幕末〜明治維新期7
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<解説編>
 
612 幕末の幕臣、川路聖謨らが活躍できた人材登用の仕組みは何か。         | 問題編へ |     

 まずはお礼です。このクイズの解説は、以下の書物を参考にしています。とりわけ、笠谷和比古教授の著書からは多くの示唆を受けました。感謝申し上げます。
 ※笠谷先生の著書から示唆をいただいたクイズはもう一つあります。
  クイズ日本史:「関ヶ原の戦いの位置づけの変化、最近の学説では・・」(→)をご覧ください。

@

 笠谷和比古著『武士道と日本型能力主義』(新潮選書 2005年)

A  田中 彰著『日本の歴史N 開国と倒幕』(集英社 1992年)
 B  井上勝生著『日本の歴史Q 開国と幕末の変革』(講談社 2002年) 
 C  川田貞夫著『人物叢書 川路聖謨』(吉川弘文館 1997年) 
D  佐藤雅美著『立身出世 官僚川路聖謨の生涯』(文藝春秋 1997年)  

 このクイズは、正解を思いつくこと自体、そう簡単ではありません。日本史を勉強している受験生でもなければ、正解は分からないでしょうし、また、正解を聞いても、「なんだそりゃ」という代物になりかねません。
 それでもあえてこのクイズを出題したのは、次の狙いがあるからです。

 1

 歴史の学習は、「つながり」を知ることそのものです。これはくどいくらい強調しなければなりません。教える方からすれば、たくさんのつながりを見出すことが、「分かる授業」を実現することになります。その例を示したいと思います。

 2

 普通の方が抱いている江戸時代のイメージというのは、「封建時代」「身分制の社会」です。しかし、この実態は、研究の成果によって一昔前とは違ってきました。そこで、江戸時代の新しいイメージ、そして、特に人材登用について、考えたいと思います。そして、それはまた今日の組織の抱える課題にもつながります。最後にそれも考えてみたいと思います。

 2については、参考文献のうちの、@笠谷和比古氏の著書が、非常に示唆に富んでいます。笠谷氏は、これからこのページで説明する問題も含めて、武士道とは本来どのようなものだったかについて、非常に納得がいく説明を展開されています。新しい江戸時代像・武士道像として、次の点を指摘されています。

  1. 個人と組織との関係における武士道とは本来どのようなものであったか。忠義や滅私奉公の実際の姿はどのようなものであったか。

  2. 封建時代=門閥世襲という固定観念とは異なり、江戸時代の武士社会の組織においては、少なくとも後半には巧みな能力主義的な人材登用がなされていた。

  3. 江戸後半期・末期において、迫り来る外圧の中で、武士階級がいかにそれに対応し、また、、近代化達成に寄与したか。    

 次のメニューで説明します。

 1 幕末に活躍した幕臣中、いわゆる人材の登用で抜擢された本来身分が低い者は? | 先頭へ戻る |

 2 こういう人材登用が行われたのは何がきっかけか

 3 江戸時代と人材登用、今日の組織でも大切なこと


 1 幕末に活躍した幕臣中、いわゆる人材の登用で抜擢された本来身分が低い者は? | 先頭へ戻る |

 川路聖謨については、教科書には次のように記述されています。

「幕府は同時に国内体制の強化もはかった。まず人材面では、開明的な人物の登用@をおこなうとともに、攘夷論者に信望のある前水戸藩主徳川斉昭を参与に任命した。

脚注@

外交にかかわった川路聖謨・岩瀬忠震(いわせただなり)、反射炉を建設した伊豆代官江川英龍(太郎左衛門)洋式砲術の高島秋帆、海軍の勝海舟らがいる。」

※ 

脇田修・大山喬平・福永伸哉・栄原永遠男・勝山清次・平雅行・村田路人・高橋秀直・小路田泰直・江口圭一・広川禎秀・川島敏郎・豊田文雄・児玉一・矢野慎一著『日本史B 新訂版』(実教出版 2008年)P246


「幕府は、越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・宇和島藩主伊達宗城ら大名の協力を得ながら、永井尚志・岩瀬忠震・川路聖謨ら有力な幕臣を登用し、前水戸藩主徳川斉昭を幕政に参与させた。また国防を充実させるために、江川英竜に品川沖に台場(砲台)を建設させ、さらに伊豆韮山に反射炉を築かせた。」

※ 

大津透・久留島典子・藤田覚・伊藤之雄著『新日本史 改訂版』(山川出版 2008年)P239


「和親条約の取り決めに基づいて1856(安政3)年、下田に着任したアメリカ総領事ハリスは、老中首座の堀田正睦に、アロー号事件などの経過を説いて、とくにイギリスの脅威を強調し、通商条約の締結を強く迫った。正睦は川路聖謨岩瀬忠震等の開明的な人材を登用して、ハリスとの交渉にあたらせるとともに、諸大名や幕臣らに、通商条約の締結について意見を求めた。」

※ 

江坂輝弥・谷口栄・新川登亀男・石附き敏幸・山田邦明・樋口州男・高木昭作・錦昭江・宮地正人・藤木正国・岩崎孝和著『新日本史B』(桐原出版 2008年)P256

 いずれも人材登用の代表例として、川路聖謨が例示されています。
 ここで
川路聖謨の抜擢の状況とあわせて幕末における業績を確認するため、彼の経歴を年表で説明します。


 ※この年表は、上記参考文献、@笠谷、C川田と参考に作成しました。 


 上記の年表をご覧いただけると分かるように、川路は、生まれながらにして幕臣、大身(石高の大きい)の旗本であったというわけではありません。父内藤歳由は九州日田の代官所の下級官吏であり、この地位は世襲されるものではありませんでした。ただし、内藤家の祖先は、もともと滅亡した甲斐武田家の家臣であったと伝えられており、一応は武士の家柄と言うことにはなるでしょうが、それは聖謨が生まれる200年以上も前のことです。
 父が江戸に出て幕臣の最下級の身分である「
御徒(おかち)」の株を金で取得し、幕臣の最末端に加わることができたことが、のちの聖謨の出世の出発点になりました。
 もちろん、川路家の養子となったといっても、川路家そのものが小普請組に属する下級の御家人でしたから、それだけで将来が約束されたわけではありません。それ以後彼が栄進していったのは、勘定所の筆算吟味試験合格を初めとして、彼の才能と努力以外の何ものでもありません。
 51歳で勘定奉行・海防掛となって時点で、幕末動乱の時代を迎えます。
 川路は、ペリーに遅れてやってきた
ロシア使節プチャーチンとの条約締結交渉の全権の一人として奮闘しました。とくに、1854年の伊豆下田での交渉では、途中に起こった安政大地震によるロシア船ディアナ号沈没後の処理にも奔走する傍ら、アメリカとの和親条約にはなかった、国境確定交渉に粘り強く臨みました。「全千島はロシア領」という当初のロシアの主張を退け、現在のロシアとの北方領土問題の我が国の主張の根拠となっている、「国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島は、日本領」という内容で条約の締結にこぎ着けました。
 このこと以外にも、蘭学にも詳しい進歩派幕臣として、内憂外患に直面して苦慮する老中阿部正弘(ペリー来航時の老中首座)を、
江川英龍とともに支える貴重な存在となりました。
 笠谷教授は、川路等の人材の意義を次のように説明しています。

「日本は危機的な状況にあった。一つには異国船の開国通商要求に対して、和戦を含めてどのような態度、体制で臨めばよいか。その対応を誤ったり、自国の弱みを見透かされるような拙劣な振る舞いをやっているならば、アロー号事件に見られるように戦争を仕掛けられ、結果、計り知れないほどの国家的損失、さらには国家の滅亡を招きかねないという危機感に包まれていた。いま一つには外国への対応の是非を巡って発生した国内の政治的抗争をどのように纏めあげていくのか、どのような政治体制を構築すべきなのか。
 この内憂外患の両面からする問題の解決に迫られていた。これらの複雑高度な問題への対応をめぐっては、人材を広く抜擢し英知を結集して事にあたる必要があった。この時に際して、
日本の武士社会の組織はその潜在的能力を遺憾なく発揮したと言うことができる。」

笠谷和比古前掲書、『武士道と日本型能力主義』P179−180


 2 こういう人材登用が行われたのは何がきっかけか このクイズの答え   | 先頭へ戻る |

 お待たせしました。ここでやっと問題の正解を示します。
 正解、幅広い人材登用のきっかけとなった制度は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗による享保の改革で始まった
足高の制(たしだかのせい)です。(1723年から実施)
 教科書的には次のように説明されています。

 「旗本の人材登用にあたっては、大番頭5000石、大目付・町奉行・勘定奉行3000石など役職による基準(役高)を定め、それ以外の禄高のものが就任する時、在職期間中のみ不足の石高(役料)をおぎなう足高の制を設けた。」

 

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P197

 この制度を十分に理解するためには、現在とは異なる封建時代の仕組みを理解していなければなりません。
 大名の藩を例に説明します。
 大名を補佐して藩政を動かす役職に「家老」というのがあります。かの有名な忠臣蔵の大石内蔵助は、播州赤穂藩浅野家のの家老です。この家老の職に就くのは、どの藩でも、ほんの数家の家臣に限られています。そして、その各家の禄高は、1000石とか500石とか、世襲制によって、代々受け継がれていきます。そのため、ある家老家にあまり有能ではない当主が現れてしまっても、そこで大きな失敗でもしない限り、禄高はまたその子どもに受け継がれていきます。ここが封建制の一番本質的なところです。
 もし家老の家が5家あって、誰も有能ではないことに苦悩した大名が、人材抜擢(登用)を決意し、次の中老クラスの家柄から3人ほどを家老に抜擢したらどうなるか。たとえば、200石だったその中老家の禄高は、家老になることによって500石以上に格上げになります。出世したのですから当然です。そして、ここが大事なところですが、世襲ですから、次の世代にもその禄高は受け継がれていきます。つまり、次の世代になると、本来の家老家の5家と、先代に新しく家老に抜擢された3家と、禄高という観点から言うと、8家の家老待遇の家が出現してしまいます。ここが世襲制の面白いところです。この原理がすべてに当てはまるわけですから、
封建制の下では、人材抜擢を行えばそれだけ、大名が家臣に与える禄高の総合計は増えていってしまうことになります。
 それを防ぐにはどうしたらいいか。方法は二つあります。
 一つは、誰かを抜擢したら、他の誰かを処罰して、禄高を減らす方法です。しかしこれはシステムとして行うにはちょっと無理があります。
 そこで考えられたのが、この方法です。元々のその家のベースの禄高は変えずに、若し抜擢したらその期間だけ、役高との差を与えようというわけです。
 幕府で言うと、禄高1000石の旗本が
勘定奉行基準役高3000石)に就任した場合は、在職期間中のみ、基準役高と禄高との差の2000石を受け取ることができるという仕組みです。その人物が引退すれば、跡を継ぐ子どもは、また前と同じ1000石というところからスタートするという仕組みです。
 これなら、人材抜擢によって、家臣の総禄高がどんどん増えていくと言うことは避けられます。
  
 
川路聖謨の場合、勘定奉行になったときには、扶持米にして僅か200俵の禄高でしたから、二つの措置がとられました。まずは、ベースの家禄の増加です。勘定奉行は、寺社奉行らとの均衡をはかることから最低でも禄高500石が与えられましたので、川路もそれまでの扶持米に代わって、はじめて知行地500石を領することになりました。
  ※A川田貞夫前掲書『人物叢書 川路聖謨』P180
 そしてそれ以外に、足し高の分として、基準役高との差2500石が与えられたということになります。
 
 この
足高の制については、高校の教科書には必ず登場する重要事項であり、試験勉強で記憶した思い出がある方も多いと思います。しかし、よほど特別な復習でもしない限り、授業での「再登場」はありません。そして、当然ながら、その効果がどのようなものであったがどうかは、全く触れられていません。
 このクイズは、そういうつながりのない授業をなくすためのネタということになりrます。
 


 3 江戸時代と人材登用、今日の組織でも大切なこと   | 先頭へ戻る |

 では、足高の制によって、人材登用の状況はどう変わったのでしょうか。これも笠谷教授の著書に詳しいデータが載っています。下の表をご覧ください。


 これを見ると、大目付・町奉行・勘定奉行においては、足し高の制の実施前と実施後とでは、明らかに差があります。実施後は、禄高の低い者からの就任が圧倒的に多くなっており、人材抜擢が行われたことが分かります。
 ただ、4列目の大番頭(おおばんがしら)という役職には、そういう効果は現れていません。なぜでしょうか?
 これは、上記の3職が行政の実務を担当する役職であるのに対して、大番頭は、江戸城及び江戸市中の警備や合戦が起こったときの指揮官という、いわば平和な江戸時代においては実務をともなわない名誉職であったからです。名誉職なら、あえて人材を抜擢する必要はありません。うまく運用されていると言えるでしょう。


 最後にまとめへ向かいます。
 笠谷教授の指摘から、二つのことをいいたいと思います。

 一つは、江戸時代全体のイメージについてです。
 江戸時代の封建制社会を人材登用という観点から見ると、また一般的なイメージからいうと、身分制社会であり、世襲制を原則とする門閥制度が主流となっていると考えるのが普通です。それはおおむね正しいといえばそうだと思います。高校の教科書もそう教えています。
 しかし、上記の
川路聖謨の年表を見ると、二つの点で、江戸時代の社会には教科書には掲載されていない非身分制的流動性があることが分かります。
 一つは、上述の足高制による人材登用の面です。川路や岩瀬や勝海舟や、何人もの幕末期の優秀な人物が、まるで水を得た魚のように、非常時の時代を背景として彼らでしかなしえないような立派な仕事を成し遂げました。
 そしてもう一つは、そもそも、
川路聖謨の父は、「御徒」の株を購入していることです。
 この御家人株の売買は、江戸幕府成立直後からしばらくは正式には認められていませんでしたが、これも、将軍吉宗の享保の改革の時に正式に認められるようになりました。これは教科書には書いてありません。
 かの有名な坂本龍馬の家は、戦国時代はともかく、江戸時代に入ってからは、高知城下の才谷家という豪商の家柄でしたが、18世紀後半に土佐藩の郷士の株を購入して武士となっています。
 笠谷先生は、次のように説明しています。
「足高制といい、この御家人株の売買といい、ともに身分の低い人間にとっての地位向上のシステムであり、社会的可動性を高めていく機能を発揮していた。そして一般庶民が武士の世界に参入していくルートである御家人株の売買と、足高制による人材登用の制度が結合するとき、この武士の組織は信じられないほどの活性化を実現していくのであり、能力主義的原理が昇進システムを中心として組織のすみずみに至るまで貫徹されていくことになるのである。」
  ※笠谷和比古前掲書、『武士道と日本型能力主義』P146

   
 もうひとつは、人材の登用についてです。
 これは何も江戸時代に限る話ではなく、企業を初め現代の組織でも言えることとして、笠谷教授は、人材登用が組織に与えるマイナス面を指摘し、どのような形が組織として健全であるかを指摘しておられます。
 失敗した藩政改革・人材登用の例として、江戸時代に阿波(現在の徳島県)と淡路を領国としていた
蜂須賀家の阿波藩があります。阿波藩は、18世紀中頃に、藩主蜂須賀重喜によって明和の改革を行います。藩主重喜は、この時秋田藩佐竹家の分家から蜂須賀家に養子として迎えられて藩主であったことから、思い切った人材登用・藩政改革に着手したのです。藩主重喜は、阿波藩家老職を世襲していた5家をすべて解任・追放等の処分に付し、旧来の家格秩序を全く廃して新しい人材抜擢を行いました。これは一見能力主義による人材抜擢がなされたように見えますが、その後の展開は、実はそうではありませんでした。
 笠谷先生の説明を引用します。
「しかしながら、能力主義、人材抜擢といえば聞こえはよろしいようではあるけれども、実際には、、蜂須賀重喜が自らこれと頼んだ腹心的な人間が、まったく自由にそれぞれの役職に任命されているというに他ならないのである。
 藩主重喜の権力確立に協力したものは重く取り立てる。たとえば前から重喜を支持していた目付グループの人間とか、中老の林建部などは重用されることとなる。林建部が新設の家老職に抜擢されたのは、いわば重喜への長年にわたる忠節に対する論功行賞としてのいう見合いが露わであった。
 他方、藩主重喜に逆らうものは排除し、用のない者は捨てるということが自由に行える体制となった。もはや藩主の権力をチェックできる、いかなる勢力も、いかなる制度上の歯止めも存在しない。それが旧来の伝統にしばられない自由な官僚制、藩主の意志のままに運営される行政制度なるものの実態であった。(中略)
 藩主重喜が手中にした無制約の権力は、多方面にわたる改革を確かに可能にした。しかしながら何ものにも制約されないような権力がいつまでも健全であることはできないだろう。専制的な権力には、いわばそれ自身の法則によって腐敗していくものなのである。」
  ※笠谷和比古前掲書、『武士道と日本型能力主義』P153−154

 阿波藩の藩政改革が行き着いた先は、藩主専制の恐怖政治にしか他なりませんでした。
 トップに立つものが人事権を振り回して抜擢を行い改革を進めていくと、ややもすれば最後は周りにイエスマンばかりを集めてしまい、まったくチェックシステムが機能しない恐ろしい状態になってしまう。これは何も江戸時代の藩に限ったことではありません。企業でも官僚組織でもどこでも起こりそうな、そして実際に往々にして起こっている悪い例です。

 笠谷教授が指摘する「成功した藩政改革」の例は、かの有名な
上杉鷹山による米沢藩の改革です。
 上杉鷹山は、竹俣当綱(たけのまたまさつな)を登用して改革を進めましたが、やがて反対派の抵抗に遭います。続に七家騒動と呼ばれるもので、鷹山と竹俣によって政治の中心から遠のけられた家老など7家の有力者が、連盟で藩主に訴状を提出し、反抗した事件です。この時の鷹山の対応が、その後の改革を成功に導きました。
 自分が藩主ならどうしますか?
 鷹山は、訴えられた竹俣の執政を一時停止するとともに、7家の訴状を吟味するため、家老職やその次の有力者よりもっと下の役職にあるものたち多数に、訴状に書かれていることが正しいかどうか意見を言わせたのです。
 ちょうど、今時のはやりの組織マネジメントでいう、ファシリテーターの手法を使ったのです。つまり、会議で起こった難問に自分で回答をするのではなく、より多くのものに冷静に意見を聞いて、衆議の一致するところに進むというあれです。
 その結果、7家の家老たちの訴状が根も葉もないことであることが多数の証言によって共有され、彼らが単に自分たちの権利を守らんがために改革を阻止しようとしていることが明らかとなりました。
 これにより、停止されていた竹俣当綱の執政は復活し、7家の家老たちは処罰を受け、改革は進められます。
 つまり、鷹山は、藩内の反対意見を尊重しそれを踏まえて政治を行っていくという手法、藩内から広く意見を聞き入れていくという手法を現実に行い、反対派の決起という事態を逆によい方向へ導いていったのです。この事件のあと藩内に、「改革は藩主の独断ではなく、家臣一同が支え、組織で進めるもの」という認識が広がっていったのはいうまでもありません。これが結果的に上杉鷹山の藩政改革を成功に導きます。
 
 また、笠谷教授は、独断専行や専制政治に陥らないという意味においても、従来の門閥制度を前提とする足高制は、優れた制度だと指摘されています。
 これは、今日の組織では、門閥制度を年功序列制度と置き換えて考えるべきかも知れません。

 話は
川路聖謨足高制から、ちょっと遠くまで来てしまいました。しかし、いつの時代も、組織をうまく維持しその機能を発揮する元は、組織内のトップのあり方と人材登用の手法にあると思っています。永遠に続く、難しい課題です。心してあたらねばなりません。


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