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外国文化と日本文化の違い
   
 □日本人とキリスト教徒の死生観の違い 00/12/20作成 
 1985年の日航機御巣鷹山墜落事故の記録に見るキリスト教徒と日本人の「死」に対する世界観の違い。

 事件から15年経ても、未だに「ニュース」に登場する「日航機御巣鷹山墜落事故。

 特に墜落の原因をめぐっては、公式発表の「圧力隔壁の破壊による操縦不能」説に対する反論が未だに根強く存在します。墜落原因究明についても話は尽きませんが、この項目は、それとは全く違う、遺体の処理をめぐる「実話」の紹介です。
 墜落時に群馬県高崎警察署刑事官の職にあり、事故発生後墜落遺体の身元確認班長を勤めた飯塚訓(いいづかさとし)氏が、当時の記録をつづった、『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』(講談社)を、墜落から13年後の1998年に出版されました。亡くなった520人の遺体の身元確認をする127日の凄絶な日々を綴った記録です。

 墜落遺体ですから、もちろん、いわゆる五体満足なものは多くはありません。歯形・指紋・足紋・血液型などあらゆる法医学的な手段が活用されて、部分遺体の確認が行われました。目が三つある頭部、乗員・乗客を含めて520人しか乗っていなかったのに、521番目の遺体があった話など、どれ一つをとっても、現場にいた人ならではの貴重な記録です。ちなみに、前者は衝撃のあまり一人の頭部にもう一人の頭部の一部がめりこんで「合体」してしまった結果のものであり、後者は、母親の胎内から飛び出してしまった妊娠6ヶ月の胎児の遺体でした。

 さて、標題の話に移ります。
 遺体の扱いについて、日本人とキリスト教徒の外国人とでは大きな違いがあることが記述されています。
 普通の日本人の場合は、読者のみなさんがその立場になって見ればそうすると言われると思いますが、肉親の遺体が「五体満足」であることを願います。肉親の遺体が離断遺体であった場合は、遺族は例外なく、欠けている手・足を探して、できるだけの努力をされ続けられたそうです。

 ところが、キリスト教徒は違っていました。
 担当者が離断した手・足を指紋・足紋等いろいろな方法で「集めて」も、キリスト教徒の外国人は、「なぜ手足を識別しなければならないのか」と怪訝な顔をしたそうです。彼らの考えは、「死んでいると言うことは精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だから、すべて火葬にすればいいだけである。」というものでした。
 つまり、死が確認されれば、その時点で遺体に関する特別な思いは持たないと言うことなのです。「どんな完全な遺体をもらっても生き返るわけではない。魂は神のもとへ召された。」というわけです。

 普通の日本人の遺族の、「あの世に行くとき、足がなければ三途の川が渡れない」、「右手がなければあの世でご飯が食べれない」といった考え方とは、大きく宗教観が異なっていると言わなければなりません。
 日本人のこの発想が、仏教的発想なのか、もっと以前からの神道的なものに起因するのかは、少し調べてみましたが、簡単には結論はでないようです。もし、明解に説明できる方がいたらお教えください。
 
 それはともかく、この本を読んだのは東京から帰る新幹線の中だったのですが、「炭化して遺体のどこの部分かもわからなくなった塊でも、『これがあなたのご主人です。』といわれれば、頬ずりして涙する」というくだりを読みながら、周りの視線にかまうことなくもらい泣きをしてしまった私は、堂々たる日本人です。
 ※飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』(1998年講談社)

 
 □日本への外国文化導入の方法 01/01/01作成 
日本のTDLとアメリカのディズニーランドとの違い

 最近では毎年1,700万人が入場し、1983年に開業して以来、延べ入場者数はやがて2億5000万人に達しようと言う超人気のテーマパーク東京ディズニーランド。

 その人気の秘密のひとつは、次々に新しいアトラクションを増やし、リピーターを飽きさせないことでしょう。2000年秋にも、「プーさんのハニーハント」が出現しました。まさしく、テーマパークは生き物のように「進化」していくというウォルト・ディズニーの言葉どおりの魅力が、多くの入場者を生んでいると言えましょう。

 しかし、やはり、ディズニーランドの基本的な魅力は、そこがアメリカの「ディズニーランド」や「ディズニーワールド」であるかのように、「あこがれのアメリカ」に接することができることにあると思います。

 これについては、おもしろいエピソードがあります。
 ウォルト・ディズニー社は、初めて外国に作るテーマパークについて、アメリカ版の全くのコピーではなく、日本の独自性を盛り込もうとしました。たとえば、「サムライ・ランド」や「桃太郎」のような日本の童話に基づくショーなどの日本的なアトラクションの採用です。ところが、東京ディズニーランドの直接の経営企業であるオリエンタルランド社は、できるだけオリジナルに似たものを作るように主張しました。日本人の好みから考えて、中途半端な独自性や多彩化よりも、コピーであるとはいえ、ほとんどアメリカそっくりという方が、日本人に「夢」を与えることができると考えたからです。

 結果的にはこの主張は当たりました。考えても見てください。「サムライランド」・「桃太郎」・「金太郎」、そんな所へ誰が喜んでいきますか。どこかの「忍者」何とかのたぐいと一緒になってしまいます。
 この日本人の好みについては、日本人がアメリカ大衆文化を表徴するするものに魅力を感じるのは、日本の西洋化を示す典型例であると説明されます。簡単に言えば、日本人が意識するアメリカの優越性への限りないあこがれということになるのではないでしょうか。
 
 ところが、この話には、さらに面白い事実が続きます。
 日本の経営会社オリエンタルランド社は、主要な部分ではアメリカ版の忠実なコピーを主唱しながら、細部では、実に巧みに「日本化」を行い、結果として、別の意味で「日本版ディズニーランド」ができあがったのです。本当に細かいところでは、当初アメリカで採用されている食事と同じものしか提供しないはずだったのに、カレーライスとか、日本人の好みに合わせたメニューを作ったという話もその一つです。

 しかし、もっと重要な部分が、アメリカ版と日本版とでは異なっています。


 上図はカリフォルニアと東京のレイアウトの比較図です。カリフォルニアは、来訪者がメインストリートから時計回りに回ることによって、ストーリー性を作っていますが、東京にはそのようなストーリーはありません。そして、レイアウト上の最も大きな違いは、東京には、「ワールド・バザール」という形で、かなり広いショッピング施設が設けてあることでしょう。ここで扱う商品は直接ディズニーに関係があるものから、それと無関係の世界中の商品まで他種類にのぼっています。これは、ごく単純に日本人の贈答習慣を満足させ利益を上げるためのものでしょうが、日本の文化に適合したすぐれた独自性といえるでしょう。

 外国の優れたものをその長所を生かしつつ日本的に改良して取り入れ、「日本文化」を形作っていくというパターンは、日本民族が2000年以上にわたって繰り返してきた得意技です。ディズニーランドにおいても、それが見事に発揮されたと言えるでしょう。

 オリエンタルランド社は、現在では、「東京ディズニーリゾート」の実現へ向けて、エリア全体を拡張中です。「テーマリゾート」構想は、TDL以外にそれとほぼ同じ敷地面積を持つ「東京ディズニーシー」、複合型商業施設「イクスプリア」、ホテルなどを建設して、「それぞれが異なるテーマと楽しさを持つ個性的な施設でありながら、エリア全体としては調和のとれた時間と空間を創出」するというものです。巨額の投資が、陳腐なものになるか、さらに新しい「日本文化の創造」になるか、完成が待ち遠しい気分です。
 ※ジョゼフ・J・トービン『文化加工装置ニッポン REMADE IN JAPAN』(1995年時事通信社)
 ※粟田房穂・高成田享『ディズニーランドの経済学』(1987年朝日文庫) 


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