そもそも、熊野神社の別当湛増(べっとうたんぞう)というのは、どういう人物でしょうか。はじめにそれを説明します。
まず、熊野神社といえば、今世界文化遺産「熊野古道」で有名な熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、那智大社)です。
次は、別当湛増です。
まず、別当(べっとう)ですが、今は別当という名字の方もいらっしゃいますが、この場合は、役職を示しています。
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別当というのは、漢字の意味的には、「別に当てる」ということになります。本来は、古代律令制の機構で、もともとに役職をもっているものを臨時に別の職に当てる場合、その多忙な業務を補佐する役職名のことでした。
しかし、そのうち、特に新設された役所の専任の長官を示す言葉となりました。高校の日本史の教科書には、鎌倉幕府の役所である侍所(さむらいどころ)・政所(まんどころ)の長官が、「別当」であると、記されています。このほか、蔵人所や検非違使庁の長官も別当と呼ばれました。 |
白川上皇は、1090年初めて熊野詣でをしましたが、その時、彼は、熊野三山を統括する役職を設置しました。それを熊野山検校(けんぎょう)といいます。
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これまた解説が必要です。
検校というのは、もともと、平安時代や鎌倉時代に寺院や荘園の事務を感得する役職名です。
この場合は、ずばり、熊野三山の統括官ですから本来のままです。
検校は、室町時代以後、視覚障害者を統括する官職の最高官の名称にもなり、その後はそちらの方が有名になりましたから、そのイメージをお持ちの方も多いかと思います。 |
初代検校になったのは、京都聖護院を開山した高僧増誉です。
白河上皇によって三山の統括役を任されてぐらいの人物ですから、相当な人物です。藤原氏の一族で、奈良の大峯山や葛城山で修行し、近江坂本の園城寺(三井寺)の僧となり、白河天皇の護持層として信頼を得ました。白川が退位して上皇になってからもそばに仕え、熊野詣での時は、その先達(案内役)を務めました。
増誉は検校を辞めたあと、その後任に園城寺の僧を推薦し、熊野三山検校の地位は、以後代々園城寺の高僧が占めていきます。
しかし、検校は、普段は京都に在住していましたから、現地を直接支配することはできません。その結果、現地の熊野の支配は、熊野の別当が握っていました。
熊野三山は、白河上皇から紀伊の国の田地100町ほどを寄進をうけたのを初めとして、次第に経済力を高めていきます。また、平安時代後半の各寺社が皆そうしたように、熊野三山も僧兵等の武力を持ちます。
さらに、熊野灘は、西日本と東日本との東西海運の重要なポイントに当たるため、古来舟を操って荷物の輸送に当たったり、また、海賊船を率いて他の船を襲ったりする”水軍”の活動が盛んでした。
別当は、本来の寺院の事務(人事権など)をはじめ、経済力・軍事力をも配下に入れ、現地を支配する強力な存在だったのです。
さらに、熊野別当の15代目に当たる長快という人物は、別当職の世襲化に成功します。
この項目の主役の別当湛増というのは、長快よりさらに5代後の別当と言うことになります。
つまり、別当湛増は、平安時代後半以降京都の人びとの厚い信仰を基盤として経済的にも軍事的にも大きな勢力に成長しつつあった熊野三山の実質的な支配者であり、とりわけ、”水軍”という特殊な兵力を保有していたため、源平双方から自軍に付くことを養成される貴重な存在だったのです。
ちなみにこの熊野水軍の系譜は、のち、織田信長時代に志摩地方を中心に強大な力を持つ九鬼嘉隆の九鬼水軍につながります。 |