原始〜古墳時代7
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<解説編>
 
015 イネが日本に伝播したのはいつ頃か?照葉樹林文化とは何か?                問題へ

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ4】

 この問題は、
クイズ012・013・014 の続きです。
 まだそちらをご覧になっていない方は、問題へ戻って、そちらを先にご覧ください。

【次の順に説明します】

もう一度問題の整理です。

正解、水田稲作農耕と照葉樹林文化

<岐阜市の樹林相>

照葉樹林文化の特色

照葉樹林文化と稲

森の文化か稲の文化か


もう一度問題の整理です。                       このページの先頭へ

 弥生時代の始まりは、1980年代の教科書が紀元前3世紀と記述していたのと異なり、ずいぶん開始時期が早くなりました。

2004(平成16)年版の教科書「弥生時代」 (2002年文部科学省検定済)

「 日本列島で1万年近くも縄文文化がつづいているあいだに、中国大陸では紀元前6500〜5500年ころ、北の黄河中流域ではアワやキビなどの農耕がおこり、南の長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり、農耕社会が成立した。さらに紀元前6世紀ころから鉄器の使用がはじまり、春秋・戦国時代には農業生産も著しく進み、こうした生産力の発展にともなって、やがて紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強力な統一国家が形成された。こうした動きは、周辺民族に強い影響をおよぼし、朝鮮半島をへて日本列島にも波及したのである。

 紀元前5世紀前後と想定される縄文時代の終りころ、朝鮮半島に近い九州北部で
水田稲作農耕が開始された。短期間の試行段階をへて、紀元前4世紀初めごろには、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立し、やがて東日本にも広まった。こうして北海道と南西諸島をのぞく日本列島の大部分の地域は、食料採取の段階から食料生産の段階へと入った。この紀元前4世紀ごろから紀元3世紀の時期を弥生時代とよんでいる。」

 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9
 行間調整と青赤太字は引用者が施しました。


 しかし、岡山県の総社市の南溝手遺跡からは、縄文時代後期(縄文時代6時代区分の後から2つ目)の終わりころ(今から3000年ほど前)と推定される、モミの圧迫痕(土器を作る時に、まだが柔らかい段階でイネのモミが粘土に押しつけられて、それがそのまま土器として焼かれて残ったもの)がある土器が見つかりました。
  上記の教科書の記述では、水田稲作農業の開始を、紀元前5世紀としています。ということは、今から2500年ほど前という勘定になります。
 南溝手遺跡は、3000年ほど前の遺跡です。ここからモミの圧痕がでたということは、イネの栽培が、またまた500年遡ってしまいます。
  さらに、同じ教科書の縄文時代の記述が問題です。次のように書いてあります。


2004(平成16)年版の教科書「縄文時代」 (2002年文部科学省検定済)

「今からおよそ1万年余り前の完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇して日本列島も大陸と切り離されて、現在に近い自然環境となった。植物も亜寒帯性の針葉樹林に代わり、東日本にはブナやナラの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。また、動物も、大型動物は絶滅し、動きのはやいニホンシカとイノシシなどが多くなった。(中略)
 縄文時代の人々は、新しい環境に対応した。とくに植物性食料は重要で、前期以降にはクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどを採取するばかりではなく、クリ林の管理・増殖ヤマイモなどの半栽培、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい。また一部に
コメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘されているが、本格的な農耕の段階には達していなかった。土掘り用の打製の石鍬、木の実をすりつぶす石皿やすり石なども数多く出土している。

 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9
 青太字は引用者が施しました。

 さて、一見、栽培開始時期がいくつもあるかのような、この「縄文時代コメ問題」。一体どう考えたらいいのでしょうか?


正解、水田稲作農業と照葉樹林文化               このページの先頭へ

 「縄文時代コメ問題」の解決の鍵は、米をどのように栽培したかということに、厳密になることです。

 正解、紀元前5世紀前後に伝わってきたのは、あくまで、
水田稲作農業です。
 
縄文時代の後期やそれ以前に伝来したと見られるコメは、たとえそれが日本で栽培されたものであったとしても、あくまで、ムギやアワやヒエと同じように、雑穀の1つとして、畑で栽培されたと考えられています。

 そして、その雑穀としてのコメの栽培の伝播を可能としたものが、東アジアの中央から西日本に連なっている
照葉樹林文化です。
 縄文時代、
西日本には常緑広葉樹林(照葉樹林)が広がり、東日本には落葉広葉樹林が広がり、このそれぞれの森の植生を基盤として、西の照葉樹林文化東のナラ林文化が形成され、東西の特色が明確になっていたことは、すでに、クイズ113で説明しました。(樹種等の詳細も記述してあります。
 その、
西日本に照葉樹林文化が広がっていたことに、このモミ圧迫痕を解く鍵があります。
 ここで、もう一度、照葉樹林文化の確認です。
 照葉樹林というのは、アジア大陸のネパールからインドのアッサム、ミャンマ・ラオス・タイ・ベトナムの北部、中国の雲南、長江中・下流域をへて朝鮮半島南部、西日本にかけて広がる樹林帯です。
 その文化中心は、雲南を中心とする東亜半月弧です。

 中尾佐助氏が、
『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店)を発刊し、「照葉樹林文化」を提唱したのは、1966年のことです。
 このような広大な地域にまたがる共通の文化の存在を森の生態系を基礎として区分するという発想は、それまでの世界のどの学者もなしえなかった快挙でした。


 上記の日本の東西樹林の違いは、中尾佐助の「照葉樹林文化」を発展させた、佐々木高明の「ナラ林文化と照葉樹林文化」説が反映されています。
 これによれば、縄文中期以降、東日本の植生は、
ブナ・ナラ・トチなどの落葉広葉樹林が中心となり、西日本は、カシ・シイ・クス・ツバキなどの常緑広葉樹林が中心となりました。(常緑広葉樹は、葉が厚く、表面に光沢があるため、照葉樹林という別名があります。)
 
照葉樹林文化については、中国の雲南を中心として、西はインドのアッサム地方から東は長江南部地域にまたがる「東亜半月弧」と呼ばれるエリアがあり、これが日本も含めたこの文化のルーツであるとされています。
 「
東亜半月弧」に関係する事項は、次の所にもあります。

クイズ古代「壇ノ浦の戦いの前に、戦わせた動物は?


 照葉樹林文化発祥の地、東亜半月弧


<岐阜市の樹林、照葉樹林とナラ林の分布の境界>   このページの先頭へ

 ちょっと寄り道です。
 私が住んでいる岐阜市は、上図の東西樹林相の図から見ても明らかですが、西の照葉樹林帯と東のナラ林帯(落葉広葉樹林)の境界に当たります。
 岐阜市の象徴、金華山にもそのことが現れています。


 上の「東西日本の樹林相の相違」を見ても明らかなように、私が住んでいる岐阜県の美濃地方の平野部は、落葉広葉樹林帯と常緑広葉樹林帯の両勢力の境目に当たる地域です。
 左の写真は、
岐阜市のシンボル金華山と岐阜城です。(河岸のホテルは十八楼、その下の川は長良川で、赤い屋根の鵜飼い見物の屋形船が浮かんでいます。)
 金華山は、湿気の多い谷筋はは照葉樹が多く、乾燥している尾根筋は、落葉樹が多くなっています。さらに、針葉樹

も適度に混ざっており、3つの樹林が混在する緑豊かな山です。(撮影日 06/05/21 都ホテルの前から) 

 同じく、別の角度からの春の金華山です。
 濃い緑は針葉樹林、薄い緑は落葉広葉樹林、そして黄色い緑が黄金色の花を咲かせつつある照葉樹林のツブラジイです。湿気の多い谷筋に照葉樹林が多いことが分かります。
(撮影日 07/05/12 大縄場大橋の上から) 


 冬の金華山。
 上の写真より少し西側から撮影しています。
 写真中の白の直下の峰には、紅葉した樹木はあまり見られません。

 反対に展望台の下の峰の半分は紅葉した樹木です。

 照葉樹林と落葉広葉樹林の分布がよく分かります。
(撮影日 06/12/10 忠節橋の北川岸から)


 上と同じく冬の金華山の頂上から中腹にかけて。
 展望台から下の峰には紅葉した落葉広葉樹林がたくさん見られます。

 夕暮れ時のため、赤いコントラストが強調されています。
(撮影日 06/12/15 本町から)


※注 撮影した2006年は、秋の冷え込みがあいまいで、通常なら11月に紅葉する金華山の木々も、12月になってもまだ落葉していませんでした。 


 わが家の近くの小丘陵の照葉樹林(岐阜市と本巣市の境の舟木山)。

 左は初夏、5月の写真で、ツブラジイが花を咲かせ、小山全体が黄金色に輝いています。写真手前は刈り取り前の小麦畑です。(撮影日 2005/05/14) 
 右は、冬。混在している落葉樹が葉を落としているため山全体のボリュームは小さくなっていますが、ツブラジイの葉は、常緑樹にふさわしく青々と茂っています。(撮影日 2005/02/06)


照葉樹林文化の特色               このページの先頭へ

 照葉樹林文化の特色を、得意の黒板で、確認しましょう。
 答えが決まったら、黒板をクリックしてください。正解が現れます。(黒板一枚分、一度に全部現れます)

 上と同じです。黒板をクリックしてください。正解が現れます。

 特色11は、ちょっと難しいのでヒントを出します。穀物のひとつです。漢字2文字です。祝い事にはつきものです。
 2005年の角川映画「妖怪大戦争」では、この穀物の一粒が、邪悪な妖怪の野望を打ち砕きました。

 再び同じです。黒板をクリックしてください。正解が現れます。

佐々木高明著『日本の基層文化を探る ナラ林文化と照葉樹林文化』(NHKブックス 1993年)P19−23などより作成


 秋の長良川の河川敷に咲く、ヒガンバナ(曼珠沙華)。(撮影日 03/10/05)

 これも、照葉樹林文化の1つです。
 ヒガンバナの根っこには、澱粉が含まれていて、縄文時代人はそれを食用にしたと推定されています。ただし、根っこには、猛毒アルカロイドのリコリンが含まれていて、完全に毒抜きしないと血を吐いて命を落とすこともあったといわれています。(実験はしていません。(--;))

 アルカロイド自体は水溶性なので、すり下ろして何度も水にさらせば取り除くことができ、あとには純粋な澱粉が沈殿します。この粉をよく水を切って握り、餅のようにして焼いて味噌や醤油をつけて食べたと考えられます。
 奈良県吉野の十津川村では、江戸時代から明治にかけて、ヒガンバナは貧しい人たちの秋の主要食物のひとつだったと記録に残っているそうです。


長良川の鵜飼い(撮影日 06/07/28)

 これも、照葉樹林文化の1つです。今では、岐阜市の数少ない貴重な観光資源の1つです。


照葉樹林文化と稲                              このページの先頭へ
 
 照葉樹林文化地域では、イネは、雑穀の1つとして、畑作で「栽培」されていました。今流に表現すれば、陸稲(おかぼ)です。

陸稲(おかぼ)について補足します。
 2003年の農林水産省の作物統計調査では、岐阜県では、陸稲の収穫高は県全体でわずか3トン。
羽島市(収穫高2トン)、美濃加茂市、関市、坂祝町、可児市で栽培。
全国では、2005年の収穫高は、水稲9、062、000トン、陸稲11、900トン。最も多いのは、
茨城県で、8、570トン(全国の72%)です。

本当は陸稲の写真がほしいところですが、今現在は手に入っていません。
羽島市のどこかに陸稲が栽培されているのではないかと思い、JA羽島、羽島市役所農政課に電話してみましたが、「生産されていること自体把握しておりません。」とのつれない返事でした。
近在に居住の方、情報を教えてください。

ひとまず、東京都立川市緑町にある国土交通省国営昭和記念公園のHPに陸稲栽培が紹介されていますので、リンクします。トップページはこちらです。 陸稲栽培はこちらです。


 縄文時代の日本にも、そういう形で伝わってきたと考えられます。
 これが、上記の「水田や稲に関する新しい発見」表の
岡山県総社市の縄文後期のモミ圧痕の正体です。しかし、こういうモミ圧痕があったからといって、縄文時代の後期にすでに、「イネの栽培」が広くおこなわれていたというのは間違いです。
 このイネも含めた雑穀の栽培は、縄文時代の食料の主役とはなっていませんでした。これは、クイズ113で説明した、
組織蛋白質(コラーゲン)の分析により明らかです。縄文時代は、あくまで、木の実が食料の主役でした。
 コメは脇役のたくさんある食料のひとつで、継続的に栽培されたかどうかもわかりません。
 やはり、
日本にイネが本格的に伝わるのは、現段階では、紀元前5世紀前後の縄文時代晩期ということになります。

 では、雑穀としてのイネは、何の意味もなかったのでしょうか?
 そうではありません。
 下の2枚の地図をご覧ください。
 左図はは、
縄文時代晩期の二つの文化圏西:突帯文土器文化圏東:亀ヶ岡土器文化圏のエリアを示したものです。
 一方、右図は、弥生時代がはじまって、
100年ほどのうちに、水稲耕作が広まった地域遠賀川式土器文化圏を示したものです。
 両者を比較すると何が言えるでしょうか? 



 照葉樹林文化を基盤とする突帯文土器文化圏と、遠賀川式土器文化圏はほぼ一致します。
 つまり、雑穀の栽培を照葉樹林文化の1つとして経験していた西日本は、水稲農耕について、きわめて、順応性が高く、稲作は、わずか100年で西日本一帯に広がったというわけです。
  ちょうど、岐阜県・愛知県あたりは、一時期、新しい稲作文化と古い縄文文化のせめぎ合いがあった地域でした。 

「伝播が寸断された伊勢湾東岸以東は違う。濃尾平野では縄文系の条痕文土器を使う遺跡と遠賀川系土器を使う遺跡の棲み分け状態が明瞭だ。縄文時代では数少ない殺傷人骨が平野東端の渥美半島に集中することや、大形の石紡がこの時期異常に現れることも、渡来系弥生人との軋轢を生じた証拠だと私は思っている。コメを含む畑雑穀など、縄文晩期後半以前の西からの情報を大きく欠いていたことが、水稲農耕伝来期にいたって大きな受容の差となって現れたのだろう。以後、日本列島の西と東は社会経済的にも大きな差を生み始めたのである。

寺沢薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)P052
赤青字太字設定は引用者がおこないました。


日本文化の基層と縄文・弥生−森の文化稲の文化か−   このページの先頭へ

 しかし、やがて、弥生文化は東日本にも広がります。
 そして、それ以後およそ2000年間、水田稲作農業は日本人の生業の中心となり、経済社会の仕組みはもとより、信仰や文化にも、大きな影響を及ぼすことになります。
 せっかくここまで、縄文時代から弥生時代への変化を詳しくたどってきたのですから、
その後の日本文化の基層の形成において、縄文文化と弥生文化がどのように結びつき現代につながっているかについて考えたいと思います。
  日本文化の基層は、縄文文化か弥生文化かという場合、結論は、両方が結びついて基層を形成しているということになるわけですが、高校の教科書レベルでは、記述は明確ではありません。
 歴史の科目「日本史」では縄文文化と弥生文化を学習し、その後の時代の文化の部分では、神道や仏教を初めとして、信仰について学習しますが、信仰の内容そのものは詳しく学習しませんから、縄文文化と弥生文化の精神がそれ以後の日本の精神文化の基層にどのようにつながっていったかは、あいまいです。
 一方、公民の科目「倫理」では、精神文化の内容は詳しく学習しますが、こちらは、歴史の教科書ではありませんから、直接には縄文文化とか弥生文化のとかいう記述は登場しません。
 ただし、水稲耕作については記述されていますので、結果的に、教科書通り学習すると、
弥生文化(水稲農耕儀礼)は強く意識されていても、縄文文化(森の文化)の方はあまり意識されないことになります。

 いくつかの倫理の教科書を確かめてみましょう。

『新倫理』清水書院2004年版 (2002年文部科学省検定済)

「日本は、国土のすべてが大小の島々からなる島国である。大半が温帯モンスーン気候に属し、年間を通じて雨と日光に恵まれている。ことに夏のモンスーンにともなう高温多湿は植物の生育に適しており、人びとは古来、水稲耕作を中心とする生活を営んできた。(中略)
 水稲耕作を中心とする農耕を営む人びとは、主として平地に作られた村落共同体に暮らしてきた。村落共同体の景観は、人々が世界のあり方について考えるうえでの典型的な型を構成した。
 平地の周囲を区切るのは、あるいは山であり、あるいは海である。山や海は、人々がその身をもってじかに触れることができない、はるかかなたの他界に通じていると考えられた。他界は、神や仏の世界であり、また、死者の霊魂のおもむく世界としても、人々がそこから生まれてきた原郷の世界としても、思い描かれることがあった。」

 菅野覚明・山田忠彰・柏木寧子・金子淳人・吉野明・矢倉芳則著『新倫理』(清水書院 2004年)P66
 青太字は引用者が施しました。


『倫理』数研出版2004年版 (2002年文部科学省検定済)

「わが国は四方を海に囲まれた小さな島じまから成る。地形は複雑で、平地はわずかであり、しかも分断されている。国土の約7割は森林におおわれた山地である。火山が多く、噴火や溶岩の流出、地震などの災害が頻発する。川は急流で短く、大雨のときには土砂が流出して水害をおこすことが多い。日本列島は南北に長く、亜寒帯から温帯・亜熱帯まで地域による気候の差が大きく、また多様である。しかしおおよそのところ温暖多湿な海洋性の気候で、森林の生育に適しており、四季の変化は豊かで明瞭である。(中略)
 豊富な水と夏の高温に恵まれて、人びとは
水田稲作を中心とする生産様式わが国における人びとの生活空間は、平地に営まれた村落共同体であった。村落共同体は、近くの平地とその外側に広がるかなたの海原や高山とからなる景観をもっていた。近くの平地は日常生活の場であり、身近な内部の世界である。かなたの海原や高山は非日常的な場であり、見知らぬ外部の世界である。外部の世界は神や仏のいる世村落共同体の景観界であり、死後の世界でもあった。」

 佐藤正英・片山洋之介・細谷昌志・福田弘・星川啓慈・矢野優・福本修著『倫理』(数研出版 2004年)P52
 青太字は引用者が施しました。


『倫理』東京書籍2004年版 (2002年文部科学省検定済)

「このような発想の背後には、日本の自然環境からの大きな影響があると考えられる。地理的に日本の気候の大部分は、温帯モンスーン気候に属しており、一年を通じて豊かな雨や日光にめぐまれている。豊かな照葉樹林にかこまれ、水田稲作を中心とした農耕を営む生活文化は、こうした自然風土において育てられてきたのである。しかし同時にその自然は、ときとして、台風のような大雨・洪水・暴風や旱魃、また地震といった猛威をふるう。このような自然風土においては、人は自然に対して対抗的ではなく受容的な、征服的ではなく忍従的な性格をもつようになる。世界の根底に「おのずから」の働きを感じとり、それにしたがいそれと一体となって生きることをもとめる発想の基本は、こうしたところから育てられてきたのであろう。それは「乾燥」が日常であるようなきびしい自然とのたたかいをしいられる「砂漠」型の発想とも異なるし、また猛威をふるうことのない従順な自然を支配しえた西欧のような「牧場」型の発想とも異なっている。」

 平木幸二郎・竹内整一・高木秀明・吉見俊哉・高橋誠・大谷いづみ・相良亨著『倫理』(東京書籍 2004年)P71
 行間調整と青赤太字は引用者が施しました。

 弥生時代以来、農耕の歴史は2400年ほど。
 それに対して、其れ以前の縄文時代は、9500年以上つづきました。
 上記の各教科書が記述している自然条件の中で、
縄文時代にまず、基本的な信仰が生まれました。それに弥生文化の水稲耕作の要素が加わって、日本文化の基層というべき考え方がうまれたわけです。 

「 民俗学者の柳田國男はたいへんおもしろいことを言っております。それは山の神が田植えとともに森山から田にやって来て、田の神となり、稲刈りが済むと、また山に帰って山の神になるということです。縄文の神様である山の神が、田植えとともに田の神すなわち弥生の神様となり、また稲刈りが済むと山に帰って、もとのような縄文の神様になるというわけです。

 私は日本の神社には必ず森があることに注意をしたいと思います。寺は必ずしも森を必要といたしません。しかし、神社には必ず森があります。これは日本において神様のいるところは必ず森でなくてはならないということを意味します。
これは絶文の神と弥生の神との連続性を示すものであります。神道というものはこの縄文の山の神・森の神の崇拝にもとを発するものであると思っています。そして、弥生時代以後に山の神・森の神が田の神にもなるわけでありますが、このことは縄文の神が弥生時代にも生き残り、現在の日本人にも神として崇拝されていることを示すものであります。

梅原猛「縄文時代の世界観」梅原猛編『縄文人の世界』(角川書店 2004年)P14
行間調整と青赤太字は引用者が施しました。
この本は、
福井県の鳥浜貝塚の出土品等を集めて三方五湖の湖畔に2000年に開館した、三方町縄文博物館(館長は梅原猛氏)で開催された「縄文学講座」をまとめたものです。

2006年8月11日、三方町縄文博物館へいってきました。その報告は、「旅行記 若狭・丹後・但馬旅行記」に掲載します。旅行記 若狭・丹後・但馬旅行1

 縄文文化の意義について、同じく鳥浜貝塚の花粉分析等にたずさわった国際日本文化研究センターの安田喜憲氏は、もう少し広い視点から、縄文文化の重要性を次のように指摘しています。(行間調整と青赤太字は引用者が施しました。)

「 つまり、ユーラシア大陸には、乾燥した大草原を舞台として、麦を栽培し、ヒツジやヤギなどの家畜を飼う農耕文化と、湿潤な森と湿地のはざまを舞台とし、稲を栽培し、狩猟と漁労をセットとする農耕文化の巨大な二つの潮流が存在するのである。前者を草原の農耕文化とすれば、後者こそ森の農耕文化というべきものであろう。
 そして、
草原の農耕文化は、階級支配の文明を誕生させ、都市文明を発展させ、人間中心主義に立脚した森林破壊の文明を誕生させた。これに対し、森と湿地のはざまで誕生した森の農耕文化は、こうした森林破壊の文明とは異なった性格の文明を発展させた。それは、森と共存する文明である。(中略)

 今日の国際社会の中で、日本人ほど理解が困難な国民はいないといわれる。こうした国際社会で特異視される存在の背景には、日本人が森の民であり、森の心をもっていることが深く関係しているように思われる。アメリカ人にとっても、日本人より中国人の方がよほど理解しやすいという。この謎めいた行動を日本人がとる背景には、縄文時代以来の森の文化の伝統が深くかかわっている気がする。
日本以外の先進国あるいは超大国といわれる国々は、大半がとっくの昔に森の心、森の文化の伝統を失っているからである。

 そんな国々の人々にとっては、森の民日本人は理解困難な文化や行動、さらには情念をもつ民族にうつるらしい。
 日本人、日本文化の世界史上における特異性は、すでに一万年も前の縄文時代に始まっていたと思われる。今日の世界史上の日本文化のユニーク性と、縄文文化の世界史上におけるユニーク性を、生態史的に比較研究することは、日本文化の未来を考える上できわめて示唆的であろう。いまや日本の縄文文化を世界史的視野に立って、みなおすべき時にきている。
 縄文文化は、温帯の季節性の明瞭な広葉樹林帯の文化として出発した。それ以前の岩宿文化が、大陸の一分派として、ユーラシア大陸の文化の盛衰と密接なかかわりの中で展開したのに対し、縄文文化は日本列島が海面の上昇によって孤立化を深める中で開花・熟成した、日本独自の固有性の高い文化である。その人々の生活は、日本独自の風土のリズムときわめて調和的である。(中略)

 春、三方湖の水がぬるみはじめると、湖岸ではヤマトシジミ、タニシ、カワニナ、トンガリササノハなどの貝の採取が行われ、綱で魚を取り、フキやミツバなどの山菜やユリの球根などが採集された。夏には、男たちは10キロ離れた海へ出かけて、マグロやカツオ、タイなどを取る。
 秋は収穫の季節だ。クルミ、クリ、シイ、ヒシなどの実の採集は、短期間に集中して行わなければならない。そして冬、人々は狩りに出かけた。脂肪をたっぶりたくわえたイノシシやシカは日本海の寒い冬をのりきるのに格好の食料であった。
 このように鳥浜村の生活は、村をとりまく自然の変化のリズムときわめて調和的であり、人々は自然を熟知していた。シカやイノシシの歯の萌出投階の分析は、シカやイノシシが限られた冬の季節にしか捕獲されていないことを報告している。めったやたらに目につけば殺すことはせず、必要な時にしか殺さず、自然の獲物に対する強い自制心がみられる。そこには自然の再生への配慮がうかがわれるのである。
縄文人にとって、森やそこにすむ獣たちは貴重な食料源であったと同時に、鼻をつき合わせて生きる隣人でもあり、むやみに伐ったり殺したりする相手ではなかったのである。

 縄文文化が自然との調和の中で、高度な土器文化を発展させ、1万年以上にわたって一つの文化を維持しえたことは、驚異というほかはない。縄文文化が日本列島で花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インタス文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。
 東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古代文明は、強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方的略奪を根底にもつ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。それに対し、日本の縄文文化は、たえず自然への再生をベースとし、森を完全に破壊することなく、次代の文明を可容する余力を大地に残して、弥生時代にバトンタッチした。それは共生と循環の文明の原点だった。

 ミケーネ文明が衰退するのと、日本の縄文文化が衰退するのは、ほぼ時を同じくしている。それは今から3000年前頃のことである。それはこの時代に引き起こされた気候の悪化に端を発していた。
 自然に依存する度合いの高かった日本の縄文文化も、この気候悪化(メソポタミア・インタス流域は乾燥化するが、日本列島では冷涼・湿潤化の傾向を示す) によって打撃を被り、衰退していく。しかし、次代の文明を可容する緑の国土は残った。」

安田喜憲著『森の日本文化 縄文から未来へ』(新思索社 1996年) P82−89


 田園の中にある、神社。そして鎮守の森。これが日本の基層文化の象徴です。
 岐阜市中地内、八剣神社(撮影日 06/08/05)
 鎮守の森について考える場合の参考文献を二つあげておきます。とても勉強になりました。

上田正昭編『探究「鎮守の森」社叢学への招待』
(平凡社 2004年)

上田正昭監修 上田篤・菅沼孝之・薗田稔編著『身近な森の歩き方 鎮守の森探訪ガイド』(文英堂 2003年)


 2006年の3月、熊野古道に出かけて以来、山と森についてずっと考えてきました。
 
熊野信仰修験道鎮守の森縄文文化と弥生文化・・・・、日本の基層文化、言い換えれば、日本のアイデンティティを求めて迷い続ける旅ははじまったばかりです。

それぞれ以下のページです。
旅行記 熊野古道ちょこっと探検記
クイズ飛鳥〜平安時代「熊野神社別当湛増が源氏に味方する決めたとした動物は?
なんだこりゃ 少年時代・学生時代 鎮守の森

 さて、縄文文化の森と弥生文化の稲については、これで終わりです。
 
 このシリーズの最後、【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ5】 は、
縄文時代人と、新しくやってきた渡来系弥生人の形質が、現代人にいかに引き継がれ、それがいかに地方的な差違になっているかについてです。
 ※一度問題編に戻ってください。こちらです。


このテーマ以外に、次の項目でも、日本の地域性・東西の差について触れています。
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるT 「現代日本人のルーツ」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるV 「酒に強い人弱い人」の東西分布
「クイズ日本史原始〜古墳時代編」005・・・あなたの縄文人度・弥生人度をテストします
目から鱗 日本の東西文化の比較1 味 「日清のどん兵衛きつねうどんの東西比較」