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銃砲と歴史3-8
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平8 徳丸ヶ原・高島平写真集10/02/28 作成 
 写真集はこの下にあります
 その後の高階秋帆         | このページの先頭へ |  

 1841年5月に、高島秋帆は板橋宿西北の武蔵徳丸ヶ原で演習を実施しました。火砲の発射、歩兵・騎兵・砲兵の動きなど、予定どおりに進み、演習は成功裏に終了しました。
 演習を見た諸大名や解明派の幕臣達は、西洋砲術の見事な展開に、おそらく興奮の色を隠せなかったと思われます。たとえば、すでに演習前に高島秋帆に対する入門伺い書を幕府に提出していた
江川太郎左衛門は、演習直後に再度入門希望を出し、その実現を幕府に催促しました。
 秋帆は、その年の内に、幕府の命によって、はじめに在府の旗本下曽根金三郎ついで江川太郎左衛門に高島流砲術を伝授し、免許を与えています。
 また、
老中水野忠邦は、秋帆に褒賞の銀子200枚を授けるとともに、秋帆が使用したモルチール砲とホウィッスル砲2門を合計500両で買い上げています。

 こう説明していくと、高島秋帆の演習は高い評価を受け、その後も西洋砲術の普及・発展に大活躍をしたというストーリーに思えてきますが、実は、このあと大事件が起こります。
高島秋帆が逮捕されてしまうのです。
 老中
水野忠邦が高く評価しているのに何故と思いたくなりますが・・・、そうです水野政権には、かの蛮社の獄を起こした張本人、蘭学をこの上なく憎む鳥居甲斐守耀藏がいました。
 徳丸ヶ原の演習の翌年、1842年10月、長崎に帰ってから通常の業務をしていた高島秋帆は、長崎奉行所から出頭命令を受け、赴いたところ、そのまま拘留されました。
 秋帆の嫌疑は次の諸点でした。

 長い間私財を投じて西洋銃砲を買い入れ訓練を行っているが、その根本には謀反の企てがある。

 長崎郊外小島郷の秋帆の住宅は、一種の城郭であり、籠城の用意をしている。

 会所の金を利用し肥後から兵糧米を買い込み貯蔵している。

 資金を得るため密貿易をしている。

 密貿易をするために数隻の早船を作った。

 これらは実際に該当する事実は全くなく、すべて鳥居耀藏やその関係者の秋帆を陥れるための讒言によるものだったのです。
 このまま鳥居側の陰謀が進めば、高島秋帆の重罪は免れないところでした。しかし、1845年になって、
老中水野忠邦・町奉行鳥居耀藏が罷免された結果、秋帆は最悪の事態を免れます。その後に成立した老中阿部正弘を中心とする新政権によって再吟味となったのです。
 これで無罪なら本当にめでたしめでたしなのですが、一度訴えられたものが全く無罪というわけにはいかなかったようで、「
身分の異なる代官の娘を息子の妻にもらった」などの、信じられない微罪により、中追放となり、武蔵国岡部藩安部虎之助の陣屋へお預けとなりました。これも本来は遠島を申しつけられるところでしたが、秋帆が取り調べを受ける間中拘留されていた場所の近くで3度大火があり、そのたびに牢屋敷からの「突き放し」(自主的に戻ってくることを前提とした一時釈放)を受け、毎回ちゃんと戻ってきたという「模範容疑者」であったため、中追放へと軽減されたというものでした。

 高島秋帆が許されて再び砲術の指導に復帰するのは、
1853年、ペリー来航の直後でした。その後、病没するまでの10年余りの間、砲術の指導、大砲製造の任に当たっています。徳丸ヶ原の演習以降は、波乱に満ちた人生でした。
 詳細は以下の年表で確認してください。 


 高島秋帆略歴(後半) ※前半はこちらです→P1へ
 ※この年表は、石山滋夫前掲書等を参考に作りました。(参考文献リストはこちらです→P1へ 

1841年

(天保12)

5月


12月

 秋帆、幕命により、武蔵徳丸ヶ原で西洋砲術の演習を行う。
 幕府代官
江川太郎左衛門、秋帆から砲術の免許を受ける。(秋帆は7月まで江戸に滞在)
 鳥居耀藏、江戸南町奉行に栄進する。(それまでは目付)
 

1842年

(天保13)

 10月

 高島秋帆が逮捕される。

1843年

(天保14)

1月

 秋帆は江戸に送られ、直接鳥居耀藏の取り調べを受ける。

1845年

(弘化2)

2月

 老中水野忠邦、罷免される。鳥居耀藏、町奉行罷免。翌月、禁錮。

1846年

(弘化3)

7月

 高島秋帆、中追放の判決を受け、武蔵岡部藩の安部虎之助陣屋へお預けとなる。

1853年

(嘉永6)

6月
8月


10月

 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督、浦賀へ来航。
 高島秋帆、釈放されて江川太郎左衛門に身柄を引き取られる。
 海防掛御用取扱として、代官江川の手付に加えられる旨の命を受ける。
 その直後、大砲鋳造方御用掛をも命じられる。
 秋帆、ペリー来航時に老中阿部正弘が諸侯に意見を徴したのに対して、意見書(通称『嘉永上書』)を提出し、開国・交易による国力の伸張を図る旨の意見を上申する。

1855年

(安政2)

7月

 秋帆、御普請役となり御鉄砲方手付教授方頭取を命じられる。

 1856年  (安政3)  7月  西洋砲術の開祖として賞詞を受ける。

1857年

(安政4)

  12月

 講武所砲術師範役を命じられる。

 1866年  (慶応2)  1月  秋帆、江戸小石川の自宅で病没。

 話のネタになる高島秋帆エピソード                          | このページの先頭へ |  

 高島秋帆は、幕末の砲術の発展に偉大な業績を残しました。
 徳丸ヶ原の演習後、11年間の逮捕・投獄という不幸な次期はありましたが、それ以前に各藩の俊才や江川太郎左衛門に伝えた最新砲術は、各地で広がりその後に西洋砲術を受け入れる素地となりました。もちろん、すでに見たように、西洋の火器そのものが19世紀中盤に大きく進歩しており、秋帆が伝えた砲術がそのまま生き続けたという意味ではありません。弟子達は、思い思いに進歩した火器や砲術を輸入し学びましたが、その土台となったのは、秋帆が広げた「高島流砲術」だったと言うことです。

 そして、もう一つ。
 高島秋帆とその弟子達は、
オランダ語の洋式調練を日本語に直して使いましたが、それが、軍隊用語等となって、現在まで使われています。また、装備の用語も、いくつかがちょっと発音が変わって日本語として生きています。

 まず軍隊用語です。

 「気をつけ、直れ、休め」の号令

 「捧げ、つつ」の号令

 
 次に装備の用語です。ではここで一つ、クイズです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。


 紙で包まれた弾薬包(紙製カートリッジ)をオランダ語で「パトロン patroon」と言いましたが、それに使われていた紙が、現在「ハトロン紙」と呼ばれているものです。

 もうひとつクイズです。、


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 ransel は、本来歩兵用の背嚢(はいのう、つまり、背中に背負う袋のことですが、転じて小学生が背負っているランドセルと言う言葉に残っています。


 徳丸ヶ原・高島平写真集         | このページの先頭へ |  

 さて、この「高島秋帆と高島平」のシリーズも、これで最後です。
 最後は、2010年2月6日に訪問した旧徳丸ヶ原・現高島平の写真集です。

 場所の確認はP1の地図へ

 写真08−01                          写真05−02       (撮影日 10/02/06) 

 写真05−01 地下鉄都営三田線の高島平駅に入ろうとする先頭車両からの撮影です。
 写真05−02 高島平駅のホームです。土曜日の早朝だったので閑散としています。


写真08−03                           写真08−04    (撮影日 10/02/06)   

 写真08−03 高島平駅の西端から、次の西高島平駅を遠望した写真です。この駅のさらに西に、三田線の現在の終点、新高島平駅があります。
 写真08−04 高島平駅の東に隣接する都営地下鉄の車庫です。

 場所の確認はP1の地図へ

 写真08−05 高島平駅の俯瞰写真です。演習は、この駅から西方の、西高島平駅・新高島平駅にかけて行われました。 (撮影日 10/02/06)


 写真08−06                           写真08−07    (撮影日 10/02/06)   

 写真08−06 地下鉄高島平駅の西端にある広い道路の北端に、徳丸ヶ原公園があります。
 写真08−07 地下鉄車内から見た、徳丸ヶ原公園。通りの北端の木々の部分です。

 場所の確認はP1の地図へ

 写真08−08                           写真08−09    (撮影日 10/02/06)   

 写真08−08 徳丸ヶ原公園です。
 写真08−09 東京都の設置した説明です。高島秋帆の陣幕は、この公園ではなく、新高島平駅付近に設けられました。


 写真08−10 公園中央にある演習の記念碑。1922(大正11)年の建立です。(撮影日 10/02/06)

 場所の確認はP1の地図へ

 写真08−11 萬吉山松月院の正門です。(撮影日 10/02/06)


 写真08−12 松月院内の高島秋帆の記念碑。左手に白梅が咲きにおっています。(撮影日 10/02/06)


 写真08−13 松月院から西側の坂を下った場所にある、東京都板橋区立郷土資料館です。目玉の収蔵品は・・・(撮影日 10/02/06)


 写真08−14 館外に3門、館内に1門、大砲が展示されています。(撮影日 10/02/06)
 手前は、60ポンド施条カノン砲、奥は12ポンド施条カノン砲です。


 写真08−15 高島秋帆が用いたものと同型のモルチール砲。(撮影日 10/02/06)


 本当は、前ページの「年表01銃の発達年表」のように、「年表2 砲の発達年表」を掲載しなければなりません。
 ただし、これは銃と違って、青銅や鉄の素材の違い、海戦と陸戦の違い等いろいろ複雑な要素がありますので、もう少ししっかり調べて、もう少し後に、また別の項目で、掲載したいと思います。

 ここまでで、「高島秋帆と高島平」、含む「西洋砲術(特に歩兵銃)の歴史と日本」を終わります。最後まで読んでいただいてありがとうございました。 


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