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銃砲と歴史3-7
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平7 西洋火砲の発展と日本210/02/21 作成 

 銃の発達のポイントの説明2   | このページの先頭へ |  

 銃の発達のポイントの説明の続きです。
 まずは、ポイントの復習です。以下の4点のポイントがあります。
 そのうち、第一のポイント、
@発射時の火薬の発火の方法については、前ページで説明しました。


 ここでは、続き、A〜Cについてを説明し、最後のまとめを示します。

 ※このページは前ページに引き続いて、以下の書物等を参考に記述しています。
  岩堂憲人前掲書、幕末軍事史研究会編前掲書 等  ※参考文献リストはこちら→P1先頭へ


 A銃身の内側の細工

 銃身の内部は、当初の銃では何の加工もしていないすべすべのものでした。のち区分するために、このタイプの銃は滑腔銃と呼ばれます。弾丸が銃腔(筒)内を滑っていくという意味です。
 ところが、弾丸を正確にまっすぐ飛ばす工夫として、
銃腔内に螺旋(これをライフル、日本語で施条といいます)を切り、それによって弾丸を回転させる方法が考案されました。ある物体に回転を与えるとその姿勢や運動が安定することは、昔から人間が気づいていた原理でした。物理学的にはジャイロ効果と呼ばれています。
 難しい用語ですが、
ジャイロ・コンパスのジャイロです。ジャイロ・コンパスは、移動する物体(船など)がどのような運動をしていようとも、自ら回転して安定を保ちつつ、方位を示す機器です。
 といっても、これは日常的ではありませんから、よく分かりません。この原理が最もよく分かる身近なものは、
コマです。コマは高速回転することによって、立った状態で、細い針にとどまったり、糸の上を動いたりすることができます。

 また、実際に飛んでいるものでこの原理が分かるのは、
楕円形のボールです。アメリカン・フットボールにおいてクオーター・バックの手から投げられた楕円形のボールが、進行方向を軸にくるくる回りながらまっすぐ飛んでいくという美しいシーンをTVで見た方も多いでしょう。


 アメリカンフットボールのQB(クオーターバック)が投げるボールについては、この競技をあまりご存じでない方は、ピンとこないかも知れません。
 何かいい映像はないかと、インターネットを探したら、ありましたありました、こういう時の「
You tube」です。
 アメリカのTVに、「
Sport Science」という番組があって、その映像が、「You tube」 に出ています。
 QBの投げる玉の回転と正確さを分析する映像で、なんと、本年のスーパーボールを制覇した、
ニューオーリンズ・セインツのQB、ドリュー・ブリーズ(Drew Brees)が主演しています。
 回転がかかったブリーズの投げる球は、20ヤード(18m強、野球の投手-本塁間と途ほぼ同じ)の距離なら、4.8inch(約10cm)の的のほぼ中央に百発百中であたります。これは同じ距離のアーチェリーの名人よりも高い命中率です。
 この映像は、次のURLでお楽しみください。英語版ですが、映像を見ているだけで分かります。
 今回のこのページの情報の中では、最も面白いものであることは請け合いです。
You tube 「Sport Science Drew Brees」(→http://www.youtube.com/watch?v=tVoqA-LKGb4)

 ライフルを施すことによって何故命中精度が上がるかについて、岩堂氏の前掲書からその理由を引用します。1742年に英国の科学者ベンジャミン・ロビンスが解明したものです。
「ライフリングを施された銃が弾丸を発射すると、弾丸は進行方向に向かって飛行すると同時に、銃身の軸線上で回転する運動が与えられ、この運動は弾丸が銃身を離れても続行される。そして、回転する弾体の表面に与えられる抵抗は、その弾体が回転することにより全体に均等に配分され、飛行線上のいずれの点においても等しくなる。ゆえに、この線は他からの抵抗によってもまげられることがなく、もし弾丸が飛行中にある点で外力が働き、弾道が曲げられるような力が加えられても、弾丸が1回転する間にその変傾する力を中和させ、ふたたびその線上に戻って飛行を続ける」
 岩堂前掲書 上P386 ※参考文献リストはこちら→


 銃腔内にライフルを切って、弾丸を回転させることがいつから行われたのかというと、これも、時期・場所は定かではありません。しかし、この工夫も意外に早い時期に行われ、1500年前後には、オーストリア・ドイツの複数の銃工がライフルを施した銃を作製し、16世紀前半に改良が進められたと考えられています。
 つまりは、この点においても、
日本へ火縄銃が伝来した時には、すでに、この技術がヨーロッパ中部には存在していたわけです。
 
 しかし、この技術も、競技用・狩猟用の銃としては、次第に利用が進められていきましたが、
軍事用としての普及はなかなか進みませんでした。理由は2点あります。

 銃腔にライフルを施すこと自体が、工作的になかなか難しい技術であった。

   銃へ弾丸を装填する方法は、この時代は先込め式であり、この場合は、銃弾とライフル(溝)とをうまく噛み合わせる方法が不十分で、ライフルのある銃の先から弾を込めるのは、手間と時間がかかることであった。 

 以上のような理由から、安価で大量生産が必要、かつ使い勝手がよくて射撃時間が短い必要がある軍用銃としては、なかなか普及が進みませんでした。


 ライフルを施した銃の利用が進んだのは、ヨーロッパではなく、アメリカ植民地においてでした。
 アメリカ植民地へ渡った移住者達は、春夏秋の穀物が実る時期は、それを食糧とすることができましたが、開拓地の不安定な収穫とそれまでの蓄えに乏しい状況とを考えると、冬は、狩猟民として獲物を射止めることが自分たちの命を守る唯一の方法となったことがしばしばあったと想像できます。
 その時に彼らにとって頼みの綱は、ただ飛ぶだけではなく、ライフルを施した命中率が高い銃だったのです。
 ちょっと余談ですが、アメリカの銃社会を説明する場合、「自分の命は自分で守る」という原理が使われます。その場合、外的に対して身を守るという意味ばかりが強調されますが、実は、「獲物を獲得するための銃」という意味合いは、あまり語られない気がします。少なくとも、18世紀においては、このために銃が果たした役割は、大変大きなものあったと思われます。

 さて、話を本題へ戻します。
 17世紀末から18世紀にかけて、多くのドイツ人移民がペンシルバニアなどへ渡ってきた時、
ヤーゲル・ライフルという銃が一緒に持ちこまれました。ヤーゲルというドイツ語の意味は、もともとヤーゲ=「jage」(狩る)という動詞からできた言葉で、「狩人」を意味します。
 この銃がアメリカ植民地で改良され、銃腔はより細く、そして銃身はより長くされて、命中精度が高まりました。この改良された銃は、当初は、
ペンシルバニア・ライフルと呼ばれていましたが、やがて、開拓民の西部移住にともなってその生産地も移り、その結果のちには、ケンタッキー・ライフルと呼ばれるようになりました。今では、生産時期に関係なく、18世紀から19世紀前半のアメリカのライフル銃は「ケンタッキー・ライフル」と呼ばれています。
 
 そして、
1775年にはアメリカ独立戦争が始まります。
 イギリス軍と大陸軍との二つ目の大きな戦闘である
バンカー・ヒルの戦いは、1775年6月に現在のマサチューセッツ州のボストン郊外で発生しました。この時、イギリス軍の小銃はライフルが無く、大陸軍は寄せ集め軍ながらその多くはケンタッキー・ライフルを所持していました。この戦いでは、より命中精度が高いケンタッキー・ライフルを持った大陸軍の攻撃が威力を発揮し、戦いそのものはイギリス軍の勝利に終わりましたが、戦傷者は圧倒的にイギリス軍に多く発生するという事態を引き起こしました。ライフルを施した銃の性能が証明されたわけです。
 このことは、このあとのアメリカ独立戦争を戦った多くの民兵(当然最初は合衆国陸軍というものは存在しなかったわけです)やのちの正規軍の兵士の誇りとなり、イギリス軍には精神的なダメージを与えました。今でも、7月4日に各地で行われる
独立記念日のパレードでは、ケンタッキー・ライフルを持った民兵姿の大勢の人の行進が見られます。
 
 しかし、そのことと、それ以後の正規軍の銃が、ライフル銃となったこととは別です。実は、装填にやっかいなライフル付きの銃は、正規銃としては採用はされず、独立後の
アメリカ陸軍の制式銃も、ヨーロッパ大陸の銃と同じ、前装式滑腔フリント・ロック式銃でした。
 陸軍の軍用銃がライフル化されるには、次に述べる、銃弾の形と装填の方式の変化が必要でした。 


 B弾丸の種類

 この項目では、弾丸の種類球形弾丸椎の実型弾丸(円錐弾)か)について説明します。
 
 当初の弾丸の形は球形であり、長くその形が続きました。
 しかし、19世紀前半になって、ようやく
椎の実型の弾丸が考案されました。その利点と欠点は次のとおりです。

 椎の実型(円錐弾)にすれば、銃弾重量が同じであっても、空気抵抗がより少なくなり、射程距離を長くでき、さらに、威力も増大できる。

   そのかわり、円錐弾を使用するには、同時にライフルを施して、弾丸に回転を加えないと、高い命中率は得られない。 

 つまり、椎の実型弾丸は同じ重さの球形弾丸に比べ、射程も威力も優れていましたが、Aで説明したライフル化が実用化しないと、命中率が期待できないという課題がありました。
 
 先込め式の銃では、ライフルの場合、どうやって弾丸を装填したかは、次の説明図を見ながら説明します。 


 球形弾丸の場合、ライフルが刻んであった場合の装填は次のようにしました。

 火薬を挿入する。

   コインほどの木綿の小布(パッチ)を獣脂にひたす。 
   パッチを銃口に置き、その上に球形弾丸を載せる。 
 パッチと弾丸を一気に朔杖(カルカ)で銃底へ押す。 
 
 これによって、パッチと
球形弾丸と筒とにうまく摩擦が生じ、球形弾丸が筒内でライフルに沿って回転していくという仕組みです。一見球形弾では回転する効果は今ひとつと思われますが、実験のデータでは、球形弾でも回転させる効果はあり、命中率を大きく向上させるということです。


 一方、説明図の右側の椎の実型の弾丸は、フランスのミニエー大尉によって発明されたもので、この弾丸がミニエー弾と呼ばれ、この弾丸を使用する銃は、他の機構が異なっていても、ミニエー銃と総称されています。
 
椎の実型銃弾を銃口から装填する場合は、球形弾丸以上に難しい作業でした。
 円柱形の部分をうまくライフルに噛み合わせなければなりません。スムーズに装填するためには、銃腔の内径と弾丸の直径の差がある程度大きいものを使えばいいわけですが、それでは、隙間がありすぎて弾丸に十分な初速は得られません。
 19世紀前半のいろいろな試行錯誤ののち、
ミニエー大尉がたどり着いたのは、次の工夫でした。

 弾丸底部を大きめの空洞にする。 

 空洞に鉄製の小キャップをはめ込む。 

 弾丸後部には溝を掘り、その中には銃腔との摩擦をほどほどにするために堅めのグリースを充填しておく。

 発射火薬が爆発するとその鉄製小キャップが弾丸の空洞の奥まで押し込まれ、それによって、弾丸本体の外縁が拡張して、銃腔面のライフルに食い込む。 

 説明図05のA・Bの写真の弾丸は、ヤッフー・オークションで購入しました。時々出品されています。一応本物ということになっています。証明書などはありません。 


 皮肉なことにフランス人ミニエー大尉の考案したミニエー弾を最初に採用したのは、フランス軍ではなくイギリス軍で、1844年のことです。

 その後1853年にイギリス陸軍は、
エンフィールド銃を制式採用しました。
 これは、口径14.7mmの先込め(
前装式ライフル式(施条)銃で、ミニエー弾を使用していました。幕末に輸入された銃の中では主役を占めました。


 C弾丸を装填する(込める)方法 

 この項目では、弾丸を装填する方法(先込め前装元込め後装か)について説明します。
 
 銃にとって、弾丸を装填する方法は、発射間隔をいかに短くするかに直接つながる大問題でした。
 最初の銃は、先込めではじまりましたが、この方法は火薬と弾丸を筒先から落下させなければならず、時間的には短縮が難しいものでした。
 これを克服するrための元込めの工夫は、結構早い時代から工夫されてきました。
 さらに、上のAやBで説明したように、銃腔にライフルを刻んで椎の実型の銃弾を回転させて打ち出すということになると、先込めに代わって元込めの開発が絶対必要でした。
 
 しかし、手元で装填する元込めにおいては、その装置から火薬の爆発ガスを漏らさない方法が技術的には確立できず、軍事用の小銃の元込め化は、なかなか進みませんでした。何百発・何千発・何万発とうっても、全く発射ガス漏れがない完全なものでなければ、実用化はできません。銃を発射して撃ち手が負傷しては元も子もありません。
 
 この問題はなかなかの難問でした。


 ここでは、軍用小銃の歴史を語っています。
 その話を進める前に、ちょっと寄り道をして、拳銃(片手でもって撃つ鉄砲)の改良の話をします。連発化と後装化につながる改良は、軍用小銃に先んじて、拳銃の分野で開発が実現しました。
 アメリカ人
サミュエル・コルトは、1835年に拳銃において、回転式シリンダーレボルバー)による連発拳銃の特許を申請し、翌年取得しました。撃鉄(ハンマー)を起こすと、5連発のシリンダー(5個の薬室がある)が5分の1回転して、次の薬室に通じる伝火孔のニップルにかぶせられた雷管がハンマーの落ちる場所にちょうどうまく位置されるという仕組みです。レボルバーの後部はニップルに通じる小穴があいている以外にふさがれており、銃弾はレボルバーの前から装填しました。
 この新型拳銃は発売当初は大きな評価を得られず、コルトは一時自分の会社の倒産という憂き目にあいました。しかし、サミュエル・ウォーカーというテキサス・レインジャーの一員がコマンチ・インディアンとの戦闘で活躍した教訓を得て銃を改良し、大口径6連発としました。このウォーカー・モデルは好評を博し、1840年代後半にコルトは会社を再建しますが、ちょうどこのあと、カリフォルニアの金鉱の発見(1849年)によって西部開拓が一層進み、私たちのワン・パターンのイメージ、「
腰にコルトの拳銃を吊り下げた西部劇のガンマン」というのが、作られていくわけです。
 このコルトのレボルバーは、のちに別会社(
スミス&ウエッソン社)によって後装式に改良されます。(後述)


 現代では、発射ガスの漏れを完全に防ぐことをどのように解決しているのでしょうか?
 下の写真をご覧ください。

説明図05C・Dの銃弾も、ヤフー・オークションで入手しました。もちろん本当の本物ではなく、本物の使用済み薬莢(火薬は入っていません)に銅製の模造弾丸を装着した飾り物です。まぁ、全体の雰囲気だけは「本物」です。 


 説明図05C・Dは現代の銃弾です。弾丸と火薬・雷管が、金属のカートリッジの薬莢によって一体となっています。これが近代的弾薬包(やくほう)です。
 このような
金属カートリッジを使えば、まず装填そのものが容易になります。さらに、火薬の爆発によって生じる発射ガスも金属薬莢内に閉じ込められ、外に漏れる危険が大幅に減少します。
 このような
金属カートリッジの発明こそが、後装銃の完成を実現するポイントでした。
 実は、火薬と弾丸を一体化する発想は早くから工夫されていました。すでに、
三兵戦術を確立したスウェーデン王グスタフ・アドルフ(説明は、このシリーズのP5にあります。→)は、17世紀前半に、小銃を持った歩兵の攻撃力を向上させる手段として、小銃の発射速度を速めるために、先込め銃の装填に、紙製弾薬包を実用化しています。




 また、後装銃そのものは、今話題にしようとしている確立期の19世紀中盤を待たず、もっと早く世に出たものもあります。早くは、1811年にジョン・ハリス・ホールが特許を申請し、のちにアメリカ陸軍が制式採用をした、フリント・ロック式ライフル銃のM1819があります。この銃はある程度は量産されました。しかし、この銃にはまだ金属薬莢は使用されておらず、まだまだ完成品とはいえないものでした。
 これ以降、金属カートリッジ以外(紙で包んだカートリッジが主流)の方法を使った後装式の銃がいくつも考案されていきます。
 
 では、完全な金属カートリッジが誕生する要因は何だったのでしょうか?
 18世紀後半から始まった産業革命は、次第に欧米諸国の生産技術を進歩させ、19世紀半ばには、
真鍮の金属板を高圧でプレスして薬莢のカートリッジを打ち抜いて円筒型に成型する技術が実現しました。これこそが金属カートリッジを生み出したのです。

 1851年フランス人フロベルトにより、
金属薬莢の底部の外縁部(リム、rim ふち)をふくらませ、その中に発火剤の雷汞を入れて起爆させる、リム・ファイヤ式の金属カートリッジが実用化されました。(形状は下の説明図06を参照)
 1857年には、コルトのレボルバー式拳銃(レボルバーの部分では前装式)を
スミス&ウエッソン社が改良し、リムファイアー型の金属薬莢を使った後装式拳銃が生まれました。

 また、1857年、イギリス陸軍のダニエル・グリーン中佐によって、
グリーン・ライフルが考案されました。これは、のちの小銃の基本要素となる、槓桿(こうかん、レバー=ボルトハンドルのこと)式を使ったボルトアクションによって、から薬莢を排出し銃弾を装填する方法が工夫され、これはのちにドイツのモーゼル銃に引き継がれて完成を見ることになります。
 1861年には、アメリカ人のクリストファー・スペンサーが考案した、
リムファイアーの金属薬莢を使った7連発のライフルスペンサー・ライフルがアメリカ軍に採用されました。銃床(銃の手元の木の部分)の内部に7つ銃弾を順に配列して、連発できる仕組みでした。
 1861年にはイギリス人ダウが通常の銃弾ではなく狩猟用の散弾銃でしたが、
金属カートリッジの底部中央におさめた雷管を打撃するセンターファイア方式の金属薬莢を実用化しました。
 ついで、1866年には、アメリカ陸軍のハイラム・ベルダン大佐と、イギリス陸軍のエドワード・ボクサー大佐が、ダウの方式を応用し、散弾ではなく通常の弾丸を発射する金属カートリッジの底部中央におさめた雷管を打撃するセンターファイア方式をそれぞれ実用化しました。この二人の発明は、ほとんど同じ原理で少し異なる形状でしたが、この二つによって、近代的な金属カートリッジが完成しました。

 この時イギリスでは、ヤコブ・スナイダーが開発した後装銃が有望視されていましたが、これと上述のボクサー大佐の金属カートリッジが組み合わさって、
1867年スナイドル銃が開発され、これによって、銃の発達は、近代的な後装銃の時代へと入ったのです。






 まとめです                            | このページの先頭へ |  

 銃の発達のポイントである、発火の方法銃腔内のライフルの有無弾丸の形装填の方式、の4点について、およそ400年の発達を概観しました。
 それをまとめると次のようになります。



 これで、火縄銃から近代軍用歩兵銃(小銃)までの発展が整理できました。
 すなわち、15世紀から19世紀の後半までに、軍用小銃が、
発火の方法(火縄→雷管を使ったパーカッション・ロック)、銃弾の形状(球形弾→椎の実=円錐弾)、銃腔の細工(滑腔銃→ライフル銃)、装填の方法(先込め=前装→元込め=後装)のそれぞれのポイントにおいて技術的発展を見せ、その結果、1860年代のイギリスのスナイドル銃に代表される近代小銃の確立につながったということです。



 西洋銃の発展と高島秋帆及び幕末の銃の輸入               | このページの先頭へ |  

 さて、話を高島秋帆と結びつけます。
 上の年表の中に、
1841年の高島秋帆の演習の時期が示してあります。
 秋帆は西洋式近代砲術を修得しましたが、当然ながらその砲術は、その時点までにヨーロッパで流布してきた砲術や武器に他なりません。つまり、それは
スナイドル銃を使ったものではありません。
 
 ちょっと確かめる意味で、上の年表を見ながら、下の黒板で確認してみてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 秋帆が輸入し、徳丸ヶ原で使用した歩兵銃は、オランダ製のゲベール銃と呼ばれている銃でした。(彼の輸入した武器のリストはこちらです。→P3へ
 その仕様は、
フリント・ロック前装式滑腔銃で、弾丸は球形弾でした。つまり、発火方法こそ、火縄(マッチ・ロック)から火打ち石を使ったフリント・ロックに変わっていましたが、それ以外は、まだ近代の銃の要素を持っていない銃だったのです。
 秋帆はこれとは別に、ドイツ製の
ヤーゲルライフルも少数輸入していましたが、これは演習の主役ではありませんでした。上の年表で確認できるように、ちょうど高島秋帆の演習以後、西洋の歩兵銃は近代銃へ向けて急速に発達していくのです。

 これは次のことを意味しました。
 それ以降の幕末の開国の動きの中で、日本は、外国に対抗するという対外的な理由と、内紛に勝利するという対内的な理由の両方から諸勢力が武器の輸入の必要に迫られます。その結果、先んじて急速に進歩する欧米からたくさんの種類の銃器が、一部その価値の大小は無視されて、大量に輸入されたのです。南北戦争は1865年に終結しましたが、終結によって需要を失った兵器は、今度は日本へ向けて大量に売り込まれました。
 幕末・戊辰戦争期に輸入された欧米の銃器の種類は途方もなくたくさんで、そのおかげで、欧米で19世紀の銃を研究している学者等が、欧米では全く残されていない19世紀の銃や弾丸の実物を探しに、わざわざ日本へやってくるということもあるとのことです。
   ※磯村照明前掲論文「シンポジュウム「江戸の砲術ー砲術書から見たその歴史ー」記録所収より


 ここまで2ページにわたって、歩兵銃の発達の歴史と高階秋帆の学んだ銃砲について説明してきました。
 本当は、歩兵銃だけではなく、
大砲についても同じことをしなければなりませんが、ここでは、銃だけにとどめます。
 
大砲の近代化と日本については、製鉄の技術なども含めて、また新しい項目でお届けします。しばらくお待ちください。

 次ページは、演習以後の高島秋帆の逮捕事件と活躍とを付記し、さらに高島平の近況を写真で報告してこのシリーズの最終ページとします。


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