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銃砲と歴史3-5
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平5 「高島流砲術」と三兵戦術10/02/07 作成 
 
 「高島流の砲術」から学ぶ西洋式軍隊・戦術         | このページの先頭へ |  

 前ページでは、徳丸ヶ原で行われた、「高島流砲術」の概略を確認しました。それは実は単なる砲術ではなく、三兵戦術(歩兵・砲兵・騎兵の3兵種を有機的に結合して戦う戦術)も含めた近代戦術全体を含むものでした。
 このページでは、それをより深く理解することを通して、この時代前後のヨーロッパの近代軍事技術と日本の関わりを考えます。 


 まずは、その三兵戦術です。
 騎兵・歩兵・砲兵がそれそれ自立して、全体として陸軍の戦闘の要素なるというのは、いつの時代に確立されたのでしょうか?
 つまり、中世では、日本の西洋も、馬に乗った騎兵と槍や弓で武装した歩兵(日本の場合は足軽)が中心で、銃を持った歩兵もいませんでしたし、ましてや砲兵などという兵種は存在しませんでした。
 銃や砲の発明により、それがかわってくるのですが、西洋にしても銃が火縄銃であった時代には、下層の歩兵の武器としては扱いが難しい火縄銃よりも槍や弓矢が中心でした。
 また、西洋では砲も日本より先に発達しましたが、中世においは、城を攻撃する大きくて移動が難しい砲が中心の時代で、野原で大軍が遭遇(野戦)し、その時に移動に便利な砲をたくさん運んできてそれを射撃して有効な打撃を与えるという発想は、なかなかできませんでしたし、そのような砲をたくさんそろえる科学技術や生産力もともなっていませんでした。
 
 それができるようになるには、銃においては、発火方法が火縄銃から火打ち石を利用した
フリント・ロック式(燧式銃=ひうちいししきじゅう、引き金を引くと鉄が火打ち石をたたいてそこから出た火花で発火する。火縄は必要ない。詳しくは次ページで説明→)にかわり、取り扱いが便利になることが必要でした。その銃が歩兵銃として広がるのは、ヨーロッパでは16世紀末から17世紀初めのことでした。(火縄式、フリント・ロック式など、銃の発火の歴史については、次のページで説明します。→
 また、砲においては、
オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアンT世(在位1493年〜1519年)が、自ら砲兵工廠(大砲製造所)を作り、大量の移動可能な砲を製造し、戦いに用いたことが、その最初となりました。
 そして、それらを受けて、次の時代を作る人物が登場します。


 それでは、クイズ形式の質問です。
 それらを受けて、三兵戦術を確立したヨーロッパのある国の国王は誰でしょうか。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。
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 世界史の教科書には、この三十年戦争については、詳しく出てきます。
 このスウェーデン王グスタフ・アドルフが、1631年に行われた
ライプチヒの戦いでどのように三兵を駆使したかは、世界史クイズ:近代ヨーロッパの誕生で説明しています。→こちらをご覧ください。


 次のクイズは、上の08に比べると、明らかに脇役的なことになりますが、「頭の体操」的に考えてみてください。
 三兵戦術が常識化してからも、なお、銃を持った歩兵よりも、
槍を持った歩兵の方が効果があると考える人々がいました。いくらフリント・ロックになったとはいえ、今の機関銃や自動小銃に比べれば、まだまだ銃の連続的射撃はできていません。発射速度は人が期待する程速くありません。そこで両軍の軍勢が接近すれば、銃などよりも槍の方が有効というわけです。
 ところが、ある発明がなされ、それが、「これなら銃がいい。もう槍はいらない」と誰もが感じ、つまり、銃の優位性において、結論が出ました。その発明とは何でしょう?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 これは、ひらめきのよい方なら、おわかりですね。
 銃の先に、取り付け形の銃剣を工夫したのは、17世紀なかばの、フランス人ヴォーバンでした。これによって、もはや槍を持った兵隊は意味をなさなくなったのです。目から鱗の工夫でした。これ以後、
着剣装置つきのフリント・ロック式歩兵銃が軍隊の主流を占めるようになっていきます。高島秋帆の徳丸ヶ原の訓練でも、「○着剣・二重陣に変換して突撃し射撃」というのがあります。


 さて、次は、この三兵戦術のさらなる発展です。
 騎兵・歩兵・砲兵の三兵種のうち、17世紀から18世紀・19世紀と、時代とともにその威力がどんどん大きくなっていくのは、いうまでもなく、砲兵です。
 砲の技術・破壊力、そして砲の数からいっても、砲兵のパワーjは、時代とともにどんどん進化していきました。そういう現実を理解して、古い戦術に工夫して、いかに近代的な砲兵戦術を生み出していくか。
 それを見事にやり遂げて、連戦連勝をした有名人物がいます。さて誰でしょう?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。
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 ナポレオン・ボナパルトは、1784年にフランス陸軍士官学校に入学しまします。彼は、学校の専攻の騎兵科・歩兵科・砲兵科の3つのうち、当時はまだ人気がなかった、砲兵科を選び、卒業します。(有名なことですが、学科の成績は、58人中42位でした。)
 直後に始まったフランス革命後の内乱や外戦において、大胆な戦法を提案して、フランス革命政府軍を勝利に導きます。
 反政府軍が外国軍と結んで抵抗した
ツーロン港包囲戦では、いたずらにせめて犠牲を増やす司令官に対し、ツーロン周囲の小高い山の占領とそこからの砲撃を提案し、見事膠着した包囲戦を勝利に導きました。
 また、1795年のパリ市内における
王党派の反乱においては、パリ市内で大砲を用いて散弾を発射するという思い切った方法(人員殺傷のための砲撃)で、反政府軍の鎮圧に成功しました。
 皇帝となってからの
アウステルリッツの三帝会戦でも、氷結した湖を移動する敵軍に大砲を打ってこれを撃破するなどの巧みな戦法を見せています。 


 さて、もうひとつ、最後の質問です。
 この三兵戦術は、17世紀前半に確立されて、どの時点まで陸軍の戦いの核心であり続けたでしょうか?
 もちろん、現代では、歩兵と砲兵はあっても、
騎兵部隊というのはありません。いや、正確に言えば、名称としてはアメリカ陸軍第1騎兵師団というのは存在しますので、あるといえばあります。しかしこの部隊は、人間が馬に乗って突撃する部隊ではありません。この騎兵部隊は、ベトナム戦争の時は、馬ではなくヘリコプターにのって移動する部隊でしたし、現在では、装甲車両に乗って移動する部隊となっています。
 ちょっと横道にそれますが、アメリカのベトナム戦争を描いた映画の一つに、2002年の「ワンス・アンド・フォーエヴァー」(メル・ギブソン主演)があります。これはベトナム戦争中の激戦地、イア・ドラン渓谷の戦いを描いていますが、戦っているのはアメリカ陸軍第1騎兵師団第7騎兵連隊です。ヘリコプターで敵地に移動し、北ベトナム人民軍と激戦を演じます。
 元に戻ります。
 では、三兵戦術は、有名な戦争でいうと、何という戦争まで存在したでしょうか? 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。正解が現れます。
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 昨年末からNHKのスペシャル・ドラマで、「坂の上の雲」をやっています。司馬遼太郎氏の有名小説のドラマ化です。その中で主役を務める3人の偉大な人物、秋山好古・秋山真之兄弟・正岡子規のうちの、兄好古は、明治陸軍の騎兵戦術の確立に勲功を挙げ、日露戦争では、ロシア軍のコサック騎兵を打ち破るという勲功を挙げたと人物として取り上げられています。
 しかし、次の大きな戦争、第一次世界大戦では、戦車・自動車・飛行機など、それまでにない移動兵器の出現によって、騎兵は過去のものとなり、三兵戦術は終わりを告げたのでした。 


 このページでは、高島秋帆の徳丸ヶ原の演習のうち、主に三兵戦術の部分について、ヨーロッパの近代陸軍戦術の歴史と合わせて、説明しました。
 次のページでは、銃と砲について、もう少し詳しく説明します。
 このページでも少し書いた、
フリント・ロック式(燧式)歩兵銃というのは、どういうものでしょうか?それに使う弾丸はどのようなもので、先込め・元込め、どちらでしょうか?ライフルは切ってあるのでしょうか?
 同じく、砲についても、どんな技術だったのでしょうか?
 次ページをご覧ください。


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