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銃砲と歴史3-4
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平4 徳丸ヶ原演習  10/01/24 作成 10/02/07 修正
 
 何故徳丸ヶ原で演習を行うことになったか          | このページの先頭へ |  

 この高島秋帆に関する学習もいよいよ佳境に入りました。
 まず高島秋帆は何故
徳丸ヶ原で演習を行うことになったのでしょうか?


 写真04-01                     写真04-02(撮影日 江戸時代末から明治初期)   

上の写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 写真04-01 長崎市内北部の立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真です。撮影年代は、1862(文久2)年から1870(明治3)年と推定されています。左手の松の木の向こうの一群の建物が出島です。
 写真04-02 長崎湾南東の鍋冠山から大浦居留地や
出島、長崎湾北部を撮影したものです。1866(慶応元)年から1869(明治2)年までの撮影と推定されます。湾の中央右手の出っ張りが出島です。
 高島秋帆は、父の代以来、
出島台場の責任者となり、そのことが西洋砲術学習の直接の契機となりました。


 さて、クイズです。
 高島秋帆が武蔵徳丸ヶ原で西洋砲術の演習をするきっかけとなったのは何でしょうか。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 1840(天保11)年9月高島秋帆は長崎奉行太口加賀守喜行に西洋砲術採用の意見書を提出しました。世に言う、『天保上書』です。これが高島秋帆が武蔵徳丸ヶ原で西洋砲術の演習を行うきっかけでした。
 自分の習得した西洋砲術にいくら自信があったとはいえ、幕藩体制下で、一商人が砲術の改革を求める、言い換えれば、支配者である武士階級のしかも中心的職務の国防に意見を言う、そんな途方もないことをあえて高島秋帆は行ったのです。
 石山滋夫氏は、次のように表現しています。

「かりそめにも長崎町年寄という町人身分で江戸幕閣の中枢に向かって意見具申をするとはどういうことなのか。まして渡辺崋山や高野長英が、外国の状勢を論じ幕府の攘夷政策を批判して、獄に下ったのはついこの前年のことである。秋帆はこの時点でどの程度そのことを理解していたであろうか。 
 だが、そういう危惧を感じさせぬほど秋帆の上書は自身と果断に充ちている。長崎出島という外国との接点に於いて実際に西洋の事情を肌で感じていただけ、彼の危機感は今日われわれの想像できる以上に険しかったのであろうか。」

 石山滋夫前掲書(参考文献一覧はこちら→) P125

 高島秋帆が抱いた「危機感」が生じた元は何でしょうか? 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 鎖国下における海外情報の国内伝播は、オランダ船がもたらす情報、『オランダ風説書』です。
 
アヘン戦争の情報は以下の様に伝わって来ました。 

1839(天保10)年

「清国が広東でイギリス商人からアヘン2万箱を没収し投棄した。」
 1840(天保11)年 6月「清においてイギリス人への無理非道があり、イギリスは本国はもちろん、アフリカ内及びインド植民地から清へ向けて報復の出兵を行う。」 

 これだけのことを知った高島秋帆は、アヘン戦争の結末はもちろん、イギリス艦隊が各地で攻撃を開始し、清朝軍が打ちのめされている事実はまだ伝わっていないにもかかわらず、次の意見具申を行ったのです。


 洋砲採用の建議(高島四郎太夫の『天保上書』、全文 ) 

 ※原文は、勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編前掲書『勝海舟全集15 〔陸軍歴史Ⅰ〕』P6-9
 ※参考文献リストはこちら→

【原文】 赤字部分は左右同じ部分です

【現代語訳】

「当子紅毛船、入津の上、内風説に申し上げ候、エゲレス人、唐国広東の地騒擾に及び候由、なお当方在留船主周藹亭、唐国出帆前承り及び候、大略申し上げ候次第、全く相違これなく候事に存じ奉り候。随って愚昧微賤の身分にて、国家の御大切に相拘わり候儀、妄りに尊聴冒し奉り候段は重畳、恐れ少なからず存じ奉り候えども、平生の所思、申し立て候儀、御取り上げにも相成り候わば、有り難き仕合わせ、愚存の儀、左に申し上げ候。
 
西洋蛮夷等の儀は、火砲並びに船艦の便利を以て武備第一の事に相定め、砲術は最も護国第一の術と仕り、専ら盛んに相備え習熟仕り候儀に御座候。殊に近来、連年戦争相続き候につき、すべて業合大いに相違仕り候やの趣にて、戦争已来戦場実用を相試み、砲術一変仕り候やに御座候。然る処イギリス国の義は、唐国に比べ候えば、土地頗る偏少にて、殊更その戦争は十分非理に御座候えども、イギリス方、戦勝の利御座無き筈に候。然る処、右様大胆に襲来、唐国大いに敗亡に及び、イギリス方には一人も死亡これ無き趣は、全く平生所持の武備に由り候義と愚按仕り候。唐国の儀は武備周密にて、きっと禦ぎ備うべき威厳御座あるべく候えども、右様、イギリス人共、苦労もこれ無く、一時快心を取り候儀、初めより必然の事と相心得、軽々しく軍艦を仕出し候儀、全く唐国の砲術は児戯に比し候と嘲り候儀は、かねて蘭人共より承り及び候義故、右等の訳合にもより候儀にも御座あるべく候。
 
さて皇国の儀は、太古以来、神武赫耀仕り、諸蛮夷の畏服する所にて、天文年中、蛮夷より鳥銃伝来の後、なお御当代も御取用に相成り、火砲の儀、漸々盛んになり候義、誠に万全の御計と竊かに感歎奉り候。但し憾むべくは当時諸砲家の術は、西洋にて既に数百年前に廃棄仕り候遅鈍の術、或いは無稽の華法を以て各門戸を立て、互いに奇秘仕り、徒らに観実を競い候事ども少なからずやに存じ奉り候。
 勿論国家御武備の儀は、前々神妙不測の御手当もこれあり候間、これ等の得失に相係り候事もこれなく、なおまた、御大方御砲術の儀は同日の論に御座無く候と存じ奉り候えども
、万一諸家の様子、蛮夷共へ漏れ聞え、日本の武備はこれ式に限り候よう心得違い候えば、護国の術、却って招侮の媒と相成り申すべくや。諸蛮夷どもに於て今、争乱の時分に御座候えば、敗軍の兵士ども、諸方の海辺にて劫掠仕り候儀も御座候由、これらは平生死を畏れざるの賊に御座候えば、妄りに侮慢を生じ、吾が率土にて、強いて水糧求め候事絶えてこれあるまじき儀にも御座無く、これしきの寇に神武を穢し候程の義はこれあるまじく候えども、譜砲家の術、未熟に御座候えば、致し方無くと存じ奉り候。
 随って長崎表の儀は、異国通商の場所に御座候えば、右様の不慮、最もいましむべき義に御座候故か、御備え向き格別に御厳密にて、私輩に至るまで砲術師範等仰せ付けられ候程にて、地下人一統安堵仕り、千万有難く存じ奉り候。これにより御国恩の万分の一酬い奉りたく、
丹心を凝らし荻野流そのほか諸家の術共、聊か修行仕り候えども、十分満意の儀も御座無く、然る所、蛮夷相禦ぎ候には、彼方の術相心得候方、肝要の義と存じ奉り候間、相及び候だけは色々探索仕り、彼方砲術の理も承り候所、実に尤もの筋合いに相聞え、戦場実事に於ては左もこれあるべきやと相考え候事のみに御座候えば、蘭人共、譜家の砲術をかねがね相嘲り候義、無理ならざる次第も相考え候儀に御座候。彼方の業合は大略御覧の通りにて、本邦玉砲粶〔引用者注 原典は米偏ではなく火偏〕の類も、種々秘法と仕り候業等御座候えども、とてもポンベン〔原注 破裂弾〕等の烈しき業に及び候義はこれ無きやと存じ奉り候。余は御賢察あらせらるべく候。諸家の砲術、不精練と申すにはこれなく候えども、そのまま相済み来り候原因は、畢竟、古来よりの砲術の義は失火、自傷の懼れ多く御座候故、甚だ危殆の事に相極まり、高貴の御方は強いて御習練これなき故、その利鈍の理も分明に御監察成り難く、殊に砲術は別に秘術もこれあり、非常の節はその場の打ち方もこれあるやにて、事済み候。先は、砲術の訳柄は、全く微賎の師範にこれある訳けより、ついには寒士、浪人等の糊口の資に仕り、皇国神武の羽翼に相成り候程の義御座なく候段、竊に大息仕り候
 近頃、恐れ多き申上げ事に御座候えども、砲術の儀は護国第一の武備に御座候間、憚り乍ら御大方、高貴の御方、並びに御火砲家の御明鑑を以て理非御取捨遊ばせられ、あまねく天下の火砲一変仕り、実備に相定め候よう御座候わば、我が邦の武威、いよいよ光揚仕り、御治世永久の吉瑞と千万有難く存じ奉り候。
何卒モルチール筒〔原注 臼砲〕並びに近来発明の筒これあり候につき、これ等はきっと御備えにも相成り申すべく存じ奉り候間、江戸表御備え等になしおかれ候ては如何御座あるべく候や。かつまた諸国海岸の御備え向き、長崎表御両家〔原注 黒田家、鍋島家〕御備えの様子にてほば推量仕り、満腹の愚意御座候えども、余り恐れ入り存じ奉り候間、これのみ黙止仕り候。憚り乍ら、もし御受用下しおかれ候わば、望外に感佩奉り候。
 なおまた非常の節は、当地五組の者、それぞれ手割り持場等へ相詰め候えども、誠に纔か三、四人宛の割り付けに相成りおり、御奉行所御手勢向きも甚だ御人少なについては、このままにては如何御座あるべく候や。然る処、地役共の内には結構御役料頂戴仕り候者共も少からず候間、右の者へ、平日武芸等相励み候よう仰せ付けおかれ、非常の節はそれぞれ手割りに割り込み候よう御座候わば、御奉行所御手伝いもかなりに、人数相備え申すべきや、憚り乍らとくと御賢察あらせられ候よう仕り度く存じ奉り候。
 
右様種々狂言仕り候段、不敬の罪逃れ難く、恐れ入り奉り候えども、広東一件につき、年来存念のまま申し上げ奉り候儀に御座候間、格別御恩恕下しおかれ候わば有難き仕合せに存じ奉り候。以上。
 子九月天保十一年 長崎町年寄 高島四郎太夫」

「子の年(1840年)の本年、入港したオランダ船が提出した風説書によれば、イギリス人が清国の広東で騒擾を起こしたとありますが、これは現在長崎に来ております中国人船主の周藹亭が清国出発前に情報を得、こちらへ来て話したこととおおむね一致しますので、事実と考えられます。これは国家の一大事と考え、本来お上に意見を重しあげることは恐れ多いこととは知りながら、平生考えていることを申し上げますので、採用いただければ無上の幸福です。
 
ヨーロッパ諸国は、大砲や軍艦に優れることを国防の第一と定め、砲術は国防の第一の技術と考え、その充実に努めています。特に近年戦争が続いたため、すべての技術が大きく進歩し砲術は一変しております。イギリスは清国に比べれば領土が狭く戦争の理由にも道理が無く、本来イギリスの勝利はあり得ない所です。しかし、情報の通り清国へ軍隊を派遣し、広東では清国が敗北し、イギリス軍には戦死者が一人もいないということです。この理由は全く軍備の優劣によるものです。一見すると清国は伝統もあり軍備は万全と思われますが、すでにオランダ人がその砲術は児戯に等しいといっていたように、イギリス軍との軍備の差は明らかであり、このような結果は、それまでの風聞通りの当然のことと考えられます。
 
我が日本国の場合は、神武天皇の昔から軍備はしっかりしており、諸外国がひれ伏してきた歴史があり、16世紀の天文年間(1543年)にポルトガル人により鉄砲が伝えられて以来、江戸幕府においても銃砲による防備を大切にされ、その技術は次第に進歩し、万全の状態と感じられます。ただし、悲しむべきは、現代の諸砲術家の技術は、ヨーロッパにおいては数百年前にすでに廃棄された時代遅れの技術または何の実績もない見栄えのいいことをそれぞれの流派の真髄とし、お互い秘伝として隠し合い、公開の場で競い合うこともありません。
 もちろん国防の事は、以前から最善の措置を講じてこられましたので大きな不利益をもたらすようなことはなく、 また幕府における砲術は民間諸家のような事はないと思いますが、
万一諸家の様子がヨーロッパ諸国へ漏れ伝わった場合は、逆に日本の国防を侮ることを招く恐れがあります。ヨーロッパ諸国は現在争乱の状態にあり、敗戦側の兵士が諸国の海岸で略奪するということも聞いています。これらは死ぬことを恐れない賊ですから、我が国の海防を侮って我が国土に近づき食糧や水を求めるいうことがあり得ないことではあり、こういう事に我が国土を穢されるということはあり得ないこととは思いますが、諸家の砲術は未熟であるため、そういう危険性はあります。
 長崎は外国との通商の場所ですから、上述のような事は最も避けるべき事です。したがって、防備も格別厳重になされており、私のような町役人に至るまで砲術師範を命じられているほどであり、町人は安心することができ全く感謝しております。このご恩に少しでも報いようと荻野流や他の流派についてその技術を習得して参りましたが、十分満足できるものはありませんでした。
そこでヨーロッパ諸国に対する防御を行うには相手方の砲術を理解することも重要と考え、可能な限り西洋砲術を習得しました。西洋砲術の理論には大変合理的な部分もあり、実際の戦場ではこうあるべきであるであるということが砲術の中身となっており、これと比べれば、オランダ人が我が国の諸家の砲術を嘲笑う事も無理ではないと考えました。諸家の技術はご存じの通りですが、我が国の大砲の砲弾などは諸家の秘術となっていて詳しくは分かりませんが、とても西洋の爆裂弾であるボンベン砲弾と同じような破壊力の砲弾は無いものと考えています。諸家の砲術への取り組みが熱心ではないとはいいませんが、発展もなく現在まで来てしまっている理由は、もともと古い時代より砲術においては誤って爆発し怪我人が出るなどの危険のあることですから、身分の高い方は訓練に参加されず、またその理論を理解することもなく、さらには、諸家の秘術には実際に戦場の場で射撃してみないと分からないものもあるためです。このため、砲術は諸家に伝承されているとはいいながら、訓練等は身分の低い者が行い、実際には浪人の武士がその職について収入を得ているのが現実で、藩や幕府の重要職務として継承されているのではありません。このため、日本国を真に守る技術にはなっていないことを密かに嘆いておりました。
 砲術は国防の上最も重要なことと考えますので、大変僭越ですが、幕閣の高い地位の方や各砲術家の中の優れた方によって何が重要かをご判断いただき、日本の砲術の改革を行い、我が国の防備を一変し、その武威を高め幕藩体制を永久のものにしたいと願っています。
私が習得しています臼砲であるモルチール砲やその他発明した新しい砲は、国防のいい力を発揮するものと考えていますので江戸の防備に備えられてはいかがでしょうか。また、諸国の海岸や長崎の防備については、各担当の藩の取り組みを推量しておりますが、これまで意見を申しては来ませんでした。これにおいても我が砲を備えいただければ幸いです。
 また長崎においては、非常の場合は、担当の5組のものが持ち場へ詰めますが、人数は僅か3・4人となっております。また長崎奉行の直轄人数も少なくなっています。現地の役人の中には報酬をもらっている者もいますので、彼らに平素の武芸の訓練をさせ、非常時に分担の持ち場に付かせれば、奉行所の人数を補って多くの人数をそろえることができると思いますのでご配慮いただきたく考えます。
 
以上のようにいろいろ非常識なことばかり申し上げ、不敬の罪は免れがたいと思いますが、広東の事件がありましたので、これまで考えていたことを申し上げました。格別に広い心を持ってお許しいただければ幸せです。
 天保11年9月 長崎町年寄 高島四郎太夫 」


 以上が『天保上書』の全文と私が考えた現代語訳です.。
 秋帆自身が再三述べているように、こういう意見書を差し出すこと自体極めて異例で僭越なことです。いきなり処罰ということもあり得ます。
 秋帆にとってまず幸運だったのは、当時の長崎奉行田口加賀守喜行が秋帆を高く評価していたことです。彼は、この上書提出の前年、1840(天保10)年9月に長崎に赴任していましたが、着任早々高島秋帆を技術を認め、家来の市川熊男を秋帆に入門させていました。彼は秋帆のよき理解者でした。

 このため田口奉行は秋帆のこの上書に賛同し、すぐさまこれを江戸の幕閣に進言しました。
 その進言を受けた幕閣とは、かの有名な老中水野忠邦、中学校の歴史の教科書にも出てくる、あの天保の改革の推進者の老中でした。
 前年から老中首座の地位にあった水野忠邦は、1837年に起こった
モリソン号事件以来江戸湾の防備を憂慮しており、この進言をどう扱うかについて、腹心の目付鳥居耀藏諮問しました。
 目付鳥居耀藏といえば、こちらもかの有名な、
モリソン号事件を批判した蛮社に属する蘭学者を弾圧した張本人です。
 鳥居は、閣僚と評議の上、次のように答申しました。


 監察の評議(目付鳥居耀藏の答申、部分) 

 ※原文は、勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編前掲書『勝海舟全集15 〔陸軍歴史Ⅰ〕』P9-10)
 ※参考文献リストはこちら→

【原文】 赤字部分は左右同じ部分です

【現代語訳】

「一体砲術の儀は、天文年中、蛮国より伝来後、御家にても専ら御用に相成り、享保以来わけて御世話これあり、諸砲術家業合次第に緻密に相成り、一方の御備えに候。然る処、当時西洋にて用い候モルチール筒、業合烈しく、急速の便利宜しく、格別の御備えに相成るべきやに候えは、諸砲術家にて伝来の如く、中りを専一と仕り候業にはこれ無く、接戦の節に臨み、多人数群集の所へ、猛烈の火薬を打込み候ばかりを主と仕り候由。それと申すも西洋諸国習俗は、礼儀の国と違い、ただ厚利を謀り、互いに勇カを闘わし候迄にて、和漢の智略を以て勝利を取り候軍法とは大いに相違仕りおり候やにつき、西洋にて専ら利用これあり候とて、一概に信用も成り難く、然る処、俗惰とかく新奇を好むは古今の通弊、況んや蘭学者流は奇を好む病もっとも深く候間、その末は火砲のみならず、行軍布陣の法より平日の風俗教習までも遵い行い候よう相成り候ては、その害少なからず。これ等の処前以て御深慮これあり度く存じ奉り候。
 唐国広東の地駐乱の次第も、畢尭、唐国も二百余年の泰平にて、文筆のみに流れ、武備廃弛の処、イギリス国は常々争戦に練熟仕りおり候やにつき、唐国敗亡の事にてこれあるべきや。敢えて火砲の利鈍によるばかりとも存ぜられず候。つまり護国御備えは、平生文武の道厚く御世話成られ、軽薄の士凰一変、節義を専らと仕り候処にこれあるべく、火砲の利を頼み、纔かの地役人を指揮仕り候位の義を一方の御備えと存じ候義は、元、微賤のもの偏小の識見より出づる所にて、
一切御採用には相成らず候問、申上げ候趣は御沙汰に及ばれ難き旨、仰せ渡され然るべくと存じ奉り候。さりながら火砲は元来蛮国伝来の器に候えば、追々発明の術これあるやもはかり難く候につき、万一諸家家来へのみ伝法相成り候ようにても如何御座候間、専門の義につき、井上左太夫・田付四郎兵衛〔原注 ともに幕臣、砲術家〕、そのほか諸組与力の内、砲術師範仕り候者へ見分仰せ付けられ、格別便利の器に傾わば、銘々家伝のほか修行も仕り候て然るべきやにつき、いずれ右器は御取寄せの方と存じ奉り候。同役一統評議仕り候処、書面の通りに御座候。則ち御下げ成られ候書面返上、この段申上げ候。以上。
   子十二月 鳥居耀蔵  」

「そもそも砲術というのは16世紀の天文年間にポルトガルより伝来したものですが、徳川家においても必要な軍備として大事にされてきました。とりわけ将軍吉宗様の享保年間以来、蘭学の発展が図られ、砲術諸家の技術は次第に精密となり一大勢力となりました。一方、現在ヨーロッパで使われているモルチール砲は、破壊力が強く発射時間も短く特別の大砲ですが、諸砲術家の大砲が目標のに正確に命中させる事を目的としているのに対して、これは多数の兵士が接戦を演じている戦場へ、破壊力の強い砲弾を打ち込むのを主な目的としています。それというのも、智略を駆使して敵と争う我が国や中国の礼儀の国の戦略とは異なり、ヨーロッパ諸国はただ勝てばいいと武力ばかりで争う戦い方をしています。したがって、ヨーロッパで利用されているといっても、それのみで信用することはできません。また、民間の者が奇抜なものを望むことは今も昔もかわらない悪弊であり、とりわけ蘭学者にはそれが著しいものです。今回の場合それが高じて、火砲のみならず行軍や布陣の方法、日常の習慣まで西洋流をまねしようとするのは弊害が大きいものです。このことをまずご理解いただきたいと思います。
 清朝の広東での事件も、結局、清朝も建国以来200年余り泰平の時代が過ぎ、文筆のみ重視して軍事力を弱化し、一方のイギリスは戦争を多く経験しているので、これにより清朝側が敗北したと思われます。敗因は火砲の遅れとばかりは考えられません。つまり、国防は平素から文武両道に心掛けることや忠節や仁義を大事にすることが肝心であり、火砲の有利さに頼り、少数の地元役人が指揮する部隊を重視するというのは身分の低い者の視野の狭い見識によるもので、
その意見を採用することはするべき事ではありません。しかしながら、火砲はもともとヨーロッパの伝来の技術ですから、新技術の発明もあるかもしれません。それが万一諸砲術家のみに伝わってしまうのも望ましいことではありませんので、幕臣の砲術の専門家である井上左大夫・田付四郎兵衛やその部下に実際に見学させ、特別便利な火砲であれば、それぞれの伝統の技術に加えて訓練させればよろしいし、その火砲を採用すればよいと考えます。以上のとおり評議し申し上げrます。
 天保11年12月  鳥居耀藏」


 この答申の要点は次の2点です。

 西洋砲術やその発想を我が日本の砲術の重要な部分として採用することはあり得るべきではない。

   ただし、何か新しい技術があるかも知れないので、砲術の専門家により見聞させる。 

 もともと、鳥居耀藏は蘭学嫌いの保守本流の人物です。西洋砲術を採用するつもりなどありません。1はそのまま理解できますが、2は矛盾しているように見えます。
 鳥居のねらいは、新技術が伝来し、各藩や庶民階級にその技術が伝わっていくことを避け、もし本当に優れたものであるならそれを幕府が独り占めしてしまうことにあったと推定できます。

 動機は、高島秋帆が期待したものとはかけ離れていましたが、このような幕府側の思惑があって、
高島秋帆に江戸出府、演習の実施が命令されました。

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 徳丸ヶ原でどんな演習を行ったのか                  | このページの先頭へ |  

 翌1841(天保12)年正月22日に秋帆は息子の浅五郎・門人ら24名と大砲を牽いて長崎を出発し、2月7日に江戸に到着しました。この月日は旧暦です。この年は閏正月がありましたので、40余日かかったことになります。
 そして、5月9日に、徳丸ヶ原での演習が実施されました。
                   (徳丸ヶ原の場所は、P1で説明しています。こちらです。→
 概要は以下の通りです。


 【高島秋帆による徳丸ヶ原演習の概要】  ※石山滋夫氏前掲書を中心に作成(→参考文献一覧)

 ○参加人数 

 

 長崎から随行した門人に、大阪・江戸等で新たに入門したものを90名余。(新入門者の中には、江川太郎左右衛門の家来9名を含む。江川は高島の演習の実現を最も期待した人物の一人。) 

 ○編成部隊 

  1

 銃隊として2個中隊 指揮官 高島秋帆 高島浅五郎 (隊員 合計 97名)   

   野戦砲隊 8×3=24名

 ○武器等 

 1

 20ドイムモルチール砲×1門
 大口径で砲身の短い大砲で、分類上現在の分類では臼砲
 前装(砲身の先から弾丸を込める)滑空(砲身内部にライフルがない)砲で、仰角を大きくして曲射(弾道が大きな放物線となる)を描くで弾丸を打ち込む。最大射程1500m。

 2

 ホウイッツル砲×1門
 前装滑空砲。長めの砲身から擲射(てきしゃ やや低めの弾道)により榴弾を発射する。最大射程1800m 
 

 野戦砲×3門
 前装滑空砲。車輪により部隊とともに迅速に移動ができる小型大砲。平射(まっすぐに近い弾道)で直接、敵兵集団を狙う。

 ○演習内容 ※勝部慎長・松本三之介ら偏前掲書、P23-26 

 モルチール砲によるボンベン玉(通常の鉄球弾)×3 発射 

 モルチール砲によるブラントコーゲル(熱した鉄球弾)×2 発射  

 ホウイッツル砲による榴弾(爆裂弾)×2 発射 目標距離800m 

 ホウイッツル砲によるドロフィコーゲル(日本名ブドウ弾、散弾のこと)×2 発射 目標距離400m 

 騎兵隊の馬上銃射撃 

 歩兵銃隊及び野戦砲の発射(3門の野戦砲は、両隊の左右に一門ずつ、残りは両隊の昼間に配置)
○1列横隊により正面、左、右に、歩兵銃で射撃(銃は
ゲベール銃を使用「)
○右一列横隊に変じ、後方へ射撃
○左一列横隊に変じ、射撃
○三方陣となり射撃
ゲベール銃に着剣、一列横隊に変じ、突撃し射撃
○一列横隊、三列横隊、再び一列横隊に変じ、退却行動
○散会して前進
○一列横隊となり野戦砲を列前に出して射撃
○追撃して射撃
○後退して射撃
○輪形陣を作り、射撃
○一列横隊に変じ、射撃
 

 ○見学者 

 

 監察水野舎人 鉄砲方井上左大夫・田付四郎兵衛 他幕府役人多数
 大名 本多伊勢守 酒井出雲守 松浦肥前守(肥前平戸城主)など多数 
 

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【追加写真】 2010年2月7日追加 

 写真04-03                        写真04-04          (撮影日 10/02/06)   

 この写真は、東京都板橋区立郷土資料館(10/02/06訪問)の内部に展示されているモルチール砲です。説明によれば、このモルチール砲は、江戸時代末に小石川大砲鋳造所で製造されたもので、口径は20cmです。
 高島秋帆が1841年の演習に用いたものと同型・同サイズのものだそうです。貴重な現物です。


 簡単に言えば、演習は次の二つから構成されていました。

 2門の大砲による砲撃

   騎兵と歩兵と砲兵(野戦砲)による部隊展開と射撃の訓練 

 つまり、高島秋帆の「西洋砲術の演習」とは、単なる大砲を射撃する技術ではなく、大砲とそれを用いた西洋軍隊の射撃と陣形の転換等、歩兵・騎兵・砲兵の3兵種をうまく組み合わせた、いわゆる「三兵戦術」の演習でした。したがって、「高島流の砲術」というのは、これらの複合的な近代戦術と理解しなければなりません。
 
単なる砲術にとどまっていないところが、高島秋帆のすごいところです。

 そうすると、この演習を理解するには、大砲の砲術そのものと、ヨーロッパ敷の軍隊の運用そのものの歴史を理解し、それとの比較を行わないと、その正しい価値は分かりません。
 たとえば、
三兵戦術とは具体的には何でしょうか?ヨーロッパではいつ頃から始まったのでしょうか?
 歩兵銃は、火縄銃とは違うでしょうが、どんな仕組みの銃を使っていたのでしょうか?
 大砲は、三種類いずれも、前装滑空砲です。後装施条(ライフルつき)砲は、まだ使われていないのでしょうか?

 次のページでは、これらの専門的な内容について、学習します。 

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