| メニューへ | |  前へ | | 次へ | | P1参考文献へ | | P1地図へ | | P8写真集へ |

銃砲と歴史3-1
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平 1 高島秋帆とは 09/12/27 作成 10/02/07修正 
 

 このページは、クイズ日本史:江戸時時代「筒と丸い玉のモニュメントは誰の業績」(こちらです→)から続いています。まだご覧になってない方は、戻って復習してください。
 
 さて、ここでは、
高島秋帆という人物とその偉大な業績を確認し、日本史の教科書レベルの学習の補足を行います。進め方の特色は、以下の先学の書物から、外交(鎖国体制)・武器(銃砲の発達及び兵学の歴史)・遺跡(出島)の各面を横断的に理解し、またインターネット上の写真や自ら撮影した写真と地図を結びつけて多面的に高島秋帆を追いかけるものです。もちろん学習用の黒板も登場します。(^_^)

 まずは、「筒と丸い玉のモニュメント」をあらためて掲載します。


写真01−01                          写真01−02       (撮影日 03/11/27) 

このページ以降の記述には、主に次の書物を参考にしました。

1 岩堂憲人著『世界銃砲史 上・下』(国書刊行会 1995年)

2 日本歴史学界編集 有馬成甫著『人物叢書 高島秋帆 新装版』(吉川弘文館 1989年)

3 石山滋夫著『評伝 高島秋帆』(葦書房 1986年)

4 西和夫著『長崎出島ルネサンス 復原オランダ商館』(戎光祥出版 2004年) 

5 山口美由紀著『日本の遺跡28 長崎出島 甦るオランダ商館』(同成社 2008年) 

    6 勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編『勝海舟全集15 〔陸軍歴史T〕』(勁草書房 1976年) 
    7 勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編『勝海舟全集16 〔陸軍歴史U〕』(勁草書房 1976年) 
    8 幕末軍事史研究会編『武器と防具 幕末編』(新紀元社 2008年) 
   

9 シンポジュウム「江戸の砲術ー砲術書から見たその歴史ー」記録(平成19年2月18日開催 
  主催 板橋区教育委員会・板橋郷土資料館 共催 日本砲術史学界・西洋流火術鉄砲隊保存会)
 

    10 春名徹著『にっぽん音吉漂流記』(中公文庫 1988年) 
    11 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本の歴史 日本史B』(山川出版 2004年)
   

12 脇田修・大山喬平・福永伸哉・栄原永遠男・勝山清次・平雅行・村田路人・高橋秀直・小路田泰直
   ・江口圭一・広川禎秀・川島敏郎・豊田文雄・児玉一・矢野慎一著『日本史B 新訂版』
  (実教出版 2008年)
 

 

 【おことわり】 2010年2月7日記述
 このページは、基本的には、2003年11月27日の板橋区現地訪問と、上記1〜8の参考文献を中心に構成して書き始めました。ところが、ページ4の作製のあと、2010年2月6日に、再度板橋区現地訪問をする機会がありました。そこで、かなりの量の写真を撮影し、また、上記参考文献9を入手できました。このため、ページ1〜4についても、あらためて付け加えた部分もありますし、建物の増築のように、若干重複部分があったり、一つにまとめればいいものを二つに分けて書いてしまっている部分があったりしますが、ご容赦ください。こんがらがらないように、リンク→でできるだけ案内します。
 また、写真に関しては、最後尾のページ7に、「徳丸ヶ原・高島平関係写真集」(→)としてまとめて掲載します。

 P2へ進む||P3へ進む||P4へ進む||P5へ進む||P6へ進む||P7へ進む
 高島平と松月院                          | このページの先頭へ |  

 上のモニュメントは、東京都板橋区赤塚8−4にある曹洞宗の萬吉山宝持寺松月院の境内にある、高島秋帆の顕彰碑です。
 これは、長崎の町年寄であった高島秋帆が、1841(天保12)年に、この寺の北側にあった武蔵徳丸原(または徳丸ヶ原)の地で、日本で初めて西洋式の砲術の演習をおこなった事を記念するモニュメントです。 松月院はその際に高島秋帆らが本営としたお寺です。

 最初は、まず簡単にモニュメントの所在地、武蔵徳丸ヶ原、高島平、松月院を紹介します。
 武蔵徳丸原は、現在では、板橋区ですが、演習がおこなわれた1841年当時は、中山道の最初の宿場町板橋宿と二つ目の蕨宿との間にある荒川の南岸の後背湿地でした。
 下の地図をご覧ください。
 旧中山道は黄色い道筋で示されています。それに沿って、地下鉄都営三田線が走っていますが(赤い道筋)、は現在ではその三田線の沿線となっています。 

上の地図は、NASA World Wind(http://worldwind.arc.nasa.gov/index.html)の写真から作製しました。


 武蔵徳丸原の地は、1956(昭和31)年から大規模団地ができる際に、高島秋帆の名前に因んで、高島平と名付けられ、その中央にある地下鉄都営三田線の駅も高島平駅と名付けられました。 

P2へ進む||P3へ進む||P4へ進む
 基本的な疑問点の確認                                   | このページの先頭へ |  

 では、本格的に、高島秋帆の偉業について説明します。これからが本題です。
 
 高島秋帆については、教科書に次のように知るされています。
 

「改革中(引用者注 天保の改革)も、対外関係は緊迫の度を増していた。忠邦が改革に着手する前年の1840(天保11)年、アヘン戦争で清国がイギリスに大敗を喫したという情報が幕府にもたらされた。危機感をもった幕府は翌年、長崎の西洋流砲術家高島秋帆武蔵徳丸原(引用者注 むさしとくまるがはら)で演習をおこなわせ、1842(天保13)年には異国船打払令にかえて薪水給与令を出した。」 

※ 

脇田修・大山喬平・福永伸哉・栄原永遠男・勝山清次・平雅行・村田路人・高橋秀直・小路田泰直・江口圭一・広川禎秀・川島敏郎・豊田文雄・児玉一・矢野慎一著『日本史B 新訂版』(実教出版 2008年)P230

参考文献一覧へ

 この説明を読んで、読者や授業なら生徒諸君が、次のようないくつかの疑問を感じてもらえたら、高島秋帆の学習の第一歩は成功です。
 クイズ風に考えてみてください。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 次は、これらの点について、いくつかの項目に分けて説明をしていきます。


 高島秋帆の経歴(出自)と契機となった事件             | このページの先頭へ |  

 最初は、高島秋帆の経歴(出自)です。
 彼は、身分で言えば、長崎の町人です。決して武士階級の人間ではありません。
 ただし、ただの町人ではなく、長崎の市政を動かす有力町人、町年寄のうちの一人でした。武士階級ではないものの、名字・帯刀を許された特別な階級でした。祖先は、近江(滋賀県)国の高島郡に領地を有していた武士で、主君の戦国大名浅井氏が織田信長に滅ぼされたのち、1574(天正4)年に肥前に移住し、長崎の有力町人として台頭したと言うことです。
 幕府が鎖国令出してポルトガル人の来航を禁止する前に、市内での雑居を禁止する命令を出しましたが、この時、ポルトガル人を居住させるための区域として、長崎の出島の埋め立て造成が行われました。その際に、長崎の有力町人25人が、費用を分担していますが、その中に、高島四郎兵衛の名前が見えます。

 江戸時代の大都市においては、長崎以外でも、有力な町人が市政の実質を動かすという体制が取られていました。しかし、いくら有力な町人とはいえ、商売で財産をなすというのならともかく、砲術を極めてその演習(当然ですが大砲などの武器をそろえて)を行うというのは、普通なら実現可能なことではありません。
 そもそも江戸幕府は、「
入り鉄砲に出女」という言葉があるように、各大名の武装にはことのほか神経を使っていました。その中で、どのようにして、長崎の一商人が大砲を入手することができたのでしょうか?
 その秘密を探るには、高島秋帆が暮らしていた長崎で何が起こっていたか、そこで秋帆が何をしたかをもう少し詳しく調べる必要があります。
 まずは、彼の経歴のチェックです。

P2へ進む||P3へ進む||P4へ進む
 高島秋帆略歴(前半) ※後半はこちらです→P8へ 
 ※この年表は、石山滋夫前掲書等を参考に作りました。 

1798年

(寛政10)

 長崎町年寄高島四郎兵衛茂紀の3男として長崎にて出生。

1804年

(文化元)

 ロシア使節レザノフが長崎に来航。通商の要求をするが幕府はこれを拒絶。父四郎兵衛、ロシア船への供給掛となる。 

 1807年  (文化4)

 エトロフ事件起こる。幕府の対応に憤激したレザノフは、部下に北方での「報復」を指示。この年、ロシア船2隻がエトロフ島の日本人交易拠点等を襲撃する。
 これに反応した長崎では、ロシア船に対する新しい警備法が発令され、これまでの佐賀藩兵等による砲台の他、奉行所の現地役人や町の有力者に担当させる新しい砲台を7カ所設置する。父四郎兵衛は、そのうちの一つ、
出島台場の担当となる。 

1808年

(文化5)

 イギリス船フェートン号、長崎に侵入する事件が起こる。(フェートン号事件)父四郎兵衛、長崎台場の警備につく。

1810年

(文化8)

 父四郎兵衛、荻野流砲術(増補新術)の皆伝師範となる。 

1818年

(文政元)

 高島秋帆、町年寄の見習いとなる。 

1823年

(文政6)

 オランダ商館長としてステュルレル(陸軍大佐)が長崎に着任。この時同時にドイツ人シーボルトも来日。
 高島父子は、
ステュルレルから西洋近代砲術を学んだと推定される。(ステュルレルの日本滞在は4年) 

1832年

(天保3)

 高島父子、オランダより銃砲や兵術書の輸入を始める。 

 1834年  (天保5)  肥前武雄藩(佐賀藩の支藩)の藩主鍋島十左衛門が高島父子に入門。 

1835年

(天保6)

 秋帆、肥前武雄藩を訪問し、日本で初めて鋳造したモルチール砲を譲渡。 

 1836年  (天保7)  父高島四郎兵衛死去。表向きは翌1837年6月に死去の届け) 

1837年

(天保8)

 肥後藩(細川家、熊本)のためモルチール砲を鋳造する。

 1838年  (天保9)   薩摩藩主島津斉興の命令で藩士鳥居平八・平七兄弟が秋帆に入門。

1840年

(天保11)

 秋帆、幕府に対して、西洋砲術採用の意見書、いわゆる「天保上書」を提出する。 

1841年

(天保12)

 秋帆、幕命により、武蔵徳丸ヶ原で西洋砲術の演習を行う。
 幕府代官
江川太郎左衛門、秋帆から砲術の免許を受ける。 

 P2へ進む||P3へ進む||P4へ進む||P8へ進む

 上の経歴年表から、西洋砲術の大家高島秋帆を生み出した事件を確認してください。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。
 ※上は、長崎湾とその周辺の地図です。以下のフェートン号事件の説明の参考にしてください。

 そもそもの出発点は、1808年に起こったフェートン号事件です。
 高校の日本史の教科書には、次のように書かれています。

「北方での対外的な緊張に加えて、さらに幕府を驚かせたのは、1808(文化5)年のイギリス軍艦フェートン号の長崎侵入であった。フェートン号は、当時敵国となっていたオランダ船を追って長崎に入り、オランダ商館員を捕らえて人質にして、薪水・食糧を強要し、やがて退去した(フェートン号事件)B。

注B

 19世紀初め、イギリスとフランスは戦っていたが、ナポレオン1世がオランダを征服すると、イギリスはオランダが東洋各地に持っていた拠点をうばおうとした。この事件で長崎奉行の松平康英は責任をとって自刃し、長崎警固の義務を持つ佐賀藩主も処罰された。

 」 

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本の歴史 日本史B』(山川出版 2004年)P207

 この事件は、当時のヨーロッパ状勢が東アジアの端まで影響した世界史的規模の事件です。フェートン号という名前のイギリス軍艦が、1808年8月15日に突然長崎湾口に来航し、船から繰り出された短艇(大型のボート)が湾内を探査したのです。
 当時のヨーロッパはフランスの
ナポレオンが皇帝となり(1804年)、ヨーロッパ大陸の各国を支配していた時代でした。オランダもフランスに占領され、皇帝の兄弟が王として支配するオランダ王国となっていました。この時、フランスに対抗していたのがイギリスです。その結果、イギリスとオランダは敵対国の関係にあり、イギリス軍艦フェートン号は、日本と貿易をするオランダ船の捕獲を狙って、長崎へやってきたものでした。場合によっては出島オランダ商館が占拠されるという危険性もありました。
 この日は晴天で見通しがよく、日本側はかなり早くから長崎湾に近づいてくる帆船の存在を認識し、長崎半島の南西端の野母岬(上の地図の範囲外)の遠見番所から遠見船を出し、伊王島(地図中央左下)の西12km程の場所でフェートン号にとりつきました。
 ところが、フェートン号はその正体を隠してそこを通過し、さらに、検使役を乗せた日本側検使船が中ノ島付近で待ち構えていると、対応したオランダ商館員のオランダ人2名を船内に連れ去ってそのまま長崎湾口に近づき、神崎鼻沖に停泊しました。
 フェートン号はもし湾内にオランダ船がいた場合は捕獲するつもりでしたから、午後8時以降、満月の月明かりを利用して、短艇3隻を繰り出して、湾内のあちこちを探索しました。しかし、オランダ船を発見できず翌日には、食料(牛・鶏など)・薪水など必要物資と捕虜としているオランダ人2名の交換を要求し、それが実現すると8月17日の正午頃には、悠然と去っていきました。
 このフェートン号の一連の行動に対して、日本側は長崎湾内外の防備のための砲台を構築していたにもかかわらず、まったく有効な軍事的手立てを講じることができませんでした。このため、フェートン号の銃砲の威嚇の前に言われるままに要求をのみ、特に、短艇が湾内を走り回った15日の夜は「出島上陸」などの流言飛語にも惑わされるなど、さんざんな失態となりました。

 原因は二つありました。
 ひとつ目は、警備の人数の問題です。
 長崎湾口の警備は肥前佐賀(鍋島)藩と筑前福岡(黒田)藩が隔年交代で担当することになっており、この年は佐賀藩の当番の年でした。ところが、この年はオランダ船がいつもの時期(6月に来港するのが通常のパターン)に来港せず、安心した藩兵も国元へ引き上げてしまい、イギリス軍艦に対抗できる兵力はこの時の長崎には存在しなかったことです。事件の後、幕府の命令によって各藩から駆けつけてきた兵力は合計750名以上に上りましたが、事件当時は配備定員約1000名とされているうちの僅か100名ほどしか警備に着いていませんでした。フェートン号は、船の長さ50m程、備砲は48門、船員は350人ほどと推定されていますが、人数の点だけでも勝負にはなりませんでした。
 実際、長崎奉行松平図書頭康英は、食糧等の要求を受けた8月16日には、佐賀・福岡両藩に、
フェートン号の焼き討ちをさせようとしましたが、作戦に必要な藩兵を急に集めることなどできるわけもなく、結局断念しています。 
 二つ目にさらに重要なことには、日本側には防衛のための砲台が存在していましたが、江戸時代の初めからこの時点までおよそ200年間、西洋はたびたびの戦争によって銃砲の著しい発達を見ていたのに対して、日本側は大阪冬の陣・夏の陣の時代からほとんど変わっておらず、フェートン号と日本側との軍事力との差は大きかったのです。(→これについては、次ページで詳しく説明します。)

 この事件で、奉行松平図康英は責任を取って8月17日の夜に切腹しました。事件のしばらく後に正式に処罰が行われ、長崎警備の兵力を怠ったとして、佐賀藩主鍋島斉直は、蟄居100日に処せらたほか、多くの処分者を出しました。
 
 さて、この大事件の時は、高島秋帆はまだ11歳でした。この事件で彼が直接何かをしたと言うことは記録上ありません。
 しかし、このあとのことが、彼を西洋砲術の大家にしていったのです。
 続きは、次のページです。


| メニューへ | |  前へ | | 次へ | | P1参考文献へ | | P1地図へ | | P8写真集へ |