飛鳥~平安時代5
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<解説編>
 
214 刀筆の吏という言葉の意味と語源は?  12/05/14掲載  12/05/26一部追加 

 自分で言うのもなんですが、なかなか苦しいクイズ設定です。どうしても、日本史「木製遺物(出土品)シリーズⅠ・Ⅱ・Ⅲ」(Ⅰ「刀筆の吏」Ⅱ「籌木」Ⅲ「越前一乗谷朝倉遺跡トイレ遺構」)というのを仕立て上げたかったものですから、無理矢理にこうなってしまいました。(^_^)
 しかし、マイナーですが、ちゃんとしたお勉強のクイズです。このクイズは、シリーズの一つ目です。

 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
「刀筆の吏」、その意味と語源です
日本の場合は木簡です あわせて木簡の基礎知識です
授業でこんな学習もできます 評と郡


 「刀筆の吏」、その意味と語源です         | このページの先頭へ |

  まず、「刀筆の吏」という言葉の意味そのものは、 1下級武士 2上級武士 3下級文官 4上級文官 
の中から選べば、
3の下級文官です。
 この問題は基本的に「
」という漢字の意味がわかっていれば、正解に行き着きます。「」という言葉は、官吏という時に使う言葉です。官吏は役人のことを総称する言葉ですが、「」そのものは、そもそも「役所の下役」という意味です。「」という文字の成り立ちは、「一」と「史」を合わせたもので、「心を一つにして公の記録を書く人」という意味になります。古来、記録を司る人は官吏の中の下級の者でしたから、常識にも符号しています。日本史の教科書で教える、律令制の四等官制(役人の4つのランク、長官かみ、次官すけ、判官じょう、主典さかん)のうち4ランク目のポストは、記録・文書を作成する担当の下級役人です。
  ※参考文献1 長澤規矩也編『新漢和中辞典』(三省堂 1972年) P47・353
  
 ダミーの選択肢に武士というのが挙げてあるのは、「刀筆」の「
」の部分を誤解させるためのものです。
 「
」という漢字だけで、「下級文官」という答えに行き着けるわけですが、それでは、誤解を招くような、「」という文字を使って、あえて「刀筆の吏」というのは何故でしょうか。
 言い換えれば、ここでいう、「
」がどのようなものかということです。普通に連想する戦い用の刀か、それとも何か他のものでしょうか?
 もう一度、黒板クイズで考えてみて下さい。 

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 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 正解は、筆記用の竹簡を修正するために竹を削るのに用いる小刀のことでした。
 「
刀筆」について、辞典をそのまま引用すると次のように説明されています。
「昔、中国で紙の発明以前に用いた、
竹簡に文字を記す筆とその誤りを削る小刀。」
  ※参考文献2 松村明編『大辞林 第3版』(三省堂 2006年)P1787

 中国で文字が使われ始めたのは、今から3500年以上前です。紀元前8世紀から紀元前3世紀までの春秋戦国時代には、歴史書も書かれ、文字による記録が盛んに残されました。しかし、
蔡綸が紙を発明したのは、後漢時代の紀元後105年とされていますから、それまでの何百年かは、漢字は紙ではなく他のものに書かれていたのです。その書かれていたものの中心は、竹簡でした。竹を細く薄く削ったもので、これを束ねて記録板としていました。
 当然、その担当の下級役人は、間違えた文字を書き直す場合の修正用や、必要でなくなった竹簡の表面を削って再生するために小刀を常時もっていたわけです。今でいう
鉛筆と消しゴムのセットが、古代では筆と小刀のセットでした。その刀と筆をあわせて、「記録」という意味にもなりました。
 日本木簡学会の初代会長を務められた
岸俊男元京大名誉教授は、「添削」という言葉の「削」という言葉も、竹簡・木簡を削るという刀の使用と関係があると指摘されていますが、これについては、語源辞典等では確かめられませんでした。
  ※参考文献3 岸俊男著『宮都と木簡』(吉川弘文館 1977年)P103  

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日本の場合は木簡です あわせて木簡の基礎知識です | このページの先頭へ |

 では日本の場合はどうだったのでしょうか。
 日本では、7世紀の初めの推古天皇の時代に、高句麗の僧
曇徴(どんちょう)によって紙や墨の技法が伝えられたとされています。高校日本史の教科書にも登場します。
 しかし、紙の製造が各地で大量に行われるのは、もっとずっとのちの室町時代後半以降であり、中央政府や上流階級においてさえも、奈良時代までは紙は稀少な品でした。
 したがって、奈良時代前の7世紀や奈良時代は、政府関係の文書においても、多くは木簡(日本の場合は竹に限らず、材質は木材一般)が使われました。


 ここでは木簡に対して、一般的な知識を確認します。
 日本における最初の木簡の発見がいつだったか点については、現在確認できるのは、1928年の三重県柚井(ゆい)遺跡、1930年の秋田県の払田柵’ほったのさく)跡とされています。この他にも、正倉院にも数点の木簡が伝わっていました。
 しかし、これらは戦後の歴史学会では全く認識されていませんでした。したがって、研究者によって最初の発見とされるのは、
1961(昭和36)年1月の平城宮址から木簡出土となっています。
  ※参考文献4 渡辺晃宏著『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(講談社 2001年)P011

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 その時の感動を、当時京都大学の教授だった岸俊男氏は次のように表現しています。初発見の驚きと感動が伝わる文章なので、ちょっと長く引用します。
「 昭和三十六年一月末のある日、私は当時奈良国立文化財研究所の手によって発掘調査が続行されていた平城宮址から、はじめて木簡らしきものが出土したという電話連絡を受けて、ただちに大学から現場に急行した。土壌から掘り出された木片を、凍てつくような寒さの中で、慎重に筆で洗って行くと、確かに墨書がある。文字も判読できる。それはわれわれ日本の古代史学者が思ってもみなかった大発見であった。私はその時の感激を今も忘れていない。そのような記念すべき時処に際会すること
ができたことは、古代史を学ぶ者として無上の喜びであった。
 その日掘り出された数点の木簡を読んで行くと、その中で次の一点が私の注意をつよく引いた。
  (表) 「寺請 小豆一斗醤一斗五升大床所酢未醤等」
  (裏) 「右四種物竹波命婦御所  三月六日  」
なぜならは年次は不明であるが、「竹波命婦」という人名に記憶があったからである。帰宅して早速『続日本紀』を調べると、やはり常陸国筑波郡出身の命婦として、孝謙女帝の側近に奉仕した壬生直小家主女の名が、天平宝字五年(七六一)以後しはしは現われている。木簡の竹波命婦はまぎれもなくこの小家主女に違いない。そうすると、「寺」は・・・・。私の脳裡には、天平宝字六年五月近江保良宮にあった孝謙上皇と淳仁天皇が、道鏡対藤原仲麻呂の抗争が原因で不和となり、保艮を引揚げて、淳
仁は平城宮中宮院に、孝謙は法華寺にとそれぞれ分かれて入ったという著名な史実が浮かんできた。私は考えた。竹波命婦が孝謙側近の女官であれば、寺は法華寺に違いない。この木簡は法華寺に入った孝謙上皇らが、平城宮内に食料としての小豆・醤油・みそ・酢などを請求してきたときに用いられたものではなかろうかと。そうすると、三月六日は天平宝字七年か八年となるが、同時に出土した甲斐国から送られてきた胡桃子の付札は天平宝字六年十月のものであるので、多分、天平宝字七年のものであろう。
 また他の木簡の一つには「大豆二升直廿二文」の記載があるが、これを竹内理三博士が早く整理された奈良時代の物価表と照合してみると、偶然にも一升十一文の価格は、天平宝字七年三月の八文と翌八年三月の一七・五文の中間に位置する。当時の急激な物価の上昇を考慮すると、問題の木簡の三月六日はまさしく天平宝字七年と考えてよさそうである。私は注意をひかれた木簡を以上のように解読した。」
  ※参考文献3 岸俊男前掲書 P100-102
 木簡と他の文献との照合、さらには、その他の歴史資料との結びつきによって、パズルの穴が埋まるように木簡が事実を語り始める様子がよくわかります。
 この「竹波命婦」の木簡は、木簡の整理史上、N.o.1の栄誉を与えられており、平城京のゴミ捨て用の土坑(穴)から見つかったこの最初の木簡群は、木簡として最初の重要文化財の指定を受けています。
 
 また、当時発掘の第一線で活躍しておられ木簡発見の当事者となった田中琢氏(当時奈良国立文化財研究所研究員、のち同研究所所長)は、現場の担当者の目から次のように話されています。
「 雪と氷と泥の中で
 そうですね、本格的に昭和34年から発掘を始めたなかで、私がいちはん印象に残っているのは、いろいろありますけれども、やっぱり木簡の出土です。昭和36年1月に掘ったとき、初めて発見しまして、じかに私、この手の中に握ったんですけれども、それが最も印象的ですね。
 あのときは、10年か20年に一ペんぐらいの寒さで、雪がずっと降ってました。大体、前の年の12月までで発掘はほとんど終わってまして、1月になってからダメ押しと言いますか、一番最後の段階で掘り残してあったところを掘っていたんです。
 木簡の発掘現場は深い穴でして、絶えず水がわいてきて、毎朝氷が張っていました。その氷を割りながら発掘したわけです。
 最初は、その穴の中にもっと土器があると・・・・。奈良時代の古い土器、特に奈良前半の土器が、どうもこの穴の中にあるんじゃないかと、そのころはまだ所長じゃありませんでしたけれども、坪井清足所長たちと話してたんです。土器の編年を確立するというのが、当時の一つの目標だったわけです。
 そういう期待で、そのころ一緒に研究所で仕事しておりまして、現在大阪におりますが、寺田君というのが、氷を割って土器を掘っていたら、木くずが出てきました。もっとも、だいぶ前からの木のくずはいろいろ出てはいたんですが、その木のくずを、冷たいですから、傍らにバケツを置いて、湯を沸かし、その湯で手を暖めながら掘っていたんです。その湯のところで木を洗っていた寺田君が、「おう、何か字があるぞ」と言うのです。「こりゃあ大変だ」というわけで、これが木簡第一号の発見でした〔図194〕。1月24日のたしか3時ごろでした。
 木簡-木の札に字が書いてあるというのは、それまでにもいくつか日本で出土した例もあるのですけれども、平城宮跡ではそのときが初めてですし、出土した木というのはすぐ黒くなるんですよね。これは例えは、朝鮮の楽浪遺跡だとか、あるいはまた中国の戦国時代の長沙の遺跡、そういうところの出土品の経験からわかっていたものですから、ほっといたらダメになるというわけで、大至急写真を撮ってどう保存するか考えなけれはいかんということになりましてね。
 ちょうどたまたま、そのとき現場にいたのは、最後の段階でしたから、その寺田君と私だけだったんです。
 木簡を発見したときの気持ちというのは、やっぱり興奮しましたね。「すぐに奈良まで持って行け!」と言いまして・・・・。
 我々の研究所の本所が奈良市内にあったので、そこまで、ポリエチレンの袋に綿で包んで水を入れて、作業員の人に持って行ってもらうことにしましてね。今なら自動車ですっと行くところですが、まだ自転車なんですよ。自転車に乗って、5~6キロの道を運んでもらいました。
 ところが、これは打ち明け話ですが、奈良では折りしも、我々の先輩にあたる発掘調査をやっている方々が会議をやってまして、私ども現場のほうは「すぐ写真を撮ってくれるように」と伝言をしておいたのですけれども、忙しくて撮ってくれなかったんです。もう夕方だったということもあります。3時に発見してから持って行ったのだから、恐らく5時近くになっていたと思うんです。
 しかし、見つけたときには、かなりたくさん字が書いてあるように見えたんですよ。それが、次の日かその次の日に平城宮へ木簡が再び戻ってきたときには、黒くなってしまって字が見えなくなっているんです。私は頭にきましてね、「先輩どもは何をやっとるか!!」と言って、その後数日、かなり怒り狂っておりました。
 ただ、幸いなことに、その後、木簡の保存処理技術が進みまして、おかげさまでその黒くなった木簡も、今や割合、色が元に戻って字が読めるようになりました。」
 ※参考文献4 坪井清足監修『天平の生活白書 よみがえる平城京』(日本放送出版界 1980年)P323-325

 ただし、この1961年1月~2月の発見の時は、出土した木簡は僅か40点でした。しかし、1963年には内裏北外郭官衙の土坑から1785点が出土し、1967年から68年にかけては藤原宮跡から2000点余りが出土するなど、木簡が大量に発見される機会も増えていきました。
 1986年から88年にかけては、のちに
長屋邸宅跡と判明する平城京左京三条二坊における大量の木簡の出土があり、長屋王家木簡と称される木簡は、その数35,000点を数えました。
 これにより、長屋王は本来は天皇の子どもではなく長屋「王」と呼ばれるべき存在であるにもかかわらず、「
長屋親王」と呼ばれていたことが判明しました。また、規模の大きな家政機関を持ち、全国から大量の物資が集め、塩漬け鮎・鯛・鮒の鮨・イノシシ・栗・大根・かぶら・ふき・せり・タケノコ・蘇(牛乳を煮詰めたもの)などの美味・珍味の食材も集まっていたことがわかりました。
 ついで、長屋王の邸宅の周辺の調査が進められました。するとその邸宅の北辺に当たる二条大路の両側の溝から、1988年から大量の木簡が出土しました。
二条大路木簡と名付けられたこの木簡群は、総数なんと74,000点に及びました。この時点まで全国で発見されていた木簡総数が64,000点ほどでしたので、たった1カ所でその数を超えてしまうという大量の出土でした。これにより、二条大路の北側に藤原4兄弟の末子麻呂の邸宅が存在したことや、長屋王が長屋王の変で自殺して一族が滅んだあとに、その邸宅跡地が、聖武天皇の皇后、光明皇后の皇后宮として利用されたということも判明しました。 
  ※参考文献5 渡辺晃宏著『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』P112-176

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 写真214-02・03 平城宮資料館の木簡 (撮影日 09/03/07)

 平城宮資料館は、平城宮跡の東北隅にあります。
 展示木簡は本物ではなく複製品です。教科書に出てくる「調」(各地の特産物を差し出す租税)などの租税の送り状として付けられた木簡群です。
 02の一番右上の木簡を拡大した写真が03です。阿波の国(徳島県)から進上された贄(にえ、律令の規定にはない天皇への進物)の若海藻(わかめ)です。


上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、平城宮跡周辺の地図です。
中央の薄緑色の部分が旧平城宮です。やや右下中央のイトーヨーカドーとあるところが、
旧長屋王の邸宅跡です。
復元された平城宮の写真は、→クイズ216で説明します。


 最初の発見から2009年までの間に、日本で見つかった木簡の総数は、約37万点にもなっています。広義の木簡は発掘によって発見された墨書のある木製品すべてを含むため、大きさもいろいろ、時代も古代から近代にまで及んでいます。毎年数十カ所の遺跡から木簡が出土していますが、発見される遺跡数からいうと、古代と近世が多くなっています。
  ※参考文献6 木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波書店 2010年)P171

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授業でこんな学習もできます 評と郡          | このページの先頭へ |

  ところで、7世紀から8世紀の歴史を明らかにする基本的な歴史的資料はといえば、『日本書紀』(720年完成、神代から持統天皇代までの正史)や『続日本紀』(797年完成、文武天皇代から桓武天皇代までの正史)です。しかし、この書物に記されたことが事実かといえば必ずしもそうではありません。正史とはいえ歴史書ですから、編纂者の都合で史実とは異なる記述がなされている場合が少なからずあるからです。
 その隙間を埋め、史実を明らかにするものが、この時代でいえば、
正倉院文書(正倉院に伝来した造東大寺写経所文書群)・木簡漆紙文書(漆の壺の蓋に使われた文書)・墨書土器(墨で文字が書かれた土器)といった生の資料です。

 木簡は日本史の教科書にも取り上げられています。
 山川出版の『詳説日本史』にも、冒頭の部分で、長屋王家木簡を例に、「資料を読む」・「資料に触れる」というテーマ学習を掲載しています。
 生の木簡を入手することはできませんが、木簡の写真は、ウェブ上に公開されているものから授業用に引用することができます。掲載元は奈良文化財研究所の木簡データベースです。
  ※奈良文化財研究所の木簡データベース http://www.nabunken.jp/Open/mokkan/mokkan1.html
 2012年1月30日現在で48,583点の木簡のデータ(記載文字、写真等)をを掲載しており、たとえば、岐阜県関係の木簡を教材に使おうという意図で、検索画面から「美濃」と打って検索すると、186件がヒットします。
 この場合「
美濃」だけではなく、「三野」など別の漢字表記も含まれていて、いろいろ探すことができます。

 これを利用して、資料による歴史へのアプローチを考えさせる学習もできます。
 
藤原宮跡大極殿院北方(遺構番号SD1901A)から出土した西暦683年(天武天皇の12年)の木簡(木簡Aとします)には、
癸未年十一月/三野大野評阿漏里/□〔阿ヵ〕漏人□□白米五斗∥
とあります。美濃国大野評から白米5斗が送られた荷札であると思われます。美濃国大野というのは、律令制度時代から1896(明治29)年まで存在した、美濃国の大野郡のことです。それ以降は、揖斐郡大野町や本巣郡真正町・巣南町などに編成替えがされ、大野郡という名前そのものは消滅しました。飛騨の大野郡とは別の郡です。
 ここで重要なのは、「大野評(こおり)」という表現です。
 この木簡とは別に、もっとのちの平城宮宮城南面西門(遺構番号SD1250)から出土した奈良時代の木簡(木簡B)には、
美濃国大野郡栗田郷庸米六斗
とあります。これも租調庸の庸として米を送った荷札の木簡です。
 重要な点は品物等の違いではありません。「大野郡(こおり)」の表現の違いです。同じ「こおり」、現在でいうと「郡」を表すのに、古い時代の木簡Aは「
」とし、奈良時代の木簡Bは「」と表記しています。この違いはどうなっているのでしょうか?
 実は、教科書では、大宝律令の仕組みを用いて、地方行政組織は、
国-郡-里であったと学習します。しかし、実際には、大宝律令以前の飛鳥浄御原令時代までは、国-評-里であったことが、歴史研究学者の「郡評論争」(地方行政組織の郡はいつ成立したかの論争)を経て現在では定説となっています。『日本書紀』などの文献資料では結論が出なかったこの論争に決着を付けたのが、1967年に藤原宮跡から出土した木簡でした。そこには、「己亥(699)年十月上挟国阿波評松里」と墨書されていました。
  ※参考文献6 木簡学会編『木簡から古代が見える』前掲書 P16-17
 
 この相違を学習した上で、生徒諸君に『日本書紀』に引用されているかの有名な「大化の改新の詔」(646年発令)を吟味させると、そこにすでに「
国-郡-里」の表現が見られることから、「『日本書紀』はおかしい」等の素朴な意見が出てくることは間違いありません。さらに歴史的資料への疑義、すなわち、「歴史の資料の信憑性」及び「歴史資料を扱う際の注意点」などが学習できることになるでしょう。
 こういうのを教師がすべて自分の口で語ってしまって、生徒を単なる聴取者にしてしまっては、「考える歴史」はいつまでたっても実現できません。この木簡を題材にした授業は、比較的簡単であり、生徒諸君から大いに意見が出されるところです。
 いかがでしょうか?

  

 【クイズ214 刀筆の吏 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

長澤規矩也編『新漢和中辞典』(三省堂 1972年)

 

松村明編『大辞林 第3版』(三省堂 2006年)

岸俊男著『宮都と木簡』(吉川弘文館 1977年)

  坪井清足監修『天平の生活白書 よみがえる平城京』(日本放送出版界 1980年) 
 

渡辺晃宏著『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(講談社 2001年) 

木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波書店 2010年)