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銃砲と歴史3-4 |
銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。 |
高島秋帆と高島平4 徳丸ヶ原演習 10/01/24 作成 10/02/07 修正 |
何故徳丸ヶ原で演習を行うことになったか | このページの先頭へ | |
この高島秋帆に関する学習もいよいよ佳境に入りました。 |
写真04-01 写真04-02(撮影日 江戸時代末から明治初期) |
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上の写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。 |
写真04-01 長崎市内北部の立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真です。撮影年代は、1862(文久2)年から1870(明治3)年と推定されています。左手の松の木の向こうの一群の建物が出島です。 |
さて、クイズです。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
1840(天保11)年9月、高島秋帆は長崎奉行太口加賀守喜行に西洋砲術採用の意見書を提出しました。世に言う、『天保上書』です。これが高島秋帆が武蔵徳丸ヶ原で西洋砲術の演習を行うきっかけでした。
高島秋帆が抱いた「危機感」が生じた元は何でしょうか? |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
鎖国下における海外情報の国内伝播は、オランダ船がもたらす情報、『オランダ風説書』です。
これだけのことを知った高島秋帆は、アヘン戦争の結末はもちろん、イギリス艦隊が各地で攻撃を開始し、清朝軍が打ちのめされている事実はまだ伝わっていないにもかかわらず、次の意見具申を行ったのです。
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洋砲採用の建議(高島四郎太夫の『天保上書』、全文 ) | |
※原文は、勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編前掲書『勝海舟全集15 〔陸軍歴史Ⅰ〕』P6-9 |
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【原文】 赤字部分は左右同じ部分です |
【現代語訳】 |
「当子紅毛船、入津の上、内風説に申し上げ候、エゲレス人、唐国広東の地騒擾に及び候由、なお当方在留船主周藹亭、唐国出帆前承り及び候、大略申し上げ候次第、全く相違これなく候事に存じ奉り候。随って愚昧微賤の身分にて、国家の御大切に相拘わり候儀、妄りに尊聴冒し奉り候段は重畳、恐れ少なからず存じ奉り候えども、平生の所思、申し立て候儀、御取り上げにも相成り候わば、有り難き仕合わせ、愚存の儀、左に申し上げ候。 |
「子の年(1840年)の本年、入港したオランダ船が提出した風説書によれば、イギリス人が清国の広東で騒擾を起こしたとありますが、これは現在長崎に来ております中国人船主の周藹亭が清国出発前に情報を得、こちらへ来て話したこととおおむね一致しますので、事実と考えられます。これは国家の一大事と考え、本来お上に意見を重しあげることは恐れ多いこととは知りながら、平生考えていることを申し上げますので、採用いただければ無上の幸福です。 |
以上が『天保上書』の全文と私が考えた現代語訳です.。 |
監察の評議(目付鳥居耀藏の答申、部分) | |
※原文は、勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編前掲書『勝海舟全集15 〔陸軍歴史Ⅰ〕』P9-10) |
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【原文】 赤字部分は左右同じ部分です |
【現代語訳】 |
「一体砲術の儀は、天文年中、蛮国より伝来後、御家にても専ら御用に相成り、享保以来わけて御世話これあり、諸砲術家業合次第に緻密に相成り、一方の御備えに候。然る処、当時西洋にて用い候モルチール筒、業合烈しく、急速の便利宜しく、格別の御備えに相成るべきやに候えは、諸砲術家にて伝来の如く、中りを専一と仕り候業にはこれ無く、接戦の節に臨み、多人数群集の所へ、猛烈の火薬を打込み候ばかりを主と仕り候由。それと申すも西洋諸国習俗は、礼儀の国と違い、ただ厚利を謀り、互いに勇カを闘わし候迄にて、和漢の智略を以て勝利を取り候軍法とは大いに相違仕りおり候やにつき、西洋にて専ら利用これあり候とて、一概に信用も成り難く、然る処、俗惰とかく新奇を好むは古今の通弊、況んや蘭学者流は奇を好む病もっとも深く候間、その末は火砲のみならず、行軍布陣の法より平日の風俗教習までも遵い行い候よう相成り候ては、その害少なからず。これ等の処前以て御深慮これあり度く存じ奉り候。 |
「そもそも砲術というのは16世紀の天文年間にポルトガルより伝来したものですが、徳川家においても必要な軍備として大事にされてきました。とりわけ将軍吉宗様の享保年間以来、蘭学の発展が図られ、砲術諸家の技術は次第に精密となり一大勢力となりました。一方、現在ヨーロッパで使われているモルチール砲は、破壊力が強く発射時間も短く特別の大砲ですが、諸砲術家の大砲が目標のに正確に命中させる事を目的としているのに対して、これは多数の兵士が接戦を演じている戦場へ、破壊力の強い砲弾を打ち込むのを主な目的としています。それというのも、智略を駆使して敵と争う我が国や中国の礼儀の国の戦略とは異なり、ヨーロッパ諸国はただ勝てばいいと武力ばかりで争う戦い方をしています。したがって、ヨーロッパで利用されているといっても、それのみで信用することはできません。また、民間の者が奇抜なものを望むことは今も昔もかわらない悪弊であり、とりわけ蘭学者にはそれが著しいものです。今回の場合それが高じて、火砲のみならず行軍や布陣の方法、日常の習慣まで西洋流をまねしようとするのは弊害が大きいものです。このことをまずご理解いただきたいと思います。 |
この答申の要点は次の2点です。
もともと、鳥居耀藏は蘭学嫌いの保守本流の人物です。西洋砲術を採用するつもりなどありません。1はそのまま理解できますが、2は矛盾しているように見えます。 |
徳丸ヶ原でどんな演習を行ったのか | このページの先頭へ | |
翌1841(天保12)年正月22日に秋帆は息子の浅五郎・門人ら24名と大砲を牽いて長崎を出発し、2月7日に江戸に到着しました。この月日は旧暦です。この年は閏正月がありましたので、40余日かかったことになります。 |
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【追加写真】 2010年2月7日追加 |
写真04-03 写真04-04 (撮影日 10/02/06) |
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この写真は、東京都板橋区立郷土資料館(10/02/06訪問)の内部に展示されているモルチール砲です。説明によれば、このモルチール砲は、江戸時代末に小石川大砲鋳造所で製造されたもので、口径は20cmです。 |
簡単に言えば、演習は次の二つから構成されていました。
つまり、高島秋帆の「西洋砲術の演習」とは、単なる大砲を射撃する技術ではなく、大砲とそれを用いた西洋軍隊の射撃と陣形の転換等、歩兵・騎兵・砲兵の3兵種をうまく組み合わせた、いわゆる「三兵戦術」の演習でした。したがって、「高島流の砲術」というのは、これらの複合的な近代戦術と理解しなければなりません。 |
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