日本の文化8
<解説編>
              

1007 神社を信仰(祭神)別で分類すると多いのは何という神?|文化の問題へ 宗教の問題へ 日本史の問題へ|

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正解の根拠と出典                       | このページの先頭へ |

 まず、前置きです。
 このクイズの元データは、
國學院大學の岡田荘司教授(専門は神道史)の研究グループが、文部科学省の委託を受けて行った研究調査によるものです。
 この研究は、2007年春に報告がまとまりましたが、現段階では、まだその報告書は、一般には配布されていません。
 しかし、『朝日新聞』(2007(平成19)年2月22日)朝刊にその概要が紹介されましたので、本ページはその掲載記事のデータをもとに作成しております。
  ところで、 「
現在の日本の神社を信仰(祭神=祀られている神様)によって分類すると、一番多いのはどの神様でしょうか。次から選んでください。」(質問Aとします)という質問ですが、この質問に答えが出るところに上記の岡田教授の研究のすごさがあるのです。
 つまり、この質問は、「
日本で一番多い神社の種類は何でしょうか?」(質問Bとします)というものとは違います。
 
質問Bの場合は、○○天神と○○天満宮は、正確には違う分類となります。さらに、天神社、菅原神社、北野神社という神社もあります。これらは、正確には名前が違う別の種類の神社ですが、実はみな、菅原道真を神様とする「天神信仰」です。

 岡田教授のグループは、1995年に神社本庁がまとめた「全国神社祭祀祭礼総合調査」をもとに、神社名ではなく、祀られている神様(祭神)が何であるかを尺度として、神様ごとに分類していったのです。
 その結果、
質問Aに対する正解が得られたのです。


信仰(祭神)別ランキングは?              | このページの先頭へ |

 それでは、正解の説明です。
 問題の選択肢にした4つの祭神は、実は、ランキングベスト4の神様たちです。
 第5位以下は、下の黒板のようになっています。旅行記「熊野古道ちょこっと探検記」で説明した熊野神社が第5位です。

 では、正解をご覧下さい。黒板をクリックしてください。



せっかくですから、個別の説明です          | このページの先頭へ |

 せっかくですからベスト4の信仰の個別の説明です。
 以下の写真は、古いものは1985年のものから、新しいものは2006年撮影のものとバラバラですが、いずれも私自身が撮影した、上記1位〜4位の神社の写真です。
 人生52年もやっていると、それなりの神社には詣っているものです。5位の熊野神社も2006年に行っていますから、信仰別ランキングベスト5の神社にはすべて参詣したことになります。えらいもんだ。(自画自賛(^_^))


 第4位は、稲荷信仰です。(2,970社)              | このページの先頭へ |

 稲荷信仰の元祖は、京都にある伏見稲荷です。
 もともと、平安京が建設される前から現在の京都の地に勢力を張っていた渡来系一族の
(はた)氏にゆかりのある神様で、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ のちの稲荷大神)というの方がおられましたが、この神様は、米などの五穀をはじめ、すべての食物や蚕桑を司る神様でした。
 五穀豊穣の象徴は、稲がうまく生長することですから、稲が生育するという意味で「
稲生り」(いなり)の神様と呼ばれましたが、その姿が稲を背負っている形に描かれたことから、「稲生り」に「稲荷」の字があてられ、稲荷信仰が成立したと言われています。

 京都市伏見区の伏見稲荷(撮影日 2006年8月12日)

 かの有名なたくさんの鳥居

 平安時代初期、平安京に空海が起こした真言宗教王護国寺(東寺)ができると、神仏習合の考えから、伏見稲荷が同寺の鎮守として位置づけられ、真言宗の隆盛とともに、稲荷信仰も広がっていきました。
 さらに、中世になって、農業生産力の発展の上に、手工業・商業が盛んになると、稲荷は、単なる農業神から手工業生産、商業、屋敷の神様へとその「守備領域」を広げていき、「
衣食住の太祖、万民豊楽の神霊」として崇拝されました。
 このため、特に江戸時代になると、町々や大名の屋敷などにも
勧請かんじょう 神が分身して新しい土地に移ること)され、あちこちに祠が作られました。

 次のように言われています。

 「江戸の市中では、最も多いものの一つは稲荷神祠であるといわれたが、これは全国的な傾向で、津々浦々に至るまで、稲荷大神が奉祀された。この稲荷神勧請のことは現代も引きつづき行われ、現在その神社数全国で3万余に達し、諸神のうちでは最も多い。これに個人の邸内祠などを加えればほとんど無数であって、その信仰の広くして強いことが知られる。」

 ※薗田稔・橋本政宣編『神道史大事典』(吉川弘文館 2004年)P83

 クイズ1006の解説で説明したように、あくまで、この研究のデータの元になっている「神社」というのは、法人登録をされている神社です。
 街角の祠やビルの屋上、個人の邸宅内の祠は、法人登録さされていないでしょうから、上の引用の、「全国3万余」というのは、食い違うのです。
 したがって、何をカウントして第一位とするかどうかを明確にして話をしなければなりません。
 このクイズでの神社数は、あくまで、神社庁に法人として登録されている数です。


 第3位は、天神信仰です。(3,953社)          | このページの先頭へ |

  ご存じ、太宰府の地に左遷され、不遇のうちになくなった菅原道真を天神として崇拝する信仰です。
 古代には、「
怨霊信仰」、つまり、政治的に不遇な扱いを受けて恨みをもって亡くなった人の魂が、不遇な目に遭わせた人々を不幸に陥れるという信仰が起こっていました。
 
903年道真が太宰府で没し、その後、道真を左遷した藤原時平一族に不幸が続くと、それが道真の怨霊とされました。
 こうして、942(天慶5)年には道真を祀る仮の祠ができ、
947(天暦元)年には、現在の京都市内北野の地に移築されています。これが現在の北野天満宮です。
 一方、太宰府の地には、
道真の死後、905(延暦5)年には、その廟所として祠堂が建設されており、これが、現在の太宰府天満宮となりました。
 この両神社は、どちらかが勧請されたという関係ではなく、天神信仰の二つの中心となっています。

 もちろん、生前、詩文に優れていた道真に対しては、その子孫から、怨霊という負の性格だけではなく、文章の道、風雅の大家としての正の性格も示され、こちらの方も、天神の信仰の一面となりました。
 
現在の受験の神様のルーツです。

 全国的な分布では、圧倒的に西日本に多く見られる神社です。

 太宰府天満宮の鳥居と社殿です。1985年8月撮影です。鳥居の下には、ベビーカーに乗っている生まれて10ヶ月目の長男とその母(わが妻)がいます。こんな写真よく残っていました。(^_^)


 第2位は、伊勢信仰です。(4,425社)           | このページの先頭へ |

 第2位は、伊勢信仰です。伊勢神宮と皇室祖先神の天照大神に対する信仰です。
 神明神社、皇大大神社、天祖神社、大神宮などの名前の神社は、みな伊勢信仰の神社です。

 伊勢神宮は、皇室の祖神で、国家鎮護の最高神をまつる神社でしたから、当初は、一般民衆が参拝できる神社ではありませんでした。
 しかし、古代末期から中世にかけて熊野信仰がさかんとなると、伊勢神宮にもその信仰を庶民に広める御師と呼ばれる人が活躍するようになり、信仰が広がって行きました。
 
江戸時代には、およそ60年に一度、江戸方面から爆発的に伊勢神宮参りのブームが起きました。いわゆるおかげ参りです。幕末には、ええじゃないかの乱舞の思想的背景となりました。
 伊勢信仰の神社は、天神信仰とは違って、圧倒的に東日本に偏った分布をしています。これは、中世の伊勢神宮の所領(荘園) の分布と一致しているとのことです。
 

 伊勢神宮内宮の鳥居です。右は、2013(平成25)年の第62回式年遷宮の予定地です。(撮影日 2006年6月24日)


 第1位は、八幡信仰です。(7,817社)             | このページの先頭へ |

 そして、2位を3392社引き離して、圧倒的な差で第1位となったのは、八幡信仰です。
 全国にある7,817社の八幡神社のおおもとは、大分県の
宇佐八幡宮です。
 高校の日本史の教科書では、奈良時代の
道鏡事件の際の神託で登場します。和気清麻呂の活躍する事件です。
   ※これに関するクイズはこちらです。クイズ日本史 飛鳥〜平安203「明治時代の紙幣の肖像となった貴族」
 
 豊前宇佐の地域には、古くからシャーマン(お告げをする人)がいて、託宣(神の意を告げて言葉を発すること)を行っていました。
 その託宣の場(祭場)は、中国大陸の寺院に見られるように、周りに多くの
幡(のぼりばた)を掲げた所であったため、そのお告げを行う神そのものは、八幡神と呼ばれていました。八は、四方八方という時と同じで、周りを意味します。
 つまり、周りを登りで囲まれたところでお告げをする神様と言うことです。この神様に対する信仰が、いつのころからから宇佐で確立されました。これが
原始八幡神です。

 その後、この神様は、大和朝廷と結びつき、朝鮮半島へ遠征軍を派遣した応神天皇とその皇后の神宮皇后の伝説を取り入れ、
応神天皇を祀る信仰へと変身しました。
 奈良時代初めの8世紀初頭には、
宇佐八幡宮は、応神天皇を八幡神として祀り国家を守護する神社としての地位を確立しました。聖武天皇時代の748年には、東大寺の守護のため、奈良に八幡神が勧請されています。道鏡事件の神託の背景には、このような朝廷との宇佐八幡宮との結びつきがあったのです。

 都が平安京に移ったあとも信仰はむしろ強化され、860(貞観2)年には、平安京南方の地に平安京の守護神として、八幡神が勧請されました。これが
石清水八幡宮です。
 この時代には、皇族や貴族の荘園があった地域に八幡神が勧請され、八幡神社が建てられていきます。
 さらに、応神天皇が朝鮮半島で武威を発揮したという伝説から、やがて、八幡神は武芸の神様として崇拝されはじめます。
 とりわけ、
清和源氏は、八幡神を祖先神として崇拝し、源義家は、石清水八幡宮の前で元服し、八幡太郎義家と名乗りました。
 鎌倉に幕府を開いた
源頼朝は、鶴岡八幡宮を幕府の守護神としたため、以後、八幡神は武士の守護神として広く信仰されるようになりました。
 
 こうして、八幡神は、東日本にも西日本にも広く分布していったのです。 


 鎌倉鶴岡八幡宮、左は大銀杏。
(撮影日2005年8月6日)

 大分県は宇佐八幡宮の社殿前。(撮影日2001年1月5日)