原始〜古墳時代4
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<解説編>
 

002 銅鐸が発見される場所はどこでしょうか。                  | 問題へ |

 小学校・中学校・高校と、学習を発展的に進めていくためには、前の段階でどこまで学習しているかを確認し、そこから次のステップへの巧みな導入を図らねばなりません。しかも、生徒の多くは、教科書に書いているからと言って、それほどは理解していない、覚えていないという現状も把握していなければなりません。
 
 中学校の歴史の教科書の中で各教育委員会による採用数が比較的多い東京書籍の『新編新しい社会 歴史』(1998年)には、まず「銅剣や銅矛は、元は武器であったが、銅鏡や銅鐸と同じように、おもに祭りのための宝物として用いられた。」(P26)と青銅器についての説明があります。そして、次のP27の脚注には、「人々の間に身分の違いができ、墳丘の上に、鏡や銅剣、銅矛などが一緒に葬られている豪族の墓もあらわれた。」と説明されています。
 この二つの説明をつなぎ合わせて理解すれば、正解である「銅鐸は墓には埋められていない」ということが導き出されます。しかし、これから歴史を習い始める段階でそんなことを理解している高校生はほとんどいません。

 彼らが銅鐸というものの名前と形は知っていても、その実態を知らずにいるとすれば、この質問の正答率は下がり、その結果それを利用して、青銅器とその祭祀、つまり「神々への祭り」を教えていくきっかけとすることができるでしょう。
 薄っぺらな授業をすると、単なる古い昔の話で終わる「神々への祭り」も、「正月」の意味など現代の年中行事につながると考えると、その扱いも、生徒の興味も変わってきます。

 高校の教科書には、「集落では、豊かな実りを祈願し、また収穫を感謝する神祭りがとり行われた。これらの祭りには、銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈などの青銅製祭器が用いられた。」(山川出版『改訂版詳説日本史』1999年のP19)と説明されており、内容的に当然中学校より深まっています。
 
 弥生時代人は、すでに、豊穣をに関する祭りについて、穀霊(穀物に宿る恵みの霊)と地霊(地に宿り大地の力を増大する霊)という二つの精霊(カミ)観念を持っていました。銅鐸は、春から秋にかけての稲が生長し育つ時期には、穀霊を妨げる悪霊を追い払う「辟邪」(へきじゃ)の役割を果たし、秋の収穫祭が終わり銅鐸のある祠(ほこら)の中の祭壇に稲穂が祭られると、今度は、次の春まで、穀霊が村を見捨てて逃げてしまわないように、穀霊を閉じこめる「呪縛」(じゅばく)の役割を果たしました。
 時に、気候の大異変など毎年の祈りでは何ともならないような災害に遭遇した時は、銅鐸は土中に埋納されました。「穀霊を守護し、悪霊を撃退すべき使命を担って、銅鐸は太地に返される。それは銅鐸自身の死と引き替えに、地霊を奮い立たせ、豊穣の生命を取り返そうと言う最後の手段ではなかったか。」
 ※寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』(講談社2000年)P111

 また、弥生時代中期の後半(紀元後1世紀)になると、上述した、村々での単独での銅鐸の埋納とは違う、「大量埋納」が行われたことが判明しています。1996年島根県の加茂岩倉遺跡からは、39個の銅鐸が発見されました。
 ※加茂岩倉古墳の解説 http://www.web-sanin.co.jp/iwakura/iwakura.htm
 
 「大量埋納」の銅鐸は、豊穣の祈りとは意味が異なると考えられます。
 これについては、他の勢力との何らかの政治的緊張が生じた結果、共同体そのものを加護し、敵対する国への積極的な呪禁(じゅごん、呪力によって邪を払い、同時に悪霊や敵を威嚇し殲滅するための呪詛をかけること)を行うためのものという説も唱えられています。
 ※寺沢前掲書P181
 
 すみません、これは専門家以外にはちょっと難しい解説でした。


003 これまでに発見された最大の銅鐸はどのくらいの大きさでしょうか。  | 問題へ |

 銅鐸は、 初期の時代は数pから20・30p程度の大きさでしたが、前の質問の解説にあった「邪禁」の意味を持つことになってから、その形はだんだん大きくなっていきました。

 日本で一番大きな銅鐸は、滋賀県の野洲町の大岩山遺跡から発見されたもので、高さは134.7pあります。

 右の写真は、野洲町の銅鐸博物館(野洲町立歴史民俗資料館)にある、実物大の模造品です。横にいる私の身長が168pですから、その大きさがおわかりいただけると思います。

 ところで、青銅器がどうして祭祀の道具になったのかという理由は、次の3点で説明されます。

  1. 当時は首長クラス以外は入手困難な貴重品

  2. 金属の持つ荘厳な色と音が神秘的で、祭りの演出に効果を持った。

  3. 青銅器を作成する技術自体も神秘性のある(神業的)ものであった。

 授業で生徒に見せるものとして、銅鐸の模造品は、各地の博物館等で手に入れることができます。しかし、、値段が高いのが難点です。
 右下の写真は野洲町の銅鐸博物館のお土産用模造品ですが、左右どちらも高さ20pぐらいで、値段は6000円です。同博物館には30pを越える大物模造品もありますが、これはなんと35000円です。
 また、右上のは私が熱海のMOA美術館で購入した模造品ですが、これも、15p程度のもので、8000円でした。(1985年当時、問い合わせたところ今はもう販売していません。)
  ※野洲町の銅鐸博物館 〒520-2315 滋賀県野洲軍野洲町大字辻町57番地の1 077−587−4410 
  


004 前方後円墳の表面の色は?                          | 問題へ |

 
@

A
B
C
D

この問題は、完成したばかりの前方後円墳の表面がどうなっているかという問題を意味します。
Aは乾燥した土の色、Bは湿った土の色、Cは草の色、Dは樹木の色を意味していますが、いずれも不正解です。
 完成したばかりの古墳の表面は、葺き石(ふきいし)と呼ばれる川原石を一面敷き詰めた、きわめて人口の建造物っぽい様相でした。
 右の写真は庫県神戸市にある五色塚古墳です。前方部から後円部の墳丘を映したものです。
 もとから存在した古墳を、神戸市教育委員会が建造当時のものに復元しました。表
面は一面に、少し大きめの川原石が敷き詰めてあります。
 ご覧のように、正解は、@です。
 建設後しばらく時間がたつと、墳丘上の石は脱落し、表面には草が生え、さらに時がたてば、木が生い茂ります。  
 左の写真は、大阪府の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)、いわゆる、仁徳天皇陵と呼ばれているあの日本最大の古墳です。
 上空からの写真を見れば、古墳と分かるでしょうが、横から見ると、普通の「神社の杜」と違いはありません。

 建造当時の古墳は、そんな自然なものではなく、権力者がその力を誇示するための、堂々たる人工物だったのです。周囲が全て自然の緑・黄緑・茶などの色彩の中に、まるでコンクリートのような石の建造物が、そびえ立っていたのです。
 ※五色塚古墳 神戸市垂水区 JR山陽本線垂水駅から徒歩15分
 ※大仙陵古墳  大阪府堺市  JR阪和線 百舌鳥(もず)駅から徒歩5分


005 どちらのタイプの日本人?                            | 問題へ |

 現代日本人の集団の形成については、詳しくは「目から鱗」の「現代日本人のルーツ」参照。

 旧石器から縄文時代人へつながる古いタイプの人々、つまり人類の誕生の原点である熱帯地方に適応した特色を持つ人々を古モンゴロイドといいます。これに対して、弥生時代の始まりのころから新しく渡来してきた人々、つまりアジア北部で寒い気候に適応して来た(寒冷地適応)人々を新モンゴロイドと呼びます。

 特色の相違を一覧表にすると以下の表になります。何故そうなのかの理由の分析も上のページを参照してください。

古モンゴロイド(縄文時代人) 特色のポイント 新モンゴロイド(弥生時代の渡来人)
長め 手足の長さ 短め
彫りが深い 顔の形 平板
耳たぶがある 耳の形 耳たぶがない
湿っている 耳あかの種類 乾いている
二重 まぶた 一重
濃い 体毛 薄い
強い 飲酒 弱い

 また、松下孝幸氏は次のような詳細な採点表により、現代人がどちらのタイプか考察できるように提案しています。
  ※松下孝幸著『日本人と弥生人ーその謎の関係(ルーツ)を形質人類学が明かす』(1994年祥伝社)P228〜230より

特色のポイント 採     点     表
01 顔の形 ・円に近い       ・中間      ・前後に長い    
02 顔の輪郭 ・面長         ・普通      ・丸顔,四角顔  
03 あごの先端 ・でていない      ・普通      ・でている     
04 耳たぶ ・小さい        ・普通      ・大きい       
05 鼻の高さ ・低い         ・普通      ・高い        
06 眉の濃さ ・薄い         ・普通      ・濃い        
07 目の形 ・細い         ・普通      ・大きい       
08 まぶた ・ひとえ        ・片方一重   ・ふたえ       
09 ・うすい        ・普通      ・あつい       
10 耳あか ・かわいている          ・湿っている    
11 血液型 ・A型          ・ABかO型  ・B型         
12 体毛 ・薄い         ・普通       ・濃い        
13 身長 ・高いほう       ・普通       ・低いほう     

得点集計    (    )点  判定(         )
12〜23点は縄文人タイプ  24〜28点は中間タイプ  29〜40点は弥生人タイプ
<関連ページ案内>
 目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるT 「現代日本人のルーツ」
 目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」
 目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるV 「酒が弱い人強い人の全国分布」
 「現物教材リスト」へ・・・酒に弱いかどうかをテストするアルコールパッチテストの教材  
 「なんだこりゃったらなんだこりゃ」へ・・・酒の飲めない男の独り言


006 縄文人の食性の研究を進めた化石の発見とは?  | 問題へ |

 答えは、人間の糞の化石,糞石の発見と研究です。

この地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。

 最近では、青森県の三内丸山遺跡が発掘され、縄文時代中期後半に、これまでの教科書の常識を覆す高度な定住文化が存在していたことが、一般の皆さんへも十分に広まりました。
 三内丸山では、食用に栗の木の栽培も行われていたことが分かりました。「狩猟採集の不安定な生活」といったこれまでのイメージとは違って、縄文人は食物の栽培という高度な技術を持っていたのです。

 従来の「縄文時代観」を一新するような新しい発見は、三内丸山の前に、すでに
福井県の鳥浜貝塚の発掘によってなされていました。
 鳥浜貝塚は、福井県西部の若狭湾に面した三方五湖の湖畔にあります。
 1962年以降数次にわたって本格的な調査がなされ、土器・石器のほか、大量の木器や編み物の類、多数の自然遺物なども発見されました。丸木船や漆を塗った容器も出土しました。
 縄文時代の遺跡としては珍しい低湿地帯の遺跡で、水中で空気に触れることがなく保存されてきたため、木製品なども腐敗せずに残され、画期的な発見となったのです。
 ここでは、
ヒョウタン、リョクトウ(緑豆、豆もやしの原料)、シソ、エゴマ、ゴボウなどの種子が検出され、縄文人の植物栽培が肯定されるきっかけとなりました。

佐々木高明著『集英社版日本の歴史@ 日本史誕生』(集英社 1991年)P231

 
 この貝塚で、大量に発見されたのが、
糞石です。その数は3000点以上にのぼります。
 糞石はすでに調査の最初の段階から発見されていましたが、研究が進むのは、1975年からの第4次調査からです。それは、
千浦美智子さんという一人の若い女性研究者の努力の賜物でした。
  以下詳細については、次の項目をご覧ください。

鳥浜貝塚と糞石については、旅行記「若狭・丹後・但馬旅行1」鳥浜貝塚と若狭三方縄文博物館で紹介しています。

鳥浜貝塚の近くには、2000年4月に若狭三方町縄文博物館がオープンし、発掘されたものを保存しています。http://www.town.mikata.fukui.jp/jomon_new/01.html

本物の恐竜の糞石については、現物教材日本史「糞石」のページへどうぞ。

蛇足ですが、インターネットで「糞石」を検索すると、このページでいう糞石とは違うものが一杯登場します。医学的には、「糞便が長時間にわたって大腸内に停滞すると、水分が吸収されて硬くなり、糞石となって直腸に潰瘍(糞石潰瘍)を起こすことがある」とのことです。くわばら、くわばら。


007 縦長日本列島地図が邪馬台国論争に与えた影響は?         | 問題へ |

 ちょっと長くなりますが、邪馬台国の位置の記述を説明します。「魏志倭人伝」の邪馬台国に関する記述は、「郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し・・・、」という文章で始まり、朝鮮半島にあった「帯方郡」からの道程が、方向と水陸の区別、距離または期間で記してあります。

 普通に読み進んでいくと、下の左図の説明のようになります。ところが、これでは、邪馬台国は、九州北部から見て、南にあることになります。
 
 邪馬台国は、日本においては長い間、ごく自然と、大和にあるものとされてきました。邪馬台国が大和朝廷に発展したという考え方が自然だったからです。これが邪馬台国畿内説です。

 ところが、江戸時代になって、九州説が登場します。
 九州説を理論的jに唱えた最初の人物は、国学者本居宣長です。

 彼は、1777年に著した『馭戎慨言』(ぎょじゅうかいげん)において、魏志倭人伝の記述の中の方向を問題視し、畿内ならば、記述は東となるべきであり、南と記述してある以上は、「筑紫の南」の「熊襲」(くまそ)などが、魏に朝貢したものであると推察しました。
 
 魏志倭人伝を素直に読んでいくと、方角的には、畿内説には全く不利です。
 ところが、九州説も、このままでは成り立ちません。
 というのは、不弥国から南水行10日で投馬国、投馬国から水行10日陸国1月で邪馬台国というのであれば、邪馬台国は、はるか九州本島の沖合になってしまいます。邪馬台国が竜宮城では困ります。
 
 そこで、右下の新しい説が登場します。これが、放射状の読み方です。下の右図の説明です。
 つまり、どの学者も、九州北部の末盧国(今の佐賀県東松浦半島)・伊都国(福岡県糸島郡前原町)の場所には異論はありません。しかし、そこから以降は、意見が違ってきているのです。

 まとめましょう。
 
魏志倭人伝の記述を読むと、畿内説では方角が合うず、九州説では、距離が合わないのです。

 そこへ一石を投じたのが、地理学者室賀信夫氏です。
 室賀氏は、中国の地図には、明や清の初めのころの図でさえも、日本を実際よりはるか南方に位置づけ、また時には、南北の方向に長い(地図上は縦長の)島国ととらえて描いているものが少なくないと指摘しました。それが右下図です。
 これは、私が、パソコン上で模写したものですが、元の図は、明の建文4年(1402年)に朝鮮で作られた「混一彊理歴代国都之図」(こんいちきょうりれきだいこくとのず)です。

 この図は、中国の元時代の地図をもとに描かれたもので、当時の中国や朝鮮における日本の地理的概念を反映したものです。
 ※田中琢著『集英社版日本の歴史A 倭人争乱』(1991年集英社)P238
 ※直木孝次郎著『日本の歴史1 倭国の誕生』(1973年小学館)P283

 さて、この図は、邪馬台国畿内説・九州説どちらに有利でしょうか?
 
一番右下に日本列島が、小さくしかも90度回転して関東・東北地方が南にして描かれています。ついでですが、北海道は描かれていません。つまり、中国人は、魏志倭人伝の時代も、元・明の時代も、日本列島を南北に長い島としてとらえていたと考えられます。
 ということは、畿内にある邪馬台国へ行くのに、九州北部から、南へ南へどんどん下っていくという記述の仕方になるはずです。
 すなわち、これは、畿内説にとってとても有利になる地図ということになります。


 これは、生徒の思考力を確認する質問として最適です。
 かなり学力の高い生徒に対しては、授業中に上の青地の部分のみを強調しておきます。そして、定期考査で、いきなり、右の地図を見せて、どちらに有利不利を答えさせるのです。
 
 
生徒は、まず、地図中右下の島が、南北縦長の日本列島であること(しかも北海道はない)を認識し、授業で習った畿内説・九州説の欠点を思い出して、その上で、畿内説有利を導き出さなければなりません。相当な思考力を必要とする問題となります。(もちろん、配点10点ぐらいの論述問題です。)
 

 邪馬台国の位置論争を、単に魏志倭人伝の記述のみでとやかく言う狭い見方は、現在では、克服されています。
 「史料性の高い倭人伝記事に限定し、リアルタイムの証拠を次々に積み上げていくことのできる、考古学の最新の成果といかに整合するかという視点から、邪馬台国研究は新しい段階に進みつつある」のです。
 ※寺沢薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社2000年)P267
 したがって、邪馬台国の位置論争を紹介するのには、幅広い視点が必要です。

 但し、生徒には、必ずしも最新の学説を教える必要はありません。
 暗記でない、考える日本史を、つくっていきたいものです。 


008 狩猟用の落とし穴と確認できた理由は?            | 問題へ |

 このクイズの答えには、動物の骨が残っていたという誤答が予想されますが、実はそれでは簡単すぎてクイズにはなりません。
 正解は、穴の底の部分に、左図のように、穴に落ちた獲物に打撃を与えるためのクイを埋める穴が発見されたことが、 この穴が落とし穴である決めてとなりました。 
 下図は復元模式図です。

 このような穴を、考古学の専門用語では、Tピット(トラップ・ピット、トラップはわな、ピットは穴)といいます。

 イノシシは、剛毛についたダニのかゆさを紛らわすために、一日に数度、わき水がでて泥がたまっている泥の溜まりにやってきては、ひっくり返って背中をこするのが好きだといわれています。
 この泥の溜まりに通じるところ、いわゆる、イノシシ道に、落とし穴をいくつも作っておくわけです。

 本州地域では、このような落とし穴は縄文時代早期・前期という比較的早い時期に各地で見いだされています。このことから、縄文時代の初めには、人口が比較的少なく、相対的に多く生息していたイノシシやシカを落とし穴で捕獲するいわば受け身の猟が盛んであり、その後、人口の増加に伴い、弓矢による狩猟という積極的な作戦にかわっていったのではないかという推測が成されています。横浜市霧ヶ丘の遺跡からは、このような穴が何十と発見されました。

 ※佐原眞著『大系日本の歴史1日本人の誕生』(1987年小学館)P130


009 古墳の埴輪に形取られたトリとは、どういうトリ?                     | 問題へ |

正解は、ニワトリです。  

 もういまでは、ニワトリが「コケッコー」と鳴いて、朝がやってくるという風情は、日常生活からは消え失せました。(そういえば、ギャグマンガの中で、「アサー」と叫んでいたニワトリももういません)
 しかし、日本においては、ニワトリは古代から、朝を告げる重要なトリでした。その意味は、たんに「目覚まし」という単純なものではありません。

 『古事記』には、例の天照大神が天の岩屋戸にかくれ、世界が闇に閉ざされてしまった時のことで、ニワトリが登場します。天照大神が岩戸を開くように、神々たちは、まず、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり、これがニワトリのこと)に一声鳴かせ、それから、天鈿命(あめのうずめのみこと)に舞わせ、天照大神の関心を惹きました。
 つまり、古代、ニワトリは、太陽を呼び出し、生命の再現を告げ、祖霊や精霊が支配する夜と人間がいる昼との境を告げる霊鳥でした。簡単な言い方をすれば、ニワトリは生命の復活を告げる霊鳥でした。
 古墳の埴輪が出現する以前にも、ニワトリを象った土器が作られ、祭礼が行われていました。

上は東京国立博物館にあるニワトリ埴輪です。
 埴輪の研究の先達である「うでたまご」さんのHPから許可を得て転載しました。

 
うでたまごさんのHP「はにわなきもち」(全国各地の埴輪の研究です。)へはこちらからどうぞ。

うでたまごさんありがとうございました。

 前方後円墳では、夜に、後円部の頂上で、埋葬の儀式が行われ、夜明けとともに、前方部では、新首長の首長権継承の儀式が行われました。後円部と前方部の境に、ニワトリ型形象埴輪は飾られていたと推定されます。朝を告げ、新首長の新しい支配を告げるトリでした。
  ※田中琢著『集英社板日本の歴史A 倭人争乱』(集英社1991年)P265


010 「から」という地名の意味は?語源は?                          | 問題へ |

 新村出編『広辞苑』(岩波書店1976年第2版)を見ると、地名としての「から」には、次の二つが掲載されています。これが正解です。 

  • から【唐】@中国の古称。また、中国からの渡来の物事に添えて言う語。A転じて、広く外国の称。また外国からの渡来の物事に添えて言う語。

 いずれの言葉も、現代の若者用語としては死語となってしまいました。
 それでも、このうち、@の方は、比較的有名でしょうか。唐(から)・天竺(てんじく)といえば、長く、直接には中国とインドをさす言葉として、使用されてきました。

 Aの方の、「広く外国の称」に関しては、少しでも多くの人に「ああ、あれか」といってもらえそうな例としては、「からゆきさん」があげられます。
 これは、江戸時代末から昭和の初めにかけて、日本のあちらこちらから(とくに多いところは長崎県島原地方・熊本県天草地方)外国の娼館へ娼婦として出稼ぎに行った女性たちを示す言葉です。教科書には出てきませんが、映画などにはしばしば取り上げられた物語です。
 映画では、次の作品の名が知られています。

  • 『からゆきさん』 今村昌平監督 善道キクヨ主演 1973年
    大場昇著『おキクの生涯』(明石書店2001年)の善道キクヨが、身の上を語ったものをフィルムに収めたものです。

  • 『サンダカン八番娼館 望郷』 熊井啓監督 田中絹代 栗原小巻主演 1974年
    山崎朋子の同名小説の映画化です。

  • 『女衒(ぜげん)』今村昌平監督 緒方拳主演 1987年
    河合譲著『村岡伊平治自伝』(1960年南方社)などをもとに、3000人の娘を売ったという、村岡伊平治をモデルにした映画です。

  詳しく調べるには、この道の研究の先達、大場昇氏のHP「からゆきさんの小部屋」が最適です。

 これらの語源となった、「から」はどこの地域なのでしょう。
 正解、からはもともと、古代朝鮮半島南端の地名なのです。
 
 つまり、4世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島の南端部分の地域にあった小国群が、加羅(から)です。これは、「加耶」または、「伽耶」と書かれる「かや」と同じです。『日本書紀』ではこの地域のことを、「任那」と読んでいます。
 この言葉が、やがては、「韓」と書いてからと読み、朝鮮の総称となり、さらには、唐と書いて中国の意味となり、そして、近代においては、外国と同じ意味にまで拡大されていきました。

 加羅というと、上述の、『日本書紀』の「任那」の記述の問題があります。
 これについては、新しい学説の主流は、次のようになっています。
「『書紀』(日本書紀のこと)は、加耶諸国を好んで「任那」とよんだ。また、教科書でも、最近でこそ「加羅」とか「加耶」とか記されるようになったが、以前はもっぱらこの語が用いられたので、現在でも、筆者より少し下の世代ぐらいまでの読者は、「任那」の方がなじみ深いのではないかと思う。しかし民衆のなかではぐくまれていったカラに対し、「任那」はおよそ対局にある語であり、倭王権の独尊的立場の生み出した、政治臭のプンプンする言葉なのである。
 ほんの20〜30年ほど前まで、日本の古代史学界では、日本はヤマト朝廷が成立して間もない四世紀後半には朝鮮半島南部に武力進出し、そこに政治機関として「任那日本府」をおき、朝廷の「官家」(みやけ)として「任那」を植民地のように支配・経営した、その支配は562年の「任那の滅亡」までつづく、とする考えが不動の定説であった。このような見解は、現今の学界では、さすがに影をひそめつつあるが、一般には、まだまだ影響力をもっているのではなかろうか。(中略)
 『書紀』は「任那」という語を、しばしば加耶諸国の汎称として用い、しかもこの「任那」の地は、朝廷の「官家」であると主張する。そこで、「官家」を朝廷の直轄領の意味に解し、『書紀』の記述を素直に受け取ると、加耶の全域があたかも朝廷の支配下におかれていたかのように理解されることになる。しかし、実際には倭国は加耶諸国に対して一定の政治的、軍事的影響力はもっていたものの、支配していたわけでは決してないし、加耶諸国は小さいながらも政治的独立を保っていた。『書紀』の任那に関する記述は、その編纂主体である日本の古代国家の政治的立場の忠実な表明ではあっても、決して客観的事実ではないのである。それを事実と信じると、みすみす『書紀』編者の術中におちいってしまうであろう。」
 ※熊谷公男著『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社2001年)P23〜24