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銃砲と歴史3-1 |
銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。 |
高島秋帆と高島平 1 高島秋帆とは 09/12/27 作成 10/02/07修正 |
このページは、クイズ日本史:江戸時時代「筒と丸い玉のモニュメントは誰の業績」(こちらです→)から続いています。まだご覧になってない方は、戻って復習してください。 |
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【おことわり】 2010年2月7日記述 |
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高島平と松月院 | このページの先頭へ | |
上のモニュメントは、東京都板橋区赤塚8−4にある曹洞宗の萬吉山宝持寺松月院の境内にある、高島秋帆の顕彰碑です。 |
※ |
上の地図は、NASA World Wind(http://worldwind.arc.nasa.gov/index.html)の写真から作製しました。 |
武蔵徳丸原の地は、1956(昭和31)年から大規模団地ができる際に、高島秋帆の名前に因んで、高島平と名付けられ、その中央にある地下鉄都営三田線の駅も高島平駅と名付けられました。 |
基本的な疑問点の確認 | このページの先頭へ | |
では、本格的に、高島秋帆の偉業について説明します。これからが本題です。 |
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「改革中(引用者注 天保の改革)も、対外関係は緊迫の度を増していた。忠邦が改革に着手する前年の1840(天保11)年、アヘン戦争で清国がイギリスに大敗を喫したという情報が幕府にもたらされた。危機感をもった幕府は翌年、長崎の西洋流砲術家高島秋帆に武蔵徳丸原(引用者注 むさしとくまるがはら)で演習をおこなわせ、1842(天保13)年には異国船打払令にかえて薪水給与令を出した。」 |
※ |
脇田修・大山喬平・福永伸哉・栄原永遠男・勝山清次・平雅行・村田路人・高橋秀直・小路田泰直・江口圭一・広川禎秀・川島敏郎・豊田文雄・児玉一・矢野慎一著『日本史B 新訂版』(実教出版 2008年)P230 |
この説明を読んで、読者や授業なら生徒諸君が、次のようないくつかの疑問を感じてもらえたら、高島秋帆の学習の第一歩は成功です。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
次は、これらの点について、いくつかの項目に分けて説明をしていきます。 |
高島秋帆の経歴(出自)と契機となった事件 | このページの先頭へ | |
最初は、高島秋帆の経歴(出自)です。 |
高島秋帆略歴(前半) ※後半はこちらです→P8へ |
※この年表は、石山滋夫前掲書等を参考に作りました。 |
1798年 |
(寛政10) |
長崎町年寄高島四郎兵衛茂紀の3男として長崎にて出生。 |
1804年 |
(文化元) |
ロシア使節レザノフが長崎に来航。通商の要求をするが幕府はこれを拒絶。父四郎兵衛、ロシア船への供給掛となる。 |
1807年 | (文化4) | エトロフ事件起こる。幕府の対応に憤激したレザノフは、部下に北方での「報復」を指示。この年、ロシア船2隻がエトロフ島の日本人交易拠点等を襲撃する。 |
1808年 |
(文化5) |
イギリス船フェートン号、長崎に侵入する事件が起こる。(フェートン号事件)父四郎兵衛、長崎台場の警備につく。 |
1810年 |
(文化8) |
父四郎兵衛、荻野流砲術(増補新術)の皆伝師範となる。 |
1818年 |
(文政元) |
高島秋帆、町年寄の見習いとなる。 |
1823年 |
(文政6) |
オランダ商館長としてステュルレル(陸軍大佐)が長崎に着任。この時同時にドイツ人シーボルトも来日。 |
1832年 |
(天保3) |
高島父子、オランダより銃砲や兵術書の輸入を始める。 |
1834年 | (天保5) | 肥前武雄藩(佐賀藩の支藩)の藩主鍋島十左衛門が高島父子に入門。 |
1835年 |
(天保6) |
秋帆、肥前武雄藩を訪問し、日本で初めて鋳造したモルチール砲を譲渡。 |
1836年 | (天保7) | 父高島四郎兵衛死去。表向きは翌1837年6月に死去の届け) |
1837年 |
(天保8) |
肥後藩(細川家、熊本)のためモルチール砲を鋳造する。 |
1838年 | (天保9) | 薩摩藩主島津斉興の命令で藩士鳥居平八・平七兄弟が秋帆に入門。 |
1840年 |
(天保11) |
秋帆、幕府に対して、西洋砲術採用の意見書、いわゆる「天保上書」を提出する。 |
1841年 |
(天保12) |
秋帆、幕命により、武蔵徳丸ヶ原で西洋砲術の演習を行う。 |
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上の経歴年表から、西洋砲術の大家高島秋帆を生み出した事件を確認してください。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
※上は、長崎湾とその周辺の地図です。以下のフェートン号事件の説明の参考にしてください。 |
そもそもの出発点は、1808年に起こったフェートン号事件です。
この事件は、当時のヨーロッパ状勢が東アジアの端まで影響した世界史的規模の事件です。フェートン号という名前のイギリス軍艦が、1808年8月15日に突然長崎湾口に来航し、船から繰り出された短艇(大型のボート)が湾内を探査したのです。 |
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