飛鳥~平安時代6
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<解説編>
 
 215 この写真の木製遺物は何に使われたのか? 12/05/21記載 12/05/26追加記述

 細い木がたくさん固まって出土しました。この細い木の用途はなんでしょうか?
 古代史の普通の知識のある方なら、「木簡」と答えを出されそうですが、実は木簡ではありません。この前のページのクイズ(→クイズ214)でやりました。さて、これは何でしょうか? (→正解と説明へ

 写真215-01 平城宮資料館の展示物です (撮影日 09/03/07) 

 このまま下に正解と説明が続きまず。
 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
木簡ではありません 正解は「籌木」です
籌木はいつまで使われたか
付録:平城宮跡について


木簡ではありません 正解は「籌木」です          | このページの先頭へ |

 古代の遺跡から出土する薄っぺらな木製品といえば、木簡ですが、これは木簡ではありません。文字が記載されているものもありますが、無いものが多数です。
 正解、これは考古学上の正式名称は、「
籌木」(ちゅうぎ)といい、トイレで大便の後に、おしりのうんちをぬぐう木製道具です。別名、「くそべら」といいます。糞をぬぐうへらということです。(これについては、高等学校の教科書レベルでは登場しません。)
 言い換えれば、現在の紙の代わりです。現代人から想像ができませんが、中世以前は紙は貴重品であり、日常生活でふんだんには使えないものでした。そこで、大便後のお尻の穴の回りに残ったうんちを、紙ではなくこの木でぬぐったということです。木でぬぐうわけですから、「痛そー」というか、あまり快適ではないでしょうが、現実に使われたのです。平城京跡・藤原京跡など、各地から出土しています。
 「
」という字は、①計画、②相談する、③数を数える時に使うもの、④くじ、という意味がありますが、「籌木」という場合は、③から派生した数を数える棒からさらに転じたものです。麻雀をする方もそこまではご存じないと思いますが、麻雀の点数を数える「点棒」は、正式には、「籌馬」(ちゅうま)といいます。
  ※参考文献1 長澤規矩也編『新漢和中辞典』(三省堂 1967年)P848

 
籌木については、歴史学の文献上や民俗学においては、以前から「常識」となっていたものでした。しかし、考古学的には、木簡と同様に平城京や藤原京の跡から出土していましたが、当初は、確かに籌木、つまり「くそべら」として使用されているものであるかどうかについては確証がありませんでした。前提として、発見された土坑や溝が、トイレやもしくは糞便が捨てられた場所だという確証もなかったからです。
 しかし、1991年に福岡県の太宰府の鴻臚館(迎賓館)跡の発掘調査で「便所」と確実に思われる深い穴が見つかり、明らかに糞便の変化したものと思われる堆積土壌の中から、1000点を越す薄い細板状の木片が発見され、これこそ
籌木だと確認されました。
 この木片の形状が藤原京や平城京のそれと一致したため、それ以前に発見されていた両京の木片も、
籌木であることが立証されたわけです。
 現在確認されているもっとも古い
籌木は、宮城県多賀城市の山王遺跡から出土したもので、6世紀後半のものとされています。
  
 では、籌木と木簡の関係はどうなっているでしょうか?素人目には、籌木は一見すると木簡のようです。
 実は、籌木が発見された遺跡の土坑、たとえば平城宮の糞便の詰まった土坑からは、一般の籌木とともにたくさんの木簡も同時に出土しています。
 この木簡の中には、明らかに意図的に割りさかれたものがあります。木簡というのは文書ですから、現代なら差し詰め重要文書をシュレッダーしたあとと考えられますが、この場合はそうではありません。籌木と一緒に土坑からと出土したということは、普通に考えれば、木簡が割ったり折ったり削ったりなどの再加工をほどこされて、籌木として再利用されたと考えるのが自然です。
  ※参考文献2 木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波書店 2010年)P202-208

参考文献一覧へ

 写真215-02 平城宮資料館では、上の展示によって籌木の正体を説明しています (撮影日 09/03/07)


 籌木はいつまで使われたか            | このページの先頭へ |

 この籌木というのはいつまで使われたのでしょうか?
 紙を使わずに木のへらでぬぐうということ時代が現代の生活感覚とはかけ離れているため、ずいぶん昔の時代の習俗と思われますが、これが意外と新しい時代まで続けられました。
 江戸庶民文化研究者の渡辺信一郎氏(元都立高校校長)が、江戸時代の川柳や文献を丹念に調べられて、『江戸のおトイレ」』という本を書かれています。
 これによれば、江戸時代、江戸ではトイレで紙を使うことは常識となっていましたが、地方の農山漁村では、そうではなかったようです。江戸後期の旅行家・民俗学者である菅江真澄の巡行記『しののはぐさ』の次の一説が引用されています。
  ※(○○)は原注、〔○○〕は私の注です。
「みちのく糠部郡(現、岩手県)〔ぬかべぐん〕に至り、厠へ入りしかば、闇の隅なる処に用捨と書きたるああやしの營〔はこ〕二つあり。用字書きたる營〔用と書いてある營〕には、五六寸ばかりに大虎杖〔いたどり〕茎を割りて、これを入れてかけたり。そは籌木という。捨文字書たる營〔捨と書いてある營〕、くそまり汚れたるをうち入れてすえたり。そは厠ごとにあれど、用捨の文字書きはなし。「和訓栞」に云わく、「万葉集に屎遠くまれ櫛造る刀自とよめるも籤(くじ)の類なり。今も岐岨(木曽)の山中に用うかわやのへらなりといえり。輟耕録に、今寺観削木為籌、置溷圊中、名曰厠籌」といえり。」
  ※参考文献3 渡辺信一郎著『江戸のおトイレ』(新潮選書 2002年)P36-37

 概要は、「東北地方に旅行に出かけた菅江は、トイレに二つの発見をした。ひとつは「用」、もうひとつは「捨」と書かれており、虎杖(イタドリ、タデ科の多年生食物)の茎を15cmから20cmに切ったものが
クソベラとして使用されていた。同じものが木曽山中でも使われている。明の時代の本、『輟耕録』には、この木のことを厠といっている。」ということでしょうか。
 
 つまり、江戸時代後半期においても、岩手や木曽では、籌木が使われていたということです。

 考古学的には、中世や近世初期の遺跡からも籌木は出土します。
 しかし、鎌倉時代を境にちょっと様相が変化します。
 平安時代までは、籌木は遺跡の土坑から大量に出土しますが、鎌倉時代以降はまとめて廃棄してあることはあっても、糞尿をためるもしくは捨てる穴からは発見されることは少なくなります。つまり、籌木の使用は継続しますが、後始末の仕方が変わるのです。さてどうしてでしょうか?
 この答えを考えるヒントは、高校の教科書の次の記述にあります。室町時代の農業の発達の項目です。
「この時期の農業の特色は、民主の生活と結びついて土地の生産性を向上させる集約化・多角化が進められたことにあった。灌漑や排水施設の整備・改善により、機内では二毛作に加え、三毛作もおこなわれた。また、水稲の品種改良も進み、早稲・中稲・晩稲の作付けも普及した。
 肥料も刈敷・草木灰などとともに下肥が広くつかわれるようになって地味の向上と収穫の安定化が進んだ。また手工業の原料として、苧・桑・楮・漆・藍・茶などの栽培もさかんになり、農村加工業の発達により、これらが商品として流通するようになった。このような生産性の向上は農民を豊かにし、物資の需要を高め、農村にもしだいに商品経済が浸透していった。」
  ※参考文献4 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年)P125-126

 さて、クイズ仕立てで考えます。

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 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 鎌倉時代以降は、人糞尿を下肥として利用することがはじまり、教科書の記述にあるように、室町時代には広く普及します。つまり、人糞尿を土坑や甕の中にためておいて、田畑に運んで柄杓等で巻くわけです。その時に、木でできた籌木が混じっていては、いちいち取り除かなければなりませんから困ります。そこで、先の菅江真澄の引用文にあるように、使用済み籌木は、穴に捨てるのではなく、箱か何か別のものに回収して、再利用またはまとめて廃棄するという方法に変化したと考えられます。
  ※参考文献5 黒崎直著『水洗トイレは古代にもあった トイレ考古学入門』(吉川弘文館 2009年)P165
  ※トイレそのものの考古学については、→クイズ日本史「越前一乗谷朝倉遺跡のトイレ」で説明します。 

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 付録 平城宮跡について            | このページの先頭へ |

 ついでですから、平城宮跡についてもう少し、紹介します。
 平城宮跡資料館からは、木製品(一部金属製・石製もあります)として次のものも出土しています。
 人形(ひとがた)です。
 木の薄板などに人の姿を切り抜いて表現したものなどで、呪符など祭祀用具と考えられています。
  ※参考文献6 奈良文化財研究所編『図説 平城京辞典』(柊風舎 2010年)P311-312


 写真215-03・04・05 
 平城宮跡資料館の人形 (撮影日 09/03/07)
 次の説明があります。
「流行病や天災を神々がまねくものと考えた奈良時代の人々は、穢れや罪を除くために、祓(はらえ)をおこなった。代表的な祓は、6月と12月の最後の日に朱雀門の前で行う大祓で、これには皇族はじめ、多くの役人が参加した。こうした祓では、中国の民間で広くおこなわれていた道教の影響が見られる。人形・顔を描いた土器・土馬などに穢れや罪をを移して、水に流した。」
 

 下左の「呪いの人形」とタイトルされている人形は、木簡が発見される前年の1960年に発見されたものです。平城宮の大膳職の跡とされる部分の井戸から出土したものです。両方の目と胸に釘を突き刺し、さらに胸の部分に何か呪文が書いてあります。
 坪井清足氏(元奈良国立文化財研究所長)は、『水鏡』に出てくる光仁天皇の皇后、井上(いがみ)内親王の事件を彷彿とさせると述べています。
 年をとった光仁天皇をうとんだ井上皇后が、人形を井戸に入れて呪詛したという事件です。もちろん、写真の人形がその人形というわけではありませんが、そういう呪詛がおこなわれていたことを示す証拠となりました。
 ※参考文献7 坪井清足監修『天平の生活白書 よみがえる平城京』(日本放送出版界 1980年)P263-265 

 参考文献一覧へ

 以下は、復元された朱雀門、大極殿の写真です。

 

 写真215-06 平城京の中央の道路、朱雀大路と朱雀門            (撮影日 09/03/07)


 写真215-07 復元された朱雀門                      (撮影日 09/03/07)


 写真215-08 復元された大極殿、近鉄電車の車窓から          (撮影日 11/11/17)


 ※上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、平城宮跡の地図です。


 これで、出土木製遺物シリーズ、Ⅰ「刀筆の吏」Ⅱ「籌木」Ⅲ「越前一乗谷朝倉遺跡トイレ遺構」の二つ目を終わります。

 

 【クイズ215 籌木に関する参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

長澤規矩也編『新漢和中辞典』(三省堂 1967年)

 

木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波書店 2010年)

渡辺信一郎著『江戸のおトイレ』(新潮選書 2002年)

  石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年) 
  黒崎直著『水洗トイレは古代にもあった トイレ考古学入門』(吉川弘文館 2009年) 

奈良文化財研究所編『図説 平城京辞典』(柊風舎 2010年)

  坪井清足監修『天平の生活白書 よみがえる平城京』(日本放送出版界 1980年)