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銃砲と歴史3-3
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平3 西洋砲術の習得 10/01/17 作成 10/02/07修正 
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 従来の日本の砲術と西洋の大砲          | このページの先頭へ |  

 前ページでは、長崎の防衛とそこに高島四郎兵衛・秋帆がどうかかわり、西洋砲術を学ぶ道筋があったことを説明しました。このページでは、高島秋帆がどのような内容の西洋砲術をどのようにして学んだかを説明します。それは、結果的に高島秋帆が徳丸ヶ原でどのような演習を行ったか(これは次のP4で説明→)につながります。
 
 年表(こちらです↑)を見ると、
・1810(文化10)年父高島四郎兵衛、荻野流砲術(増補新術)の皆伝師範となる。 
とあります。
 幕府は奉行所役人や町人に長崎湾内の台場の防備を担当させるため、当時の最新の砲術であった
荻野流増補新術の創始者、坂本孫之進俊現(天山)を長崎に派遣し、父四郎兵衛らに砲術を教えました。この結果、父四郎兵衛は荻野流師範役となりました。秋帆はその時はまだ満12歳でしたが、その後、1818(文政元)年の9月には秋帆も町年寄見習いを命じられ、同じ年の11月には、「町年寄本役同様勤べし」として、、お手当銀3貫目をもらう身分になりました。秋帆、満20歳の年のことです。秋帆が父から荻野流の教授を受けその師範役を嗣いだのもこの頃と思われます。
   ※石山滋夫前掲書P50(参考文献一覧へ↑
 
 それでは、その
荻野流増補新術とはどのような砲術だったのでしょうか。次のように表現されています。
「天山(引用者注 坂本孫之進)の考案では、周発台が有名である。これは
駐退復座装置を備えた自在砲架で、すでに実物はなく、模型によって概略を知るのみだが、それで見ると、構造原理としては砲架というものの基本的な機構といえるが、模型で見るかぎり、実際には重い砲身と強烈な反動に耐えられるとは思えず、手で操作できる程度の小口径砲を載せられるだけのものである。和式砲術の最もすぐれたといわれる流派でも、この程度の内容しかなかったのであった。」
   ※岩堂憲人 前掲書下P637−638(参考文献一覧へ↑
 
 つまり、周発台と呼ばれる砲を載せる砲架は、駐退復座装置というものが付いている優れものでした。この装置は、大砲が火薬の爆発によって弾丸を発射し、その反動で後退するのを、砲全体ではなく砲身のみを後退させることによって処理する装置(駐退機)と、後退した砲を元に戻す装置(復座機)を合わせたものです。
 また、この周発台は同時に、砲そのものが180度旋回し、仰角(上方向への角度)も75度から80度取ることができるという点でも画期的でした。
 しかし、大きな問題がありました。
 それが扱える大砲は、せいぜい
百目筒程の大きさのものでした。
 
百目筒とは、当時の銃砲の大きさを表す数字で、弾丸の重さが、100匁「もんめ」(1匁=3.75グラム、100匁=375グラム)の大きさの銃砲と言うことです。
 大砲の大きさを表す数値として、この時代は、日本も西洋もこのような弾丸の重さを使った表現が使われていました。19世紀後半から一般的となる、「口径○○cm砲(砲の筒の直径が○○cm)」という言い方は、まだ無かったのです。(かの有名な日本帝国海軍の戦艦大和の備砲は、口径46cm砲」です。)
 そこで、ここでは、イメージが比較的わかりやすい、筒の直径を用いて大砲の大きさを表す方法へと転換を試みます。

 百目筒という大砲の口径はどのぐらいなのでしょうか?
 基本となる方程式の考え方は次のものです。

 
弾丸の重さ(グラム)=弾丸の体積(立方センチメートル)×比重(グラム/立方センチメートル)
 
 これを具体的に方程式にします。
 球(弾丸)の体積は、次の式で求められます。πは円周率、r は球の半径です。

 

 弾丸の原料である鉛の比重(つまり体積1立方センチメートルあたりの重さ)は、11.36です。
 具体的に数値を当てはめて、方程式を作ります。
 

 

 これを解くことにより、その弾丸の半径r を求めることができます。
 式を変形し、半径r を求めます。
 

 

 答えが出ました。半径は約2cm、普通に言う銃砲の口径(直径)は、その2倍の約4cmとなります。
 つまり、百目筒
口径僅か約4cmの大砲ということになります。 
 
 また、この時期に日本の大砲として一般的に使われてきた比較的大きな大砲である
三百目筒でも、口径は約6cmです。
 

 ※社団法人日本ライフル射撃協会のウエブサイトには、次の数値が掲載されています。 

 百目筒=口径40.34mm  

 三百目筒=口径58mm

 弾径39.54mm

 弾径57mm

 ※同協会のトップページは、http://www.riflesports.jp/ 

 ※掲載ページは、http://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index2.html 


 
口径僅か4cmや6cmの大砲で、外国の軍艦に対抗できるのでしょうか?
 前ページで紹介(→P2へ)した和砲として例外的に大きい芝辻砲は、口径9.3cmですから、弾丸の重さを使う表現では、「1貫200匁砲」(1200目筒)ということになります。これなら大丈夫なのでしょうか?

 これをはっきりとするためには、この当時、西洋の軍艦が搭載している砲がどれぐらいのものであったのかを確認しなければなりません。
 次のデーターは、1805年にイギリスとフランスとの間で行われたかの有名なトラファルガー海戦の時の、イギリス海軍の旗艦(ネルソン提督座乗)、ヴィクトリー号の諸元です。

 

 19世紀初頭の戦艦ですらこの状況です。ナポレオン戦争後のさらなる兵器の発展を考えると、日本の「防衛力」は、まったく心許ないものでした。

 この要因は、日本の銃砲の製造能力の限界によるものでした。
 2ページでも説明(↑)
したように、江戸時代の日本の旧来の技術では、
鋳造により大きな銃砲を製造する技術はなく、鍛造によるものでした。鍛造による製造では、大きな口径の大砲を作るには無理がありました。

 つまり、
荻野流増補新術を学んでも、外国船には太刀打ちできないという結論になります。

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【追加】 以下の写真は、2010年2月7日に追加掲載しました。 


 写真03−09 トラファルガー海戦時のネルソン提督旗艦ビクトリーの模型 (撮影日 10/01/26)

 18世紀末建造されたイギリス海軍の戦列艦。のちで言う、戦艦。写真で赤と黒の部分は、舷側に設けられた砲座。この時代の戦列艦は、小口径砲まで合わせると、合計104門の大砲を装備していました。 

上の写真は、2010年の1月に開催された、帆船模型愛好家のグループ、ザ・ロープの展示会で、事務局長さんの許可を得て、過去の作品のアルバムから撮影しました。ありがとうございました。


 蘭書や西洋砲術等の「輸入」                            | このページの先頭へ |  

 高島四郎兵衛・秋帆父子は、このような日本流の砲術では、西洋の軍事力にまったく太刀打ちできないということを長崎で外国船を見て痛感し、それに対抗するためには、オランダから学ぶ以外に方法がないことを悟りました。
 この結果、おそらくは、1823(文政6)年11月に新しいオランダ商館長として来日した
ヨハン・ヴィレム・デ・ステュルレル(1826年8月まで滞在、元陸軍大佐)に西洋砲術の手ほどきを受け、さらに、記録によれば、1830年代(天保年間)に入ってから、オランダ船を通して、砲術や基礎科学に関する蘭書や、さらに、武器そのものの輸入を積極的に行って、西洋砲術の知識・技術を高めていきました。

 高島秋帆がどうやって西洋砲術を学んだかについては、のちに幕府の取り調べを受けた際に、秋帆自身が回答した文書が残されています。(勝部慎長・松本三之介・大口勇次郎編前掲書『勝海舟全集15 〔陸軍歴史T〕』P19−20)

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 高島四郎太夫、武器購入の審問(部分) 

【原文】 赤字部分は左右同じ部分です

【現代語訳】

「右私義、先代より荻野流砲術師範を仰せつけられ候につき、ほかに流儀のことも相心得申し度く、穿鑿仕り候義御座候処、長崎表の義は、外国貿易の御場所にて、砲術方専ら御手当御座候処、外国の義も先年と違い、近年戦争うち続き、砲術の仕法自然と相変わり候趣に御座候。外国防ぎ候には、外国の仕法相心得申さずては相かなわざる筋と存じ奉り候間、年来種々心掛け穿鑿仕り候義に御座候えども、相分かり難き義数々にて、とても和解書等にては相分かり申さず。然る処、紅毛人共義は猥りに門外仕り候義相成り難き筋に御座候間、私義、御用向きにて出島出役仕り候度々、間合いよろしき節は、紅毛人呼び出し、通詞を以て通弁致させ西洋向砲術の訳合、業合等を承り合い候義に御座候。もっとも右様の節は、カピタン部屋罷り越し、砲術相心得候紅毛人を呼び寄せ、その節は出島乙名(町役人)組頭・通詞・目付等立会い候義に御座候。別段御奉行所へ御届け等仕り、臨時に罷り越し問合せ等仕り候の筋には御座無く候。私共義は出島出役仕り候につき、同所に於て御用済み相成り候か、または昼休み等の間合いを見合わせ、前段の通り承り合い候の義に御座候。右阿蘭陀人共へ砲術等承り候の義は御免に相成来り候廉にて、御鉄砲方高木道之助義は出島に罷り越し候御用向きにこれ無きにつき、砲術問い合わせのため折々出島へ罷り越し度き旨を以て、御奉行所へ願い立て、御免に相成り来り候義に御座候。私共義は阿蘭陀船入津中、絶えず出役仕り候義につき、別段願い奉り候義は仕らず、問合いこれあり候時々問合わせ等仕り、相分かり難き義等これあり候節は、正品誂え方願い奉り、御免の上取寄せ引合わせ候義に御座候。なおまた小筒の義は、持ち渡り候上、調べ方相済み申さざる内は出島にこれあり候につき、その折、打方手前、備組等仕らせ一見仕り候義に御座候。年来右の手続きを以て砲術問合わせ候えども、阿蘭陀人一人に限り問合わせと申す筋これなく、入津の時々、少々にても相心得候ものは問い合わせ、伝授仕り、並びに私の考え等も相加え、門人共へ相伝え候義に御座候。これにより御在勤御奉行、何の何守の節、伝授仕り候と申す処は相覚え申さず候。」

「右の質問について答えます。
 私は先代の父四郎兵衛の代より荻野流の砲術師範を仰せつけられましたので、荻野流以外に他の流派の技術も身につけたいと思いいろいろ研究しておりました。長崎は外国との貿易をする場所であり、外国への防御が必要な所ですが、
外国も近年は戦争が続き、少し前と違い砲術も自然と進歩している状況です。外国に対する防衛は、外国の砲術を修得していないと不可能であると考え、この数年研究を続けてきましたが、理解できないことが数々あり、「和解書」などを参考にしてもなかなか理解できません。オランダ人はそう簡単には出島の外へは出てきませんから、私が職務で出島に行った時に、都合が付く時は通訳を通じて西洋砲術の理論や技術を質問しました。
 その時は、カピタン部屋(商館長室)へ行き、そこへ砲術を理解しているオランダ人を呼び、出島乙人(町役人)・組頭・通訳・目付等が立ち会っていました。私は出島出役でしたから、この質問をする時には、特に奉行所などへは届けを出さず、職務の後や昼休み等の時間を利用して質問していました。
 鉄砲方の高木道之助は、出島へ出向く仕事はありませんから、砲術に関する質問する際には、仕事を免除する許可を得て出島へ行きました。私は、オランダ船が入港中は、毎日のように出島へ行って仕事をしていましたから、特に許可は得ずに質問が生じた時々に質問をしていました。
理解できないことがあった場合は、許可を得た上で、本物を取り寄せていました。
 また
小銃に関しては、運び出す際に取り調べが済まない内は出島に保管してありましたから、それを使って、出島の中で、打ち方・取り扱い方・隊伍編成等をやってもらい、見学をしました。今まで述べた方法で長い期間にわたって砲術を修得しましたが、誰か一人のオランダ人のみから教えてもらったものではなく、オランダ船が入港するたびに、少しでも知っている者がいれば質問をして教えてもらい、これに私の考え等も加えて門人へ教授してきました。そういう事情ですから、奉行何々の守様の時のみにオランダ人から教えを受けたというわけではありません。」


 これによれば、次のことが確認できます。
 1 秋帆は、自らの職務を利用してしばしば出島でオランダ人から砲術を教わった。
 2 実物も輸入した。
 3 武器の輸入だけではなく、打ち方・取り扱い方・部隊の編成やその動きも教わった。
 4 自分だけではなく、門人にも伝えた。

 通常なら、「町人が武器を扱う、砲術を学ぶ」などという想像に難しいことが、この長崎では実際には行われていたのです。驚くべく事実です。


 高島秋帆と武器の輸入                            | このページの先頭へ |  

 たとえ「長崎防衛」という任務があったにせよ、武器の輸入をするということは、相当の覚悟です。また、それには資金も必要です。高島秋帆はそれをどうやって行っていたのでしょうか。
 最初に彼がどのような武器を輸入したかをまとめて示します。


 記録が残っているこの5年間だけでも、この量です。砲2門、銃137挺は半端な数ではありません。
 これらの武器の輸入は、不正な「
密貿易」などでは決して無く、制度的に認められた、合法的な「脇荷」として輸入されたものです。(脇荷については、2ページ(↑)ですでに説明しています。
 ただし、制度的に可能でも、品物を買うには資金が必要です。秋帆が武器を輸入できた経済的な要因はなんだったのでしょうか。言い換えれば、秋帆が経済的に利益を上げていたのはどのような状況によるものだったでしょうか?

 クイズ風にしましたので、考えてみてください。

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 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。
参考文献一覧へ

 有馬成甫氏の分析(参考文献2 前掲書P74−89)によれば、次のようになります。 

 脇荷として輸入したものを転売し、利益を上げた
 秋帆が脇荷によって輸入したものは、武器だけではありません。その他のものや、そして武器そのものも含めて転売し、大きな利益を上げたと考えられます。
 残されている1842(天保13)年の文書にいい例があります。
 この時秋帆は、輸入した時計と眼鏡を薩摩藩に転売しています。輸入代金は、2貫500匁でしたが、薩摩藩に転売した代金は、8貫740匁でした。差額、6貫240匁が利益となりました。江戸時代後期の公定相場は、小判(金貨)1両=銀60匁でしたから、この時計と眼鏡で、104両の利益を上げたことになります。

 他藩のために鋳造し報酬を得た
 秋帆は、オランダ書によって青銅による大砲鋳造技術を習得し、それによって数藩の依頼に応じて大砲を鋳造し、報酬を得ていました。
 記録に残るだけでも、肥前武雄に領地があった肥前藩の親類格武雄鍋島家・肥後藩・岩国藩のために大砲を鋳造しました。
 1936(昭和)年に武雄の鍋島男爵家(明治維新後に爵位授与)の庭の片隅から、モルチール砲が発掘されました。これは、オランダから輸入したものと同型同寸法のもので、砲身上部の砲口に近い所に、鍋島家の紋である「抱き銀杏」が鋳込まれていました。さらに、「オランダの暦の1835年に日本に於いて最初に鋳造されたもの」というオランダ語の文字が刻印されていました。 
 

 中国へ俵物等を輸出し利益を上げた
 秋帆は、中国(清)との貿易に於いて、高校の日本史の教科書にも出てくる
俵物(煎り子=ほしなまこ、鱶のひれなどの海産物)や、肥後産の椎茸・人参等を輸出して利益を上げていたました。

 これらの経済活動によって、高島秋帆は、武器や蘭書の輸入を比較的余裕を持って行いました。「家財をなげうって」とか、「私財を尽くして」とかいう表現は、この場合はあたりません。
 言い換えれば、秋帆自身が商人ですから、西洋砲術の習得も、純粋な「愛国心」や「海防への職務意識」というものだけではなく、国防を進めれば経済的な利益があがるという両方の面からの取り組みであったと想像できます。


 長崎市内には、高島秋帆の邸宅跡が残っています。
 高島家の本宅は、旧市街地の大村町(現在の万才町)にありましたが、1838年の火災で焼失したため、長崎の東南の郊外、小島郷にある「雨声楼」と呼ばれる別邸に移り住みました。明治維新以後も建物は残っていましたが、1945年のアメリカ軍の原爆によって大破しのち解体されました。今では、石垣・土塀・石倉などが残っています。
 邸宅跡の位置は、P2の地図05↑をご覧ください。

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 (撮影日 03/11/27)
 写真 03−01 写真03−02 
 旧高島邸の石垣です。


写真03−03                        写真03−04          (撮影日 09/10/21) 


写真03−05                        写真03−06          (撮影日 09/10/21) 


写真03−07                    写真03−08          (撮影日 09/10/21) 

 左は石造りの倉で、硝煙倉庫であったと伝えられています。

 西洋砲術を学んだ高島四郎兵衛・父子が、いつの時点で「自立」できたのかは、判定が難しい所です。しかし、武器輸入が着々と進んでいた1830年代は、「高島流砲術」の評判も高まり、藩の命令により入門をするという者も増えていきました。
 そういう意味では、上記の武器転売で説明した、肥前武雄の親類格鍋島家へのモルチール砲の鋳造・売買の時期においては、立派に西洋砲術の習得が一定のレベルに達し、「自立」できていたと考えることができるでしょう。
 
 1837年には、薩摩藩士鳥居平八・平七兄弟が藩主の命令で入門しています。
 この薩摩藩士の士の入門に関しては、高校の日本史の教科書にも出てくる事件と関係がありますので、ちょっとクイズ仕立てで学習します。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 1837年、日本人漂流民を同行して来航したアメリカ商船モリソン号は、幕府が1825年に発令していた異国船打ち払い令によって、まず江戸湾口の浦賀で砲撃を受け、また、回航した鹿児島湾口の山川でも砲撃を受けました。
 薩摩山川の沖では、砲撃をはじめた時点で風がまったく無く、帆船のモリソン号は逃げることもできませんでしたが、薩摩藩の大砲の性能は低く、また砲撃技術は未熟で、砲弾はほとんどモリソン号のはるか手前に落下しました。命中弾はなかったと伝えられています。
  ※春名徹著『にっぽん音吉漂流記』(中公文庫 1988年)P152−154
  ※モリソン号と山川港については、2012年8月に訪問した時の見聞記を書いています。次のページです。
    →旅行記:「九州両端旅行記2 山川・ザビエル・モリソン号」

 この結果に落胆した薩摩藩主島津斉興は、高島秋帆の評判を聞き、翌1838年に鳥居兄弟を入門させました。
 彼らを通じて薩摩藩に伝わった西洋砲術は、それから25年後の、
1863年に起こった薩英戦争の時に、イギリス海軍艦隊と善戦をする(イギリス艦隊旗艦ユーリアラス号に命中弾、艦長戦死)という結果につながりました。
 ※薩英戦争については、目から鱗の話:「街道を歩く 生麦事件6 薩英戦争」(→)で説明しています。

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 さて、高島秋帆に話を戻します。
 こうして、1830年代後半には、秋帆とその門下生は、西洋砲術の知識と技術を高め、単に小銃や大砲を打つ技術だけでなく、大砲を鋳造する技術、さらには、銃を所持した部隊と大砲の展開等の方法まで身につけていきます。
 いよいよ、
徳丸ヶ原の演習の日がやってきます。
 それはどのように実現し、また、どのよう名演習が行われたのでしょうか?
 次ページで説明します。


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