幕末〜明治維新期3
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<解説編>
 
608 この小さな島は何?                                          

 正解、これは東京のお台場にある、東京湾品川沖第6台場の現在(2003年7月)の写真です。

 以下次項目で説明します。(2004年3月20日追加)
 1 海防とペリー来航
 2 台場建設(説明地図)
 3 レインボーブリッジを徒歩で渡るの記
 4 お台場付近航空撮影写真(2004年3月20日追加)
 5 品川区立台場小学校 (2004年3月20日追加)


 左上は、レインボーブリッジの遊歩道から見た第6台場の写真です。
 右上は、芝浦埠頭側から見たレインボーブリッジと第6台場。向こうはお台場のビル群です。ゆりかもめの中からの撮影です。 

 左は、フジテレビの社屋から見たレインボーブリッジと東京都心。橋の下に見えるのが第6台場。この写真は、友人から借りました。 


 
 1 海防とペリー来航                           このページの先頭へ| 

「お台場」というと、このサイトの日記「踊る大捜査線2レインボーブリッジを封鎖せよ」にも登場しますが、最近の東京の名所の一つです。
 さて、一般に「台場」というのは、江戸時代後半期から末期にかけてに建設された、海岸防備用の大砲を備え付けた陣地(砲台)のことです。

 江戸時代末に全国でいくつぐらいあったか想像できますか?

 なんと全国で1000もの台場が建設されていました。このうち、ペリー来航前にすでに600ほどが建設されており、残り400ほどは来航以後に建設されました。
  ※原剛著『幕末海防史の研究』(名著出版1988年)

 ペリー来航以前にすでに多くの台場が建設されていたというのは以外に思えるかもしれませんが、老中松平定信の寛政の改革では、海防への注目が集まっており、このころから全国の台場の建設が急速に進みました。
 寛政の改革と言えば、高校の教科書にも登場する林子平が『海国兵談』(1786年著)において海防の要を説いて処罰されたことが有名です。

 その少し後、同じく教科書にも登場する19世紀前半の思想家佐藤信淵も、『三銃用法論』(1809年)において、「防守砲を備ふるには、まずその台場を築くべし」と、台場建設の必要性を説きました。
 ※保谷徹「幕末の台場について」『歴史と地理』(山川出版2002年3月)

 また、現実に、1806、07年のロシア軍艦によるカラフト、千島における暴行事件、1808年のイギリス軍艦フェートン号の長崎侵入事件などもあり、幕府は、各藩に要地(特に江戸湾)の海防の強化を命じました。
 こうして、幕末へ向けて数々の台場ができていきました。

 1837年、アメリカ商船モリソン号が漂流日本人の送還のため江戸湾口に入ろうとしたところ、湾口の浦賀にあった砲台から発砲をうけました。
 1825年に発令されていた「異国船打払令」によって、理由の如何を問わず発砲することになっていたからです。このことは、すでに、江戸湾口に台場があったことを示しています。

 では、現在の「お台場」の台場、正確に言うと、品川台場(品川沖台場)は、いつ頃できたのでしょうか。

 1853年6月3日、ペリーの艦隊が浦賀に来航しました。
 これまでの作法どおり長崎回航をもとめる浦賀奉行役人に対し、ペリーは強行に、浦賀で大統領の国書を渡すことを要求しました。
 翌6月4日、ペリーは強硬措置に出ます。
 艦隊のうちの1隻蒸気軍艦ミシシッピ号を江戸湾内奥深くに派遣し、測量用の小舟をおろして、沿岸の測量を実施させたのです。
 ミシシッピ号は、羽田沖約1.3qにまで接近しました。

 この時代には欧米諸国を中心として、「近代国際法」が確立されていましたが、そこでいう領海3海里(海岸から約5.4q)を無視した、大胆な行動でした。(そもそも、江戸湾口は、直線距離で約7qしかありません。この時代の国際法上は、入り口6海里=約11.1q以内の湾は、その国の内水面でしたから、江戸湾自体が我が国の完全な領海でした。)

 しかし、これを日本は阻止できなかったのです。いうまでもなく、軍事力の差です。

 ペリーの旗艦サスケハナ号に乗り込んだ浦賀奉行与力中島三郎助は、大砲に関する知識を有しており、艦上の備砲の中には、有効射程距離が3海里を超える強力なものもあることに気が付いていました。
 そして、首都江戸は全く無防備な都市でした。

「江戸は、北京と比べると臨海都市で、脆弱な首都である。シーボルト文庫やオランダの地図を買い上げたペリーは、日本へのアプローチの仕方を軍事専門家として、事前に周到に研究したと述べている。測量船を先に出して水路を探し、江戸への威圧を直接に加えるという方針は、江戸の地勢を見て十分に練られたものであろう。江戸は自給率の低い消費・政治都市であり、浦賀水道が閉ざされれば江戸が飢餓におちいると、シーボルトなどの内外の識者から海に面した都市の脆弱性が指摘されていた。」
 ※井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末の変革』(講談社2002年5月P186) 

 この日、幕府はペリーの上陸、国書受理を決定し、6月9日、ペリーは久里浜(現在の横須賀市)に上陸しました。  


左は、長崎防備につかわれた大砲、出島にて撮影。右は、大阪湾の天保山砲台にあった大砲。現在は大坂城にある。大坂城の大砲は、明治から大正時代まで、正午の時刻を知らせる大砲として使われ、「大阪のドン」と親しまれたという。しかし、旧式の青銅砲は、幕末においては、欧米列強の大砲の前には無力であった。


 2 台場建設                     このページの先頭へ|

 危機感を感じた幕府は、ペリーが去ったすぐあと、いくつかの国防充実施策を実施します。

 まず、それまで武家諸法度によって禁じられていた大船建造を許可しました。
  そして、江戸湾防備に関しては、江戸城を海からの攻撃から守る防御線として、品川沖の台場の建設を開始したのです。

 右の地図をご覧ください。
 当時の海岸線は、江戸城の中央から3qほどしか離れていません。
 艦隊を持っていない当時の日本の力では、外国艦隊が江戸湾奥に侵入すれば、江戸を守る術はありません。
 彼らの大砲によって江戸城以下が壊滅させられてしまうことは明らかでした。

 そこで、品川沖に台場の建設となったのです。

 江戸城の全面の海面を守るために、品川の沖から、高輪、芝浦、浜(以上現在の港区)、佃(現中央区)、深川(現江東区)を経て、荒川河口沖まで、全部で11の台場をつくる予定でした。
 右の地図では、現実に作成された、6つの台場の位置だけを示していますが、6つの台場のさらに北東方向に、現在の江東区の海岸へ向けて、残りの、第7、8、9、10、11の台場が計画されたのです。

 責任者は、この時代の開明派幕閣のひとり、江川太郎左衛門英龍です。

 もっとも、江川の当初の構想は、東京湾の入り口の浦賀水道に、1km沖に台場を作るというものでした。この方法だと、東京湾口で確実に外国船を撃破できます。

 ところが、この計画では工事は余りにも大がかりなものになり、工事費はかさみ工期も4年や5年で終わらないと言うことで、実行は認められませんでした。
 ※金子功著『ものと人間の文化史 反射炉U』(法政大学出版局 1995年)P310

 品川台場の建設は、突貫工事で進められましたが、第1台場から第6台場までを建設し、第7台場の工事の途中で中止となります。
 原因は、財政難でした。

 1853年当時の幕府歳入額は、約148万両でしたが、第7台場までにすでに75万両を使ってしまったのです。泥縄式の国防策は財政的には絶望的な負担となってしまいました。
 ※石井寛治著『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館1989年3月)P35
 
 江戸庶民は品川沖に突然現れた御台場を、好奇の目で眺め、落手を残しました。

  つくかねの六つ(午前6時)よりいでてお台場の どひょうを重ねて島となりぬる
  高輪でふりさけみればはるかなる 品川沖へできししまかも

 ※出典は、小西四郎著『日本の歴史19 開国と攘夷』(中公文庫1974年 P61より)

 明治時代になってからは、6つの台場は、陸軍の管轄に移されました。しかし、もはや防衛陣地としての意味はなく、やがて、東京市(当時)に移管されたり、民間に払い下げられていきます。
 
 その後、東京港の発展に伴って、台場は次々と消えていきました。
 図をご覧ください。
 西から、第4・第1・第5の台場は、埋め立て地の一部となりました。第2台場は、航路の真ん中となってしまったため撤去されました。

 そして、現在にまで残るのが、第6と第3の台場です。
 この二つは、管轄自治体の東京市によって昭和前半から公園として一応の整備がなされ、かろうじて生き残ったのです。 


第3台場全景。第6台場より大きい。 

第3台場の北側の船着き場の部分のアップ。

 ゆりかもめの台場駅やや北東の展望デッキからの一望。中央がレインボーブリッジ。デジカメ6枚の合成写真。


 3 レインボーブリッジを徒歩で渡るの記       このページの先頭へ|

 番外ですが、上の第3及び第6台場の写真は、レインボーブリッジの上からの写真です。
 今年の春、初めてゆりかもめでレインボーブリッジを渡った時、橋の上を人が歩いているのを見つけました。その時以来、いつか時間がある時に歩いて渡ってやろうと思っていました。


 2003年7月にその夢?がかないました。以下の写真は、次男Yと歩いたその時の記録です。


 お台場側のゲートの入り口。料金がいると思ったら、無料だった。

 橋の上は車道が2段になっている。下段の真ん中をゆりかもめが走る。

 レインボーブリッジの全長は、中央の吊り橋部分と東側のスロープ部分を足して、1523m

 遊歩道は、写真のような落下防止柵が付いている。

 芝浦埠頭側の出口から。


 写真をとりながらゆっくり歩いて30分ほど。
 ゆりかもめの海浜お台場公園駅から、橋を歩いて芝浦埠頭駅まで、1時間弱です。季候のいい時なら気持ちいい散歩です。時間を作って、一度挑戦してみてください。


 4 お台場付近校区撮影写真(2004年3月20日追加)  このページの先頭へ|

 これはお台場クイズの追加説明編です。
 このクイズ自体をまだご覧になってない方は、このページの先頭、さらには、問題編に戻ってください。
 お台場を中心として、現在の品川区・港区・江東区にまたがる地域の航空写真です。
 第3台場と第6台場の様子がはっきりとわかります。
 ただし、これは1984年の写真ですから、まだ、レインボーブリッジは影も形もありません。
 

 昭和59年撮影の「国土画像情報カラー空中写真」(国土交通省)をもとに作成しました。

 オレンジの線が、レインボーブリッジの位置です。もちろん、埋め立て地の台場(港区台場)には、フジTVなどの施設もありません。ただの更地です。

 このクイズの説明の際に、最初は写真を掲載しなかったのは、著作権問題をクリアーして、自分のサイトに掲載できるいい写真が発見できなかったからです。

 この写真に関しては、著作権問題はクリアーしています。
 どこからこの写真を複写してきたかは、日記・雑感「国土情報ウェブマッピングシステム」に詳述してあります。こちらへどうぞ。
 


 5 品川区台場小学校(2004年3月20日追加)   このページの先頭へ|

 レインボーブリッジを渡った埋め立て地のいわゆるお台場以外に、他にも台場と呼ばれる所があります。もちろん、第3台場、第6台場以外のところです。
 それはどこかといえば、上の航空写真の右隅の薄い緑色で囲んだ場所です。

 正確な住所は、品川区東品川1の8の30ですが、ここにある小学校が、実は
品川区立台場小学校なのです。隣には、区立台場幼稚園もあります。
 さて、もう一つのクイズです。

 
なぜ、この小学校が「台場」と名付けられたのでしょうか。

 台場小学校から最も近い第4台場跡(今は埋め立て地の一部となっている)までは、直線で400メートル以上離れていますから、ここが直接台場の地であったのではないことは確実です。
 

 昭和59年撮影の「国土画像情報カラー空中写真」(国土交通省)をもとに作成しました。

   右は上の空撮写真の拡大版です。台場小学校は、グランドの形が普通の小学校の正方形・長方形と違って、変形した四角形となっているのが判別できますでしょうか。
 そういえば、よく見ると、周辺の道路の走り方(町割)も普通の碁盤の目状とは異なります。
 ここらにヒントがあります。


 正解は、台場小学校の開校周年記念誌『ふるさと台場』からの引用で説明します。

「海の中に、島をいくつもつくろうというのですから、たくさんの材料、費用、人手が必要でした。御殿山の土をくずして、はこんだそうです。品川の人たちも、たいへんな苦労をしましたが、お台場をつかうような戦いはおこりませんでした。
やがて、この100年後に台場小学校の校地となる土地も、このときにうめたててつくられたお台場工事の根拠地でした。
 

 日陰で見づらいですが、左は台場幼稚園、右は台場小学校。(デジカメ写真2枚の合成。)


 工事をした人々は、ここを通って大砲をお台場にはこびこんだり、また、仕事の帰りには、「お台場銀」というお金をうけとったりしたそうです。御殿山の下にあることから、ここは、「御殿山下台場」とよばれていました。
  ※品川御殿山については、次のページでも説明しています。
     目から鱗:「東京駅から一番近い新幹線トンネル 八ツ山トンネル」

 校門のわきにある、とうだいのおかれている石に、さわってみたことがありますか。ここには、当時のお台場の石が、そのままつかわれているのです。「御殿山下台場跡」と、きぎまれていますから、たしかめてみましょう。
 今では、この「ミニ台場」の上に、白い 「ミニとうだい」が、のせられています。これは、第二台場におかれていた「品川とうだい」をかたどったものです。本物の 「品川とうだい」は、愛知県の明治村にうつされ、たいせつに保存されています。」
 ※品川区立台場小学校開校30周年記念誌編集委員会1987年発行 P18-19

 つまり、江戸時代は海岸線だったこの場所には、品川台場建設の際の資材運搬の根拠地がつくられ、御殿山下台場(ごてんやましただいば)と呼ばれていたのです。
 これが、台場小学校の名前の由来です。

 御殿山下台場は、船着き場をつくるため、もともとの砂浜の海岸線を埋め立ててつくられましたが、その築造方法は、北海道の五稜郭などと同じような様式築城法が採用されました。

 上の拡大写真をご覧ください。
 小学校の西側が当時の海岸線(写真中の赤線)で、北側の現在の護岸堤(写真中の黄色線)は、明治初期の地図にはすでにその形があらわれていますから、最初の御殿山下台場の形と考えて間違いないと思います。
 ※東京都品川区小学校社会科研究部編『わたしたちの品川区』(東京都品川区教育委員会)の
   P62に掲載の地図で確認。


 台場建設工事の基本は埋め立てですから、大量の土砂と護岸用の石材をどこで調達してどうやって運ぶかが建設成功の鍵でした。

 土砂は、桜の名所である品川御殿山の一角を切り崩すなど、品川宿やその周辺から調達されました。
 また、石材は、近辺に良い石材がなかったため、相模の根府側・真鶴、伊豆の多賀・下田などの、いわゆる真鶴石・伊豆石が運ばれてきました。
 ※品川区文化財研究会編『品川区の歴史』(名著刊行会)P35−37


左 台場小学校にある灯台のレプリカ。元は第2台場に設置してあった品川灯台。
右 灯台のそば埋め込まれた「御殿山下台場跡」のプレート。


 余談ですが、台場小学校30周年記念誌『ふるさと台場』の引用部分には、
「工事をした人々は、…また、仕事の帰りには、「お台場銀」というお金をうけとったりしそうです」
と記載されていますが、これには、説明がいります。

 現品川区の歴史を書いたものとして古くからの定版となっている本に、『品川町史』があります。
 これには、幕府は、多数の人足(工事用日雇い労働者)に賃金を払わなければならなかっため、50文・250文の銭を特別に鋳造し、使用したと記載されています。そして、この通貨は「台場通宝」と呼ばれたとしています。

 この話が『品川町史』に掲載されたのは、品川在住者の方の中にこの通貨を拾って所有しているという人がいたからです。
 しかし、1970年代以降現在では、この台場通宝は、大正時代に「創作」されたものであるという説が強くなっています。
 ※東京都品川区教育委員会『品川台場調査報告書』(1968年)P36・37

 この追加項目の内容の資料探しは、港区立三田図書館・品川区立品川図書館の司書さん方にお世話になりました。ありがとうございました。

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