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戦艦大和について考える1

戦艦大和について考えます。その実像とは?

 
 2005年映画「男たちの大和YAMATO」 06/01/07記述追加
 はじめに                                | このページの先頭へ | 

 2005年は、久しぶりのちょっとした戦艦大和ブームとなりました。2006年へも続きそうな様相です。

 4月には、広島県呉に
大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)が開館し、6月には、同県尾道市に映画撮影用の巨大な実物大大和オープンセットが建設され、そして、12月17日には、東映映画「男たちの大和 YAMATO」が封切られました。
 これに乗じて、戦艦大和と日本の造船技術などについていろいろ考えます。
   ※二つの施設については、次のページで説明しています。(次へ)
 
 まず、第1回目は、
映画「男たちの大和 YAMATO」とその原作の辺見じゅんさん著『男たちの大和』について、戦後史と絡めながら説明し、映画の意義について私見を述べます。 

映画の評価については、直接には、日記・雑感「男たちの大和 YAMATO」にあります。こちらです。 

この映画の原作は、辺見じゅん(角川源義氏の娘さんで角川春樹氏の姉 1939年生まれ)さんの『男たちの大和』です。はじめのものは、1983年角川書店から単行本として出版されました。
その後、1995年筑摩書店から『完本 男たちの大和』(ちくま文庫)として再出版され、今回、さらに追加取材が行われ、2004年角川春樹事務所からハルキ文庫のひとつとして同名で出版されました。

【写真追加 06/07/16】
 大和の写真を追加します。
 大和の写真は、本や雑誌、ウェブサイトなどにあふれていますが、私はこれまでその掲載について慎重な態度でした。著作権の問題を考慮してのことです。

 もともとの写真は日本海軍やアメリカ海軍によって撮影されてたものであり、それについては著作権は消滅していると考えられますが、その写真を掲載している雑誌等の著作権は当然あるわけです。
 ウェブサイトの写真の場合も同様ですが、たとえサイト作成者が「転載可」としていても、そもそも、作成者自身が著作権の問題をまったく無視してどこかから無断複写してきている場合があり、注意が必要でした。

 上の2枚は、埼玉県新座市斎藤彰さんの作成のサイト「
終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」から転載させて頂きました。
 これらの写真は、斉藤さんご自身が、幼少の頃、切り抜いて保存されていた主に新聞の写真をサイトに掲載されたものです。
 50年以上前のものですから、新聞等のもともとの著作権は消滅していますし、斉藤さんご自身は、「無断転載OKです。
むしろ どしどし利用される事を願っています。」とされていますので、安心して掲載させて頂きました。

 実は、斉藤さんご自身が、この「戦艦大和について考える」を読んで頂き、メールを送付してくださったことが、利用させたいただくきっかけとなりました。心から感謝致します。

 ※「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/index.htm


 世代により異なる大和観  2006/01/07記述追加                        | このページの先頭へ | 

 では、ちょっと遠回りして、「大和」本、「大和」映画の歴史に触れつつ、世代間の大和の認知度の違いについて意見を述べます。

 戦艦大和といえば、年齢の高い方を中心に、今の日本では多くの方の知るところとなっていますが、世代のよって認識の度合いに若干の特色があると思います。もちろん、若い方になればなるほど一般的には認知度は低いでしょうが、逆に年配の方ならよく知っているというと、必ずしもそういうわけでもありません。
 たとえば、わが家では、父は1926(大正15)年生まれで軍隊経験・捕虜経験があるバリバリの戦争体験派ですが、大和のことはあまりよく知らないようです。私が小学生の頃、すでに私の方が大和について、よく知っていたのを覚えています。

 この逆転現象には、わが親子のみならず一般的に説明できる理由があります。
 
 戦艦大和は、太平洋戦争中は、極秘の存在でした。
 したがって、わが父の世代は、海軍の関係者でもない限り、同時代的には大和について知る由ありませんでした。
 辺見さんによると、戦後最も早い時期にジャーナリズムが戦艦大和を取り上げたのは、1946(昭和21)年8月13日付のの『朝日新聞』だそうです。1ページの3分の2をついやして、大和の最期が報道されました。
 しかし、戦後の混乱期でもあり、多くの人の注目を集めるまでには至りませんでした。
  
 大和の最後について、乗組員の生存者が記録を発表し多くの方の目にとまった最初の例としてあげられるのは、学徒出身の海軍少尉
吉田満氏による『戦艦大和ノ最期』です。
 しかし、完全なものとして発表されるまで次のような紆余曲折を踏まなければなりませんでした。

 この本は、最初1946年に小林秀雄氏の編集のよる雑誌『創元』12月創刊号にに発表される予定でしたが、占領軍司令部(GHQ)の事前検閲にひっかかり、「軍国主義の復活につながる刊行物、アメリカに敵対する刊行物は発刊禁止」に抵触するとれ、全文削除となってしまいました。
 吉田氏はGHQの許可を得るため、不本意ながら文語体の文章を口語体に改め、十数カ所を削除する命令を甘んじて受け、1949年にようやく出版にこぎ着けました。(雑誌の『サロン』の1949(昭和24)年6月号)
 さらに、この本の全文が本来の文語体のまま、単行本として出版されるのは、占領解除後の1952(昭和27)年を待たなければなりませんでした。

 この翌年の1953年には、この本を元に、
映画「戦艦大和」(新東宝映画 監督:安部豊、音楽:芥川也寸志、脚本:八柱利雄、出演:藤田進、舟橋元、高橋稔、高島忠夫、久我美子他)が作られました。これが「大和」映画の最初です。この時は、一部の地域では、映画の宣伝と兼ね合わせて、沖縄特攻時の生存者の証言が紹介されたりしました。これは戦後初めてのことです。 

 大和の生存者の著書として次に有名になるのは、能村次郎(沖縄特攻時の大和副長=副艦長)氏が1967年に著した『慟哭の海』です。
 その間ずいぶんの時間があり、吉田氏の『戦艦大和ノ最後』は、現在に至るまで、大和本のバイブル的存在となっています。
 ただし、その記述の正確さ、ひいては、すべてがノンフィクションか一部は意図的なフィクションかをめぐって、吉田氏の記述に異論を唱える方も多く登場しています。(後述)


 そして、昭和30年代以降は、日本国憲法下で平和主義日本の路線が堅持される一方で、太平洋戦争時代の出来事や旧帝国陸海軍の様々な事象をノスタルジックに取り上げる、いわゆる「戦争への懐古路線」も確実に広がっていきます。
 その中で少年期を過ごした、「昭和20年代後半から30年代前半」に生まれた世代(団塊の世代の次の世代です)は、平均して、次のような経験を積んでいます。(基本的には男の子に限ってですが・・・。)

「ヤマト」「ゼロセン」
 生まれる前からあったと思っているものに、「週刊マンガ誌」もある。
「少年マガジン」が昭和34年3月、「少年サンデー」が同じく4月に創刊している。
 私たちはこの雑誌で、大いに 「戦争」を教えられた。やたらとカッコイイ戦争である。なぜか、36、7年ころこの両誌に太平洋戦争ものが多く載っていたのだ。

 オモチヤも戦争色豊かだった。
 機関銃のオモチヤあり、カーキ色をしたヘルメットありという具合。プラモデルといえば、戦車や戦艦、戦闘機に爆撃機が多かった。私たちはそれらをごく自然に受け入れた。戦争ごっこはとても楽しかった。後にはじまった「コンバット」や「ギャラントメン」の影響を受け、軍曹、一等兵、二等兵を名のり、うちあいもした。地面をはって進んだ。戦争色豊かなプラモデルもよく作った。「ヤマト」「ゼロセンL「メッサーシユミットL「タイガー」などをおぼえている。

 常に世界のどこかで戦争が起こり、多くの人々が血を流していたのに、私たちのまわりは表面的にではあっても平穏無事であった。″血を流さない”戦争を楽しんでいた。親たちは確かにいやな顔をした。父は機関銃が大きらいで、なかなか買ってくれなかったし、母はカーキ色に対して拒否反応を示した。だが私たちは戦争に対して無邪気だった。明日にも自分の家の庭さきに戦車がやってくるということもない。戦争は、まったく遊びの中にしかなかったのである。これは中学や高校になってから、米軍払い下げのアーミー・ルックをかっこいいと思って着ていたこと、また「戦艦ヤマト」に夢中になることにもつながる。この場合、戦争はファッションだったのである。」

河出書房新社編『わが世代 昭和31年生まれ』(1981年)P55 

 
 「
ゼロ戦はやと」「ゼロ戦太郎」「ゼロ戦レッド隊」「紫電改のタカ」とか「サブマリン707」とかの「戦争漫画」にわくわくした世代です。

この昭和30年代から40年代前半にかけての「旧軍」へのノスタルジー傾向については、少年マガジンや少年サンデーの分析を通して、未来航路の随筆「なんだこりゃ」の「少年時代・学生時代1 軍国少年」(こちらです。)にも書いています。


 1974年、かの「
宇宙戦艦ヤマト」が読売TV系列から放映された時も、この世代は、それを支持しました。といっても、このアニメは、最初はまったく人気がなく、当初の放映では、39回放送の予定が、26回で打ち切られてしまいました。
 初回の放送時には、同じ時間帯にムーミンが放送されており、「ヤマト」は子どもたちに迎えられる存在ではありませんでした。

 そりゃそうです。
 「太陽系方面艦隊司令長官」という肩書きを聞いて、何かしらときめきを覚えるのは、限られた世代の者でしかありえなかったのです。(「宇宙戦艦ヤマト」は再放送時に人気が出ました。)

 その限られた世代が私たちの世代でした。
 先に引用した『
わが世代 昭和31年生まれ』には、「宇宙戦艦ヤマト」について、次のように記述してしています。 

 また「鉄腕アトムLや「鉄人28号」といった科学漫画が、僕たちに科学時代の到来を告げた。一生懸命、新型のロボットを描いたものだった。その ”戦争もの”と”科学もの”の集大成ともいうべき「宇宙戦艦ヤマトLは、あの戦わずして沈んでいった軍艦大和のイメージがだぶって、当初からのファンだった。もちろん、宇宙ロマン、音楽等々いろんな要素も見のがすことはできないが、やはり不沈戦艦大和なのだ。突如として人気が沸騰し、小中学生がファン層の主流になっていくと、ぼくの中のヤマトは急速に遠のいていった。ボクの内なるヤマト(=大和)は、彼らのヤマト(=ヤマト) で打ちくずされ、その圧倒的人気は、けっきょくはヤマトもぼくのものでなかったことを明白にし、彼らが、「さらば宇宙戦艦ヤマト」で涙する前に、ぼくはヤマトと訣別していた。

前掲書P9


 吉田満『戦艦大和ノ最期』の世界 06/01/07記述追加              | このページの先頭へ | 

 私が吉田満氏の『戦艦大和の最期』に初めて接したのは、高校時代の教科書を通してです。
 氏の文章は、1971年から光村出版の高校3年生用の現代国語の教科書にその一部が掲載されました。ノンフィクションの部でした。
 それを授業中に読んだことが、文学の素材としての「大和」との最初の出会いでした。

 学徒兵として大和の副電測士を務めた氏の観察は客観的かつあくまで冷静で、
文語体の簡潔な文章は、戦記文学として独特の世界を構成していました。

 吉田氏のノンフィクションの中では、次の1節がこの本の特色を示しています。
 沖縄への「特攻」という命令を受けた乗組員は、それぞれにその命令に従うため「自分の死の意味」を見いだそうと思い悩みます。
 士官の間では、次のような議論が起こります。
  ※分かりやすいように、一部改行を加えました。

兵学校出身ノ中尉、少尉、ロヲ揃ヘテ言フ 「国ノタメ、君ノタメニ死ヌ ソレデイイヂヤナイカ ソレ以上二何ガ必要ナノダ モツテ瞑スベキヂヤナイカ」
学徒出身士官、色ヲナシテ反問ス
「君国ノタメニ散ル ソレハ分ル ダガ一体ソレハ、ドウイフコトトツナガツテヰルノダ 俺ノ死、俺ノ生命、マタ日本全体ノ敗北、ソレヲ更二一般的ナ、普遍的ナ、何力価値トイフヤウナモノニ結ビ附ケタイノダ コレラ一切ノコトハ、一体何ノタメニアルノダ」
「ソレハ理窟ダ無用ナ、ムシロ有害ナ屁理窟ダ貴様ハ特攻隊ノ菊水ノ『マーク』ヲ胸二附ケテ、天皇陛下万歳卜死ネテ、ソレデ嬉シクハナイノカ」
「ソレダケヂヤ嫌ダ モツト、何カガ必要ナノダ」
遂ニハ鉄拳ノ雨、乱闘ノ修羅場トナる 「ヨシ、サウイフ腐ツタ性根ヲ叩キ直シテヤル」

保阪正康編『「戦艦大和と戦後」 吉田満文集』(ちくま学芸文庫 2005年)P57

<用語解説>

兵学校出身士官

 軍隊は大きく分けて士官(別名、将校。位は少尉以上)と下士官・兵があり、士官は指揮官となる職業軍人のこと。大日本帝国海軍では、通常は、広島県の江田島にあった海軍兵学校を卒業した者が士官となった。
 それ以外には、志願して海軍に長く奉職し、
下士官(後述)から士官になった下士官出身士官(特務士官とも呼ばれた。海軍のみ。)や、学徒出身士官(後述)がある。

学徒出身士官

 太平洋戦争の戦局の悪化にともない、大学生でありながら学業を半ばで切り上げ兵役についた人びと。当時の大学生は今日と違って貴重な存在であり、大学生は兵・下士官ではなく士官として採用された。

 この議論に答えを与え、収集に導いたのが、臼淵大尉の考えでした。

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイフコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、本当ノ進歩ヲ忘レテヰタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ 今日覚メズシティツ救ハレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂヤナイカ」
彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日「
ガンルーム」ニ沸騰セル死生談義ノ一応ノ結論ナリ 敢ヘテコレニ反駁ヲ加へ得ル者ナシ」

同前 P56

<用語解説>

ガンルーム

軍艦内の下級士官が居住する部屋(士官次室の別名)。(これとは別に分隊長以上の上級士官の部屋があり、こちらは、士官室といった。
士官次室の長をケプガンといった。(captain of gunroom がなまったもの。)臼淵大尉は、大和沖縄出撃時は副砲射撃指揮官であり、ケプガンであった。


 出撃前の士官たちが、自分たちの死生観についてこのような白熱の議論を交わしたこと自体が、私には新鮮でした。

ちなみにこのシーンは、今回の映画「男たちの大和 YAMATO」にも登場します。臼淵大尉の役は、長嶋一茂さんが演じています。

 2005年に開館した広島県呉市の大和ミュージアムでも、吉田氏の著書のこの部分が紹介され、展示の重要な部分を形成してます。

 まとめです。
 
兵学校出身であろうが、学徒出身であろうが、大和の士官たちが、当時の社会のインテリとして、自らのアイデンティティを見いだそうと苦悩する様、これこそが、吉田文学の大きな特色です。

 しかし、吉田氏は、後の回想で、自分の作品のこの部分について、こう分析しています。

「拙著が、戦記物の先陣をたまわるような内容のものであるかどうか。その判断は読者に任せたいが、ここに一つの事実を指摘しておきたい。それは私の「大和」が、佐官以上の職業軍人、ことに沖縄特攻に参加した歴戦の幹部士官の間で、大変評判が悪いことである。
 − 帝国海軍の実態は、あの作品に描かれたように、名誉ある特攻要員に選ばれながら、死生の問題に悩んだり、女々しく家族や肉親の上に思いをはせるような、軟弱なものではなかった。ただ従容、毅然として、任務の遂行に邁進するのみであった。私欲を超越し、純粋無垢であった。多情多感な学徒出身の著者の眼が、自分のことから類推して、見過ったのだ −。
 こうした彼らの糾弾は、今日に至るまで少しも変っていない。」

吉田満「「戦艦大和ノ最期」をめぐって」『歴史と人物』1979年5月号所収(前掲書 P256より

 
 幹部士官でなくても、吉田氏の上記の記述に疑問をもつ人がいます。沈没当時大和の測距手で上等水兵だった八杉康夫氏(2006年1月現在78歳、戦艦大和の語り部として活躍中)、はその一人です。

「吉田さんの名文と合わせて、この部分(注 上記の引用部分)は読者の感銘を呼ぶ名言ではあったのですが、実は、こんな発言はありえないことなのです。あの当時、私たちは戦争に負けるとは思っていなかったので、特攻にはせ参じたわけです。「新生日本」というのは、戦争に負けて、日本が駄目になってしまってからのことを、念頭に置いた表現です。そんな言葉が、あの時大和に乗っていた士官の口から出てくるはずがありません。
 あれは、あくまでも吉田さんが戦後民主主義の価値観に頭の中を大転換させ、そこから大日本帝国を批判したもので、それを臼淵大尉がいったかのように表現したのでしょう。『戦艦大和ノ最期』は昭和21年に吉田さんが一晩で書いてしまったというものですが、超秀才だけに頭の切り替えが早かったのではないでしょうか。
 臼淵磐さんは二十一歳でした。みんな大和の上で「アメ公見ておれ」と向かっていこうとしていたときに、いくら冷静な男でも、敗戦を見通したような、「新生日本」など、そんなことを言うはずがありません。当時日本は、神としての天皇を頂点に戴く立憲君主国でした。その時代に「新生日本」とは、天皇制を否定する革命思想に他なりません。沖縄決戦に臨む前夜、「敗れて目覚める」。そんな兵学校出の士官が大和にいたんですかね。明らかに吉田満さんが戦後の視点で書いた文章ですよ。
 また、吉田さんが描いていたように、ガンルームといわれる士官次室で、大和の特攻をめぐつてそんな大議論があったのなら、必ず従兵(注 士官の世話をする兵隊)が聞いているはずです。しかし、戦後、生存者の中からもそんな議論があったという話は、一切ありませんでした。
「アメリカに敗れれば、日本は隷属国か植民地になつてしまう、大和で何とか阻止しようではないか」というのが、私たち全員の覚悟であり、そんなときに、戦後の日本の価値観から軍国主義日本を暗に批判するような発言がでるはずがないと思います。
「新生日本」という発想自体が浮かぶはずもなく、臼淵大尉の発言の部分は、完全なフィクションでしょう。この秋、私が出演したNHKの 『その時 歴史が動いた「戦艦大和の悲劇」』 のフィナーレで松平定知アナウンサーが臼淵さんの言葉を朗読していました。臼淵さんは戦死されましたが、もし彼が生還されていたら、あの 「名言」はなかったのではないでしょうか。」

八杉康夫著『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(ワック株式会社 2005年)P172-173


 辺見じゅん『男たちの大和』の世界1 生存者    2005/12/25記述追加  | このページの先頭へ | 

 辺見じゅんさんは、それとは異なる視点から、『男たちの大和』を書き上げました。

 彼女は、戦艦大和についてノンフィクションを書くきっかけとなったことについて、次のように語っておられます。

「男たちの大和」を書くきっかけは、父の死でした。末期の肝臓がんで入院していた2ヶ月の間、父は初めて、自分の戦争体験を きちんと語ってくれました。雪の降る中病気の馬を看病した話、戦友の多くが戦死し生き残った負い目を感じていること・・・。一方で、「嫌なこともたくさんあったけど、紛れもなく俺の青春だった」ともいっていまいした。「父が生きた時代をもっと知りたい」。父の死後、私は強く思いました。
 民俗学の取材のために、たまたま岡山県の山奥に住む年老いた女性を訪ねたのは、1978年ごろのことです。そこで見せていただいたのが、戦艦大和の乗組員だった息子からの最後の手紙でした。「
お母さん、どうか私のことはけっしてけっしておわすれください、さようなら
 大和の生存者や遺族への取材は、このときから始まりました。

インタビュー記事「おやじのせなか『朝日新聞』(2005年12月18日朝刊)より

 
 辺見さんは、これ以後、戦艦大和の乗組員の遺族や生存者を丹念に訪ね歩き、3年余の間に生存者(沈没直後は276人)のうち117人から話を聞いて、
1983年12月に『男たちの大和』として出版しました。
 この本の特徴は、二つあります。

  1. 生存者や遺族の話は、特に兵や下士官のそれを中心に構成されている点です。

  2. 話は単に戦時中の大和の軍事行動や最後の出撃から沈没までを著すだけでなく、さらにつながって生存者の戦後の生き様にも及んでいることです。

 したがって、吉田満氏や士官の視点による『戦艦大和ノ最期』とは違って、もっと庶民的な視点からの大和と言うことになります。

<用語解説>

海軍の階級

吉田満氏自身や臼淵大尉は、大学や海軍兵学校を卒業した士官です。通常、徴兵されたり、志願したりして、海軍に入った者は、2等水兵(4等水兵)から順に階級があがっていきました。その区分は以下のようになっており、准士官=兵曹長の上に、少尉・中尉・大尉・・・・・大将までの士官がいました。
つまり、兵や下士官という区分は、軍隊という組織を底辺で支える人びとということとなります。

区分

海軍の階級

陸軍の階級

准士官

兵曹長

准尉

下士官

上等兵曹 (一等兵曹) ※

曹長

一等兵曹 (二等兵曹) 

軍曹

二等兵曹 (三等兵曹) 

伍長

水兵長 (一等水兵)  

兵長

上等水兵 (二等水兵) 

上等兵

一等水兵 (三等水兵) 

一等兵

二等水兵 (四等水兵) 

二等兵

 ※1942年10月末までは( )内の呼称が使われた。

大和の当初の乗組員定数は、約2300名。そのうち、准士官以上は150名。2150名は、下士官・兵であった。


辺見じゅん『男たちの大和』の世界2 下士官   2005/12/25記述追加   | このページの先頭へ | 

 辺見さんの『男たちのやまと』は、大和の完成時のから、連合艦隊旗艦としてトラック島に停泊し「大和ホテル」と呼ばれていた期間や、大和が初めて実戦で敵艦相手に46センチ主砲弾を撃ったレイテ沖海戦、沖縄出撃を描き、さらには、生存者たちの戦後が語られています。

 物語は、大和の「生涯」や戦争の過程について説明すると同時に、兵や下士官を中心とする117人の生存者の証言がこのノンフィクションをリアリティーのある内容豊かなものとしています。
 117人の証言の中でも、幾人かの生き様が作品の骨格となっています。
 その中でも、四日市出身の内田貢さんの「人生」は、際だって異色なものです。

 戦艦大和は、
沖縄特攻を命じられ、1945(昭和20)年4月7日の沈没の前日、沖縄に向かって山口県徳山沖を出撃しました。この時、大和には艦長有賀幸作大佐以下大和乗組員、及び、大和を含めて10隻の軍艦からなる第2艦隊を率いる第2艦隊司令長官伊藤整一中将以下の司令部要員とを合わせて、3332名の士官・下士官・兵が乗艦していました。

<用語解説>

第2艦隊

 この時の沖縄への出撃部隊は、戦艦大和第2水雷戦隊の各艦から編成された。
 
第2水雷戦隊は、旗艦軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月涼月磯風浜風雪風朝霜初霜の9隻で、艦隊は大和を含めて合計10隻だった。
 「沖縄特攻」の目的は、沖縄中城湾に停泊しているアメリカ海軍の沖縄上陸部隊の艦船への攻撃であった。
 大和沈没時点で、沖縄特攻作戦は中止され、沈没を免れていた、駆逐艦
冬月涼月雪風初霜の4艦が無事佐世保に帰港した。
 このうち、冬月、雪風、初霜が沈没後海面に漂流していた大和の生存者の一部を救助した。その数は、辺見さんの推定では260名以上、他の資料によると最も多い数字は、276名。
 

 
 しかし、辺見さんの聞き取り調査の結果、大和には3333人目の人物がいたことが分かりました。正規の員数の他に、大和に乗り込んでいた人物がいたのです。
 
 その員数外の人物こそが、
内田貢二等兵曹(沖縄出撃時の階級)です。もちろん、スパイとかそう言う怪しげな存在ではありません。
 内田さんは、大和がまだ完成前の、1941(昭和16)年4月に乗り組みを命じられました。1937年11月4日に呉の海軍工廠で起工された1号軍艦は、1940年8月8日に進水し、大和と命名されました。
 軍艦は進水のあと、武器やそのほかの装備を付ける「艤装」の段階に入ります。

 内田さんは、その艤装の段階で大和乗り組みを命じられ、機銃員の任務に就きます。その一方で、彼は特技の柔道を生かし、大和の柔道部員として、他の艦船の柔道部と対抗戦で活躍します。当時の軍艦では、訓練や整備の合間を縫って、柔道・剣道・相撲などの鍛錬がさかんでした。
 その活躍は連合艦隊司令長官山本五十六大将の目にもとまり、長官が旗艦大和から退艦する直前に、短刀を拝領するという名誉によくします。

 内田さんは、レイテ沖海戦では左舷9番3連装25ミリ機銃員として、戦闘に参加しました。海戦最終日の1944年10月26日、彼は左舷に落ちた至近弾により負傷しました。左目摘出、臀部から大腿部への貫通銃創という重傷でした。 

<用語解説>

至近弾

 爆弾や砲弾などが艦船に直接命中した場合は、命中弾という。舷側に近い海面に落ちて爆発した場合を、至近弾という。爆発時の水圧によって、艦船の海面下の部分に損傷を与えるほか、バラバラになった爆弾・砲弾の破片によって、人員を殺傷する。内田さんの配置の左舷9番機銃は、甲板から海面に張り出している機銃座であり、至近弾でも被害は大きかった。

 
 シンガポールなどを経て呉の海軍病院に入院した内田さんでしたが、山本長官から拝領した短刀を艦内に忘れたことに気がつき、なんと、大和出撃の直前に、無断で海軍病院を抜け出して大和に乗り組みます。(無断潜入です。)

 本人は、大和の沖縄特攻のことは知らず、またすぐ艦から脱出できると思っていたようですが、結果的に、「員数外の特攻隊員」となってしまいました。
 同じ機銃員の唐木正秋さん(戦死)らにかくまわれて艦底近くで数日間過ごした内田さんは、4月7日の最後の戦闘では戦闘の途中で甲板にあがり、3番主砲横の右舷後部にある唐木さん機銃座で機銃員の助っ人として戦闘に参加しました。そして、またも負傷してしまいましたが、大和沈没後、海面に漂流中を奇跡的に駆逐艦に救出されます。

 そして、戦後四日市市で生活され、体中に残った鉄片の摘出手術を何度も経験されました。そのうち数度は死線をさまよう経験をされましたが、その都度奇跡的に回復されました。痛む体に悩まされながら83歳の長寿を全うされ、2002年3月7日に亡くなられています。

 何度も死線をさまよいそのたびに奇跡的に「生還」する自分に対して、内田さんは、「
自分の体でありながら何か別の不思議なものによって生かされている気がしてならない。」と思っていると、辺見さんは記述しています。(『男たちの大和』下巻P357)

 子どもを授からなかった内田夫妻は、11人の他人の子どもさんを育てられました。そのうちの娘さんのお一人が、内田さんの遺言を実行されました。
 内田さんの死の2年後の2004年4月7日、大和沈没の59年目の命日に、鹿児島県の枕崎市から飛び立ったチャーターヘリが大和の沈没海面へ向かい、娘さんの手から内田さんの骨の散骨が行われました。 

 映画『男たちの大和』では、この内田さんの人生をモデルに、ストーリーの一つの柱が組み立てられています。内田さん役を中村獅童さんが好演しています。 


映画『男たちの大和』の世界         2005/12/25記述追加  | このページの先頭へ | 

 映画『戦艦大和』のストーリーのもう一つの柱は、海軍特別年少兵の群像です。

<用語解説>

海軍特別年少兵

 太平洋戦争がはじまった翌年の1942(昭和17)年、海軍は、今後の状勢から大量の中堅幹部の養成が必要であると考え、当時の国民学校高等科(現在で言うと中学2年終了段階)を終えた年齢の満14歳の少年を、志願によって採用する制度を創設した。これが海軍特別年少兵制度である。略して特年兵と言った。
 当初は、3年間の基礎教育を実施した後、海軍兵学校に学ばせ技術幹部とする予定であったが、戦局の悪化にともない、1年半の教育で実戦に送り出すこととなった。
 第1期生は1942年9月に募集、続いて第2期1943年7月、第3期1944年5月、第4期1945年5月と計4回の募集がなされ、総計約「11200人が佐世保、呉、舞鶴、横須賀の各鎮守府別に教育を受けた。
 このうち、第1期生は、戦争末期の1944年に各戦場に投入され、約3分の1が戦没者となった。

 
 辺見さんの『男たちの大和』には、沈没時15歳の年少兵であった数人の方の証言が掲載されていますが、年少兵だけを特別に扱っているわけではありません。

 映画では、神尾克己という架空の特年兵を設定し、その同期生=友人らの青春群像をせつなく描きます。
 松山ケンイチ演じる神尾特年兵とその幼なじみ、蒼井優演じる野崎妙子の存在が、この映画の花となりました。片方は散ってしまう悲しい花ですが・・。
 松山・蒼井とも20歳の俳優さんですが、14・15・16歳の役を初々しく好演しています
 

 上述の最後の手紙、お母さん、どうか私のことはけっしてけっしておわすれください、さようなら」は、辺見さんの本には出てきませんが、映画には、神尾克己の友人の手紙として登場します。

 この特年兵は、故郷の貧しい農家の母親を支えるために、海軍から支給される給料をせっせと送り続けます。映画『俺たちの大和』は、戦前の貧しいそして美しい農村の光景をもストーリーの中に含んでいます。
 手紙の、この国語的には矛盾したせつない表現に、当時の若者の置かれた悲しい状況に、涙せずにはおられません。
 

 軍艦を動かす兵や下士官に当たり前に陽を当てたという点では、その視点は、映画『亡国のイージス』と同じです。
  ※映画『亡国のイージス』の批評はこちらです。
 
 しかし、『俺たちの大和』には、作り事の『亡国のイージス』のようなほっと安心できる明日への希望はありません。
 戦争という悲劇の中で、3333人の群像の重みに涙する映画、それが『男たちの大和』です。


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