日米和親条約を締結した老中阿部正弘の死去(1857年)のあと、幕閣の中心人物となったのは老中堀田正睦(下総佐倉藩主)です。彼は、阿部正弘の後を受けて、開国政策を進めました。
しかし、ここで、政治方針と幕府政治の指導体制をめぐって、対立が生じました。
一橋派と南紀派の対立です。
南紀派
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主張
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一橋派
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伝統どおり血筋を重んじる。
血筋の近い紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣に。
あくまで譜代大名による幕閣独裁を維持する。
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将軍後継者
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非常時には血筋ではなく才能のある人物を将軍にする。
水戸藩出身で一橋家の当主となっていた一橋慶喜を将軍継嗣に。
雄藩を加えた諸雄藩合議制を望む。
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開国路線を進め、通商条約締結を行う。
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外交政策
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天皇の攘夷の意思を奉じ、拙速な開国に反対もしくは、攘夷実行。
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老中阿部正弘については、クイズ日本史「幕末〜明治維新期」602へ
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一橋慶喜については、クイズ日本史「幕末〜明治維新期」603へ
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この争いは南紀派の勝利に終わり、主導権を握った南紀派の井伊直弼(1858(安政5)年4月に大老就任)は、徳川慶福を将軍継嗣にするとともに、通商条約については、朝廷の許しを得ず無勅許で調印に踏み切りました。
これに対して、井伊大老の独断専行に対する批判が巻き起こりました。
しかし、井伊は、反対派の大量処罰という強硬策をとり、あくまで譜代大名による幕閣独裁を維持に努めます。この大量処罰が有名な、安政の大獄です。
これによって、幕府は、従来の強力な指導体制を回復したかに見えましたが、それを崩したのが、この桜田門外の変です。
井伊大老の暴挙に憤慨した水戸藩士17名と、薩摩藩士1名(脱藩をしているので表現上は浪士)は、水戸の関鉄之介を指揮官に、江戸城に登城する直前に井伊直弼を襲撃する計画を実行しました。
1860(安政7)年3月3日朝、上の地図の広島藩浅野家の藩邸の北側で待ち伏せした関ら浪士18名は、3月としては珍しく雪の降りしきる中、1発の銃声を合図に井伊直弼の行列に襲いかかりました。
雪が、警護の侍の機敏な動きを妨げました。
「不意をつかれた井伊の従者たちの行列は崩れ、雪のための雨具がとっさの防衛を妨げた。井伊は駕籠から引き出され、首を斬られた。従者の即死したもの4、5名、重傷を負ったもの15、6名だった、という。水戸藩士らもあるいは自刃し、あるいは重傷を負い、さらに自首したりした。何人かは逃亡、潜行した。」
※田中彰著『集英社版日本の歴史N 開国と倒幕』(集英社 1992年)P117
付録です。
東京(江戸)というところは、1年に何回も雪が積もる所ではありません。しかし、雪と大事件が重なる例が4つあります。
つまらないことですが、単なる偶然か、それとも、年がら年中事件が起こっていて単なる確率の問題なのでしょうか。
事件名
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年代
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1 源実朝暗殺
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1219(健保7)年1月13日(旧暦)
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2 赤穂浪士討ち入り
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1702(元禄15)年12月14日(旧暦)
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3 桜田門外の変
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1860(安政7)年3月3日(旧暦)
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4 2・26事件
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1936(昭和11)年2月26日(新暦)
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※源実朝暗殺は、鎌倉の鶴岡八幡宮で起こりました。
この時関東一円は大雪で、鎌倉でも1尺(約30p)の積雪でした。
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