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銃砲と歴史3-2 |
銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。 |
高島秋帆と高島平2 長崎防備と高島秋帆 10/01/03 作成 |
長崎防備 | このページの先頭へ | |
それでは、、町人高島秋帆は一体どのようにして西洋砲術の大家となっていったのでしょうか? |
※台場の名称と位置は、P1の参考文献1・2・3の他、次のウエブサイトの助けを借りて作成しました。 |
長崎の湾内外を守る台場は、大きく分けると5つに分類できます。 |
写真02−01 (撮影日 03/11/28) |
また、訓練に関しては、危機感がしだいに薄れていったことからなおざりになり、大砲発射は7年ごととされ、危険を知らせる烽火台(のろしを上げる施設)は1764(明和元)年に廃止されていました。 |
数多く作られた長崎の台場のうち、現在もその姿をとどめている台場がいくつかあります。そのうち、長崎湾口の東側にある魚見岳の台場は、比較的簡単に訪れることができる史跡となっています。 |
写真02−02 写真02−03 (撮影日 09/10/21) |
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魚見岳台場は長崎湾口の東側の山の中腹にあります。 |
写真02−04 写真02−05 (撮影日 09/10/21) |
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魚見岳台場跡には、3つの台場の遺跡と弾火薬庫だった石蔵が残されています。この2枚の写真は、台場の石組です。 |
写真02−06 写真02−07 (撮影日 09/10/21) |
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左写真02−06は、石蔵です。 |
写真02−08 (撮影日 09/10/21) |
魚見岳「三の増台場」からみたながさき女神大橋と湾内です。橋脚の向こう、湾の北岸は三菱重工業長崎造船所です。 |
写真02−09 (撮影年代 明治初期) |
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明治初期に撮影された長崎湾口の古い写真です。左は湾口東側の女神、右は湾口西側の神崎です。現在は、上の写真02−08の様に、この湾口にながさき女神大橋が架かっています。 |
写真02−09を見ると、長崎湾口は非常に狭いことが分かります。実際、距離にして僅か500m程です。もし、A女神とB神崎の台場から通過する船を挟撃すれば、確実に防衛できる地形ということになります。しかし、それもそれを行うに有効な大砲とそれを扱う訓練された人員がそろっていればこそです。 |
長崎防備と高島秋帆の人生 | このページの先頭へ | |
以上で長崎防備の状況は分かっていただけたと思います。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
この質問については、上の各台場の設置状況を確認すれば分かりますね。
これらの条件(商人として利益を上がることができる可能性も含めて)と、高島秋帆の国防に対する強烈な意識が、彼をして当時に生きた日本人としては希有な状況、つまり、町人として西洋砲術の第一人者となることを実現したわけです。 |
写真02−10 (撮影日 09/10/21) |
出島内に展示されている青銅砲。 |
さて次は、高島秋帆が具体的にどうやってどのような砲術を習得したかが問題です。それはすなわち、徳丸ヶ原の演習がどんなものであったかにつながります。 |
付録:現在の出島 | このページの先頭へ | | |
現在の出島は、江戸時代のような島ではなく、周りを陸地に囲まれた「陸地の一部」になっています。 |
写真02−11 写真02−12 (撮影日 09/10/21) |
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写真02−11は、昔から出島内にあった模型の家屋群です。 |
写真02−13 写真02−14 (撮影日 09/10/21) |
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写真02−13は、西側の国道499号線から市内電車の線路越しに復原建物を写したものです。 |
写真02−15 写真02−16 (撮影日 09/10/21) |
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写真02−15は、復原されたカピタン部屋(オランダ人商館長の部屋)です。 |
写真02−17 写真02−18 (撮影日 09/10/21) |
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写真02−17は、本来の陸地と出島との境界、つまり北側部分の水路です。当時はもっと狭い水路でした。 |
写真02−19 |
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