『口遊』というのを書いた源為憲(みなもとのためのり)という人物は、生年は不詳ですが、10世紀の中頃の生まれと推定されます。没年は、1011年です。時代的には、彼の後半生と藤原道長の栄華の時代が重なっています。
源といっても、頼朝につながる源氏ではなくて、遠江や美濃の国司などを歴任した中流の貴族です。芸文・詩歌に優れ、文章の優れた人という評価を受けていました。
『口遊』というのは、当時の社会常識を子どもが暗記できるようにと、いろいろな事象をそれぞれ調子のよい文章でまとめたものです。970年に書かれました。
そこに、当時の巨大建築物として「雲太・和二・京三」と書かれていました。京三は、第3位は京都の御所の最大の建物大極殿という意味です。
和二は、第2位が大和の国の大仏殿であるという記述です。
そうすると、雲太は、雲は地名を意味し、太は太郎・次郎の太ですから、一番の意味です。雲の付く地名に一番があるということです。
正解は、出雲の国の神社、かの出雲大社です。
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2003年8月10日撮影。左は、参道に入る手前の鳥居。出雲大社の祭神は、かの有名な、大国主命(おおくにぬしのみこと)。境内には、因幡の白ウサギと命の銅像がある。 |
当時の奈良東大寺の大仏殿は高さが46メートルでしたから、当時の出雲大社はそれより高い建物と言うことになります。
実は、出雲大社の宮司家の出雲国造千家家(いづもくにのみやつこ せんけ け。宮司家は、現在は二つあって、そのうちのひとつ)に伝えられている、「金輪御造営差図」には、本殿の高さについて、中世には16丈、古代にはさらにその倍の32丈あったと記述されています。現在の本殿の高さは、8丈です。
丈は、日本の昔の単位で、尺の10倍です、1尺は約30センチですから、1丈は、3メートルです。ということは、高さは、古代96メートル、中世48メートル、現代24メートルです。(屋根の先の「千木」と呼ばれる出っ張った部分までが24mです。現在の社殿は、江戸時代の中頃、1744年の築造です。)
96メートルというのはとんでもない高さです。
このことをはじめに主張した文献史学者は山本信哉氏で、明治時代の後半のことでした。ところが、建築学者の伊東忠太氏らが、そんな高い本殿は技術的には不可能で、あり得ないと主張しました。
しかし、昭和に入って、同じ建築学者の福山敏男氏は、技術的には、16丈=48メートルぐらいは不可能ではなかったと反論しました。
その後、この問題については、そのまま決着をみないまま、時が過ぎていきました。
※谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第7巻 出雲』(白水社 1985年)P108
ところが、平成12年と13年になって境内の発掘が行われ、当時の柱の遺構が3カ所から発見されました。この柱は、「宇豆柱(うづばしら)」と呼ばれるもので、棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)です。
これにより、直径140センチの巨大な杉の柱が3本束ねられたものが、合計9本使われて(つまり3×9=27本の柱)、本殿を支えていたことが確実となりました。
現在のような、8丈=24メートルの社殿には不必要な太い柱です。
この結果、源為憲が『口遊』を書いた平安時代後半から中世の時代には、社殿の高さは、少なくとも、48メートルはあったと「公認」されました。
※境内の説明より
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左は、拝殿を正面から撮影。本殿はこの裏にあって、一般の人は入れません。
右は、拝殿の裏にある、発掘された、柱の模型です。ひとつが直径140センチの杉の木を3本まとめてひとつの柱としたというものです。柱の前の背が高い方は、長男K身長177センチですから、相当に太い柱であることが分かります。
↓一番下に、追加した写真が掲載してあります。 |
さて、こうなると、48メートルの本殿がどのくらいの大きさなのか、絵か写真で示さなければなりません。
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岐阜県庁。12階建て。左には、2階へ上がるスロープがあって、2階が正面玄関。手前は、議会棟。北側からの撮影で、逆光です。 |
復元図は境内にはもちろん掲げてありましたし、高校生が使う日本史の資料集(副教材)にも、それとは別の復元図が載っています。しかし、著作権の関係でコピーしてここに載せるわけにはいきません。
また、それがどのくらい高い建築物なのかも、何かと比較しなければなりません。
最初は、「昔の出雲大社をこわすゴジラ」といういい発想を考えたのですが、調べるうちに挫折しました。
ゴジラの著作権のこともあるのですが、それよりも、ゴジラはデビュー当初の比べると、だんだん背が大きくなっているのですね。
その道の人によれば、暴れ回って壊す相手の都会のビルがだんだん高くなっていったので、それに連れて、高くなっていったとか。今では、身長100メートルもあるそうです。
右の写真を見てください。
我が岐阜県庁です。
これと、16丈=48メートルの出雲大社とを比較した「労作」が下の絵です。
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岐阜県庁は、12階建て。屋上のよく分からない建家まで含めると、56.3メートルです。あの、東京ディズニーランドのシンデレラ城は、尖塔の先まで含めて、51メートル、名古屋城は、48メートルです。
平安時代後半・中世の48メートル出雲大社は、そこに上がる階段の長さが、1町(=約108メートル)と記載されています。図では、斜面の長さが100メートル余になるように、描いてあります。
細部は、もちろん、私の想像です。一応、浜島書店『新詳日本史図説』(1998年)を参考にしました。
今週は、この図を作るだけで、えらい時間がかかりました。(-.-) |
出雲大社は、言わずとしれた縁結びの神様です。
私たち夫婦が結婚した公立学校共済組合の施設にも、ちゃんとこの神様が勧請してあって、神主さんと巫女さんによる儀式があって、見事結ばれました。この神様は、全国にたくさん勧請されて大忙しです。
(私たちの結婚式の時は、巫女さんが、施設の受付の女性が変身した姿だったので、気が付いた私は笑いそうになった。)
下は、出雲平野で見た、濃尾平野にはまったく見られない、防風用の屋敷森です。他の地域の屋敷森とも違って、木々の剪定(カット)の仕方が独特です。几帳面というか、幾何学的というか。これはおまけです。それぞれの地方には、独特の文化があるものです。
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