飛鳥〜平安時代4
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<解説編>
 
213 加賀郡ぼう示札から読み取れることは? 

 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
資料「」について
からの問題です。
問題の解説
この資料の注目すべき点
あとがき


資料「」の全貌と問題          | このページの先頭へ |

 この木の札は、石川県の県庁所在地金沢市の北に隣接する津幡(つばた)町の加茂遺跡の大溝(おおみぞ、古代からある巨大な溝)から、2000年6月に発見されました。ヒノキ製のこの札には平安時代の嘉祥年間(848年〜851年)の年号が刻まれており、その時代にこの地の路傍に掲げられたものでした。
 郡の役人が民衆のために掲げたものでしたから、と名付けられました。「かがぐんぼうじさつ」です。
 

 この名前は 本文の中に使われている文字表現を使用して名付けられたのですが、これが困ったネーミングとなりました。4つ目の「 ぼう」という字が、傍でも榜でもなく、「片」偏であるため、通常のワープロにはないのです。このため、インターネット上では普通には表現できず、文字を合成して画像として掲げることになりました。

 この札は、出土時は上辺下辺が腐食によりかけており、横61.3cm縦23.3cm厚さ1.7cmの大きさでしたが、作られた当時は、古代の紙のサイズである横2尺・縦1尺の大きさであったと推定されています。
 掲げられた当時は、墨書きで359文字が書かれていたと思われますが、現在は、349文字が確認されています。
 もちろん、1150年も前に書かれ、しかもいつからか溝に水没していた木の札の表面に墨書文字がはっきり残っているわけではありません。ほんの一部を除いてでは、墨は失われています。それではなぜ文字が判読できたのでしょうか?

 それは、通常の木の表面が風化して削れているのに対して、文字が書かれた部分は、墨の防腐作用が幸いして風化を免れ、字画部分が周囲より盛り上がっていたからです。つまり、その盛り上がり部分をたどって文字が判読できたわけです。

 朽ちて欠けていた部分の文字の推定も含めて、全359文字を復元したものが、以下のものです。


 上の復元資料は、次の参考文献に依りました。一部の漢字は、現代の字体に修正してあります。

石川県埋蔵文化財センター編平川南監修『発見!古代のお触れ書き 石川県加茂遺跡出土 』(石川県埋蔵文化財センター 2001年)P8−21
平川南著『全集日本の歴史2 新視点古代史 日本の原像』(小学館 2008年)P14−18


資料「」に関する問題です            | このページの先頭へ |

 さて、やっとクイズ問題です。
 このは、加賀郡の郡司が民衆支配のために出した命令です。ちょっと時代背景を復習しましょう。
 この札が立てられた嘉祥年間(文字の判読が難しいのですが、年号は、
嘉祥2年=849年と推定されています)といえば、平安京遷都(794年)から50年ほどたった、平安時代の前期と言うことになります。
 教科書に出てくる藤原北家が関係する事件のうち、薬子の変が810年、承和の変が842年です。

 つまり時代的には、まだ、律令的な支配体制が一応機能していた時代で、地方には京都から国司が派遣され、そのもとで地方の有力者である郡司が民衆に対する政治を行っていました。
 その郡司は民衆にどのような命令を出したのでしょうか?
 それが最初の部分に8箇条書かれています。
 ではその部分の読解に挑戦して、次の質問に答えてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

問題の解説                               | このページの先頭へ |

 まずは発見された場所の説明です。
 は旧加賀国の北東部(加賀と能登と合わせた現在の石川県全体から見ると中央部です)にある
河北潟の東に沿って通っていた北陸道の大溝から発見されました。

 北陸道は、古代の行政区画七道(東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・西海道・南海道)を貫く、官道(今でいうなら国道)のひとつです。
 発見地は、
加茂遺跡と呼ばれ、この札の発見以前にもこの隣接地から廃寺跡などが発見されており、この地域は陸路(北陸道)と水路(河北潟)が交わる交通の要衝にあった、古代の役所(官衙)の跡と推定されています。
  

上の地図は、NASAのWorld Wind( NASA World Wind http://worldwind.arc.nasa.gov/index.html)の写真から作製しました。

 この札は、加賀郡庁が郡内の深見村の有力者にあてた命令書で、内容は次の3つからなっています。
  1 京都の中央政府(律令政府)が一般民衆に向けて出した命令
  2 加賀の国府(国全体を治める国司の役所)の文書
  3 加賀郡の郡庁の文書

 終わりの方に、「路頭に」しなさいと書かれていることから(この部分から正式名称が「」となりました)、いわば、政府が民衆に示した、農村生活のお触書きという性格の文書です。

 「お触書き」といえば、江戸時代の前期に江戸幕府から発令された、「慶安の御触書」が有名です。その一条にも、「朝おきをいたし、朝草を苅り、昼は田畑耕作にかかり・・・・」等と農民の生活に対して、細かく指示が出されていました。
 このでも、同じような形となっています。
 以下は、これらの内容が、原文のどの部分のことかを示したものです。



 今回問題とした、「農民は、朝何時から夜何時まで働きなさい」は、A国からの「8箇条の禁制」の第一条に記されています。

第一条目

原文

 

 一田夫朝以時下田夕以時還私状

読み下し

 

 一つ、田夫、朝はの時を以て田に下り、夕はの時を以て私に還るの状。

現代語訳

 

 農民は、朝は午前4時頃に田んぼに下り、夕方は午後8時頃に家に帰りなさい。

注釈

 これはごく普通に農民に長時間労働を求めたものです。

 「」と「」は、いずれも時間を示し、江戸時代以前に24時間を十二子の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌猪」でで著す場合の「寅」「戌」です。三番目の「寅」は午前4時頃、11番目の「戌」は午後8時頃となります。


この資料の注目すべき点                       | このページの先頭へ |

 上に上げた参考文献をもとに、国から直接農民に対して命じた「8箇条の禁制」の部分を現代語訳して、このころの中央政府(律令国家体制)がどのような状況でどのように農民を支配しようとしていたかを確認します。

第二条目

原文

 

 一禁制任意喫魚魚状

読み下し

 

 一つ、田夫、意に任せて魚酒を喫(くら)ふを禁制するの状。

現代語訳

 

 農民が好きなように魚酒を食うことを禁ずる。

注釈

 これはただ単純に農民のぜいたくを禁止するものではありません。この時代の農村で深刻化していた階層の分解と有力者の存在がその背景にあります。
 つまり、有力な農民の中には、一般の農民を酒や肴のごちそうを振る舞って雇い、大規模な水田を経営するものがおり、反対に、それができない農民は十分な耕作ができずに不作となり、ますます階層の分解が生じるという状況がありました。これが飢饉や税収不足の原因となっており、この命令をそれを防ぐための禁令と考えられます。


第三条目

原文

 

 一禁断不勞作溝堰百姓状

読み下し

 

 溝堰(みぞせき)を労作せざる百姓(ひゃくせい)を禁断するの状

現代語訳

 

 溝と堰の管理運営しない一般の人々を禁じ処罰する。

注釈

 水路や水を堰き止める堰の管理は、水の供給・排水をコントロールし、農業のみならず農村の生活全体を左右する大事な仕事です。このため、農民(第一条と第二状では田夫と表現)だけではなく、百姓(のちには農民を指す言葉となりましたが、この段階では、百姓(ひゃくせい)、百の姓、つまり、一般のすべての人々をさす)に、この仕事を怠けることを禁じたものです。


第四条目

原文

 

 一以五月卅日前可申田殖竟状

読み下し

 

 一つ、五月三十日前を以て、田植えの竟(おわ)るを申すべきの状。

現代語訳

 

 五月三十日までに田植えが終わったことを報告せよ。

注釈

 いつの時代も農作業は、季節をずらして作業を遅らせてしまっては、いい収穫を望めません。この条文は期日を守った農作業(田植え)を求めるものです。
 ちょっと留意すべきは、この5月30日というのはもちろん旧暦です。ということは、現在の暦に直すと、おおむね、6月末ということになります。私の住んでいる岐阜県南部では、現代では、早い品種でゴールデンウィークの頃、遅い品種で5月中旬に田植えが行われます。この規定は、それよりは少し遅めです。


第五条目

原文

 

 一可捜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状

読み下し

 

 一つ、村邑の内に竄(かく)れ宕(ひそ)みて諸人と為ると、疑わる人を捜し捉(とら)ふべきの状。

現代語訳

 

 村の中に隠れている逃亡者を捜し捕まえなさい。

注釈

 これは、奈良時代以来、重い負担をなどから逃れるため、土地を捨てて逃亡する人々が多かったため、そのような人々をとらえて戸籍に戻させることを意図したものです。


第六条目

原文

 

 一可禁制无桑原養蠶百姓状

読み下し

 

 一つ、桑原无(な)くして、蚕(蠶)を養ふ百姓を禁制すべきの状。

現代語訳

 

 桑原を持たずに養蚕する百姓を禁制せよ。

注釈

 絹織物は、律令税制では農民の負担でした。そのため、すべての人々に、桑を植えて蚕を飼い、絹をつくることを命じたものです。


第七条目

原文

 

 一可禁制里邑之内故喫醉酒及戯逸百姓状

読み下し

 

 一つ、里邑の内にて、故(ことさら)に酒を喫(くら)ひ醉(よ)ひ、戯逸(ぎいつ)に及ぶ百姓を禁制すべきの状。

現代語訳

 

 村の中で酒によい、秩序を乱す百姓を禁制せよ。

注釈

 酒を飲んで酔っぱらうことに代表されるように、村の秩序を乱す人々は許されません。水田農業を行う集団社会では、集団行動と秩序こそが重要です。


第八条目

原文

 

 一可填勤農業状 件村里長人申百姓名

読み下し

 

 一つ、農業を填(慎)みて勤(つと)むべきの状。件の村里の長たる人は百姓の名を申せ。

現代語訳

 

 慎んで農業に励め。 これらの命令に違反したものについては、村の長がその者の名を申告せよ。

注釈

 あらためて農業に励むよう念を押しています。

 補足です。
 9世紀(平安時代の前半)の農村については、高校の教科書的には、あまり詳しい説明はなされていません。通常の教科書では、奈良時代の説明と平安時代初期の説明が次のようになされています。

 奈良時代

「農民には兵役のほか、雑徭などの労役や運脚などの負担があったため、生活に余裕はなかった。さらに、天候不順や虫害に影響されて飢饉も起こりやすく、国司・郡司らによる勧農政策があっても不安定な生活が続いた。(中略)
 農民には富有になるものと貧困化するものとがあらわれた。困窮した農民の中には、口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、都の造営工事現場から逃亡して、地方豪族などのもとに身を寄せるものもふえた。」

     

 平安時代

「8世紀後半から9世紀になると、農民間に貧富の差が拡大したが、有力農民も貧窮農民もさまざまな手段で負担を逃れようとした。そして戸籍には兵役・労役・租税を負担する男子の登録を少なくする偽りの記載(偽籍)がふえ、律令の制度は実態と合わなくなった。こうして、手続きの煩雑さもあって版田収授は実施が困難になっていった。」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか著『詳説 日本史 改訂版』(山川出版 2007年)P45・P53

 このは、9世紀の農村において、国司や郡司による勧農政策と農村支配が、その実情に対応して、懸命に続けられていることを示しています。
 すぐに教科書に載るとは限りませんが、「
寅時」から「戌時」までは、印象的な表現です。

 
あとがき                                   | このページの先頭へ |

 ひさしぶりに、固い、純粋に学問的な項目を作りました。

 このネタは、冒頭の参考文献(↑)にも書いたように、
小学館の『全集日本の歴史』シリーズの第2巻の平川南先生の著述を参考につくりました。このシリーズを私は、今年の初めから読み進めています。
 これまでも、○○社『日本の歴史』というシリーズものは、数年間隔を置いて中央公論・集英社・講談社・小学館などから数多く刊行されてきました。私は、そのたびに読んでは、新しい学問的な業績・知識や歴史を見る視点を豊かにしてきました。今回の小学館のシリーズも期待に違わず面白い部分が多く、50歳を過ぎてまたまた目から鱗を経験しています。
 これからおいおい、新ネタとして紹介していきます。