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銃砲と歴史3-2
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平2 長崎防備と高島秋帆 10/01/03 作成 
 
 長崎防備                                      | このページの先頭へ |  

 それでは、、町人高島秋帆は一体どのようにして西洋砲術の大家となっていったのでしょうか?
 
 まずは、長崎の防備の学習です。
 長崎は、鎖国体制の中での唯一の外国との貿易港でしたから、鎖国体制が始まった時点から、その防備体制が整備されました。この防備という点で具体的に問題となるのは、外国船に対して砲撃を加える台場(大砲を備えた陣地、近代的に言うなら砲台)です。
 次の地図をご覧ください。これが長崎に設置された台場の状況です。


 ※台場の名称と位置は、P1の参考文献1・2・3の他、次のウエブサイトの助けを借りて作成しました。
  「長崎石鍋記録会」(http://www2.tvs12.jp/~m-hide/)の
  「とはち通信 第3号」(http://www2.tvs12.jp/~m-hide/tohati-03.pdf)第4号」「第5号」「第6号」  
 

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 長崎の湾内外を守る台場は、大きく分けると5つに分類できます。
 そのうち、上の地図04には、4つのタイプの築造年代と場所を示しました。(言い換えれば図以外にもう一つあるわけです。)
 4つとは、築造順に
古台場新台場増台場(ましだいば)・佐賀台場です。
 まず、古台場(7カ所、もっともこの名称はのちの時代に新しい台場が築造されてからの表現)は、鎖国体制が完成した直後の1653年に平戸藩によって築造されたもので、肥前佐賀藩と筑前福岡藩が交代で警備を担当しました。上の地図中の
@Fです。
 それ以来、150年にわたってこの台場で防衛をしてきたのですが、その間中は何も起こりませんでしたので、大砲そのものの発達も、砲を発射してその技術を鍛錬することも、余り熱心にはなされませんでした。
 
 そもそも日本の大砲は、はじめて火縄銃が伝わってきた1543年以降、主に西洋から伝わった物を基本として模倣されました。しかし、日本には大量の鉄を鋳造(鉄を溶かして整形する製法)する技術はありませんでしたので、火縄銃がそうであったように、鍛造(熱した鉄をたたいて整形する製法)技術を使って作られました。鉄砲の産地近江国(滋賀県)国友では、大筒(大砲)も作られましたが、「あくまで鉄砲の大きな物」程度の物でしかありませんでした。とても、木製とは言え大きな船に致命的なダメージを与えることができるような威力を持つ物ではなかたったのです。

写真02−01   (撮影日 03/11/28)
 左の写真は、江戸時代初期においては例外的に大きな大砲とされているものです。徳川家康が大阪府堺の銃工、芝辻利右衛門に命じて作らせた物で、1611(慶長16)年に完成し、大阪冬の陣に使われたと伝えられています。通称は芝辻砲と呼ばれ、全長3.13m、口径は9.3cmです。
 この大きさでも製造法は鍛造です。形も大砲と言うよりは、火縄銃の銃身を大きくした物という感じです。
 この大砲は靖国神社の遊就館に展示されています。
  17世紀初期の大砲ですから、仮に使われてとしても、その砲弾は、前装(筒の前方から弾を込める)の球形弾で、着弾しても爆発はしない、ただの鉄のかたまりです。(この点についてもP3でもう一度詳しく説明します。)
 
 

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 また、訓練に関しては、危機感がしだいに薄れていったことからなおざりになり、大砲発射は7年ごととされ、危険を知らせる烽火台(のろしを上げる施設)は1764(明和元)年に廃止されていました。

 ところが、19世紀になると状勢は急速に変化します。
 まず、1804年にロシア人レザノフが来航し、
1807年にはエトロフ事件が起きました。(→P1の年表参照
 このため、幕府は長崎におけるロシア船の対応を変え、ロシア船打ち払いを命令するとともに、佐賀藩に命令して、
古台場7カ所のうち、女神・神崎・高鉾・蔭の尾の台場を増設し、さらに、北岸の太田尾台場の東側の沙崩(すずれ)にも新たに台場を築造しました。これらを総称して、新台場と呼びます。上の地図中のGです。
 さらに、
古台場新台場に加えて、長崎の湾内に7カ所の新台場の築造を命じました。これらの台場については、上の地図04の中の表には表現されていません。実は長崎の台場の位置や歴史を詳しく述べた資料においても、これらについてはあまり詳しく述べられていません。これらが他の物と区別される理由は、これらの台場は藩兵に担当させたのではなく、奉行所の地元役人や町の有力商人にその維持・管理を任せたものだからです。ここでは、仮に奉行直轄台場としておきましょう。
 その7カ所の台場とは、岩瀬道郷備場・稲佐崎備場・北瀬崎米稟・大波止・出島・新地並俵物藏・十善寺郷(参考文献2、有馬前掲書P25)でした。これらについては説明している文献が少ないため、私の力では位置を特定するのが難しく、上の地図04にも記入してありません。

 そして、
1808年にフェートン号事件がおこると、さらに、幕府は台場の増設を行います。すなわち、古台場の長刀岩と古台場のうち新台場を増設した神崎と高鉾にさらに台場を増設(表中の■)し、加えて、長崎湾港の魚見岳Hにも新しく台場を作りました。これらは総称して、増台場(ましだいば)と呼ばれました。
 さらに、海外情勢が寄り緊迫した1850年には、佐賀藩自らが自領であった長崎湾の鼻先を押さえる四郎ケ島、伊王島に砲台を築造しました。これは
佐賀台場と呼びました。
 佐賀藩が長崎湾警備を担ったことは、この藩が藩を挙げて西洋近代兵器とその使用に熱を上げる大きな要因となりました。このことは付いては、また別の項目でも説明します。


 数多く作られた長崎の台場のうち、現在もその姿をとどめている台場がいくつかあります。そのうち、長崎湾口の東側にある魚見岳の台場は、比較的簡単に訪れることができる史跡となっています。
 以下写真によってその一部を紹介します。ちなみにこの写真は、私自身ではなく、未来航路の特派員が撮影してきたものです。


写真02−02                        写真02−03          (撮影日 09/10/21) 

 魚見岳台場は長崎湾口の東側の山の中腹にあります。
 左写真02−02は、湾口に新しく架橋された「ながさき女神大橋」です。女神というのは湾口東側の地名です。道路は湾の南東を市街地からの野母岬の先端へ向かう国道499号線です。
 右写真02−03は、台場への入り口を示す標識です。市街地から来た499号線が女神大橋をくぐって左にカーブしたところにあります。駐車場はありません。特派員はタクシーで行きました。
 


 写真02−04                        写真02−05          (撮影日 09/10/21)   

 魚見岳台場跡には、3つの台場の遺跡と弾火薬庫だった石蔵が残されています。この2枚の写真は、台場の石組です。


 写真02−06                        写真02−07          (撮影日 09/10/21) 

 左写真02−06は、石蔵です。
 右写真02−07は、石垣越しに湾外の高鉾島をのぞんだ写真です。


 写真02−08                                       (撮影日 09/10/21) 

 魚見岳「三の増台場」からみたながさき女神大橋と湾内です。橋脚の向こう、湾の北岸は三菱重工業長崎造船所です。


 写真02−09                                       (撮影年代 明治初期)   

上の写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 明治初期に撮影された長崎湾口の古い写真です。左は湾口東側の女神、右は湾口西側の神崎です。現在は、上の写真02−08の様に、この湾口にながさき女神大橋が架かっています。
 江戸時代末までは、
A女神B神崎の台場がありました。上の写真02−02写真02−08H魚見岳増台場跡は左の岬の山の向こう側(港外)になります。
 写真02−07に写っている高鉾島は、神崎の向こうに見えます。この島には
D高鉾の台場がありました。その遙か向こうの島は、かつて石炭の採掘で有名だった高島です。
 また、左側向こうの島は、香焼島です。その右突端には、
E長刀岩F蔭の尾の台場がありました。香焼島は現在では、埋め立てによって陸続きになっています。香焼島の向こうが、伊王島です。佐賀藩領のここには、1850年に佐賀台場が設置されました。(上の「地図04長崎湾内外の台場(砲台)の設置」を参照してください。↑


 写真02−09を見ると、長崎湾口は非常に狭いことが分かります。実際、距離にして僅か500m程です。もし、A女神B神崎の台場から通過する船を挟撃すれば、確実に防衛できる地形ということになります。しかし、それもそれを行うに有効な大砲とそれを扱う訓練された人員がそろっていればこそです。
 幕末の日本の場合、そこが問題でした。

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 長崎防備と高島秋帆の人生                | このページの先頭へ |  

 以上で長崎防備の状況は分かっていただけたと思います。
 それでは、その長崎の警備と高島秋帆はどうかかわったのでしょうか。
 またまたクイズ風に考えます。

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 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 この質問については、上の各台場の設置状況を確認すれば分かりますね。
 他の4つの台場が佐賀藩・福岡藩の担当であったのに対して、1807年のエトロフ事件のあとに新設された台場は、奉行所直轄でかつ奉行所の役人や町年寄などの有力町人に担当させたものでした。
 この時、7つの台場のうち、出島に設置された
出島台場の担当になったのが、秋帆の父高島四郎兵衛でした。
 翌年1808年のフェートン号事件の時も、同船が湾口に停泊し短艇を繰り出したという状況下で、出島台場には高島四郎兵衛以下100数十名の町人が詰めたと記録されているということです。(参考文献3、石山前掲書P10
 
 フェートン号事件以降海防の気運が高まると、出島台場防備担当の高島父子には、他所のただの町人ならかなわないことが可能となりました。次の諸点です。

 幕府は奉行所役人や町人に防備を担当させるため、当時の最新の砲術であった荻野流増補新術の創始者、坂本孫之進俊現を長崎に派遣し、父四郎兵衛らに砲術を教えた。四郎兵衛は荻野流増補新術の師範役となり、秋帆もまた長じて父からその教授を受け荻野流の師範役となった。

 

 出島は、通常なら出入りが厳重にチェックされるところであり、町年寄といえどもそう簡単には立ち入ることはできないところである。しかし、高島父子は出島台場の担当であったため、比較的簡単に出島に出入りができ、それによって、オランダ人との接触が容易にできた。それにより、出島内のオランダ人から砲術の知識を吸収することができた。 

 出島での貿易においては、幕府が直営で行う公的な貿易(本荷という)の他、それとは別に私貿易(脇荷という)が認められていた。(密貿易ではない)
 これは、商館長の許容の範囲内で、将軍以下幕府役人や長崎の奉行・代官・町年寄が行うもので、これによって、兵器に関する蘭書(オランダ語の本)や銃・大砲・弾薬そのものを、法に触れずに輸入し、また、他の大名等に転売して利益を上げることもできた。

 これらの条件(商人として利益を上がることができる可能性も含めて)と、高島秋帆の国防に対する強烈な意識が、彼をして当時に生きた日本人としては希有な状況、つまり、町人として西洋砲術の第一人者となることを実現したわけです。

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  写真02−10                                       (撮影日 09/10/21) 

 出島内に展示されている青銅砲。
 「東南アジアのオランダ植民地で鋳造されたものと思われる。幕府が輸入したか、オランダ船から降ろされて出島砲台に備えられ砲であろう。」(参考文献1、岩堂前掲書下P637
 


 さて次は、高島秋帆が具体的にどうやってどのような砲術を習得したかが問題です。それはすなわち、徳丸ヶ原の演習がどんなものであったかにつながります。
 それはまた次のページに説明します。
 このページの最後は、現在の出島について、特派員の写真を元に説明します。


 付録:現在の出島                                | このページの先頭へ |   

 現在の出島は、江戸時代のような島ではなく、周りを陸地に囲まれた「陸地の一部」になっています。
 これは明治以降の度重なる長崎港整備事業の結果で、すでに、1890年には出島は陸続きとなり、1904年には南側がすべて埋め立てられ「内陸」と化してしまいました。

 戦後、長崎市は出島復原計画を進め、現在は、1996年の第二次出島史跡整備審議会答申に基づいて、短中期計画と長期計画の二つが打ち出されています。

 短中期計画では、出島内に25棟の復原建物を建造する計画です。当初は、完成年度が2010年とされていましたが、現在では経済状況に合わせて、少々遅れ気味となっています。復原のモデルは、ちょうどこのページで話題となっている、1820年代頃に設定されています。

 さらに、長期計画では、出島周辺の交通網の整備と中島川等の河川の流路変更によって、19世紀初頭の海に浮かぶ出島を完全に再現することが目標に掲げられています。(参考文献5、山口前掲書 P21−34)

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 写真02−11                        写真02−12          (撮影日 09/10/21)   

 写真02−11は、昔から出島内にあった模型の家屋群です。
 写真02−12は、表門です。


 写真02−13                        写真02−14          (撮影日 09/10/21)   

 写真02−13は、西側の国道499号線から市内電車の線路越しに復原建物を写したものです。
 写真02−14は、同じ電車通りから見たヘトル(商館長次席)部屋の復原建物です。


 写真02−15                        写真02−16          (撮影日 09/10/21)   

 写真02−15は、復原されたカピタン部屋(オランダ人商館長の部屋)です。
 写真02−16は、水門です。出島の一番西側のこの場所からオランダ船によって運ばれてきた荷物が陸揚げされました。


 写真02−17                        写真02−18          (撮影日 09/10/21)   

 写真02−17は、本来の陸地と出島との境界、つまり北側部分の水路です。当時はもっと狭い水路でした。
           一番手前の復原建物は、一番船頭部屋、つまりオランダ船の船長の部屋です。
 写真02−18は、一番船頭部屋の反対側と一番倉です。


 写真02−19  
    (撮影日 09/10/21)
 これは復原された天秤ばかりです。オランダ船が運んできた砂糖などを計量するはかりです。
 片方に砂糖等を、もう片方に分銅を置いて計量をします。 


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