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戦艦大和について考える1 |
戦艦大和について考えます。その実像とは? |
2005年映画「男たちの大和YAMATO」 06/01/07記述追加 |
はじめに | このページの先頭へ | | ||||
2005年は、久しぶりのちょっとした戦艦大和ブームとなりました。2006年へも続きそうな様相です。
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【写真追加 06/07/16】 |
世代により異なる大和観 2006/01/07記述追加 | このページの先頭へ | | ||||||||||||||||
では、ちょっと遠回りして、「大和」本、「大和」映画の歴史に触れつつ、世代間の大和の認知度の違いについて意見を述べます。
1974年、かの「宇宙戦艦ヤマト」が読売TV系列から放映された時も、この世代は、それを支持しました。といっても、このアニメは、最初はまったく人気がなく、当初の放映では、39回放送の予定が、26回で打ち切られてしまいました。 初回の放送時には、同じ時間帯にムーミンが放送されており、「ヤマト」は子どもたちに迎えられる存在ではありませんでした。 そりゃそうです。 「太陽系方面艦隊司令長官」という肩書きを聞いて、何かしらときめきを覚えるのは、限られた世代の者でしかありえなかったのです。(「宇宙戦艦ヤマト」は再放送時に人気が出ました。) その限られた世代が私たちの世代でした。 先に引用した『わが世代 昭和31年生まれ』には、「宇宙戦艦ヤマト」について、次のように記述してしています。
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吉田満『戦艦大和ノ最期』の世界 06/01/07記述追加 | このページの先頭へ | |
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私が吉田満氏の『戦艦大和の最期』に初めて接したのは、高校時代の教科書を通してです。
この議論に答えを与え、収集に導いたのが、臼淵大尉の考えでした。
2005年に開館した広島県呉市の大和ミュージアムでも、吉田氏の著書のこの部分が紹介され、展示の重要な部分を形成してます。
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辺見じゅん『男たちの大和』の世界1 生存者 2005/12/25記述追加 | このページの先頭へ | |
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辺見じゅんさんは、それとは異なる視点から、『男たちの大和』を書き上げました。
したがって、吉田満氏や士官の視点による『戦艦大和ノ最期』とは違って、もっと庶民的な視点からの大和と言うことになります。
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辺見じゅん『男たちの大和』の世界2 下士官 2005/12/25記述追加 | このページの先頭へ | |
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辺見さんの『男たちのやまと』は、大和の完成時のから、連合艦隊旗艦としてトラック島に停泊し「大和ホテル」と呼ばれていた期間や、大和が初めて実戦で敵艦相手に46センチ主砲弾を撃ったレイテ沖海戦、沖縄出撃を描き、さらには、生存者たちの戦後が語られています。
シンガポールなどを経て呉の海軍病院に入院した内田さんでしたが、山本長官から拝領した短刀を艦内に忘れたことに気がつき、なんと、大和出撃の直前に、無断で海軍病院を抜け出して大和に乗り組みます。(無断潜入です。) 本人は、大和の沖縄特攻のことは知らず、またすぐ艦から脱出できると思っていたようですが、結果的に、「員数外の特攻隊員」となってしまいました。 同じ機銃員の唐木正秋さん(戦死)らにかくまわれて艦底近くで数日間過ごした内田さんは、4月7日の最後の戦闘では戦闘の途中で甲板にあがり、3番主砲横の右舷後部にある唐木さん機銃座で機銃員の助っ人として戦闘に参加しました。そして、またも負傷してしまいましたが、大和沈没後、海面に漂流中を奇跡的に駆逐艦に救出されます。 そして、戦後四日市市で生活され、体中に残った鉄片の摘出手術を何度も経験されました。そのうち数度は死線をさまよう経験をされましたが、その都度奇跡的に回復されました。痛む体に悩まされながら83歳の長寿を全うされ、2002年3月7日に亡くなられています。 何度も死線をさまよいそのたびに奇跡的に「生還」する自分に対して、内田さんは、「自分の体でありながら何か別の不思議なものによって生かされている気がしてならない。」と思っていると、辺見さんは記述しています。(『男たちの大和』下巻P357) 子どもを授からなかった内田夫妻は、11人の他人の子どもさんを育てられました。そのうちの娘さんのお一人が、内田さんの遺言を実行されました。 内田さんの死の2年後の2004年4月7日、大和沈没の59年目の命日に、鹿児島県の枕崎市から飛び立ったチャーターヘリが大和の沈没海面へ向かい、娘さんの手から内田さんの骨の散骨が行われました。 映画『男たちの大和』では、この内田さんの人生をモデルに、ストーリーの一つの柱が組み立てられています。内田さん役を中村獅童さんが好演しています。 |
映画『男たちの大和』の世界 2005/12/25記述追加 | このページの先頭へ | |
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映画『戦艦大和』のストーリーのもう一つの柱は、海軍特別年少兵の群像です。
辺見さんの『男たちの大和』には、沈没時15歳の年少兵であった数人の方の証言が掲載されていますが、年少兵だけを特別に扱っているわけではありません。 映画では、神尾克己という架空の特年兵を設定し、その同期生=友人らの青春群像をせつなく描きます。 松山ケンイチ演じる神尾特年兵とその幼なじみ、蒼井優演じる野崎妙子の存在が、この映画の花となりました。片方は散ってしまう悲しい花ですが・・。 松山・蒼井とも20歳の俳優さんですが、14・15・16歳の役を初々しく好演しています 上述の最後の手紙、「お母さん、どうか私のことはけっしてけっしておわすれください、さようなら」は、辺見さんの本には出てきませんが、映画には、神尾克己の友人の手紙として登場します。 この特年兵は、故郷の貧しい農家の母親を支えるために、海軍から支給される給料をせっせと送り続けます。映画『俺たちの大和』は、戦前の貧しいそして美しい農村の光景をもストーリーの中に含んでいます。 手紙の、この国語的には矛盾したせつない表現に、当時の若者の置かれた悲しい状況に、涙せずにはおられません。 軍艦を動かす兵や下士官に当たり前に陽を当てたという点では、その視点は、映画『亡国のイージス』と同じです。 ※映画『亡国のイージス』の批評はこちらです。 しかし、『俺たちの大和』には、作り事の『亡国のイージス』のようなほっと安心できる明日への希望はありません。 戦争という悲劇の中で、3333人の群像の重みに涙する映画、それが『男たちの大和』です。 |
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