことです。それが、1993年に世界文化遺産に指定された醍醐寺の大伽藍の起源です。

 醍醐天皇は、897年に即位し、930年までの33年の治世の間、醍醐寺を厚く保護し、その発展を支えました。この結果、死後、それにちなんで天皇の正式名称として「醍醐」と諡号(しごう、おくり名)されました。
 
 醍醐(チーズ)というえもいわれぬ味のもの=醍醐味=聖水=醍醐寺=醍醐天皇という回りくどい因果関係ですが、まあ、話のネタにはなりますでしょうか。
 ちなみに、鎌倉幕府を倒した後の有名な後醍醐天皇は、醍醐天皇の治世にあこがれて、没する前から、「後醍醐」と諡号することを望んで、そう名付けられています。

 醍醐や酥については、2004年2月29日に、「現物教材」のページに新しい情報を掲載しました。
 そちらをご覧ください。 


202  源義経が命じた「必勝のための作戦」とは何でしょうか。           問題へ  

 源義経は映画やテレビで取り上げられており、生徒諸君もいろいろな知識を持っています。
 そして、これも多くの方がご存じのように、通説では関門海峡の潮の流れが勝敗を決めた最大の要素であると言われてきました。この説は、東大教授黒板勝美博士が唱えたものです。

 戦いがあった、1185年旧暦の3月24日は、午前中から午後へかけて、海峡を西から東へ潮流が流れ、午後3時頃から反対に東から西へ流れました。黒板博士は、その潮流のスピードは時速8ノットあり、午前中は東への潮流を利用した平家側が戦いを有利に展開し、午後は、反対に西への潮流によって源氏有利となり、平氏は敗れたと結論しました。時速8ノットは、およそ時速15qです。
 
 右図にあるように、海峡の東側から迫った源氏軍に対して、平氏軍は陣地の彦島から出て、海峡の最狭部を越えて、東側に進出し、そこが戦いの場となりました。
 
 ここで黒板博士の言う潮流のスピードの場所が問題となります。この最速のスピードは、関門海峡の最狭部でのものであり、実際の戦いの場であったいわゆる壇の浦(海峡の東部の海面)では、潮流は最速でも時速2ノット以下(時速3.6q以下)であることが分かりました。
 このため、潮流が勝敗の決定的な要素という黒板説は再考を迫られることになります。
 
 正解は、
義経が敵の軍船のこぎ手や舵取りを殺せと命じたことでした。
 平家物語には、「さるほどに源氏の兵(つわもの)ども、平家の船に乗り移りければ、水手(すいしゅ、こぎ手のこと)揖取(かんどり、舵取り)ども、或いは射殺され、或いは斬り殺されて、船を直すに及ばず、船底に皆倒れ臥しにけり。」とあります。
 ※佐藤謙三校注『平家物語 下巻』P200(角川ソフイア文庫2000年)

 当時の武士の戦いの概念として、戦闘員である武士同士が戦うのが当然であり、非戦闘員のこぎ手や舵取りを狙う発想はありませんでした。この奇策が、源氏軍勝利の大きな要素となりました。
 ※NHK『歴史への招待6 実証壇の浦合戦』
  (日本放送出版協会1980年)
 ※入間田宣夫『日本の歴史F 武者の世に』
  (集英社1991年) 
 
 生まれた直後に父親の源義朝を平治の乱で失い、伝説では、幼い時には鞍馬寺で、長じてからは奥州藤原氏のもとで育った義経は、当時の武士の常識にはとらわれない斬新な発想がありました。

 壇の浦の戦いの前、摂津一ノ谷の戦いでは、人馬ともに通ることは不可能と思われた鵯越の坂を下って、平家の背後から襲うという作戦により、勝利を収めています。
 
 ただそれ故に、政治の駆け引きには不向きでした。京都に帰った義経は、後白河法皇に翻弄され、また、必然的に源頼朝をも敵に回し、短くして主役の座を降りることになります。
 右の写真は、関門海峡大橋のたもと、下関市側にある、壇の浦古戦場址の碑です。
 


203  明治時代のお札の肖像画となった奈良時代の人物とは誰でしょうか。         問題へ  

 正解は、右の紙幣の人物、和気清麻呂(わけのきよまろ)です。
 
 教科書には奈良時代の政治について、比較的詳しい記述があります。
 「聖武天皇と光明皇后とのあいだには、娘の孝謙天皇(称徳天皇)しか残されておらず、次の皇位継承者をめぐって争いがたえなかった。称徳天皇の時、宇佐八幡宮の信託と称して道鏡を皇位につけようとする事件が起こったが、和気清麻呂らによってはばまれた。」
 ※石井進・笠原一男・児玉幸多・笹山晴生著
  『詳説 日本史』(1999年山川出版)P52

 まず奈良時代の天皇の説明です。
 667年、兄天智天皇の意志に逆らって壬申の乱を起こして勝利した天武天皇とその皇后であり次の天皇である持統天皇夫婦の子孫が、奈良時代の皇位の主流を占めます。あの有名な聖武天皇は、天武・持統の曾孫に当たります。

 しかし。こんなことを言っては失礼ですが、天武・持統の男系の子孫は、心身共に健康という人はいませんでした。子の草壁皇子は、689年即位前にまだ27歳の若さで死亡。

 跡を継ぐべき男の子、つまり天武・持統の孫の文武天皇も、15歳で即位し、在位僅か10年でなくなりました。そのため、その子(つまり聖武天皇)が即位するまでには、元明・元正と、中継ぎの女帝が続かねばなりませんでした。

 そして、聖武天皇ですが、大仏建立等では有名ですが、不安におびえて都を何度も移すなど、ひいおじいちゃんと比べては気の毒な天皇でした。
 なにより、光明皇后(藤原不比等の娘)との間には、女の子しか生まれず、その娘に譲位して(これが孝謙天皇)しまい、自分は大仏完成記念式典のあとすぐ死にます。娘にはなんと正式な配偶者がいなかったのです。
 つまり、皇統の継承という点では、全く無責任なままで逝ってしまったのです。

 その孝謙女帝も、一度遠縁の淳仁天皇に譲位したものの、お気に入りの(天皇にこんな下世話な言葉を使うのもなんですが)僧侶道鏡が現れると、おそらくは彼を引き立てるために皇位に復活し(2度即位することを重祚といいま)、称徳天皇となります。

 和気清麻呂の登場までもう少しお待ちください。

 僧侶道鏡は、引退していた孝謙上皇の病気の治療を行い、彼女に気に入られたということです。詳しい史実は分かりません。しかし、正式な配偶者のいない女帝と怪しげな僧侶という話は、いろいろな連想を生み、江戸時代には、「一に道鏡、二に自分、三四がなくて、五にお馬」という郭話(くるわばなし)も生まれました。(意味はご想像に任せます・・・)

 さて、重祚した称徳天皇のもと、道鏡は出世します。
 764年大臣禅師(僧侶道鏡のための特別の役職。左右大臣並の待遇。)に昇進。
 直後、称徳天皇はしばらくの間皇太子を置かないことを宣言します。
 この意味については、研究者によってもいろいろ解釈がありますが、栄原永遠男教授は「称徳は道鏡を皇太子にし、やがて皇位を譲ろうと考えており、この詔は、その実現のための方策として出されたものとするが的を射ていると思う。」としています。
 ※栄原永遠男著『集英社版日本の歴史C 天平の時代』(1991年集英社)P301
 765年道鏡、太政大臣禅師就任。766年法王(天皇に準じる特別の職)に就任。
 
 道鏡即位の最後の仕上げが、宇佐八幡宮の神託(神のお告げ)です。
 769年太宰府の道鏡派の貴族から、「道鏡を皇位につければ天下は泰平となる」という宇佐八幡宮の神のお告げがあった」という報告が届きます。
 
 宇佐八幡宮は、豊前宇佐にある由緒ある神社です。
 日本書紀にある、応神天皇とその妻神功皇后の朝鮮征伐に関係して、その二人を神として祭る神社で、各地にある八幡宮の「総本家」です。この事件の当時は、東大寺大仏を鎮護する神としての地位を獲得し、奈良に手向山八幡宮が建立されています。
 さらに、平安時代には、京都の南に勧請(かんじょう、神様の分身行為)され、石清水八幡宮ができます。また、さらにのちには、武家の神様として源氏に信仰され、鎌倉には、鶴岡八幡宮が勧請されて、ついに日本でも有数の有名な神社となります。
 
 おまたせしました、やっと和気清麻呂の登場です。
 称徳天皇は、自分のお気に入りの女官であった法均(ほうきん、出家前は和気広虫ひろむし)の弟、和気清麻呂を宇佐まで派遣して、その真偽を確かめることにしました。
 和気清麻呂、備前の地方豪族出身でこの時近衛将監の地位にある37歳、この事件がなければ、紙幣どころか教科書にも登場しない、中下級貴族です。

 道鏡は清麻呂の派遣が決まると彼を招待し、うまく神託の真実を証明すれば、帰ったのちは大臣にしてやろうと持ちかけました。
 759年8月、清麻呂は豊前宇佐へおもむきます。

 宇佐八幡宮の社殿に入り、額づいた彼の耳には、「神曰く『云々』と」(『続日本紀』)聞こえました。わかりやすくいうと、神がむにゃむにゃといった、ということです。
 宇佐くんだりまで行って、「どうだった」「むにゃむにゃでした」では、まるで子供の使いです。
 清麻呂は必死に神にお願いします。
 
 「いま大神のおっしゃることは、国家の大事です。おっしゃることがほんとのことなら、どうか神意を示してください」と再度お願いすると、神は突然大きさ三丈(約9m)ばかりの満月のような光になり、清麻呂には神の声がはっきりと聞こえてきます。
 「わが国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもって君とすること、いまだこれあらず。天つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇緒(こうちょ、皇族)をたてよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
  ※引用文は、青木和夫著『中公文庫日本の歴史3 奈良の都』(1973年中央公論社)P490
 この真実の神託を、和気清麻呂は平城京へ持って帰ります。この結果、道鏡の即位は幻と消えました。

 怒ったのは道鏡です。
 清麻呂は、官位を一切剥奪の上、さらに名前を、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えさせられて、大隅国(鹿児島南部)へ流されてしまいます。この「穢麻呂」というネーミングは、生徒には大受けです。

 清麻呂が誰か都の反対派貴族と共謀しているという証拠はありませんでしたが、血筋上なんのつながりもない人物が天皇になるということへの、一般的な反対が後押しして、清麻呂の耳に神の声となって届いたのでしょう。

 清麻呂の不幸は長く続きませんでした。
 このことがショックとなったかどうか、称徳天皇は半年とたたないうちに病気で死亡。(770年)後ろ盾を失った道鏡はすぐに失脚して下野の国の薬師寺へ左遷され、反対に、清麻呂は都へ戻ってきます。
 こうして、天武・持統の血筋の天皇による、波瀾万丈の奈良時代政治史は終わりを告げます。

 明治時代になって、日本の歴史は、天皇家の発展にいかに貢献したか、という観点から再評価されます。
 その尺度から言えば、和気清麻呂は大きな手柄を立てた人物と言うことになり、明治政府発行の紙幣のデザインとなったのです。
 描いた画家は、明治政府おかかえ外国人キヨソネですが、和気清麻呂の肖像画など、その時点で本物は全く残っていません。したがって、この顔そのものは、キヨソネの独創です。一説によると、彼の家で働いていた下男をモデルにしたそうです。


204 日本という国号はいつから使われ始めたか?                     問題へ  

 まずこの問題の意味から説明します。
 日本史の教科書では。縄文時代の日本とか、弥生時代の日本とか言う表現を使いますが、その時代に、国としての日本が成立していなかったことは明らかです。
 古墳時代以降、大和政権が成立し、この列島の上のかなりの領域を支配する国家が成立しますが、それとても、早い時期においては、自ら、「日本」とは名乗っていません。
 つまり、正式に自ら日本と名乗り、名実ともに日本国となったのはいつからでしょうかという問題です。

 これは大変難しい問題です。とくに日本古代史を勉強・研究している人以外は、普通の人は、正解を答えることはほとんどできません。とはいっても、その原因は、わからない方の不勉強にあるのではありません。高校の教科書にすら、この重要なことが掲載されていないので、つまり、普通の形では、授業で教えてもらっていないので、わからなくて当然なのです。

 かくいう私も、こういうことが話題になった、ほんの数年前まで、「いつから日本と名乗ったか」について、授業では教えては来ませんでした。大学の授業で生徒諸君に質問してみた結果では、学生の答えは、紀元前1世紀から20世紀まで、バラエティーに富んでいるそうです。
 教師として弁解すれば、この原因は、文部科学省の「学習指導要領」のどこを探しても、日本の国号の由来と時期を教えるようには書かれていないことにあります。学習指導要領に書かれていないと、教科書には記述は現れません。これについては、平成15年から施行される新しい学習指導要領においても同じです。
 ※網野義彦著『日本の歴史00 「日本」とは何か』(講談社2000年)P23

 
正解。対外的に「日本」が名乗られるのは、702年にわが国の使者が、周(唐は則天武后によって一時国号を周とした)に渡った時、国号をそれまでの「倭国」から「日本国」に変更することを明言した時です。
 これは、大陸の大帝国に対して、小なりとも自立した帝国になろうとするわが国の支配者たちの強い意思の表れでした。
 則天武后はこれを認め、これ以降、中国大陸の王朝の正史は、日本の記述に関する項目のタイトルを、それまでの「倭人伝」・「倭国伝」から、「日本伝」と変更しました。日本という国号は東アジア世界で公式に認められたのです。

 網野教授は、国内での「日本国」のという国号の制定について、「おそらくは、681年、天武朝で編纂が開始され、天武の死後、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに定められた」と推定し、これは現在おおかたの古代史研究者の認めるところとなっています。
 ※網野前掲書P88 ※吉田孝著『日本の誕生』(岩波新書 1997年)

 しかし、この国号は、この時代の日本の立場を反映したものであり、少し考えると、中国を意識して定められたものであることがわかります。つまり、「日本」は「日の本」、すなわち、東の日の出るところ(「日出づる処」)を意味していますが、それは、いうまでもなく、中国大陸から見てのことであるからです。ハワイから見れば、日本は日の没するところです。
 
 日本という国号の始まりと由来は、かくのごとく、知られざる経緯を持つものです。 


205 岐阜市の地名にもなっている、荘園の荘域が拡大した部分を示すことばは何か?     問題へ  

 岐阜市の南部には、東大寺領美濃国大井・茜部荘という荘園がありました。その荘園と美濃国国司との間で取り交わされた1087(寛治元)年の資料に、「東大寺領美濃国大井・茜部荘はもと本免田おのおの20町であったが、本領の領域の他に多くの公田を荘領としていき、今では加納160余町である」となっています。

 正解は、加納です。
 岐阜市には、加納という地名が存在し、加納中学校・加納高校があり、「加納」さんと言う名字の方は、電話帳で調べると、個人の加入者で岐阜市内に230名ほどおられます。
 岐阜市の学校でクイズをすると、岐阜市には加納中学校の他に本荘中学校というのもあって、生徒の「誤解」もいろいろあって面白いものになります。

 さて、荘園というのは、本来、最初に不輸の権(免税権)を獲得することによって成立し、その段階で荘園成立の文書には、荘園の領域がきちんと示されています。(これが冒頭の文章で言う、大井・茜部荘の本免田

 わかりやすく例を示せば、「東は○○川、西は△△沼、南は3本杉、北は□□山で囲まれた地域」といった具合です。この領域を荘園の四至(しいし)といいます。

 時がたつにつれて、荘園側としては、四至内の荒れ地を開墾したり、隣接するもともとの公領の請負耕作を続けて事実上の領域としてしまったりと、いろいろな形で荘園の領域の拡大を図っていきます。

 但し、図面上は本来の荘域ではないところですから、それを正式に荘園と認める認めない(不輸の権利等を与える)で国司と争論となります。

 荘園制に関する歴史上の用語としては、正式には、「加納とは、本免田以外に拡大して領有する荘田畠について国司が不輸の特権を認めたものいう」ということになっています。
 ※坂本賞三著『荘園制成立と王朝国家』(塙選書1985年)P278

 もちろん、「加納」はこのように荘園制度の歴史と深く関わって使われた用語ですから、「加納」という地名も、全国にたくさん存在します。インフォシークの地図検索を使うと、次のようにでてきます。 

  •   1. 福島県 耶麻郡 熱塩加納村 加納 966-0103
      2. 茨城県 北相馬郡 利根町 加納新田 300-1612
      3. 埼玉県 桶川市 加納 363-0001
      4. 新潟県 柏崎市 加納 945-1431
      5. 富山県 氷見市 加納 935-0063
      6. 富山県 上新川郡 大沢野町 加納 939-2245
      7. 岐阜県 岐阜市 加納 青藤町1丁目
    157. 岐阜県 安八郡 神戸町 加納 503-2325
    158. 岐阜県 揖斐郡 大野町 加納 501-0535
    159. 静岡県 賀茂郡 南伊豆町 加納 415-0304
    160. 愛知県 豊田市 加納町 470-0364
    161. 愛知県 豊田市 加納町末石 470-0364
    162. 愛知県 豊田市 加納町東股 470-0364
    163. 滋賀県 長浜市 加納町 526-0804
    164. 大阪府 東大阪市 加納 -
    165. 大阪府 東大阪市 加納1丁目 578-0901
    166. 大阪府 東大阪市 加納2丁目 578-0901
    167. 大阪府 東大阪市 加納3丁目 578-0901
    168. 大阪府 東大阪市 加納4丁目 578-0901
    169. 大阪府 東大阪市 加納5丁目 578-0901
    170. 大阪府 東大阪市 加納6丁目 578-0901
    171. 大阪府 東大阪市 加納7丁目 578-0901
    172. 大阪府 東大阪市 加納8丁目 578-0901
    173. 大阪府 南河内郡 河南町 加納 585-0012
    174. 兵庫県 神戸市 中央区 加納町1丁目 650-0001
    175. 兵庫県 神戸市 中央区 加納町2丁目 650-0001
    176. 兵庫県 神戸市 中央区 加納町3丁目 650-0001
    177. 兵庫県 神戸市 中央区 加納町4丁目 650-0001
    178. 兵庫県 神戸市 中央区 加納町5丁目 650-0001
    179. 兵庫県 神戸市 中央区 加納町6丁目 650-0001
    180. 兵庫県 神崎郡 神崎町 加納 679-2421
    181. 和歌山県 和歌山市 加納 640-8391
    182. 和歌山県 和歌山市 加納町 640-8288
    183. 福岡県 大牟田市 加納町1丁目 836-0071
    184. 福岡県 大牟田市 加納町2丁目 836-0071
    185. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納 889-1605
    186. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納甲 889-1605
    187. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納1丁目 889-1607
    188. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納2丁目 889-1607
    189. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納3丁目 889-1607
    190. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納4丁目 889-1607
    191. 宮崎県 宮崎郡 清武町 加納5丁目

 番号7の岐阜市加納青藤町から156番までは、同じ岐阜市の地名ですから、長くなるため省略しました。15の府県に「加納」という地名が存在しています。

 ところで、岐阜市の加納は、上記の文書「美濃国大井・茜部荘」に示された加納から直接つながっているわけではありません。
 こののち中世には、上述の東大寺茜部荘以外に、京都
長講堂領(高校日本史の教科書に登場するあの後白河法皇が集めた荘園群の一つ)平田荘、京都仁和寺領市橋荘などがありました。
 このうち
平田荘は、市俣六条革手(かわて)・加納の各郷からなっていました。この加納が、現在の加納の直接の起源です。

 さてこの「加納」の由来に関する知識は、相当専門的なものですから、全国の「加納さん」も、自分の名前の由来について知っている人は少ないでしょう。各地の授業で使えるネタだと思います。
 加納中学や加納高校の生徒は、その由来をちゃんと習っているでしょうか。 


206 神火とは何か、その発生はどのような地方情勢を反映しているか?                  問題へ  

 この問題は、古代国家の支配の仕組みの根幹にかかわる重要な問題です。
 煩わしいですが、最初に古代国家の仕組みについて説明します。

 古代律令国家は、中央の都城に住む支配者階級である天皇や貴族が、地方の有力者をとおして全国を支配する仕組みです。その地方支配の重要な役割を担ったのが、国司です。
 国司は、中央から派遣され地方の有力者を郡司などの地方役人に任命し、さらに郡内の有力者(当初は里長さとおさといわれた)を通して農民を支配しました。
 
 ところが、奈良時代にはいると律令支配の地方支配の矛盾点が拡大していきます。主な現象は次の三つに整理できます。

  1. 租庸調を始め、公出挙・労役などの負担に苦しむ農民が、浮浪人・逃亡人となって、負担を逃れる例が多くなる。

  2. 郡司やその他の地方の有力者が、墾田永世私財法によって合法的に土地私有を拡大し、戸籍から「消えた」班田農民を様々な方法(例えば私出挙の貸し付け、債務よる隷属化)で「配下」に治め、いわゆる「私腹を肥やす」例が多くなる。

  3. さらに、国司も、勧農や治水を奨める当初のようなまじめな地方官ではなくなり、このような律令制の崩壊に便乗して、任期中に資財を蓄えるという姿勢が現れ始める。

 これらを象徴的に示す事象として、「偽籍」が作られます。
 現存している9世紀初めの常陸国の戸籍の例を挙げると、二つの戸(血縁関係を中心に複数の世帯を含んだ大家族で一戸をなす)は、人数55人の内、50人は不課口(人頭税がかからない)で、そのうち45人は女性となっています。

 こんなに女ばかりの家がいるはずはありません。これは、農民と役人が結託し、さらに、国の最終的な責任者である国司も認めた産物、公式なうその戸籍です。
 国司にとって、人頭税がかからない人間がばかりであれば、中央へ送る租税(庸調)は少なくて済みます。本当の分との「差額」は、国司や郡司やその他の有力者が手に入れることになるわけです。

 彼らは、もう一つ別の「私欲」も役得として手に入れようとします。
 律令国家は本来、「公出挙(出挙)
くすいこ(すいこ)」という税を農民にかけていました。これは、春に農民に種籾を貸し付け、秋に利息とともに徴収するという租税です。これを正税といい、その利息の稲を正税利稲といいます。
 役人は、本来国家がやるべき公出挙を行わず、個人的に行う私出挙(しすいこ)を実施して、私欲をむさぼったのです。
 この結果、本来国司の役所(国衙こくがといいます)の倉庫(これが正倉、東大寺の正倉院は、東大寺の正倉=倉庫です)に貯蔵されているべき公出挙の利稲は減っていき、帳面上と、実際の利稲の量が違ってきます。

 地方からの上納物が減った中央政府は、その原因は国司・郡司の不正にあると気が付きます。このため、786(延暦5)年には、国司の善行八箇条、悪行八箇条を挙げて、地方政治の綱紀の粛正に乗り出しました。

 その結果、このころから、以前にもあった正倉への「神火」が急増します。
 ここまで、説明すれば、「神火」とは何のことかおわかりでしょうか。

 正解、神火とは、落雷などの自然災害による火災です。

 正倉に雷が落ちれば、帳面上と実際とたとえ公出挙の利稲の量がごまかしによって少なくなっていても、すべて燃えて灰になって、それでおしまいです。実際には、国司や郡司の配下のものの放火による炎上でした。

 中央政府は、しばらくの間、この神火の報告を信じていました。しかし、そのうちそのからくりに気が付きます。
 そりゃ、そうです。
 国司の任期の交替の頃(つまり、後任者への引継の頃)になると、ちょうどうまい具合に、正倉に雷が落ちて火災になるのですから、そんな報告がいくつも来れば、誰しも疑問に思います。

 教科書的な知識に戻ると、国司の不正をただすために、桓武天皇は、797(延暦16)年、勘解由使(かげゆし)の制度をおきます。
 国司の交替の際、任地に赴いた後任者が、書類と正倉のチェックを行って、交替が無事行われたことを示す書類を前任者に渡しました。前任者は、これを中央政府へ提出して、無事任務終了ということになったのです。
 この書類を解由状(げゆじょう)といいました。

 国司の不正が横行すると、この解由状の授受をめぐってトラブルが頻発します。何とかごまかそうとする前任者と、初めから不利な引継をしてはたまらない後任者の間で様々なトラブルが発生したのは容易に想像できます。

 勘解由使は、そのトラブルを専門的に審査する官職として設置されたのでした。
  ※早川庄八著『日本の歴史4 律令国家』(小学館、1974年)P356〜372

 このクイズは、授業中のクイズとして、生徒に思考・判断を求める、最高レベルの問題です。これまでの学習の理解度等も重要な要素となります。ヒントの出し方を工夫すると盛り上がります。


207 8世紀初頭、金銅仏が盗難にあった理由は?                        問題へ  

 仏像を盗むなんて不信心な輩というように思われるかもしれませんが、いつの世も貴重品は盗まれるものです。但し、盗賊たちは、盗んだ仏像を美術品として扱うとか、また、自分たちが崇拝するとか、そういう理由で盗んだのでありません。もっと、即物的に、もうかる話があったのです。
 
 

正解、盗んだ金銅製の仏像を、もう一度溶かして、貨幣を造るためです。つまり、仏像は偽金作りの原料となったのです。


 この時代は、今と違って、そうどこにでも金属はありません。銅を大量に使った金銅仏は、偽金(専門用語で私鋳銭[しちゅうせん]といいます)作りのかっこうの原料でした。
 『日本霊異記』には、和泉国の尽恵寺の仏像を盗み出した盗人が、タガネで仏像の手足を切断しようとしたところ、仏像が「痛きかな、痛きかな」と泣き叫んだという話が書かれています。
 ※栄原永遠男著『集英社板日本の歴史4 天平の時代』(集英社 1991年)P85

 但し、これを正しく理解していただくためには、当時の銅銭がどのような意味を持っていたかを説明しなければなりません。
 
 日本の政府が本格的につくった初めての銅銭は、教科書で有名な「和同開珎(わどうかいちん)」です。
 もっとも、1991年に奈良県の飛鳥寺の東南にある江戸時代のため池飛鳥池の底から、天武朝期の銅銭である「富本銭」(ふほんせん)の工房後が発見され、1985年に初めて発見されていた「富本銭」が、『日本書紀』の記述にある天武朝に鋳造された日本最古の銅銭であることが、立証されました。
 2003年度から使用予定の教科書にも、「富本銭」の記述が見られます。
 
 しかし、現在のところ「富本銭」が広範囲に流通していたと見られる証拠はなく、実際には厭勝銭(えんしょうせん、まじないの銭)としての機能が中心だったと考えられます。
 したがって、「和同開珎」のもつ、日本最初の流通貨幣としての大きな意義は、依然と少しも変わっていません。
 ※渡辺晃宏著『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(講談社2001年)P97

 では、この「和同開珎」はどのような目的で鋳造されたのでしょうか。
 教科書には、「銭貨は都の造営にやとわれた人々への支給銭などの宮都造営費用の支払いに利用され、政府はさらにその流通を目指して蓄銭叙位令を発したものの」と説明されています。
 ※石井進ら著『詳説日本史』(山川出版 平成15年度採用見本)P39

 もうすこし、わかりやすく説明します。
 政府は、平城京造営費をまかなうために、1枚の銅銭に、銅の地金の数十倍の法定価値をつけて貨幣とし、やとわれた人々の「給料」として、支払ったのです。つまり、「和同開珎」は、政府の財政支出を少しでも少なくする特効薬として鋳造されたのです。
 発行されたのが708年、平城京遷都(710年)の2年前というのが、その事情をよく反映しています。

 この結果、金銅仏を鋳直して、私鋳銭を作れば、盗賊団にとっては、大儲けだったのです。一説によると、正規の鋳造銭と同じ量だけの私鋳銭が出回ったと言われています。
 ※栄原前掲書 P86