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銃砲と歴史3-3 |
銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。 |
高島秋帆と高島平3 西洋砲術の習得 10/01/17 作成 10/02/07修正 |
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従来の日本の砲術と西洋の大砲 | このページの先頭へ | | ||||||||
前ページでは、長崎の防衛とそこに高島四郎兵衛・秋帆がどうかかわり、西洋砲術を学ぶ道筋があったことを説明しました。このページでは、高島秋帆がどのような内容の西洋砲術をどのようにして学んだかを説明します。それは、結果的に高島秋帆が徳丸ヶ原でどのような演習を行ったか(これは次のP4で説明→)につながります。 | ||||||||
弾丸の原料である鉛の比重(つまり体積1立方センチメートルあたりの重さ)は、11.36です。 |
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これを解くことにより、その弾丸の半径r を求めることができます。 |
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答えが出ました。半径は約2cm、普通に言う銃砲の口径(直径)は、その2倍の約4cmとなります。 |
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19世紀初頭の戦艦ですらこの状況です。ナポレオン戦争後のさらなる兵器の発展を考えると、日本の「防衛力」は、まったく心許ないものでした。 |
【追加】 以下の写真は、2010年2月7日に追加掲載しました。 |
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写真03−09 トラファルガー海戦時のネルソン提督旗艦ビクトリーの模型 (撮影日 10/01/26) |
18世紀末建造されたイギリス海軍の戦列艦。のちで言う、戦艦。写真で赤と黒の部分は、舷側に設けられた砲座。この時代の戦列艦は、小口径砲まで合わせると、合計104門の大砲を装備していました。 |
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上の写真は、2010年の1月に開催された、帆船模型愛好家のグループ、ザ・ロープの展示会で、事務局長さんの許可を得て、過去の作品のアルバムから撮影しました。ありがとうございました。 |
蘭書や西洋砲術等の「輸入」 | このページの先頭へ | |
高島四郎兵衛・秋帆父子は、このような日本流の砲術では、西洋の軍事力にまったく太刀打ちできないということを長崎で外国船を見て痛感し、それに対抗するためには、オランダから学ぶ以外に方法がないことを悟りました。 |
高島四郎太夫、武器購入の審問(部分) | |
【原文】 赤字部分は左右同じ部分です |
【現代語訳】 |
「右私義、先代より荻野流砲術師範を仰せつけられ候につき、ほかに流儀のことも相心得申し度く、穿鑿仕り候義御座候処、長崎表の義は、外国貿易の御場所にて、砲術方専ら御手当御座候処、外国の義も先年と違い、近年戦争うち続き、砲術の仕法自然と相変わり候趣に御座候。外国防ぎ候には、外国の仕法相心得申さずては相かなわざる筋と存じ奉り候間、年来種々心掛け穿鑿仕り候義に御座候えども、相分かり難き義数々にて、とても和解書等にては相分かり申さず。然る処、紅毛人共義は猥りに門外仕り候義相成り難き筋に御座候間、私義、御用向きにて出島出役仕り候度々、間合いよろしき節は、紅毛人呼び出し、通詞を以て通弁致させ西洋向砲術の訳合、業合等を承り合い候義に御座候。もっとも右様の節は、カピタン部屋罷り越し、砲術相心得候紅毛人を呼び寄せ、その節は出島乙名(町役人)組頭・通詞・目付等立会い候義に御座候。別段御奉行所へ御届け等仕り、臨時に罷り越し問合せ等仕り候の筋には御座無く候。私共義は出島出役仕り候につき、同所に於て御用済み相成り候か、または昼休み等の間合いを見合わせ、前段の通り承り合い候の義に御座候。右阿蘭陀人共へ砲術等承り候の義は御免に相成来り候廉にて、御鉄砲方高木道之助義は出島に罷り越し候御用向きにこれ無きにつき、砲術問い合わせのため折々出島へ罷り越し度き旨を以て、御奉行所へ願い立て、御免に相成り来り候義に御座候。私共義は阿蘭陀船入津中、絶えず出役仕り候義につき、別段願い奉り候義は仕らず、問合いこれあり候時々問合わせ等仕り、相分かり難き義等これあり候節は、正品誂え方願い奉り、御免の上取寄せ引合わせ候義に御座候。なおまた小筒の義は、持ち渡り候上、調べ方相済み申さざる内は出島にこれあり候につき、その折、打方手前、備組等仕らせ一見仕り候義に御座候。年来右の手続きを以て砲術問合わせ候えども、阿蘭陀人一人に限り問合わせと申す筋これなく、入津の時々、少々にても相心得候ものは問い合わせ、伝授仕り、並びに私の考え等も相加え、門人共へ相伝え候義に御座候。これにより御在勤御奉行、何の何守の節、伝授仕り候と申す処は相覚え申さず候。」 |
「右の質問について答えます。 |
これによれば、次のことが確認できます。 |
高島秋帆と武器の輸入 | このページの先頭へ | |
たとえ「長崎防衛」という任務があったにせよ、武器の輸入をするということは、相当の覚悟です。また、それには資金も必要です。高島秋帆はそれをどうやって行っていたのでしょうか。 |
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記録が残っているこの5年間だけでも、この量です。砲2門、銃137挺は半端な数ではありません。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
有馬成甫氏の分析(参考文献2 前掲書P74−89)によれば、次のようになります。
これらの経済活動によって、高島秋帆は、武器や蘭書の輸入を比較的余裕を持って行いました。「家財をなげうって」とか、「私財を尽くして」とかいう表現は、この場合はあたりません。 |
長崎市内には、高島秋帆の邸宅跡が残っています。 |
(撮影日 03/11/27) |
写真03−03 写真03−04 (撮影日 09/10/21) |
写真03−05 写真03−06 (撮影日 09/10/21) |
写真03−07 写真03−08 (撮影日 09/10/21) |
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左は石造りの倉で、硝煙倉庫であったと伝えられています。 |
西洋砲術を学んだ高島四郎兵衛・父子が、いつの時点で「自立」できたのかは、判定が難しい所です。しかし、武器輸入が着々と進んでいた1830年代は、「高島流砲術」の評判も高まり、藩の命令により入門をするという者も増えていきました。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。 |
1837年、日本人漂流民を同行して来航したアメリカ商船モリソン号は、幕府が1825年に発令していた異国船打ち払い令によって、まず江戸湾口の浦賀で砲撃を受け、また、回航した鹿児島湾口の山川でも砲撃を受けました。 |
さて、高島秋帆に話を戻します。 |
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