幕末〜明治維新期4
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<解説編>
 
609 幕末の遊女の辞世の歌を考える? (07/10/08 修正)                    

 ちょっと長めの解説になりますので、次の見出しで説明します。

1 正解 大和の□□□□□ 降る雨□□

2 この歌が詠まれた開港直後の横浜について

3 攘夷について

  4 遊女喜遊伝説について   


1 正解 大和の□□□□□ 降る雨□□         |このページの先頭へ戻る|

 正解の前半の秋の草花は、下の写真です。何の花かわかりますか?


 正解は、 「おみなえし」(別名 女郎花〜です。

左上の写真は、二つのサイトからお借りしました。お礼申し上げます。
 左は、広島県の土地家屋調査士の畑田さんのサイト「みともり」の花図鑑からお借りしました。本業の建築業のサイトに、とてもきれいな花図鑑が掲載されています。
 ※「みともり」はこちらです。→http://www.mitomori.co.jp
 右の2枚の写真は、福岡県にある「福岡雙葉学園」のサイトのラウンジのページにある秋の七草からお借りしました。情報担当のO先生ありがとうございました。
 ※「福岡雙葉学園」はこちらです。→ttp://www.fukuokafutaba.ed.jp/


 歌を詠んだ遊女は、自分のことを、おみなえし=女郎花にたとえたのです。  

 女郎花(おみなえし)は、初秋の日当たりのいい草原に咲く花です。花が咲いた様子を粟飯にたとえ、おみなめし(女飯)と呼ばれ、それがなまってオミナエシとなったと伝えられています。
 同じ仲間で白い花弁を持つ花は、オトコエシと呼ばれ、男郎花と書きます。

 後半の2文字の正解は、雨リカです。降る雨と、身請けをするアメリカ人とを掛けた言葉です。
 この歌の解釈は、
「露に濡れることさえも嫌う日本国のオミナエシですもの、降る雨リカなんぞに袖をぬらしてたまるものですか。」
 と言った感じでしょうか。


 この歌は、開港直後の横浜にあった遊郭「岩亀楼」の遊女であった喜遊(きゆう)が詠んだものです。彼女は、アメリカ人イルウスに見込まれて身請けされようとしましたが、それを拒否して短刀で自殺しました。その辞世の歌がこれです。
 この物語は、有吉佐和子さんによって戯曲化されています。本稿も何カ所か参考にしています。
  ※有吉佐和子著『ふるあめりかに袖はぬらさじ』(中公文庫1982年)
    文庫本ですが入手は難しいかもしれません。私は岐阜県図書館で借りました。 


2 この歌が詠まれた開港直後の横浜について        |このページの先頭へ戻る|

 右の地図をご覧ください。
 これは、横浜市港湾局のサイト「横浜港」(→"http://www.city.yokohama.jp/me/port/)の中の、
「横浜の歴史」(→http://www.city.yokohama.jp/me/port/general/rekisi/map.html)のページをベースに、いろいろな資料を参考に作ったものです。

 教科書には、日米修好通商条約で決められた開港地として、神奈川・長崎・新潟・兵庫の4カ所があがっています。このうち神奈川については、「実際には神奈川は交通が頻繁な宿駅であったため、近接した横浜にかえられ」とあります。
 ※石井進他著『詳説 日本史』(山川出版 1999年)P229

 現在の神奈川県には、神奈川市は存在しませんが、もともとは東海道の宿場町として神奈川宿がありました。

 江戸時代、東海道は、右の地図に示したように、現在のJR東海道線のすぐ海側を走る京浜急行電鉄本線のそのまた海側を通っていました。
 現在では、埋め立て地が広がり、昔の海岸線はずいぶん内陸になっています。

 神奈川宿は、JR東海道線でいうと、横浜と東神奈川の間、京浜急行電鉄本線でいうと、そのものずばり「神奈川駅」の付近にありました。神奈川駅の少し北東に、当時の本陣後があったそうです。

 アメリカは通商の実をあげることと、長崎の出島のように開港地を隔離させられるのを防ぐため、できるだけ江戸に近い場所を開港地とすべく条約締結交渉に望みました。
 一方江戸幕府は、外国人とのトラブルを懸念して、開港地をできるだけ江戸から遠ざけようとしました。

 「神奈川を開港」と決まったものの、東海道の宿場町の神奈川そのものを開港場とすることは危険が多く、その南西にある寒村の横浜に、急遽開港場を建設することになりました。
 「貿易開始まで、家数百軒足らずの沼地の多い一寒村」にすぎなかった横浜は、こうして今日のアジア第二の貿易港(第一位は上海です)に発展する道を歩み始めます。
 ※井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社2002年)P292

 そもそも、横浜と言う地名は、横町と言うときと同じく、神奈川宿のそばの浜と言うぐらいの意味で、しっかりとした固有名詞ではなかったと言う説もあります。
 高校の日本史関係の教科書・資料集には、神奈川宿と横浜開港地の正確な地図は見つけられませんでしたので、右に掲げます。(ずいぶん時間かかりました。(-.-))
 この図を見ると、書物によっては、「神奈川宿の対岸の横浜村を開港」と記載されている理由がわかると思います。まさしく対岸です。
 横浜村の地域は、実は低湿地で、居住環境としてはあまりいいものではありませんでした、そこで、各国の領事館などは、東海道の沿いのお寺などを借りて設置されます。
 しかし、港としては遠浅の神奈川港に比べ、横浜の方が良港であったため、この後貿易港として順調に発展していきます。
  ※神奈川と横浜については、目から鱗「街道を歩く11〜13 神奈川宿と横浜」で詳しく説明しています。
 


3 攘夷について        |このページの先頭へ戻る|

 横浜開港は、1859年の7月(旧暦安政6年6月)です。
 しかし、江戸幕府が条約を結んで開港はしたものの、日本全体としては、「攘夷」の考えに満ち満ちていました。
 朱子学の大義名分論に基づく「観念的」な攘夷論から、見知らぬ外国人に対する生理的な嫌悪感までその内容は様々だったと想像できますが、とにかく、多くの人々は「異人」を嫌っていました。そのため、外国人殺傷事件が続々と発生します。

年 月

事 件

備 考

1859(安政6)年7月

横浜でロシア人水夫殺傷事件起こる。

2名死亡、1名負傷

1860(万延元)年12月

江戸でアメリカ領事ハリスの通訳ヒュースケンが暗殺される。

1861(文久元)年5月

水戸浪士、イギリス公使館を襲撃。

1862(文久2)年8月

薩摩藩士による生麦事件

1名死亡


4 遊女喜遊伝説について        |このページの先頭へ戻る|

 幕府は、横浜村に運上所(税関)や役人の屋敷を建設し、江戸の商人などを中心に100軒ほどの商店を店開きさせました。
 そして、海岸から少しうちに入ったところに、遊郭の開設場所として1万5000坪を造成し、誘致を行いました。
  ※小西四郎著『日本の歴史19 開国と攘夷』(中公文庫1974年)P187

 この結果、自殺した喜遊の所属した岩亀楼を始め、まもなく15軒の遊郭が開設されました。
   ※有吉佐和子前掲書 P224磯田光一による解説より
 その場所は、現在の横浜スタジアムなどがある横浜公園の位置でした。のちに、火災で遊郭地帯が全焼し、そのあとは、防火帯として公園となったのです。現在も、公園内に、岩亀楼の灯籠が残されています。

 遊女喜遊は、前掲解説によれば、医師太田正庵の娘で、両親の死後吉原で遊女をしたのち横浜に来たといいます。
 彼女が、自殺したのは、1862(文久2)年2月22日のことでした。

 しかし、詳しいことはよくわからず、果たして彼女が歌のように、「攘夷」の気持ちを持っていたかどうかを確かめる資料はありません。
 「当時の雰囲気を伝える物語」と言う位置づけ以上は無理でしょう。
  ※神奈川と横浜については、目から鱗「街道を歩く11〜13 神奈川宿と横浜」で詳しく説明しています。


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