幕末〜明治維新期2
|  前の時代の問題へ  |  幕末明治維新期の問題編TOPへ  |   次の時代の問題へ  |
 
<解説編>
 
606 力士と米俵が描かれた絵の意味は?    10/03/07修正                  

 右下の絵は、幕末に描かれた絵からこのクイズに関係のある部分のみを模写したものです。
  ※出典は、小西四郎著『日本の歴史19 開国と攘夷』(中公文庫1974年 P54より)
 

 この絵が描いているものシーンそのものは、1854年、ペリーが再来して江戸幕府と日米和親条約を結んだ時のものです。
 神奈川沖に停泊するアメリカ艦隊への食糧輸送に、江戸幕府は、わざわざ江戸の大相撲の力士達を使って、米俵を運ばせたのです。
  そこには、次のような次のような意味が込められてました。
 正解、武力でも、科学技術でも、体格でも勝てないアメリカ人に、せめてに日本人でもこれだけ体格がいい人間がいるということを見せつけるためのデモンストレーションだったのです。


 裏を返せば、それだけ、武力を背景とする開国と条約締結が、江戸幕府にとっていかに屈辱的であったかを示すものだったといえるでしょう。

 力士達は、幕府要人の悔しさを晴らすパフォーマンスをやってくれました。
 ペリーの『日本遠征記』には、次のように書かれています。(現代語訳版)
「彼らの力自慢の第一歩として大名は、米俵を船積みに都合のいい位置へと運ばせた。どの俵も、5、60キロ近くあったのだが、一度に二俵運ばない力士は二人だけだった。地面から俵を持ち上げて、助けを借りずに右肩に一つ載せ、二表目を載せるのは手伝ってもらった。
二俵を運ばなかったうちの一人の力士は歯から俵をぶらさげてみせた。また別の一人は俵を腕にかかえたまま、とんぼ返りをしたが、彼の巨体はクモの糸のように軽く、抱えた荷は羽のように見えた。

猪口孝監修 三方洋子訳 『猪口孝が読み解く「ペリー提督日本遠征記」』(NTT出版株式会社 1999年)P119

 このあと、当然ながら、ペリー達は力士達による相撲を見せられました。
 このデモンストレーションは、ペリー達の目にはどう映ったでしょうか?
「先触れにさっきのように呼び出され、土俵に位置を占めると、一方の力士が片足を前に出して体を安定させ、体と頭を下げて攻撃を受ける形をとった。その直後、相手力士が牡牛のように突進していった。岩のような頑丈さでその突撃を受けたものの、割れた額からは血が流れていた。この攻撃は繰り返され、攻める側はいつも攻め、受ける側はいつも受けていた。攻める側の額が血だらけになり、受ける側の胸の肉がコプのようになるまで、この野蛮な戦いは続けられた。この野蛮な興行は、二十五人がすべて戦って、怪力と獣性を示し終わるまで行われた。
 この野蛮な力士の試合のあと、電信と鉄道を展示することになって(今度は日本の委員が招待される側だ)、アメリカ人は誇りを感じた。むかむかするようなショーのあとにこういう高度の文明を紹介できるのは、とても幸福な対比である。野蛮な動物的力比べに代わって、科学と知恵の現れを、いくらか開かれつつある国民に見せることができるのだ。日本人は小人国のような蒸気機関車を再び目にして、とても喜んだ。技師が炭水車の上に立って片手で薪をくべ、片手でエンジンを操作しているもので、書記の一人は車両の上にすわってしまったほどである。民衆も周りに集まってきて、汽車がぐるぐる回るのを飽きない喜びと驚きをもって見つめていた。汽笛を鳴らすたびに感嘆の声を抑えることができないのだった。以前に見てはいるものの、電信の不思議さはまた新たな興味を呼び起こし、好奇心と驚きを誰もが示した。」

猪口孝監修 三方洋子訳前掲書 P121

 力士達は、ペリー達を驚かせるというわけにはいかなかったようです。

 ついでに、ペリー艦隊の武力については、現物教材のところで紹介していますが(現物教材日本史編「近代006 黒船」へ→)、ここでは、前掲書から、当時の人々の受けた思いを紹介しましょう。浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の幕府への報告書の現代語訳です。
「アメリカ軍艦2隻は鉄張りの蒸気船で、大砲は30、40門と12門、他の2隻は大砲20門あまりで、進退は自由自在で、櫓や櫂を用いず、迅速に出没する・・・・全く水上を自由に動く城である・・・・船中の形成を見ると厳重な警戒をしており、もしここで国書を受け取らねば、ただちに江戸表まで乗り込むといい、もしそのさい、江戸でも浦賀でも受け取らぬとならば使命を果たせぬところからその恥を注ぐことになろう。そのさい浦賀から使者が来ても降参の白旗を立ててこない以上を相手にはしないとまで言いきり、将兵たちの顔には、はっきりと殺意がみなぎっている」
 ※小西四郎前掲書 P38

 ちなみに、この報告書を書いた浦賀奉行戸田伊豆守氏栄は、美濃国大野郡深坂村西村(今の揖斐郡谷汲村深坂)に所領を持つ旗本で、大垣10万石の戸田家の分家でした。
 ※『わかりやすい岐阜県史』(2001年岐阜県 P390)

【追記 ペリー艦隊の武力】(掲載 07/08/14)
 ペリー艦隊の武力については、次のようなより詳細な、より現実的な指摘を見つけましたので追記します。(行間調整と文字の着色は引用者が施しました。また、注も引用者が付けました。)

黒船との軍事力格差
 日本側が譲歩したのは、具体的には、ペリーが江戸内湾に派遣した測量船の威庄的な行動によるものであった。浦賀沖停泊の翌日、6月4日、ペリーは測量船に江戸湾内に入るように命ずる。ペリーの決断であった。「(測量船に)大砲の射程距離の外へは行かないように命じ、もし攻撃を受けたら、掩護が送られ得るよう見張りを置かせた」。測量船を支援したのは、もう一隻の
蒸気軍艦ミシシッピー号(注1)であった。技術力を確認しておこう。

 
ミシシッピー号は、サスケハナ号よりひとまわり小型の外輪式蒸気フリゲート艦(快速艦)で、1839年(天保10)建造、全長225フィート(69メートル)、1692トン、乗員268名、大砲12門である。19世紀はじめになると、大型の戦列艦には4000トンクラスが、中ごろには9000トンのスクリュー式近代軍艦も登場した。それにくらべればミシシッピー号は中型艦である。しかし、日本の千石船は100トンクラスでしかなく最大級の一千六百石船でも150トン、乗員は20人であった。しかも、このミシシッピー号は、日本来航の前、アメリカのメキシコ戦争(1846〜48年)で、首都メキシコシティー攻略の上陸作戦を、ペリー司令長官の指揮のもと、旗艦として戦った歴戦の軍艦であった。このように軍事力の格差はきわめて大きかった。

 ミシシッピー号はその後も江戸湾の奥深くへ侵入し、日本側の記録では、羽田沖12丁、約1.3キロメートルに迫った。当時、領海は3カイリ(約5.6キロメートル)と近代国際法で決められていた。
3カイリは、砲弾の到達距離である。このころは、炸裂弾も備えたパクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は、3カイリをはるかに超えた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。

 サスケハナ号に乗艦した
中島三郎助が、「去り際に、この鋭い頗つきの指揮官は、船尾へ足を運んで巨砲を見ると、これはパクサンズ砲ではないのか。射程距離は・・・・」と、船員にたずねたとウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』は記している。三郎助には新型大砲についての知識があり、「射程距離」を気にしていた様子がうかがえる。こうして軍事力の大きな格差があるなかで、幕府外交の真価が問われていたのである。」(注2)

井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社 2002年)P181−182

注1

1853年に来航したペリー艦隊は、旗艦サスケハナ号を含めて4隻。このうち、外輪を持った蒸気軍艦はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻でした。

注2

幕府役人の中にこのような正確な知識をもった人間がいることは強調すべきですね。江戸幕府政権は鎖国政策の中で、ただ「泰平の眠り」を貪っていたばかりではなかったのですね。


 また、条約調印の際に、ペリーが献上した贈り物も、日本人を驚かせるには十分でした。その中に実物の約4分の1の蒸気機関車があり、アメリカ側は、円形の線路を持ち込んで実際に運転しました。
 幕府役人が興味を持って客車の屋根に乗り、面白さと怖さで屋根にしがみついているありさまが、アメリカ側の記録に残されています。
 また、日本側にも、「まことに不思議な機械で、そのくふうには全く驚く」と記録されています。(前掲書P53)

 武力でも、科学技術でも、日本人は、圧倒され続けたのです。


| 幕末・明治維新期の問題編へ |