歩兵・砲兵・騎兵の三兵種を組み合わせた三兵戦術を確立した人物とは・・・・。これはちょっと難問です。無茶な質問です。世界史をよほどしっかり学習した人でないと記憶にはありません。受験生は別ですが・・・・。この問題は、あくまで、目から鱗:銃砲と歴史「高島秋帆と高島平」のシリーズ(05からつながります→)をお読みいただいている読者への解説という意味の問題設定です。
まず、正解です。教科書の引用文に設定した〔 〕を正解で埋めます。
「17世紀の前半に、16世紀から続いていた経済成長がとまり、ヨーロッパは凶作、不況、人口の停滞などの現象にみまわれた。17世紀のなかばは、経済・社会・政治のすべての領域におよぶ、全ヨーロッパ的規模の危機の時代となった。ドイツの戦乱は、この「17世紀の危機」の一つの現れであった。
神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成がおくれていた。1618年、オーストリアの属領ベーメン(ボヘミア)の新教徒が、ハプスブルク家の旧教化政策に反抗したのをきっかけに、〔1 三十年 〕戦争がおこった。この戦争の一つの対立軸は旧教対新教で、スペインは旧教側のハプスブルク皇帝を支援し、新教国デンマークはこれとたたかった。ヴァレンシュタインの皇帝軍が優勢となると、バルト海の派遣を目指す新教国スウェーデンの国王〔2 グスタフ・アドルフ 〕が戦いに加わり、旧教国フランスも新教勢力と同盟して皇帝とたたかいはじめた。〔1 三十年 〕戦争は、宗教的対立をこえたハプスブルク家対フランスの戦いでもあった。
〔1 三十年 〕戦争は1648年のウェストファリア条約終結し、ヨーロッパの主権国家体制は確立された。」
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佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版 2004年)P185−186
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つまり、三兵戦術を確立したのは、三十年戦争で活躍したスウェーデン国王のグスタフ・アドルフです。
2 『三兵答古知幾』と高野長英(世界史と日本史のつながり)
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2009(平成21)年3月に公示され、2013(平成25)年から施行される新学習指導要領では、地理歴史科の科目においては、これまで以上に、世界史と日本史と地理の各科目間のつながりを取り扱うことが強調されています。
ここでは、三兵戦術を確立した、スウェーデン王グスタフ・アドルフと、幕末の日本でそれを訳述した高野長英をを結びつけます。
江戸時代末の蘭学書、『三兵答古知幾』は、こう書いて、「さんぺいたくちーき」と発音します。
この訳書は、蛮社の獄で弾圧を受けた高野長英の著述によるものです。彼は、モリソン号事件に関して『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)を著述し、江戸幕府の鎖国政策を非難した罪で、1839年有罪(永牢)となり江戸小伝馬町の獄舎につながれました。いわゆる蛮社の獄という事件です。ところが、1844年火災に乗じて牢を脱出し、そのまま逃亡します。逃亡6年後の1850年、江戸に潜伏中のところ幕吏に見つかり、逮捕後間もなく死亡しました。一説に毒をあおいで自殺したとも言われています。
この本は、その逃亡中に訳した本と伝えられています。原書は、1833年にプロシア陸軍の将軍ハインリヒ・フォン・ブラントが著述しました。それをオランダ人イ・ファン・ミュルケンがオランダ語に訳したものを、高野長英がさらに日本語に訳したのです。
この「さんぺいたくちーき」というのは、「三兵の戦術」という意味です。「三兵」は陸軍の歩兵・砲兵・騎兵の三兵種のことです。また、「たくちーき」は英語で言うと、「tactics」、つまり戦術のことです。『三兵答古知幾』の『答古知幾』は、当て字です。つまり、この本の題名は、読んであて字のごとく「三兵戦術」を示しています。
まず、上の世界史の教科書にある三十年戦争の説明を補足します。
1618年から始まった戦争の発端は、ドイツ領内の新教・旧教との対立です。この国内宗教戦争は、1627年にデンマーク王クリスチャンW世が介入することによって、国際戦争に発展します。デンマーク軍を支援するイギリス軍も戦列に加わって、ハプスブルク家の皇帝側は劣勢になりますが、同家の傭兵隊長ヴァレンシュタインの活躍によって、再び攻勢に転じます。
その時疲弊したデンマーク軍にかわって登場し新たに参戦するのが、このクイズの主役、スウェーデン王グスタフ・アドルフです。
彼は、1631年、ザクセン侯領のライプチヒ(旧東ドイツの南東部)でテイリー伯率いる皇帝軍と決戦をしました。ライプチヒの戦いです。皇帝軍3万5千、グスタフ・アドルフとザクセン侯軍あわせて4万の対決です。
さて、いよいよここでグスタフ王がこの時用いた三兵戦術を詳しく説明します。下の説明図を見ながらお読みください。
王は、ザクセン侯軍を全体の左側に配し、自軍に関してはその中に歩兵部隊を置き、両翼に騎兵部隊を配置しました。さらに、歩兵部隊の前面に約100門の銃砲の砲兵部隊を置き、歩兵部隊の後方に機動性のある軽砲20門の砲兵部隊を展開させました。
一方のテイリー伯の皇帝軍は、これまでのグスタフ王の戦闘の事例から、陣の中央部前面に歩兵部隊を置き、その後ろに砲兵部隊を配置しました。グスタフ王軍がまず騎兵による中央部への突進を行うことが予想され、それをまず歩兵部隊で受け止めたあと、歩兵を左右に展開させその後方から砲兵部隊が登場して射撃し、さらに左右から歩兵と騎兵が挟み撃ちをして、とどめを刺すというテイリー伯の「勝利の方程式」でした。
ところが、戦いが始まると、グスタフ軍は騎兵のワンパターンの突撃を行わず、前面に布陣した砲兵部隊の射撃を続けました。これは、テイリー軍の歩兵の兵力を消耗させました。そこでテイリー軍は、左翼の騎兵部隊による突撃を敢行しましたが、反復する攻撃をグスタフ軍の右翼騎兵部隊・歩兵部隊が防ぎきりました。
窮したテイリー伯軍は、反対側の右翼騎兵部隊にザクセン侯軍に突撃させ、これは成功し、同軍を後退させます。しかし、こちらにおいても、グスタフ王軍左翼騎兵部隊が奮闘し、その間にテイリー軍中央をグスタフ軍歩兵部隊が突破してテイリー伯重砲兵部隊を捕獲し、その砲を利用して、テイリー伯軍右翼騎兵部隊を攻撃し、さらに、グスタフ軍右翼騎兵部隊が大きく回り込んでテイリー伯軍右翼騎兵部隊の背後を攻撃したため、挟み撃ちになったテイリー伯軍右騎兵部隊は奮闘むなしく壊滅、ついに、テイリー伯軍は総崩れになり、グスタフ・アドルフ王は勝利しました。
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