幕末〜明治維新期6
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<解説編>
 
611 この道路で昔起こった事件とは?                          

 この道路は、現在の東京の皇居の堀の外周の一部を走る道路です。

 問題の写真です。

 遠方の門をアップしました。


 さて、ヒントとなったこの門はと言うと、現在の皇居、旧江戸城の桜田門です。


桜田門の正面、南側から。

桜田門、南東側から。(これは1980年の写真です。)


正解、事件とは、1860(万延元)年に起こった桜田門外の変です。水戸浪士らによる井伊直弼暗殺事件です。
ということは、2つ目のクイズの答えは、その井伊直弼が出発した場所ですから、直弼の邸宅、彦根藩邸です。 

 
ここでは次の説明をします。

1 旧彦根藩邸と桜田門の位置関係

2 襲撃当日(付録 雪の事件シリーズ)

3 井伊直弼と幕閣の独裁


1 旧彦根藩邸と桜田門の位置関係  | このページの目次へ |

 下の地図をご覧ください。左は、現在の皇居周辺図です。
 右は、井伊直弼の彦根藩邸(現在の憲政記念館、地図のB)など、江戸時代末期の桜田門周辺の地図です。 

 現在の、皇居周辺図。

 江戸時代末期の桜田門周辺。


 実は、教科書などには細かなことは記載されていませんが、井伊直弼の彦根藩邸の門と、桜田門とは直線距離にして400メートルほどの至近距離です。 

 千代田区教育委員会が立てた彦根藩邸跡の標識 

 桜田門から、国会議事堂・憲政記念館(旧彦根藩邸、議事堂の右の高層ビルの手前にある細長い時計台のあるところ)を臨む。


2 襲撃当日(付録 雪の事件シリーズ)| このページの目次へ |

 日米和親条約を締結した老中阿部正弘の死去(1857年)のあと、幕閣の中心人物となったのは老中堀田正睦(下総佐倉藩主)です。彼は、阿部正弘の後を受けて、開国政策を進めました。

 しかし、ここで、政治方針と幕府政治の指導体制をめぐって、対立が生じました。
 
一橋派南紀派の対立です。
 

南紀派

主張

一橋派

伝統どおり血筋を重んじる。
血筋の近い紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣に。
あくまで譜代大名による幕閣独裁を維持する。

将軍後継者

非常時には血筋ではなく才能のある人物を将軍にする。
水戸藩出身で一橋家の当主となっていた一橋慶喜を将軍継嗣に。
雄藩を加えた諸雄藩合議制を望む。

開国路線を進め、通商条約締結を行う。

外交政策

天皇の攘夷の意思を奉じ、拙速な開国に反対もしくは、攘夷実行。

老中阿部正弘については、クイズ日本史「幕末〜明治維新期」602へ

一橋慶喜については、クイズ日本史「幕末〜明治維新期」603へ


 この争いは南紀派の勝利に終わり、主導権を握った
南紀派の井伊直弼(1858(安政5)年4月に大老就任)は、徳川慶福を将軍継嗣にするとともに、通商条約については、朝廷の許しを得ず無勅許で調印に踏み切りました。

 これに対して、井伊大老の独断専行に対する批判が巻き起こりました。
 しかし、井伊は、反対派の大量処罰という強硬策をとり、あくまで譜代大名による幕閣独裁を維持に努めます。この大量処罰が有名な、安政の大獄です。
 
 これによって、幕府は、従来の強力な指導体制を回復したかに見えましたが、それを崩したのが、この桜田門外の変です。

 井伊大老の暴挙に憤慨した水戸藩士17名と、薩摩藩士1名(脱藩をしているので表現上は浪士)は、水戸の関鉄之介を指揮官に、江戸城に登城する直前に井伊直弼を襲撃する計画を実行しました。
 
 1860(安政7)年3月3日朝、上の地図の広島藩浅野家の藩邸の北側で待ち伏せした関ら浪士18名は、3月としては珍しく雪の降りしきる中、1発の銃声を合図に井伊直弼の行列に襲いかかりました。

 雪が、警護の侍の機敏な動きを妨げました。
「不意をつかれた井伊の従者たちの行列は崩れ、雪のための雨具がとっさの防衛を妨げた。井伊は駕籠から引き出され、首を斬られた。従者の即死したもの4、5名、重傷を負ったもの15、6名だった、という。水戸藩士らもあるいは自刃し、あるいは重傷を負い、さらに自首したりした。何人かは逃亡、潜行した。」
 ※田中彰著『集英社版日本の歴史N 開国と倒幕』(集英社 1992年)P117

 付録です。
 東京(江戸)というところは、1年に何回も雪が積もる所ではありません。しかし、雪と大事件が重なる例が4つあります。
 つまらないことですが、単なる偶然か、それとも、年がら年中事件が起こっていて単なる確率の問題なのでしょうか。

  

事件名

年代

1 源実朝暗殺

1219(健保7)年1月13日(旧暦)

2 赤穂浪士討ち入り

1702(元禄15)年12月14日(旧暦)

3 桜田門外の変

1860(安政7)年3月3日(旧暦)

4 2・26事件

1936(昭和11)年2月26日(新暦)

※源実朝暗殺は、鎌倉の鶴岡八幡宮で起こりました。
  この時関東一円は大雪で、鎌倉でも1尺(約30p)の積雪でした。


これは1989年の桜田門付近の航空写真です。A,Bの符号は、上の地図と同じです。(平成元年撮影の「国土画像情報カラー空中写真」(国土交通省)をもとに作成しました。

これは、現在の桜田門のすぐ南にある東京警視庁。今ここで暗殺計画を実施するのはなかなか度胸が必要。

 

 桜田門外の事件について著した本は多いですが、水戸浪士側から描いた本として、吉村昭『桜田門外ノ変』(新潮社 1990年)は、なかなか面白い長編小説です。

 ※ここに掲載した写真は、特に断ってあるものを除いては、2004年6月3日に撮影しました。 
 


3 井伊直弼と幕閣の独裁| このページの目次へ |

 ちょっとこだわって、授業の手法について、一言付け加えます。

 高校の日本史の教科書では、幕末になって、初めて江戸幕府の政治体制の本質についての記述が登場します。

「一方、1853(嘉永6)年のペリー来航後、老中首座阿部正弘は、それまでの方針を変えて朝廷へ報告をおこない、諸大名や幕臣にも意見を述べさせて、挙国的に対策を立てようとした。しかし、この措置は朝廷の権威を高め、諸大名に幕府に対する発言の機会を与えるもので、幕政を転換させる契機となった。」
 ※石井進、五味文彦、笹山晴生、高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2003年)P228〜229
 
 続いて登場する、上述の南紀派、井伊直弼の政治もそうですが、これを理解するには、前提として、次のことを理解している必要があります。

「江戸時代の政治は、将軍と譜代大名を中心とする幕閣の指導体制の元で運営され、親藩や外様の大名及び朝廷は、通常の政治指導にはまったく関与できなかった。」

 つまり、幕府権力といっているものの実体がなんであるかと言うことです。
 
 私の経験では、朝廷については、多くの生徒が理解できていますが、大名については、そうなってはいません。
 それも道理で、江戸幕府の確立、幕藩体制の説明の所では、親藩・譜代・外様の大名の区別は学習できますが、教科書には、どの大名がどういう形で政治を動かすかについては、的確には説明されていません。

 一度生徒に何気なく質問してみてください。
「江戸時代、石高の多い大名は、加賀前田、薩摩島津、仙台伊達などであるが、前田家・島津家・伊達家などは、一度も老中や大老にはなっていない。」
 この質問に、生徒諸君が自信を持って、「yes」と答えることができるかどうかです。

「後の学習(幕末の幕府権力)を充実させるためには、あらかじめ、(幕藩体制確立の所で)細かい手を手を打っておかなければならない。歴史における「わかる説明の授業」とは、生徒自身の力では気づかない事項のつながりを、教師がいくつ設定できるかどうかにかかっている。」ということの事例の一つです。

 これは、細かい話でした。

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