飛鳥〜平安時代3
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<解説編>
 

209 熊野神社の別当湛増が、源氏・平氏のどちらに味方すべきかで迷った時、戦わせた動物は? 問題へ  

 質問について、もう少し解説します。
 源平最後の争いとなった、壇ノ浦の戦いは、関門海峡で行われた水軍同志の戦いでした。このため、源平両軍の首脳部としてみれば、決戦へ向けての軍勢の集結において、以下に水軍を集めるのかがポイントとなりました。

 そこで登場したのが、熊野水軍を率いる
熊野神社の別当湛増(べっとうたんぞう)です。源平両軍は、別当湛増を味方に引きつけるべく働きかけをしました。
 両軍からの働きかけをうけて迷った別当湛増は、
ある同じ種類の動物どうしを源平両軍に見立てて戦わせ、その勝敗によって、どちらに味方するか決めたというわけです。
 では、以下の項目で、説明します。

 ちなみに、授業で生徒諸君に質問する場合、生徒諸君が、「人間が動物どうしを戦わせる」という事象に、どのくらいの予備知識をもっているかが、クイズ成功の決め手になります。
 「同じ種類の動物どうし」を強調しておかないと、「蛇とマングース」とかいう、ユニークな答えが出てきてしまいます。

そもそも熊野神社の別当湛増とは何か?
正解、戦わせた動物とは。
照葉樹林文化の中で


この地図は、いつもの、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の衛星写真を使って作ってみました。
下の「東亜半月弧」の地図も同じです。


そもそも熊野神社の別当湛増とは何か?              このページの先頭へ

 そもそも、熊野神社の別当湛増(べっとうたんぞう)というのは、どういう人物でしょうか。はじめにそれを説明します。
 まず、
熊野神社といえば、今世界文化遺産「熊野古道」で有名な熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、那智大社)です。

熊野三山の説明は、旅行記「熊野古道ちょこっと探検記」1〜10でくどいくらい書きましたから、そちらをご覧ください。 

 次は、別当湛増です。
 まず、
別当(べっとう)ですが、今は別当という名字の方もいらっしゃいますが、この場合は、役職を示しています。

 別当というのは、漢字の意味的には、「別に当てる」ということになります。本来は、古代律令制の機構で、もともとに役職をもっているものを臨時に別の職に当てる場合、その多忙な業務を補佐する役職名のことでした。
 しかし、そのうち、特に新設された役所の専任の長官を示す言葉となりました。
高校の日本史の教科書には、鎌倉幕府の役所である侍所(さむらいどころ)・政所(まんどころ)の長官が、「別当」であると、記されています。このほか、蔵人所や検非違使庁の長官も別当と呼ばれました。

 白川上皇は、1090年初めて熊野詣でをしましたが、その時、彼は、熊野三山を統括する役職を設置しました。それを熊野山検校(けんぎょう)といいます。

これまた解説が必要です。
検校というのは、もともと、平安時代や鎌倉時代に寺院や荘園の事務を感得する役職名です。
この場合は、ずばり、熊野三山の統括官ですから本来のままです。
検校は、室町時代以後、視覚障害者を統括する官職の最高官の名称にもなり、その後はそちらの方が有名になりましたから、そのイメージをお持ちの方も多いかと思います。

 初代検校になったのは、京都聖護院を開山した高僧増誉です。
 白河上皇によって三山の統括役を任されてぐらいの人物ですから、相当な人物です。藤原氏の一族で、奈良の大峯山や葛城山で修行し、近江坂本の園城寺(三井寺)の僧となり、白河天皇の護持層として信頼を得ました。白川が退位して上皇になってからもそばに仕え、熊野詣での時は、その先達(案内役)を務めました。
 増誉は検校を辞めたあと、その後任に園城寺の僧を推薦し、熊野三山検校の地位は、以後代々園城寺の高僧が占めていきます。
 
 しかし、
検校は、普段は京都に在住していましたから、現地を直接支配することはできません。その結果、現地の熊野の支配は、熊野の別当が握っていました。
 熊野三山は、白河上皇から紀伊の国の田地100町ほどを寄進をうけたのを初めとして、次第に経済力を高めていきます。また、平安時代後半の各寺社が皆そうしたように、熊野三山も僧兵等の武力を持ちます。
 さらに、熊野灘は、西日本と東日本との東西海運の重要なポイントに当たるため、古来舟を操って荷物の輸送に当たったり、また、海賊船を率いて他の船を襲ったりする”水軍”の活動が盛んでした。

 
別当は、本来の寺院の事務(人事権など)をはじめ、経済力・軍事力をも配下に入れ、現地を支配する強力な存在だったのです。
 さらに、熊野別当の15代目に当たる
長快という人物は、別当職の世襲化に成功します。

 この項目の主役の
別当湛増というのは、長快よりさらに5代後の別当と言うことになります。
 つまり、
別当湛増は、平安時代後半以降京都の人びとの厚い信仰を基盤として経済的にも軍事的にも大きな勢力に成長しつつあった熊野三山の実質的な支配者であり、とりわけ、”水軍”という特殊な兵力を保有していたため、源平双方から自軍に付くことを養成される貴重な存在だったのです。

 ちなみにこの熊野水軍の系譜は、のち、織田信長時代に志摩地方を中心に強大な力を持つ九鬼嘉隆の九鬼水軍につながります。


正解、戦わせた動物とは。                        このページの先頭へ

 『平家物語』では、別当湛増は、壇ノ浦の戦いの前に、源氏・平氏のどちらに付くか迷ったあげく、動物を戦わせて、その結果によってその態度を決めたと記されています。
 平家物語の、そのくだりの引用です。「巻の十一」の「八」の「壇の浦合戦の事」です。(改行や注の設定などは引用者が施しました)

「 さる程に、判官(注:義経のこと)、屋島の軍(いくさ)にうち勝って、周防(注:山口県東部)の地へおし渡り、兄の参河守(注:三河守、兄範頼)と一つになる。平家は長門国(注:山口県西部)引島に着くと聞こえしかば、源氏も同じ国の内、追津につくこそ不思議なれ。
 ここに紀伊国の住人、
熊野別当湛増は、平家重恩の身なりしが、忽(たちまち)に心変わりして、「平家へや参らん、源氏へや参らん」と思ひけるが、先ず田辺の新熊野に七日参籠し、御神楽を奏して権現へ祈誓申しければ、「ただ白旗に附け」との御託宣ありしかども、なほ疑ひをなし参らせて、白き鶏七つ赤き鶏七つ、これを以て権現の御前にて、勝負せさせけるに、赤き鶏一つも勝たず、皆負けてぞ逃げにける。さてこそ源氏へと参らんとは重ひ定めけれ。さる程に、一門の者ども相催し、都合その勢二千余人、二百余艘の兵船にとり乗り、(後略)」


 正解、戦わせた動物は、鶏(にわとり)です。つまり、別当湛増は「闘鶏」を行って、勝った白い方、つまり源氏に味方したというわけです。

佐藤謙三校注『平家物語 下巻』(角川文庫 1999年)P193

上記では、「鶏」という文字を使っていますが、原文では、「鶏」の旧字体が使用されています。右の文字です。

 ただし、真実は、これほど単純ではありません。別当湛増と源平の関わりは、非常に複雑でした。

 1159年に
平清盛源義朝(頼朝の父)の争いである、平治の乱が起こります。
 この時、源義朝は、清盛が熊野参詣で京都を留守にしている時に、兵を挙げました。義朝挙兵の報を清盛が知ったのは、紀伊の日高です。(上の地図参照)

 清盛は当初、参詣中の自分には兵力がほとんどないことから、四国に落ち延びて再起を図るという弱気な考えでした。しかし、湛増の父で当時の
別当湛快は、鎧や弓矢を清盛に送って援助し、京都へ帰らせました。この積極策が功を奏し、清盛は源義朝を京都六条河原の戦いで破ります。

 別当湛快・湛増一族と平氏とは、実は深い関係にありました。

 紀伊の国は清盛の弟、平頼盛の知行国でありその子の為盛が紀伊の国守となっていました。清盛の弟、薩摩守忠度(ただのり)は、父忠盛と熊野の神官の娘との間にできた子でした。そして、忠度の妻は、湛快の娘、つまり、湛増の妹という関係でした。
 湛快・湛増一族が、清盛を支持するのは、当然でした。

 治承寿永の争乱(源氏挙兵以後の源平の争乱、1180年以仁王の挙兵))においても、別当湛快は、当初は、源行家の甥に当たる範誉らが率いる勢力と戦うなど、平氏方の勢力でした。
 
 ところが、その湛快・湛増一族が、1181年には、反平氏の行動を取り始めます。
 湛快・湛増の平氏離反の理由は2つ考えられます。
 一つ目は、熊野三山における所領や所職(権利)を巡る争いで、平氏と争う方がよいと判断したと考えられることです。
 二つ目は、血縁関係です。湛増は、父湛快と源為義の娘との間に生まれた子でした。
 つまり、湛快・湛増一族は、平氏と同様、源氏とも血縁関係にあったのです。

 湛増が別当職を世襲するのは、このあとの1184年です。
 『平家物語』の記述とは裏腹に、事実は、熊野水軍を率いた湛増は、壇ノ浦の時点では、源氏方の勢力だったのです。

熊野別当一族と源平の関係図等、上記の記述は、以下の文献を参考にしました。
佐藤和夫著『海と水軍の日本史 上巻・古代〜源平の合戦まで』(原書房 1995年)P287−296

 

 別当湛増が闘鶏を行った「田辺の新熊野」というのは、現在の田辺市の闘鶏神社です。(この闘鶏の「鶏」の字も、正しくは上に示した旧字体です。)
 もっとも「
闘鶏神社」という名前になったのは、この平家物語の伝える「事件」が元となっており、以前は、違う名前でした。
 「社伝」によれば、允恭(いんぎょう)天皇の時代(仁徳天皇の子どもで、5世紀前半の天皇)に創建されたそうですが、『紀伊国続風土記』には、上述の第18代
別当湛快が熊野三社権現を勧請したと書いてあるそうです。
 『平家物語』が「新熊野」と書いているように、熊野三山の別宮のような存在でした。

 下の写真は、闘鶏神社境内にある、闘鶏の模様を伝える銅像です。
 手前に2匹のにわとりが表現されています。
 後の2人の人物は、烏帽子姿が
別当湛増、立っている僧兵姿は、あの武蔵坊弁慶です。
 義経の家来武蔵坊弁慶の出自ははっきりしていませんが、実は、熊野では、弁慶は別当湛増の子どもとされています。
 2005年のNHK大河ドラマ「義経」では、弁慶自身が湛増のいる熊野まで源氏の味方になることを頼みに行く設定でした。 

上の2枚の写真は、「探せる、使える、借りられる 和歌山県フォトライブラリー」から、許可を得てお借りしました。http://www.pref.wakayama.lg.jp/photo/

 
照葉樹林文化の中で                           このページの先頭へ

 では、戦った動物は、なぜなのでしょうか?

 このクイズを生徒諸君に出題すると、誤答として登場するのは、
です。闘犬と闘牛は、生徒でも比較的思い浮かべる動物の格闘技です。

 「このクイズの答えは、動物どうしが戦うというふうに普通にいわれて、諸君が最初にイメージする動物は多分間違っている。2番目か、3番目かにイメージする動物ぐらいが正解」というヒント(却って混乱する生徒もいますが・・・)を出すと、「鶏」という正解の出現率が多くなります。

 
闘牛や闘犬ではなく、なぜ闘鶏か?
 授業では、ここで解説をしないと、単なるクイズに終わってしまいます。


 闘犬といえば、土佐です。江戸時代には、秋田でも行われていました。
その歴史は、鎌倉時代にさかのぼれるそうで、江戸時代には盛んにおこなわれていました。

 日本で闘牛の文化を現在まで伝えているのは、全国6カ所です。
東京都(八丈島)、新潟県(小千谷・山古志)、島根県(隠岐)、愛媛県(宇和島)、鹿児島県(徳之島)、沖縄(全島)
 これらの地域の闘牛がいつはじまったかはそれぞれ違いますが、古くても平安時代末期、多くは中世から江戸時代にかけて始まっています。
広井忠男著『日本の闘牛』(高志書院 1998年)

 中には、博学の生徒もいて、とんでもない生き物の格闘が登場します。
 
蜘蛛コオロギです。
 蜘蛛は、時々TVのニュースでも登場する、鹿児島県加治木町の
蜘蛛合戦のことです。毎年6月に行われます。
 棒を伝う女郎蜘蛛(コガネグモ)同志が、相手を落とすことなどルール上の決め技を行うと勝利となります。詳しくは、こちら、加治木町のHPです。http://www.synapse.ne.jp/kajiki/play/event/event3.html#b


 コオロギは、中国の伝統的なゲーム、闘蟋(とうしつ)です。コオロギは漢字で蟋蟀と書きます。
 コオロギを「闘盆」という、大きな弁当箱ぐらいの容器に入れて、喧嘩させます。
 瀬川千秋著『中国のコオロギ文化 闘蟋(とうしつ)』(大修館書店 2002年)

  ※この本に関する大修館書店の解説のHPがあります。
    http://www.taishukan.co.jp/item/toshitsu/toshitsu.html


 本題に戻ります。闘鶏です。
 神社でことの是非を決める、いわば、神の御託宣を勝敗で占う動物として、にわとりが位置づけられているというのは、日本を含む東南アジア・東アジアの基層文化では、相応なことと考えられます。

 この場合でいう基層文化が、
照葉樹林文化です。
  ※照葉樹林の解説は、「熊野古道ちょこっと探検記10」でも触れています。
 

 照葉樹林というのは、ネパールから東、ブータン、ミャンマー、タイ・ラオス・ベトナム北部、中国の雲南・長江の南の地域、朝鮮半島南部を経て日本の西部に至る地域に広がる、アジア大陸の多雨暖温帯を特色付ける大森林帯です。常緑のカシ類の他、シイ・タブ・クス・ツバキなどの木々から構成されています。これらは表面に光沢のある葉をもつ常緑の木々で、その葉っぱの特色から照葉樹林と呼ばれているのです。

 この樹林帯に共通の文化が、
照葉樹林文化です。
 その特色は次の点です。


 

 上の01〜17までの特色の中には、鶏のことは出てきません。
 この文化と鶏の関係について説明します。
 
 最近の調査では、これらの文化の発祥の地が、中国の雲南地方を中心とする「
東亜半月弧」の地域にあることが分かってきました。(下の地図の赤い線で囲まれた部分)

上の地図は、いつもの、グーグル・アース(Google Earth home http://earth.google.com/)の衛星写真を使って作ってみました。


 そして、この東亜半月弧の南縁部の森林地帯に、家鶏(野生の鶏、つまり野鶏ではなく、家禽化された鶏の意味)の祖先種に当たる赤色野鶏の一部が生息しているとされています。

 つまり、この森林地帯で営まれた人間と野鶏の間の様々な交渉の中から、家禽化が次第に進み、鶏(家鶏)が誕生した可能性が高いと考えられています。
 そして、家鶏も照葉樹林文化やその南に広がる亜熱帯林地域の農耕文化に取り入れられ、その文化の拡散とともに、アジア各地に広がっていったと考えられるのです。

現在、家鶏は世界中で見られることですから、これを「東アジアの基層をなす照葉樹林文化」とまとめるわけにはいきません。だから、上表の17の中には入っていません。

この部分は、以下の本を参考にしました。
佐々木高明「雲南・シップソンパンナーを行く−鶏のふるさとで−」
秋篠宮文仁編『鶏と人 民族生物学の視点から』(小学館 2000年)P15−16
この本を見つけて、初めて、秋篠宮文仁殿下紀子妃殿下のご専攻分野がこの分野であることを知りました。


 鶏の家禽化のきっかけが、闘鶏であった考えられています。

 野鶏は、自分のテリトリーを大事にし、それを侵す他の野鶏と猛烈な勢いで闘いを行います。そして勝った時の鬨の声。
 これが、遠巻きに見ていた人間の遊び心を刺激し、野鶏の家禽化につながったというわけです。
「こいつらを飼い慣らしてゲームとして闘わせて見せよう。」

 現代において、闘鶏が「スポーツ」となっている最も有名な国は、タイです。

赤木功「家禽化と闘鶏」秋篠宮文仁編前掲書


 かくて、野鶏は、人間に随う動物となり、朝時を告げる動物という点から、特別な意味をもつ動物ともなりました。
 古墳には、鶏の埴輪が埋設されています。(これについては、「日本史クイズ原始−古墳時代」参照


 『古事記』には、例の天照大神が天の岩屋戸にかくれ、世界が闇に閉ざされてしまった場面で、鶏が登場します。
 天照大神が岩戸を開くように、神々たちは、まず、
常世長鳴鳥(とこよのながなきどり、これがニワトリのこと)に一声鳴かせ、それから、天鈿命(あめのうずめのみこと)に舞わせ、天照大神の関心を惹きました。

 
つまり、古代、鶏、太陽を呼び出し、生命の再現を告げ、祖霊や精霊が支配する夜と人間がいる昼との境を告げる霊鳥でした。簡単な言い方をすれば、ニワトリは生命の復活を告げる霊鳥でした。

 日本文化の基層という視点から考えると、別当湛増が闘わせる動物は、牛でも犬でも、ましてや、女郎蜘蛛や蟋蟀ではなく、鶏になるのです。



 伊勢神宮には、参詣道に鶏がたくさんいます。
 もちろん食用ではありません。
 「神の使い」という位置づけです。