2006(平成18)年12月15日、安倍晋三内閣は、戦後直後の1947(昭和22)年に制定されて以来ずっと改正されることがなかった教育基本法を改正しました。(12月22日公布・施行)
前文・第2条・第10条・第16条・第17条が改正されましたが、ここで問題にしているのは、そのうちの第2条、「教育の目標」の内容です。
新しく次の項目が加わりました。いわゆる、「愛国心」条項です。
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「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとすること。
(一〜四は略)
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」 |
安倍晋三部総理大臣は、この改正について次のコメントを出しています。(参議院で可決直後の総理大臣談話。行間設定、赤字部は引用者が施しました。以下同じ。)
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「 昭和22年に制定された教育基本法のもとで、戦後の教育は、国民の教育水準を向上させ、戦後の社会経済の発展を支えてまいりました。一方で、制定以来既に半世紀以上が経過し、我が国をめぐる状況は大きく変化し、教育においても、様々な問題が生じております。このため、この度の教育基本法改正法では、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、道徳心、自律心、公共の精神など、まさに今求められている教育の理念などについて規定しています。
この改正は、将来に向かって、新しい時代の教育の基本理念を明示する歴史的意義を有するものであります。本日成立した教育基本法の精神にのっとり、個人の多様な可能性を開花させ、志ある国民が育ち、品格ある美しい国・日本をつくることができるよう、教育再生を推し進めます。学校、家庭、地域社会における幅広い取組を通じ、国民各層の御意見を伺いながら、全力で進めてまいる決意です。」 |
学校教育において愛国心を教えることについては、「人間の内面を教育し評価するという行為を通して為政者の思うままに民衆の心を操ることにつながる」との反対意見が根強く出されています。
私は、国を愛するという概念を教育の場で取り上げることについては賛成です。と書いた瞬間に、「こいつは○○だ、これ以上読むのはやめよう」と速断しないでくださいね。
私は、高校の地歴公民科の教員として、現在、高校生の中に政治や社会の動きにまったく興味を失っている生徒が増えていることを深く憂慮しています。
選挙における投票率の低下も心配しています。公の空間という認識をもてず、いつも公と私の「私」の立場にしか自分をおけない人が増加しているのを残念に思っています。
私が卒業した高校の校歌には、「国家のためにあけくれ学ぶ」という、およそ時代がかったフレーズがあります。人によっては、過去の遺物と笑う場合もありますが、私は、これは、能力のあるものにとっては絶対に不可欠な志だと思っています。
国を愛するということは、なにも、それ自体危険なことではありません。
私は、自分の息子たちを愛していますが、それと置き換えてみれば、こういうことになります。親として子どもを愛するという場合、恋人を愛するというのとは違って、その愛情の多くは、具体的には、子どもの行く末を心配することに注がれます。将来うまくいくようにちゃんと育ってくれるかという心配です。
ところが、多くの場合、こどもは、親の期待どおりのことはしてくれません。親は子どもの将来を心配し、むしろ、現在の状況を否定して、よりよい未来であるように、現状の改善を望みます。
「もっと勉強して、いい成績を取りなさい。」
国を愛するということは、国の行く末を心配することです。国の将来に思いを馳せることです。言い換えれば、現状を認識して、それを理想に向かって変えていこうとすることです。
そういう発想を教育の場で積極的に教えることは、私は、必要なことだと思っています。
そして、真の愛国者が増えると言うことは、上の自分の子どもにたとえた場合の理屈で言えば、現状維持・保守的・伝統的な発想の人物ではなく、むしろ、現状改善・改革・革新を望む人物を育てることになります。それは、むしろいいことだと思います。
ただひとつ、子どもを愛することと、国を愛することの違いを当然の如く理解しておかなければなりません。
もし、自分の命か子どもの命かという選択を迫られた場合、多くの親は、自分の命を捨てても子どもの命を守ろうとします。生物が遺伝子を継承させることによってのみその存在価値があるとしたら、息子の命より自分の命を大事にすることは、生物の存在価値に反するからです。
子どもの命を残すために自分が犠牲となること、それもまた、子どもへの愛情といえるでしょう。
しかし、国を愛する場合は、ただちに、国のために命を捧げることにはなりません。
国にそのような価値があるかどうか、そのことは、自明ではないからです。その自明ではないことを教えるのも、愛国心だと考えます。
「日本沈没」、つまり、日本列島が地殻の変動で沈没してしまうと言う時、日本という伝統も国家もなくなる時、私たちは、もろともに滅びるべきなのか、他へ移住すべきなのか。空想の世界で考えれば、もろともに沈んで死のうという考えより、どうなるか分からないけど、「とりあえずどこかへ行って頑張ろう」という考えの人の方が、多数派ではないでしょうか。
かくのごとく、国家は、自明として自分の命を捧げる対象ではありえないのです。
また、子どもの将来を案ずる場合でも、親は常に自問自答して、自分自身を捜しながら子どもの将来を探していくというのが現実の姿です。
ある子どもが生まれた瞬間に、親が自信を持って、「こうあれ」と断言するということは、できないというより、やってはならないことだと思います。
つまり、「こういう国を愛しなさい」という国の具体像は、どこにもはじめから決まり切って存在しているものではなく、その時代の人々が、試行錯誤しながら決めていくものだと思います。
目指すべき、愛すべき国家の将来がどんなものなのか、それをある一部の為政者が勝手に決めることは、果たしていいのか悪いのか、いかがなものでしょうか。
安倍総理は、日本の国について次のように書いています。
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「 1977年(昭和52年)から11年にわたって駐日大使をつとめたマイク・マンスフィールド氏が、当時外務大臣だったわたしの父、安倍普太郎に、こんな質問をしたことがある。
『わたしは日本の経済発展の秘密についてずっと考えてきたのですが、安倍さん、何だと思いますか』
『日本人の勤勉性ですかね』
父がそう答えたら、大使は皇居のほうを指していった。
『天皇です』
戦後の日本社会が基本的に安定性を失わなかったのは、行政府の長とは違う「天皇」という微動だにしない存在があってはじめて可能だったのではないか − 当時、まだ二十代のわたしは、その意味が実感としてよくわからなかったが、後年になってようやく理解した。
ほとんど混乱なく終戦の手続きが進められたことも大きかった。そしてそれは、国民の精神的な安定に大きく寄与してきた。事実、天皇は国民とともに歩んできたのである。
世界を見わたせば、時代の変化とともに、その存在意義を失っていく王室が多いなか、 一つの家系が千年以上の良きにわたって続いてきたのは、奇跡的としかいいようがない。天皇は「象徴天皇」になる前から日本国の象徴だったのだ。」 |
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安倍晋三著『美しい国へ』(文春新書 2006年)P102−104 |
これは、現在の日本国憲法を支える骨格の部分といえるかもしれません。しかし、これとて、「絶対普遍」であるとは言い切れません。
中日新聞社説は次のように述べています。
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「 首相を取り巻く政治家や学者の中には、戦前への反省を「自虐史観」、戦後の国家運営の理念を示した憲法や旧基本法を「米国の押し付け」と切り捨てる傾向があります。
しかし、戦前の失敗から多くを学び、占領下でも英知を駆使して、少しでもいい国へと努力した結果としていまの日本があります。
過去を都合よく解釈しての現状認識や未来像は独善になります。「戦後体制からの脱却」が戦後に行った反省の忘却では困ります。
また、長く続いた景気低迷で自信を失った反動、それに韓国や中国の反日に対する反発もあって、いまこの国には排他的で偏狭なナショナリズムがはびこっています。
こんな風潮や戦後認識が国を愛する教育に反映されては大変です。
偏狭な愛国教育は亡国を招く−これが戦前の教訓の一つです。
もともと「愛」という「心の問題」を法律の対象とすること自体に違和感があります。まして、時の権力が愛し方を決めるとなれば、多様性を損なう恐れがあります。
いま戦前を振り返れば、当時の国策に反対するのが最も愛国的だったという理屈も成り立ちます。各個人の様々な国の愛し方を認めることが国を誤らない最良の方法です。 」 |
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『中日新聞』(2006年12月24日)社説から抜粋 |
つまり、愛国心を教える場合、ある特定の国家観を独善的に教えることや、また、国に対する自己犠牲と不可分として教えることは、非常に危険なことだと言わなければなりません。
東大教授の佐藤俊樹さんは、最近若者の間に、戦前への回帰とは違う新しい愛国心が芽生えてきていることを指摘し、次のように提案しています。
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「 旧(ふる)い愛国心は戦前の日本、いわば大日本帝国に戻ろうという考え方だ。新しい愛国心はあくまで戦後の延長上にある。「自由の行き過ぎ」をとがめるものでもないし、「帝国」の復活をめざすものでもない。
今の日本は帝国どころか、もはやアジアの大国ですらなくなりつつある。新しい愛国心はそれを素直に認める。日本はもはや普通の国だし、普通の国でいい。だから普通の国と同じようにナショナリズムをもっていいし、もつべきだ。それが新しい愛国心の主張である。(中略)
愛国心の問題はなかなか割り切れない。私たちが国家とともに生きなければならないかぎりきれいな答えはないのかもしれない。だが、何をやっているか、何をやってきたかはごまかしたくはない。だから、新しい愛国心を悪魔払いしたくないし、独自の歴史がなかったことにもしたくない。
大人になるって、そういうことだと思うのだが。 」 |
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『岐阜新聞』(2006年6月17日)論考「普通の国のナショナリズム」 |
また、朝日新聞が行った愛国心に関する世論調査では、次のような結果が得られました。
愛国心のあるなしについては、上の世代はもちろん、若い世代にも愛国心があると答える人が多数いることが示されています。
もっと愛国心を強くもつべきだ、言い換えれば、日本人全体として愛国心という感情が少ないと危機感を持っている人の割合は、年配の方になると非常に強くなります。しかし、若い世代でも、かなりの危機意識を持っていることが分かります。
しかし、それだからといって、愛国心を学校で教えるかどうかについては、また別の問題です。「愛国心をもつべき」と答えた人の割合よりかなり比率が下がります。
50代と40代が「教えるべきか」「そうは思わない」かの分かれ目となります。
「教育の場に於ける愛国心」については、特に若い世代ほど疑問が投げかけられています。
最も興味深いアンケート結果は、この、愛国心のあるなしと、侵略や植民地支配についての反省の必要性の相関です。非常に『朝日新聞』らしい問いといえばそれまでですが、自分で愛国心があると思っている方とそうでない方との、さきの戦争について、反省する必要があるかないかについて聞いたものです。
結果は以下のようになりました。
愛国心が大いにあると答えた方ほど、反省の必要性を感じているという結果になりました。
このページの私の意見は、まさしくそうあるべきだという意見ですから、このアンケート結果はものすごく心強いものになりました。
朝日新聞は紙上に昭和史や戦争に詳しいノンフィクション作家の保阪正康氏のコメントを載せています。
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「歴史から逃げず、それと向き合うのが本当に国を思うことだと、国民の多くが感じているということなのだろう。健全な反応だと思う。」 |
国を愛するということは、決して盲目的に何かを信じるのではなく、我が子の将来を案ずるがごとく、本当にどうあるべきかを慎重に考えつつ、その将来を作っていくことなのです。
私は、盲目的な価値観の押しつけではない、また、国家への犠牲心を自明とするものではない、自然な進め方こそが、現在に於ける愛国心の教育の最良の方法だと信じています。
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