しかし、やがて、弥生文化は東日本にも広がります。
そして、それ以後およそ2000年間、水田稲作農業は日本人の生業の中心となり、経済社会の仕組みはもとより、信仰や文化にも、大きな影響を及ぼすことになります。
せっかくここまで、縄文時代から弥生時代への変化を詳しくたどってきたのですから、その後の日本文化の基層の形成において、縄文文化と弥生文化がどのように結びつき現代につながっているかについて考えたいと思います。
日本文化の基層は、縄文文化か弥生文化かという場合、結論は、両方が結びついて基層を形成しているということになるわけですが、高校の教科書レベルでは、記述は明確ではありません。
歴史の科目「日本史」では縄文文化と弥生文化を学習し、その後の時代の文化の部分では、神道や仏教を初めとして、信仰について学習しますが、信仰の内容そのものは詳しく学習しませんから、縄文文化と弥生文化の精神がそれ以後の日本の精神文化の基層にどのようにつながっていったかは、あいまいです。
一方、公民の科目「倫理」では、精神文化の内容は詳しく学習しますが、こちらは、歴史の教科書ではありませんから、直接には縄文文化とか弥生文化のとかいう記述は登場しません。
ただし、水稲耕作については記述されていますので、結果的に、教科書通り学習すると、弥生文化(水稲農耕儀礼)は強く意識されていても、縄文文化(森の文化)の方はあまり意識されないことになります。
いくつかの倫理の教科書を確かめてみましょう。
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『新倫理』清水書院2004年版 (2002年文部科学省検定済) |
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「日本は、国土のすべてが大小の島々からなる島国である。大半が温帯モンスーン気候に属し、年間を通じて雨と日光に恵まれている。ことに夏のモンスーンにともなう高温多湿は植物の生育に適しており、人びとは古来、水稲耕作を中心とする生活を営んできた。(中略)
水稲耕作を中心とする農耕を営む人びとは、主として平地に作られた村落共同体に暮らしてきた。村落共同体の景観は、人々が世界のあり方について考えるうえでの典型的な型を構成した。
平地の周囲を区切るのは、あるいは山であり、あるいは海である。山や海は、人々がその身をもってじかに触れることができない、はるかかなたの他界に通じていると考えられた。他界は、神や仏の世界であり、また、死者の霊魂のおもむく世界としても、人々がそこから生まれてきた原郷の世界としても、思い描かれることがあった。」
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菅野覚明・山田忠彰・柏木寧子・金子淳人・吉野明・矢倉芳則著『新倫理』(清水書院 2004年)P66 青太字は引用者が施しました。
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B |
『倫理』数研出版2004年版 (2002年文部科学省検定済) |
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「わが国は四方を海に囲まれた小さな島じまから成る。地形は複雑で、平地はわずかであり、しかも分断されている。国土の約7割は森林におおわれた山地である。火山が多く、噴火や溶岩の流出、地震などの災害が頻発する。川は急流で短く、大雨のときには土砂が流出して水害をおこすことが多い。日本列島は南北に長く、亜寒帯から温帯・亜熱帯まで地域による気候の差が大きく、また多様である。しかしおおよそのところ温暖多湿な海洋性の気候で、森林の生育に適しており、四季の変化は豊かで明瞭である。(中略)
豊富な水と夏の高温に恵まれて、人びとは水田稲作を中心とする生産様式わが国における人びとの生活空間は、平地に営まれた村落共同体であった。村落共同体は、近くの平地とその外側に広がるかなたの海原や高山とからなる景観をもっていた。近くの平地は日常生活の場であり、身近な内部の世界である。かなたの海原や高山は非日常的な場であり、見知らぬ外部の世界である。外部の世界は神や仏のいる世村落共同体の景観界であり、死後の世界でもあった。」 |
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佐藤正英・片山洋之介・細谷昌志・福田弘・星川啓慈・矢野優・福本修著『倫理』(数研出版 2004年)P52
青太字は引用者が施しました。 |
C |
『倫理』東京書籍2004年版 (2002年文部科学省検定済) |
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「このような発想の背後には、日本の自然環境からの大きな影響があると考えられる。地理的に日本の気候の大部分は、温帯モンスーン気候に属しており、一年を通じて豊かな雨や日光にめぐまれている。豊かな照葉樹林にかこまれ、水田稲作を中心とした農耕を営む生活文化は、こうした自然風土において育てられてきたのである。しかし同時にその自然は、ときとして、台風のような大雨・洪水・暴風や旱魃、また地震といった猛威をふるう。このような自然風土においては、人は自然に対して対抗的ではなく受容的な、征服的ではなく忍従的な性格をもつようになる。世界の根底に「おのずから」の働きを感じとり、それにしたがいそれと一体となって生きることをもとめる発想の基本は、こうしたところから育てられてきたのであろう。それは「乾燥」が日常であるようなきびしい自然とのたたかいをしいられる「砂漠」型の発想とも異なるし、また猛威をふるうことのない従順な自然を支配しえた西欧のような「牧場」型の発想とも異なっている。」 |
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平木幸二郎・竹内整一・高木秀明・吉見俊哉・高橋誠・大谷いづみ・相良亨著『倫理』(東京書籍 2004年)P71
行間調整と青赤太字は引用者が施しました。 |
弥生時代以来、農耕の歴史は2400年ほど。
それに対して、其れ以前の縄文時代は、9500年以上つづきました。
上記の各教科書が記述している自然条件の中で、縄文時代にまず、基本的な信仰が生まれました。それに弥生文化の水稲耕作の要素が加わって、日本文化の基層というべき考え方がうまれたわけです。
「 民俗学者の柳田國男はたいへんおもしろいことを言っております。それは山の神が田植えとともに森山から田にやって来て、田の神となり、稲刈りが済むと、また山に帰って山の神になるということです。縄文の神様である山の神が、田植えとともに田の神すなわち弥生の神様となり、また稲刈りが済むと山に帰って、もとのような縄文の神様になるというわけです。
私は日本の神社には必ず森があることに注意をしたいと思います。寺は必ずしも森を必要といたしません。しかし、神社には必ず森があります。これは日本において神様のいるところは必ず森でなくてはならないということを意味します。これは絶文の神と弥生の神との連続性を示すものであります。神道というものはこの縄文の山の神・森の神の崇拝にもとを発するものであると思っています。そして、弥生時代以後に山の神・森の神が田の神にもなるわけでありますが、このことは縄文の神が弥生時代にも生き残り、現在の日本人にも神として崇拝されていることを示すものであります。」 |
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梅原猛「縄文時代の世界観」梅原猛編『縄文人の世界』(角川書店 2004年)P14 行間調整と青赤太字は引用者が施しました。
この本は、福井県の鳥浜貝塚の出土品等を集めて三方五湖の湖畔に2000年に開館した、三方町縄文博物館(館長は梅原猛氏)で開催された「縄文学講座」をまとめたものです。 |
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2006年8月11日、三方町縄文博物館へいってきました。その報告は、「旅行記 若狭・丹後・但馬旅行記」に掲載します。旅行記 若狭・丹後・但馬旅行1 |
縄文文化の意義について、同じく鳥浜貝塚の花粉分析等にたずさわった国際日本文化研究センターの安田喜憲氏は、もう少し広い視点から、縄文文化の重要性を次のように指摘しています。(行間調整と青赤太字は引用者が施しました。)
「 つまり、ユーラシア大陸には、乾燥した大草原を舞台として、麦を栽培し、ヒツジやヤギなどの家畜を飼う農耕文化と、湿潤な森と湿地のはざまを舞台とし、稲を栽培し、狩猟と漁労をセットとする農耕文化の巨大な二つの潮流が存在するのである。前者を草原の農耕文化とすれば、後者こそ森の農耕文化というべきものであろう。
そして、草原の農耕文化は、階級支配の文明を誕生させ、都市文明を発展させ、人間中心主義に立脚した森林破壊の文明を誕生させた。これに対し、森と湿地のはざまで誕生した森の農耕文化は、こうした森林破壊の文明とは異なった性格の文明を発展させた。それは、森と共存する文明である。(中略)
今日の国際社会の中で、日本人ほど理解が困難な国民はいないといわれる。こうした国際社会で特異視される存在の背景には、日本人が森の民であり、森の心をもっていることが深く関係しているように思われる。アメリカ人にとっても、日本人より中国人の方がよほど理解しやすいという。この謎めいた行動を日本人がとる背景には、縄文時代以来の森の文化の伝統が深くかかわっている気がする。日本以外の先進国あるいは超大国といわれる国々は、大半がとっくの昔に森の心、森の文化の伝統を失っているからである。
そんな国々の人々にとっては、森の民日本人は理解困難な文化や行動、さらには情念をもつ民族にうつるらしい。
日本人、日本文化の世界史上における特異性は、すでに一万年も前の縄文時代に始まっていたと思われる。今日の世界史上の日本文化のユニーク性と、縄文文化の世界史上におけるユニーク性を、生態史的に比較研究することは、日本文化の未来を考える上できわめて示唆的であろう。いまや日本の縄文文化を世界史的視野に立って、みなおすべき時にきている。
縄文文化は、温帯の季節性の明瞭な広葉樹林帯の文化として出発した。それ以前の岩宿文化が、大陸の一分派として、ユーラシア大陸の文化の盛衰と密接なかかわりの中で展開したのに対し、縄文文化は日本列島が海面の上昇によって孤立化を深める中で開花・熟成した、日本独自の固有性の高い文化である。その人々の生活は、日本独自の風土のリズムときわめて調和的である。(中略)
春、三方湖の水がぬるみはじめると、湖岸ではヤマトシジミ、タニシ、カワニナ、トンガリササノハなどの貝の採取が行われ、綱で魚を取り、フキやミツバなどの山菜やユリの球根などが採集された。夏には、男たちは10キロ離れた海へ出かけて、マグロやカツオ、タイなどを取る。
秋は収穫の季節だ。クルミ、クリ、シイ、ヒシなどの実の採集は、短期間に集中して行わなければならない。そして冬、人々は狩りに出かけた。脂肪をたっぶりたくわえたイノシシやシカは日本海の寒い冬をのりきるのに格好の食料であった。
このように鳥浜村の生活は、村をとりまく自然の変化のリズムときわめて調和的であり、人々は自然を熟知していた。シカやイノシシの歯の萌出投階の分析は、シカやイノシシが限られた冬の季節にしか捕獲されていないことを報告している。めったやたらに目につけば殺すことはせず、必要な時にしか殺さず、自然の獲物に対する強い自制心がみられる。そこには自然の再生への配慮がうかがわれるのである。縄文人にとって、森やそこにすむ獣たちは貴重な食料源であったと同時に、鼻をつき合わせて生きる隣人でもあり、むやみに伐ったり殺したりする相手ではなかったのである。
縄文文化が自然との調和の中で、高度な土器文化を発展させ、1万年以上にわたって一つの文化を維持しえたことは、驚異というほかはない。縄文文化が日本列島で花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インタス文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。
東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古代文明は、強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方的略奪を根底にもつ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。それに対し、日本の縄文文化は、たえず自然への再生をベースとし、森を完全に破壊することなく、次代の文明を可容する余力を大地に残して、弥生時代にバトンタッチした。それは共生と循環の文明の原点だった。
ミケーネ文明が衰退するのと、日本の縄文文化が衰退するのは、ほぼ時を同じくしている。それは今から3000年前頃のことである。それはこの時代に引き起こされた気候の悪化に端を発していた。
自然に依存する度合いの高かった日本の縄文文化も、この気候悪化(メソポタミア・インタス流域は乾燥化するが、日本列島では冷涼・湿潤化の傾向を示す) によって打撃を被り、衰退していく。しかし、次代の文明を可容する緑の国土は残った。」
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安田喜憲著『森の日本文化 縄文から未来へ』(新思索社 1996年) P82−89
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