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銃砲と歴史2-5
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 長篠の戦い5 戦いの「実像」戦術革命  05/11/20作成
 
 戦術革命とは                                 目次へ

 長篠・設楽原の戦いの「実像」に迫る3回目=最終回は、「戦術革命」についての検証です。

 ますはじめに、「
戦術革命」ということばの定義です。
 つまり、「
戦術革命」ということばそのものは、「騎馬隊」「3段撃ち」とは違って、高校の教科書などには直接登場しないため、ちょっと説明します。
 長篠設楽原の戦いについては、これまでは、この戦いにおいて、「
鉄砲隊」が「騎馬隊」を破ったことのみならず、さらに敷衍して、「この時信長がとった鉄砲を重視した戦いぶり=戦術が、その後の戦いの在り方を大きく変えた」という結論が付くのが普通でした。
 これが、「
戦術革命」です。
 たとえば、中学校・高校の教科書選定では、いつも話題になる扶桑社の教科書には、「長篠合戦図屏風」が引用されており、その下の解説に、次のように書かれています。

「織田・徳川連合軍と武田軍が戦っている。織田・徳川連合軍のとった戦略は、その後の戦い方を一変させたといわれるほど、斬新ものだった。

代表執筆者西尾幹二『市販本 新しい歴史教科書』(扶桑社 2003年)P117

ちなみに、この引用部分では、戦略と戦術が混同されています。戦いの戦法という意味では、戦術が正解です。

 これが、通常「戦術革命」と呼ばれる部分です。
 ちなみに、この扶桑社の教科書は、いろいろな面で注目され、批判にもさらされましたが、この部分については、マスコミや学者の反対派の人びとも何も異議を唱えず、事実文部科学省の検定も通過して、こういう表現となっています。

 ここでいう「
戦術革命」の内容の核心部分とは、「信長が大量の鉄砲を組織的に、集団的に運用する方法を開発したという点」です。

鈴木眞哉著『鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦』(洋泉社 2003年)P70

 長篠・設楽原の戦いをこのように位置づける見方は、すでに明治時代の陸軍の研究等で見られ、それ以後も軍事の専門家、歴史学者の双方によって「信仰」されてきました。
 この「
戦術革命」の中には、具体的には、武田の騎馬隊密集突撃に対する鉄砲隊集団戦法、大量の鉄砲使用、3段撃ち、馬防柵の構築といった内容までも広く含まれる場合が通例です。
 「
戦術革命」を検証するには、この具体的内容について、検証しなければなりません。
 ただし、騎馬隊密集突撃、大量の鉄砲、3段撃ちについては、これまでのページで、それが「実像」ではなく、「虚像」であることを説明しました。
 
 これらが否定されてしまったということは、すでに、「
戦術革命」の内容は半分以上、怪しくなっているわけです。
 そこで、駄目を押す意味で、鉄砲隊の集団戦法という発想、馬防柵の構築について、真実に迫ります。 


 馬防柵の実像                                     目次へ

 長篠・設楽原の戦いにおける織田・徳川軍の勝利の理由の一つが、馬防柵の存在です。
 つまり、迫り来る武田の「騎馬隊」の突撃を馬防柵で防ぎ、それと同時に鉄砲隊の銃撃で壊滅させたというストーリーです。


 一連の写真は、新城市設楽原にある長篠古戦場に再現された馬防柵です。

上:

連吾川から馬防柵を眺めた写真

左:

再現馬防柵の内部は、駐車場にな亭ます。これは、馬防柵の内側から武田軍側を写した写真

左下:

馬防柵の近接写真

右下:

二重に造られた馬防柵の内部

(撮影日 04/09/19)


 この馬防柵が、信長の独創的発想によって生まれたのであれば、信長による「戦術革命」の証拠の一つになるかもしれません。しかし、実は、戦場で対陣した場合、特に主将のいる本陣前にこのような柵を作ることは、信長以前から見られたごく常識的な戦法でした。
 そして、その柵は、騎馬兵と徒歩兵の両方の侵入を防ぐためのもので、ことさら「馬防柵」とは呼ばれてはいません。今回の織田・徳川軍に柵ついても、『信長公記』には、「馬防柵」という記述は見られません。

 このような柵を陣地前に作るのは、いわば「常識」であったため、武田軍の攻撃隊形もまたそれに備えたものでした。
 つまり、ただやみくもに騎馬隊が突撃するものではなく、次のようなも攻撃手順・編成となっていたのでした。

「当時の武田軍は、印地打(投石兵)、金掘り衆(敵陣地破壊工作兵、つまり工兵隊)、次に竹束とうし(竹束を立てならべるための三角わく)などの仕寄具、鉄砲組、弓組、次に長槍組。戦いなかばで、敵陣が乱れ破れかけると、騎馬武者が駆け入って敵陣を壊滅させるという戦法が、常套手段だった。」

名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)P52

 つまり、敵陣前に、このような馬防柵があった場合は、ただやみくもに騎馬隊が突撃するのではなく、金掘り衆が投げ縄を使って柵を倒すというのが、普通の攻撃方法でした。

 しかし、だとすると、次の疑問が生じてきます。
 それだけ分かっていて、なぜ武田軍が甚大な被害を出したのかということです。


 馬防柵と乾堀(からぼり)、身かくし=野戦陣地                 目次へ

 その点について、実証的な研究を行っているのが、名和弓雄氏です。
 名和氏は、『信長公記』にある次の一節

「人数を備え候。身がくしとして、鉄砲にて待ち請け、うたせられ候へば、過半数打ち倒され、」

 や、設楽原に近い地元の名主で織田・徳川連合軍に協力した阿部四郎兵衛忠政の残した『三州長篠合戦記』に次の記述に注目しました。

小川を隔て、二十四町の間に、二重三重の乾堀を掘って、土居(牆壁)を築き、五十間、三十間を置いて、虎口を設け、目通り一尺廻りの木を以て柵を付け云々」

名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)P61〜62

 これらの記録から、名和氏は、信長が5月18日の設楽原着陣から、決戦までの正味2日半の間に、連吾川の西側の丘陵手前に、柵だけではなく、柵・乾堀(からぼり)・土居のセットからなる野戦陣地を「築城」していたという説を唱えられ、現地でも、その一部が再現されています。

 左の地図のの新城市設楽原歴史資料館の屋上から●の馬防柵復元地を撮影したのが右の写真です。勝頼が戦場を物見した地点は、資料館より北側の丘陵になりますから、角度的には違いますが、距離的にはこんなものだったでしょうか。ただし、撮影は望遠レンズです。(撮影日 05/11/03)


 以下の図は、その様子を模式図化したものです。
 連吾川の西の織田・徳川軍陣地は、敵が近づく方からいうと、乾堀(からぼり)、柵、土居の複合陣地となっています。


左:連吾川の東側、武田軍から復元馬防柵を撮影。間にある連吾川は、増水していないときは、幅数メートルの「小川」です。この地点は当時の火縄銃の射程(約100m)のはるか外です。連吾川を渡って少し進まないと、射程距離内には入りません。
右:乾堀、柵、土居の複合陣地を連吾川の河畔から撮影。柵は見えていますが、乾堀と土居の存在そのものはよほど近づかない限り、その存在は確認できません。

左:複合陣地の写真の右から、乾堀・柵・土居。
右:現地にある複合陣地の説明。ここで紹介している名和氏によるもの。


左:複合陣地にある土居。織田・徳川軍の鉄砲隊は、土居の後ろに隠れて、安全に銃への装填を行った。
右:土居の上部に作られた銃眼(銃を向けて敵をねらう開口部)。いずれも、名和弓雄氏によって再建されました。

左:銃眼と柵、。背景は、武田軍が攻め入ってきた連吾川両岸の部分。現在は田畑。(近世前期のこの地域の石高から考えられる水田面積と、現在のそれとに大きな変化がないことから、当時もこの地域は水田であったと想定されています。)
右:銃眼から見た「敵陣」。手前にぼやけて写っているのは柵。連吾川の向こう、トウモロコシ畑が望見できます。実は名和氏によって再建されてから10年の月日が過ぎて、この銃眼も一部は壊れたり、土に埋もれたりして、すべて向こうが見えない状態となっていました。勝手ながら、私が持参したスコップ等でひとつだけ再再建しました。


 この野戦陣地の前で、武田軍はどうやって破れたのでしょうか。
 再び名和氏の著書からの引用です。(読みやすいように改行後の空白挿入等が施してあります。) 


「 攻撃に終始した武田軍と、身がくしから一兵も出ず、守備に徹した織田・徳川連合軍。
 両軍の決戦の実情を、時間的に推理してみよう。
 警戒厳重で敵陣地内の防禦施設の状態がまったく判明しない場合、夜間の真暗闇の中に突撃することは危険きわまりないことである。
 日の出前の暁闇にまぎれて準備を終え、日の出をまって突撃するというのが、最も合理的な方法であり、武田軍の第一陣、山県隊が午前六時頃、日の出をまって出撃した。
 突撃の命令は、陣貝、押太鼓、陣鐘を、序破急と吹き鳴らし打ち響かせ、喊声とともに、第一波の数百名が突っこんでいく。
 目ざすのは、目前の木柵(馬防柵)である。(中略)

 距離のはなれた武田軍には、視覚はまったくとざされているので、友軍山県隊の突入の成否は、聴覚にたよる以外の方法はないわけである。戦場の騒音の中から突入の状態を知ろうと聞き耳を立てて、うかがっているのである。
 間もなく、想像もしなかったほどの、天地も裂けるような轟音が、設楽原全域を包んで、ごう、ごうと連続して天空と大地をゆるがせた。それは武田軍はもちろん、織田・徳川軍も予想だにしなかった、すさまじい轟音であり、炸裂する火焔の連続であった。

 山県隊前面の銃眼数百挺の火縄鉄砲が、四秒間隔で、連続して火を吹いているのである。乾堀まではい進んだ山県隊の突入集団は、この地獄の劫火にまきこまれて、あとからあとからと続けさまに、屍骸の山をきずいていったのである。
 そして、この世の終わりかと思われるような轟音とともに、設楽原の低湿地帯を突然包みこんでしまって、序々に濃度を増してくるまっ白い煙の壁は、銃口から吹きだす火箭とともに、わきあがる硝煙の目くらましであった。突撃した部隊はもちろんのこと、武田軍、いや織田・徳川連合軍でさえ、聴覚と視覚をまったく奪われた、魔の時間帯であった。
          
 やがて四周の山々に木魂をのこしつつ、散発する銃声もまばらになり、声という声、音という音がはたととだえると、武田軍の陣営で打ち鳴らされる、信州諏訪神社の祭礼太鼓の嚇子、「お諏訪太鼓」のはじけるような勇壮な、数十個の大太鼓と磯子の叫び声が、別世界のもののように、異様な寡囲気をかもし出しつつ、遠くかすかに湧きあがってくる。一時は麻痺していた聴覚が、徐々に快復してくるのであった。

 突入部隊の兵士にも指揮者にも、最前線での惨劇は、全然わからなかった。
 白く濃い硝煙の中にある前線の地獄絵は、気負い立っている山県隊の第二波突入部隊には、夢にも考えられぬ出来事であった。
 喚声と銃声がとだえ消えたとき、銃眼の織田・徳川軍の銃隊は、突撃して迫ってきた第一波の突撃隊の潰滅を確認して、第二波に対する準備に没頭していた。
 まだ晴れきれぬ朝もやの中で、山県隊第二波の指揮官は、第一波は、すでに敵を蹂躙して、敵陣深く進入していったものと戦況判断を下した。
「味方に遅れるな。一番乗りの功名はわれらの部隊に。急げ」
と、はげしく下知し、朝もやの中、泥濘の中や田の畦をはいすすんだのである。

 その結果は、第一波の突撃部隊とまったく同じように全滅の運命を辿る。
 朝もやは徐々に晴れて、設楽原は普段と同じ状態になっていったが、白煙は朝もや以上に低くたてこめ、銃声の起こるたび、濃度を増し、無風状態の設楽僚に充満し、武田軍の戦死体をおおい、友軍は潰滅の事実に気がつくことができなかった。
 つづく第三波、第四波、第五波と、突入部隊は、次々に突撃し、次々に全滅していった。
 武田軍の放つ銃弾は、銃眼に命中することはほとんどなく、織田・徳川連合軍は銃による死傷者は全くなかったと思う。

名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)P213〜215

 
 つまり、武田軍は、乾堀と柵と銃眼を穿った土居の三点セットを備えた野戦陣地に敗れたということです。
 そう言う点では、この戦いは、三方原や関ヶ原の戦いのような
野戦(砦や城を築かずに両軍が平地で相まみえる)ではなく、むしろ陣地戦(攻城戦)でした。
 そもそも、こういう性質の違う戦いを、一部の現象だけに注目して、「戦術革命」となったというのは、まったくの勝手な思い違いであるといわなければなりません。 


 新「戦術」は継承されたか?                                 目次へ

 もう一点だけ、念のために確認しておきます。
 もし、この長篠・設楽原の戦いの信長勝利の結果、全体像として、鉄砲を重視する戦いの方法というものの重要性が認識され、それが戦術革命につながったとするなら、それ以後の戦いでは、全軍における鉄砲隊の割合が高くなっていなければなりません。
 たとえ、信長がしたことが画期的であったとしても、誰もそれを見習わなければ、決して「戦術革命」が起こったとは言えないからです。

 事実はどうでしょう。そう言う話の展開を否定する事実がたくさん存在します。

  1. 鉄砲は、信長の長篠設楽原の戦い以前から、一部では大量に導入され、戦闘の帰趨を決める場合もあった。(信長自身が紀伊の雑賀衆攻めでは、鉄砲隊に苦しめられた。)

  2. これ以後、信長自身や他の大名の部隊の編成が、鉄砲隊中心に大きく代わったという事実は見いだせない。

  3. これ以後、野戦において、特に鉄砲隊が活躍して勝敗が決定したという事例が増加したという事実は見いだせない。

 つまり、この戦いの前後で、「戦術革命」がおこったとは言えないわけです。
 
 またついでに付言すると、高校の教科書には、鉄砲についての影響として、ここでふれてきた、「従来の騎馬戦を中心とする戦法を変え」たばかりではなく、「
防御施設としての城の構造も変化させた」といわれている。

石井進、五味文彦、笹山晴生、高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版社 2004年)P148

 しかし、これについても、次のような大変納得のいく指摘がなされています。

「鉄砲の普及は、城の構造を変えたともよくいわれる。安土城や姫路城などを典型とする高々と石垣を畳み上げ、塗り籠めにした楼閣をそびえ立たせるような城は、鉄砲に対する防御を考えて つくられるようになったというのである。たしかにこうした近世風の城郭は、鉄砲の普及とはぼ時期を同じくして発達したので、そう考えたくなるのは無理もないが、これもまた偶然の一致としかいいようがない。ヨーロッパでは火器の普及に伴ってわが国とはまったく逆の現象が生じているし、その方がむしろ常識にかなっている。

 われわれがヨーロッパの城としてイメージしがちな石造りの城は、火砲の普及定着につれて流行らなくなっていった。防御に当たってすこぶる不利不便があったからである。まず大砲を据えて撃ち出そうとすると、轟音、硝煙、振動などで大変なことになった。ことに発砲による振動は石造りの部分を傷めることがはなはだしく、敵に与える損害以上の被害を出すこともあった。
 
 一方、敵側から撃たれた場合には、高い城壁や建物が目標になりやすいし、弾丸が石造の構築物に当たれば飛び散った右の破片が守備兵に被害を与えたし、弾丸そのものが跳ねかえってとんでもない方向に飛ぶ恐れもあった。そのため石造りの城に代わって土塁、土堤が多用されるようになった。土の構造物ならば短期間で安上がりにつくれるし、衝撃をそのまま吸収できるという一石三鳥の効果があったからだ。その後また右の素材も用いられたが、中世風の城が復活したわけではない。
 わが国の場合、ヨーロッパと違って大砲はあまり普及しなかったから、こうした悪条件がすべて当てはまるわけではない。しかし、弾丸が石垣などに当たって跳ねかえる跳弾の問題などは東西共通であるし、鉄砲の弾丸を防ぎたいなら土城にする方が手っ取り早く、安上がりで、かつ効果的だということもまったく同じである。その程度のことがわが国の武将たちにも分からなかったはずはない。とすれば鉄砲が近世風の城郭を生んだわけではないことは、はっきりしているではないか。」

鈴木眞哉著『鉄砲と日本人−「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)P193−94


 今後教科書は変わるか?                                 目次へ

 つまり、いわゆる「長篠合戦」に関して世情に言い伝えられていることは、結論から言えば、17世紀前半に小瀬甫庵が書いた『甫庵信長記』の記述を、明治時代以降勝手にふくらませたり無批判に継承した結果生まれてしまった「伝説」に過ぎないことが、何人かの熱心な研究者によって、はっきりとしてきました。

 では、このこれまでの「常識」は、すぐさま否定され、手っ取り早くいうと、教科書の書き換えがなされるでしょうか?
 こたえは、否です。
 
 次の文章は、2002年という比較的最近に出された、日本の歴史を時代ごとに詳述するシリーズものの書物の近世の一節です。

「 以上が『信長公記』にみる長篠の戦いの経緯である。鉄砲の威力を十分に生かした信長の戦術が功を奏した大勝利であった。おそらく、それまでにこれほど多くの鉄砲を野戦で効果的に使用したことはなかったのではあるまいか。軍人信長の真骨頂というべきであろう。しかし、ここには、三千挺の鉄砲隊を千挺ずつ三隊に分けて交替で撃たせたという記述はみられない。ところが、この『信長公記』をもとにフィクションの歴史小説を書いた小瀬甫庵(1564〜1640)の『信長記』になると、その三段撃ち戦法が登場する。藤本正行氏は『信長の戦国軍事学』の中で、以上の『信長公記』の記述と比較して、この創作が戦術として現実離れしているのに、事実であるかのように定着していつたことを批判している。甫庵のフィクションは遠山信春の『総見記』(貞享二年〔一六八五〕ころ成立)にうけつがれてさらにフィクションを加えられ、明治36年(1903)の参謀本部『日本戦史・長篠役』へと引きつがれて定着していったという。
 それはともかく、この大勝利が人々を圧倒したことはまちがいない。上洛した信長に朝廷が官位を与えようとしたのはその表れである。」

池上裕子著『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』(講談社 2002年)P60

 このシリーズで取り上げた新説の提唱者、鈴木眞哉氏、藤本正行氏、名和弓雄氏が、特に1990年代以降活発に「長篠伝説」の否定をされてきているにもかかわらず、まだ、上記の段階の認識しかなされていません。
 これでは、教科書の訂正にまでは、何年どころか、何十年もかかってしまいます。
 これは私の邪推ですが、上記の3氏は、いずれもいわゆる大学教授という立場の研究者ではありません。おおざっぱに分類すれば、在野の研究家です。そこにも原因があると考えられますがいかがでしょうか?
 
 これで、「長篠の戦」のシリーズは、終わりです。全部読んでいただいてありがとうございました。(^.^)


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