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銃砲と歴史3-6
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 高島秋帆と高島平6 西洋火砲の発展と日本110/02/14 作成 
 
 高島秋帆の演習時、その火砲は西洋砲術史のどの位置に  | このページの先頭へ |  

 高島秋帆が徳丸ヶ原で演習を行ったのは、1841年のことです。
 この時使った鉄砲や銃は、西洋式であることは間違いありません。秋帆がオランダとの貿易で輸入したりものが中心です。(→秋帆の武器輸入リストへ
 では、
その輸入品は、西洋の火砲の歴史の中で、どの位置を占めるものでしょうか。
 もう少しわかりやすく言えば、秋帆が演習で使った銃が西洋式である以上、16世紀から続いている火縄銃とは違うものであるということは、どなたもおわかりでしょう。それでは、その銃の細工は具体的にはどのようなものだったでしょうか。これは、のちの幕末の事件や戊辰戦争でどういう武器が使われたかにも関連があります。


 具体的な問題提起  | このページの先頭へ |  

 銃の専門家やマニアの方はよくご存じでしょうが、私も含めて、普通の方は、何が問題なのかよく分からないこともおありかと思います。
 そこで、まず、「
」のうちのについて、具体的な問題点を指摘します。



 銃の発達のポイントの説明1   | このページの先頭へ |  

 以上の4点が、15世後半に誕生した火縄銃から、近代的な銃が生まれた19世紀後半へかけての400年ほどの間の銃の発達のポイントです。
 以下一つ一つ説明し、最後にまとめます。(まとめは次のP7です。)

 ※このページは、以下の書物等を参考に記述しています。
  岩堂憲人前掲書、幕末軍事史研究会編前掲書   ※参考文献リストはこちら→P1先頭へ


 @発射時の火薬への発火方式 

 銃砲の場合、弾丸は火薬の爆発で発射されます。その火薬をどのような方法で発火・爆発させるかが第一のポイントです。
 点火方法は次のような発展をしました。

 火縄式
マッチ・ロック式

 木綿製の縄に火を付けて、それを引き金と連動するS字型の火ばさみに挟み、引き金を引くことによって留め金が外れて、火縄が火皿にある点火薬(口薬)に押しつけられて点火し、それが銃身内部の発射火薬に引火して爆発し、弾丸が発射される仕組みです。
 それまでも火薬を使って弾丸を発射する武器は存在しましたが、発火はいずれも外部から火種を接触させて点火させる方式で、操作に手間がかかる上、命中率も上がりませんでした。ちなみにこの方式は、
タッチ・ロック方式と呼ばれています。
 それが、引き金に連動した火縄に代わることによって、銃という兵器として確立されたわけです。この方式を、
マッチ・ロック方式と言います。マッチは、火を付けるマッチと同じ意味です。また、ロックというのは、「lock」と綴ります。鍵をかけるという時のロックですが、この単語には、それとは別にちゃんと、「銃の発射装置」という意味があります。
 この方法では、正確には、「発火」ではなく、まだ、「点火」の段階にとどまっています。


ホイール・ロック式

 火縄式の一番大きな欠点は、火縄という火そのものを取り扱わなければならない点です。
 その欠点を改良する工夫は、すでに、
16世紀の初頭に行われていました。ただし、誰が発明したものか、また、正確にいつ発明されたものなのかは分かっていません。
 新しい方式は、発火に、
火打ち石フリント)を使う方式です。最初の形式は、現代の道具で言えば、ライターの点火と同じで、発火部分に、火打ち石と回転する鉄の輪(ホイール)を組み合わせたものでした。現代のライターの点火と原理的には同じ方法です。このことから、この発火方法をのちにホイール・ロックと名付けました。
 この改良は、軍事用の必要性からよりは、むしろ、狩猟用の必要性からなされました。獲物を狙う時には、火縄が燃えている銃を使うと、獲物に近づくと火縄が燃えるにおい等が獲物に感づかれてしまいます。そのため、多少細工が込み入ったことになりコストがかかっても、この方式が採用されたのでした。逆に言えば、この新しい工夫は、コスト高と細工が複雑な点から、軍用銃に採用されて広く普及するということはありませんでした。
 ともかく、これにより、銃の発射は、
マッチ・ロックの「点火」から、真の意味での「発火」となりました。


 ※火打ち石については、目から鱗:江戸時代の生活「火打ち石にについて確認する」で説明しています。→


 フリント・ロック式
燧石すいせき式=火打ち石

 ホイール・ロック方式は、欠点は、ホイールの細工が込み入っていることと、ホイールを引き金に連動して回すために、射撃をするたびに、毎回、ホイールを動かすスプリングを巻かなければならないことでした。つまり、発射に結構手間がかかったのです。
 この二つの欠点を克服するため、火打ち石(フリント)の打撃から発生した火花をそのまま引火薬を爆発させるのに使う方式が工夫されました。この方式は、
フリント・ロック式と呼ばれました。
 これも、いつ誰がどこで最初に行ったのかは、はっきりしていません。しかし、おおむね
1530年〜1540年代には、フリント・ロック式の最初の銃が誕生していたと考えられています。
 この方式は、細工が簡単で、製造にコストがかからないことから、大量生産・大量使用前提としている軍用銃としても採用が可能となり、これによって、特に17世紀前半にフランスで改良されたタイプが、各国の歩兵銃として広がっていきました。
 これは同時に、槍とか弓ではなく、
銃を持った歩兵部隊の確立につながっていきました。
  →これについては、高島秋帆:P5三兵戦術、及び世界史クイズ:三兵戦術を参照のこと



 ここで日本史との関係で、一つ重要なことを示します。このことは、日本史ではあまり意識されていないことです。
 日本への鉄砲の伝来は、中学校の教科書にもあるように、ポルトガル人が種子島へ持ち込んだのが始まりです。1543年のことです。
 この時伝来した銃は、火縄銃でした。そして、鎖国に至るまで、輸入されたり自国で生産されたりした銃は、基本的には火縄銃でした。しかし、これは上述の説明から言うと、ちょっと疑問が生じる話です。
 というのは、1543年の時点では、すでにヨーロッパでは、ホイール・ロック式銃も、フリント・ロック式銃も発明されており、それが伝来してくる可能性はあったわけです。
 しかし、上述のように、フリント・ロック式銃が軍用銃として広がるのは17世紀になってからであること、その時点では、すでに戦国時代は終わりを告げ江戸時代に入っていたこと、さらには、高温多湿の日本では火打ち石の発火が欧米ほどの威力がないことなどにより、日本では、フリント・ロック式銃が広がることはなかったのです。


 パーカッション・ロック式
管打ち式

 次の改良は、銃そのものの発射の装置の工夫と言うよりは、点火薬の改良から始まりました。
 それは、
雷酸水銀、言い換えると、雷汞(らいこう)の利用です。
 雷酸水銀というのは、硝酸水銀とエチルアルコールを反応させて育成する物質、
Hg(ONC)です。スコットランドの牧師、アレキサンダー・フォーサイスは、打撃により簡単に発火する雷汞の性質を利用し、これを引火薬とし、そこを直接打撃して発火する装置を開発しました。一度に20発射分の雷汞を装着した銃が完成し、その特許出願をしています。それは1807年のことでした。
 この方式は、その後幾多の発明家によってさらに工夫が加えられます。
 雷汞を紙に詰めた紙の雷管が作られ、さらに、雷汞を粒状にしたものが開発され、続いて、銅のキャップに雷汞をつめた雷管が発明されました。これが、
パーカッション・ロック式管打ち式)です。
 これまでの火皿の代わりに薬室の上に突き出た部分(火門)に雷管のキャップを被せ、それを撃鉄で打撃して発火させるという方式です。

中心打撃式
センターファイア式

 雷汞の利用は、銃の発射に関して画期的な進歩をもたらしました。
 いくつもの方式が作られましたが、現代の銃の原型につながる一つに、1867年にイギリスが制式採用した
スナイドル銃があります。
 これは、撃鉄で薬室につながる撃針を打撃し、その衝撃で、
雷管が中心に装着されている弾薬筒を爆発させて発射するものです。
 弾薬筒は、すでに現在と同じように、
銃弾と火薬と雷管が一体となった形となっていました。



 ポイントの@〜Cのうち、やっと一つ説明しました。一つ一つ絵や写真の説明で、時間がかかることかかること。(+_+)
 続きは、P7です。来週です。乞うご期待。


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