ヨーロッパ中世世界
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最終更新日 2002年7月28日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
603 02/07/28

 1613年仙台藩主伊達政宗は、家臣の支倉常長をスペインに派遣しました。ヨーロッパに現存している記録によると、日本人使節が気軽に捨てるものを、当時のヨーロッパ人たちは貴重なものとして、大勢が集まって我先に拾おうとしました。さてその捨てたものとはなんでしょうか。

601 01/01/21

 現在世界に190以上の国がありますが、最も面積が小さいのは、ヴァチカン市国。その人口、面積はどのくらいでしょうか。また、国民の職業はなんでしょうか。

602 01/08/19

 ヨーロッパの次の国のうち、酒が飲めない人の割合が最も多い国はどこでしょうか。
  ・イギリス ・ハンガリー ・イタリア ・スウェーデン ・ドイツ ・チェコ ・デンマーク


<解説編>

601 ヴァチカン市国の人口・面積、国民の職業は何でしょうか。     | ヨーロッパ中世世界の問題TOPへ |

 ヴァチカン市国は中世のヨーロッパ史では、まずローマ教会・ローマ教皇領として登場します。フランク帝国のカロリング朝の国王ピピンガ756年にローマ教会の首長ローマ教皇(現在は法王の訳語を当てる)に領地を寄進したのが始まりです。以後1000年以上の間ローマ教皇はローマを含むイタリア半島中部に広大な領地を持っていました。フランク王国分裂後イタリア半島に強力な統一国家が誕生しなかったことが、それを許しました。
 イタリア統一の際の1870年、イタリア王国が教皇領を併合し、それ以後教皇領のほとんどはイタリアに併合され、ローマ市の一画のみを事実上支配するローマ教皇とは長く対立が続きました。
 1929年イタリア政府(首相はあのムッソリーニ)とラテラノ協定が成立し、イタリア政府は法王の主権を認めました。この結果、ローマ・カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ寺院がある周辺のみが、法王統治する独立国家として残り、今のヴァチカン市国となりました。
 さて、この国は、現在、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が行政・立法・司法の三権を持つ君主国です。国民は約1000人、その多くは、法王庁で働きますが、それを除くと、つまり、宗教関係者以外で一番多い職業は、
土産物売り業従事者です。(護衛兵は、3400人いますが、これは国民には含まれません。過去の経緯があって、スイスからの派遣衛兵です。内部の治安と教皇の護衛にあたります。外のサン・ピエトロ広場はイタリア警察が管轄します。)
 経済では、イタリアのリラと等価の通貨を有するほか、独自の郵便制度、鉄道駅、ラジオ局、電話・電報サービス、銀行などもあります。
 ※『データ・アトラス』(1995年同朋社)
 面積は、0.44平方キロメートル。つまり、正味は0.66km×0.66kmの正方形の土地ということです。右図参照。
 余談ですが、数学的概念がごく普通の生徒は、この0.44平方キロメートルの土地が、一辺何メートルの正方形ですか、という質問に実に見事に誤った答えを出してきます。まずくすると、小学校の単位と位取りの算数の時間となってしまいます。

 歴史の学習では、やはり、現在と結びつける視点が不可欠です。特に世界史Aでは、現代の興味ある問題からその経緯を教え考えるという発想が重要だと思います。
 


602 ヨーロッパの国で酒に弱い人の比率が高い国は?         | ヨーロッパ中世世界の問題TOPへ |

 この世の中にお酒が強い人と弱い人がおり、それが遺伝的な資質によるものであることは、御理解いただいていると思います。もし、まだの人がいましたら先に次のページを見てください。
 ※目から鱗・・の話「日本人のアイデンティティを考えるU 「酒の強い人弱い人」」

 酒に弱い遺伝子を持った人間は、氷河期の終わりの頃にシベリアの寒冷地に適応する形で誕生し、その後各地へ拡散していきました。そのため、モンゴロイドのうちの一部、新モンゴロイドと呼ばれる人のみが、酒に弱い遺伝的資質を持ち、古くからのモンゴロイド、コーカソイド(白人)、ネグロイド(黒人)には、そういう酒に弱い遺伝的資質はありません。つまり、酒を飲むと顔が赤くなるという現象は、アジア人の一部に見られる得意な現象なのです。

 さて、そうであるなら、問題のヨーロッパの国の人々のうち、新モンゴロイドの遺伝子を最も引き継いでいる可能性のある国の人が、酒に弱い比率が高いことになります。
 正解は、ハンガリーです。

 ハンガリーは、国民の88%がアジア系のマジャール人(ハンガリー人)で構成されています。彼らの祖先は、遠く中央アジアの遊牧地帯から東ヨーロッパまで移住し、ドナウ川中流の現在の地にすみついたのは、895年ごろとされています。従って、選択肢の中では、最も新モンゴロイドの遺伝的形質を受けついでいる民族と言うことになります。
 但し、それ以後の民族の融合の中で、特質は薄められています。調査によると、酒が飲めない割合は日本人が平均
40%台といわれているのに対して、ハンガリー人は、ほんの2%です。それでも、ヨーロッパ人の中では、異例に多いのです。 
 ※『科学朝日』編『モンゴロイドの道』(1995年朝日新聞社)
 
 いつかハンガリー民族舞踊団が学校へ来た時に、ハンガリー人の集団というものを始めてみましたが、その時も、外見からでは、彼らが他のヨーロッパの民族と著しく違うと言うことは分かりませんでした。
 
 以下、お勉強のためのハンガリーの歴史です。
 族長アールパードにひきいられた非キリスト教とのマジャール人は、半世紀あまりにわたってヨーロッパ中部一帯に君臨しましたが、955年、のちに初代神聖ローマ皇帝となるオットー1世に敗北します。これをきっかけにキリスト教と西欧文化が伝来し、975年にはキリスト教に改宗します。イシュトバーン1世がアールパード朝を創始し、1000年にローマ教皇から国王の称号をさずけられ、ハンガリー王国が成立し、その後しばらく、ハンガリーの発展が続きます。
 しかし、アールパード朝は12世紀、ビザンティン帝国の皇帝マヌエル1世の扇動で生じた内紛をきっかけに王権が弱体化していきます。1241年にはモンゴル軍の侵入で国土が荒廃し、王国の崩壊に拍車がかかりました。

 その後、フランスのアンジュー家、ルクセンブルク家のジギスムントなど外国出身の王家による支配が続きます。
 しかし、一方で14世紀後半以降、バルカン半島へ進出したオスマン・トルコ帝国に次第におびやかされるようになります。
 1526年にはオスマントルコのスレイマン1世軍にモハーチの戦で敗れ、以後150年以上にわたり、ハンガリーは3分割されます。西部と北部はオーストリアのハプスブルク家の支配下にはいり、東部のトランシルバニアはオスマン帝国保護下の公国となり、中央部はオスマン帝国の占領下に置かれました。

 17世紀後半には、オスマントルコの支配は後退し、代わって、ハンガリー全土は、ハプスブルク家が支配下します。 1789年のフランス革命の影響はハンガリーにも及び、19世紀にはいるとナショナリズムが高まり、1830年代にはセーチェニやデアークら自由主義的な貴族が改革運動をおこしました。40年代にはコッシュートら下層貴族が、農民の封建的義務の廃止などを要求して急進的な改革運動をおこないました。
 ハンガリー人急進派は1847年の議会選挙で大勝すると、全ヨーロッパにに革命の気運が高まる中、1848年3月、オーストリアからの事実上の分離が可決され、ハンガリー議会は翌1849年4月に独立を宣言し、対オーストリア独立戦争がはじまりました。
 オーストリアはハンガリー人の自立をなかなか許しませんでしたが、1859年の対イタリア戦争にはじまる対外戦争にあいついで敗北し、ハンガリー人に対して融和的な態度をせざるを得なくなりました。こうして1867年3月には、オーストリアとハンガリーはアウスグライヒ(妥協)を結び、ハプスブルク家の皇帝を共通の君主とするオーストリア・ハンガリー二重帝国を形成します。
 第一次世界大戦での敗戦により、オーストリア・ハンガリー二重帝国は1918年に崩壊し、その後いくつかの変転を経て、ハンガリー王国が復活します。
 第一次世界大戦後のハンガリーは、大戦の敗北によって奪われた領土の回復を求めて急進的なナショナリズムが優勢となり、1930年代には右翼急進派により全体主義的な傾向が強まりました。ナチス・ドイツに接近し、その侵略政策の一端をになう形で周辺諸国から領土を奪回。国際連盟から脱退し、1939年1月には日独伊防共協定に加盟し、第二次世界大戦を迎えます。
 戦後は、1948年に共産党の一党独裁によるハンガリー人民共和国が成立し、ソ連陣営に加わりました。1955年には、スターリン死後の同様の中で、イムレ・ナジによって、一党制の廃止、自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ワルシャワ条約機構からの脱退などを宣言する等の自由化が試みられましたが、2度にわたるソ連の軍事介入で鎮圧され、ナジは反逆罪で処刑されました。
 1989年東欧自由化の波の中で、複数政党制が復活し、国名は「人民共和国」から「共和国」に改められました。翌年はじめての自由選挙が行われています。
 


603 ヨーロッパ人が我先に拾おうとした日本人使節が捨てたものとは?   | ヨーロッパ中世世界の問題TOPへ |    

正解は、鼻紙です。今でいうとティッシュペーパーでしょうか。
 
 1613年10月28日、支倉常長一行は現在の宮城県の月の浦港をを出港し、1年後にスペインに上陸しました。 
 一行は、スペインからイタリアに向かう途中に嵐にあって南フランスのサン・トロペに避難しました。その時の様子が、サン・トロペ侯爵、同侯爵婦人らの手によって記録され、それが、パリの国立図書館と南仏のカルパントラ図書館に現存しています。

 侯爵夫人は、次のように記録しています。
「彼らは、ほとんど掌の大きさほどの、中国の絹の鼻紙で洟をかみ、1枚の鼻紙は二度とは使いませんでした。洟をかむたびに地上に紙を捨てますので、見物に集まったこの地の人々が拾い集めるのを見て面白がっておりました。なんでも、宮廷の貴婦人たちの一番華麗な恋文のような、縁を美しく飾った大使の紙を争って拾おうと、大勢の人々がひしめきあっていました。彼らは胸にたくさんの紙をはさんでいましたが、長途の旅に充分なだけを持ってきていましたので、こんなことができたのです。」
 
 一行の鼻紙は、イタリアのローマでも珍しがられ、ローマのアンジュリカ博物館と人類学博物館に、今もなお支倉の鼻紙とされるものが保管されているとのことです。
 ※山内昶著『「食」の歴史人類学』(人文書院1994年)P58・59

 後で説明するようにヨーロッパでは当時は紙は貴重品で、階級の上のものはハンカチで洟をかんでいましたが、庶民はいぜんとして手洟をかむか、袖で洟をかむ段階でした。「袖で洟をかまない」という表現は、「あいつは金持ちだ」という意味に使われていました。

 どうしてこのような記述が生まれたのでしょう?

 ここで少し、紙の歴史を学習します。
 紀元前の段階で、小アジアでは、羊やヤギの皮を水洗いして表面に好物質の白い粉末をすりこんだものが、紙の代わりに使われていました。これが羊皮紙です。
 エジプトでは、パピルスから紙が作られそれがPaperの語源になったといわれていますが、エジプトのパピルスは、実物を見ればわかりますが、紙というより、ゴザのようなものです。

 一方中国では紀元前2000年頃から、絹の布を作る過程で出る繊維を利用して紙が作られていました。
 「後漢書」によると、紀元後105年に、宦官の蔡倫が樹皮、布などを使って紙を作ったという記録があります。しかし、それ以前に作られたと見られる紙が出土しているため、現在では、蔡倫は、アサ、竹、コウゾなどを原料とした紙の製法をまとめた人物と考えられています。
 この製法は、次のように他の地域へ伝播します。

610年   日本へ伝播
757年   中央アジアへ伝播
800年頃 エジプトへ伝播
900年代 イベリア半島からヨーロッパへ伝播
1150年 スペインのサティバにヨーロッパ最初の製紙工場ができる
1189年 フランスのエローに製紙工場できる
1276年 イタリアのファブリーノに製紙工場できる
1495年 イギリスに製紙工場できる


 日本でも、飛鳥時代や奈良時代には、紙は貴重品で、政府の文書も、竹や木を薄く削ったもの、木簡・竹簡が、広く使われていました。
 この間に、中国から伝来の技法(麻のボ布を主原料とする)に代わって、コウゾなどを主成分とする和紙の製法が発展し、9世紀初めには、その技法が確立されました。

 平安時代後期、宮廷では一度使用した反故紙を再利用して日用紙として流通することも始められ、また地方では、それぞれの地域で技術が発達し、上質の紙が作られるようになりました。たとえば、東北地方の陸奥紙(みちのくがみ)は、貴族たちの好みに合い、壇紙・真弓紙と呼ばれて珍重されました。
 鎌倉時代になると、讃岐(今の香川県)・越前(福井県)・備中(岡山県)などでも、特産品として紙が作られ、産地の特色が強調され、産地名をつけた今でいうブランド紙も生まれました。播磨の杉原紙(すいばらし)、越前の鳥の子紙などです。
 室町時代になると、なると、美濃や土佐などの厚くて丈夫な紙、大和の奈良紙・吉野紙などの鼻紙など、紙は日本人の日常生活を支えるものとして普及していきました。
 したがって、支倉常長がヨーロッパに渡る近世初頭の時代は、紙は日本にはふんだんにあり、一方ヨーロッパでは、まだ日常生活には利用できない状態でした。
 高温多湿で食物繊維が容易に得られる日本と、雨が少なく原料に乏しいヨーロッパという風土的背景も存在していました。

 ヨーロッパでの製紙法の伝播との時間差が、冒頭のような、記述を生んだのです。