原始〜古墳時代6
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<解説編>
 
014 教科書に弥生時代の開始時期はどう記述されているか。                  問題へ

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ3】
 この問題は、
クイズ012・013の続きです。
 まだそちらをご覧になっていない方は、問題へ戻って、そちらを先にご覧ください。

【次の順に説明します】

正解、教科書はこんなに変化しました。

なぜそんなに変わったのか。


正解、教科書はこんなに変化しました。               このページの先頭へ

1989(平成元)年版の教科書「弥生時代」 (1987年文部省検定済

「 日本列島で数千年にわたって縄文文化がつづいている間、中国大陸では、紀元前5000〜4000年ころ、黄河中流域で畑作がおこり、長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり農耕社会が成立した。紀元前6世紀ころには、青銅器にかわって鉄器も実用化されはじめた。そして諸国の抗争のなかから、紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強大な統一国家があらわれ、その文化は周辺諸民族に普及した。

 日本でもこのような大陸状勢の影響をうけて、
紀元前3世紀ころ、九州北部に新しい文化がおこり、農耕社会が成立した。新文化は、水稲農業と金属器の使用を特徴とし、またこれまでの縄文土器にかわって、弥生土器とよばれる薄手で赤褐色の土器が使用された。この文化を弥生文化とよび、紀元3世紀ころまでつづいた。(中略)

 水稲農業は弥生時代前期に九州北部ではじまり、1
00年とたたないうちに西日本一帯に広がって伊勢湾沿岸にまでおよび、中期には関東地方、後期には東北地方にまで達した。」

  井上光貞・笠原一男・児玉幸多他著『新詳説 日本史』(山川出版 1989年)P14


1993(平成5)年版の教科書「弥生時代」 (1991年改訂検定済)

「 日本列島で数千年にわたって縄文文化がつづいている間、中国大陸では、紀元前5000〜4000年ころ、黄河中流域で畑作がおこり、長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり農耕社会が成立した。紀元前6世紀ころには、青銅器にかわって鉄器も実用化されはじめた。そして諸国の抗争のなかから、紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強大な統一国家があらわれ、その文化は周辺諸民族に普及した。

 日本でもこのような大陸状勢の影響をうけて、
紀元前4世紀ころ、九州北部に新しい文化がおこり、農耕社会が成立した。新文化は、水稲農業と金属器の使用を特徴とし、またこれまでの縄文土器にかわって、弥生土器とよばれる薄手で赤褐色の土器が使用された。この文化を弥生文化とよび、紀元3世紀ころまでつづいた。(中略)

 水稲農業は
紀元前4世紀ころに九州北部ではじまり、100年とたたないうちに西日本一帯に広がって伊勢湾沿岸にまでおよび、前期のおわりころには東北地方北端にまで達した。」

  井上光貞・笠原一男・児玉幸多他著『新詳説 日本史』(山川出版 1993年)P14


1999(平成11)年版の教科書「弥生時代」  (1997年改訂検定済)

「 日本列島で1万年近くも縄文文化がつづいているあいだに、中国大陸では紀元前6000〜5000年ころ、北の黄河中流域ではアワやキビなどの農耕がおこり、南の長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり、農耕社会が成立した。さらに紀元前6世紀ころから鉄器の使用がはじまり、農業生産も著しく発展した。こうした生産力の発展にともなって戦国時代には諸国があい争い、やがて紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強力な統一国家が出現した。こうした中国大陸における争乱から統一への動きは、周辺民族に強い影響をおよぼすようになり、その影響は朝鮮半島をへて日本列島にもおよぶのである。

 
紀元前5〜4世紀と想定される縄文時代の終りころ、朝鮮半島に近い九州北部で水田稲作農耕が開始された。短期間の試行段階をへて、紀元前3世紀初めころには、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立し、やがて東日本にも広まった。こうして北海道と南西諸島をのぞく日本列島の大部分の地域は、食料採取の段階から食料生産の段階へとはいった。この紀元前3世紀から紀元3世紀の時期を弥生時代とよんでいる。」

  石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史【改訂版】』(山川出版 1999年)P15


2004(平成16)年版の教科書「弥生時代」 (2002年文部科学省検定済)

「 日本列島で1万年近くも縄文文化がつづいているあいだに、中国大陸では紀元前6500〜5500年ころ、北の黄河中流域ではアワやキビなどの農耕がおこり、南の長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり、農耕社会が成立した。さらに紀元前6世紀ころから鉄器の使用がはじまり、春秋・戦国時代には農業生産も著しく進み、こうした生産力の発展にともなって、やがて紀元前3世紀には秦・漢(前漢)という強力な統一国家が形成された。こうした動きは、周辺民族に強い影響をおよぼし、朝鮮半島をへて日本列島にも波及したのである。

 
紀元前5世紀前後と想定される縄文時代の終りころ、朝鮮半島に近い九州北部で水田稲作農耕が開始された。短期間の試行段階をへて、紀元前4世紀初めごろには、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立し、やがて東日本にも広まった。こうして北海道と南西諸島をのぞく日本列島の大部分の地域は、食料採取の段階から食料生産の段階へと入った。この紀元前4世紀ごろから紀元3世紀の時期を弥生時代とよんでいる。」

  石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9


 水田稲作農耕は、その伝来がどんどん早くなり、今では、
紀元前5世紀前後となっています。そして、弥生時代のはじまりそのものも、紀元前4世紀ごろと早くなりました。

 しかも、その間に、
試行段階という、水田稲作農耕の「お試し期間」まで設定されています。(ここでクーリングオフをしていたら、弥生時代はありませんでした。(^_^))


なぜそんなに変わったのか。                     このページの先頭へ

 教科書ABCDの「弥生時代」をまとめると、次のようになります。 



 どうして、弥生時代はこんなに、どんどん前に前に進んでいったのでしょうか。
 それは、次々と
新発見がなされたからに他なりません。

水田や稲に関する新しい発見

1978年

福岡県の板付遺跡(いたづけ)(当時の弥生時代前期初め=紀元前3世初めの遺跡)で、これまでの水田跡の40センチ下の地層から、さらに古い水田跡が発見される。

1980年

福岡県の曲り田遺跡(まがりた)から、縄文時代晩期の竪穴住居が多数発見され、その中から多数のモミが発見される。

1981年

佐賀県菜畑遺跡(なばたけ)の縄文時代晩期の地層から水田跡が検出される。紀元前5世紀ころの水田跡と推定された。

1985年

大阪府茨木市牟礼遺跡(むれ)で、紀元前4世紀のものとされる幅6〜7mの水路と井堰と取水口が発掘された。発掘面積が狭いため、水田跡は発見されなかったが、近くに水田跡があることが確実視される。

1986年

岡山県岡山市江道遺跡(えどう)で、紀元前4世紀の水田跡などが発見される。

1992年

以前から、九州では縄文土器の中に稲のモミの圧痕(モミが押しつけられた痕跡)があるものが発見されていたが、新たに岡山県総社市の南溝手遺跡(みなみみぞて)で、縄文時代後期末の形式の土器にモミの圧痕が発見された。、

  ※寺沢薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)P22−24


 これらの結果、以前の「紀元前3世紀初めころ水稲農業が伝わり、弥生時代が成立した」という説明は改められ、次のようになったのです。

 

水稲耕作の伝来と弥生文化

遅くとも紀元前5世紀には、水稲稲作農耕が中国長江下流域から朝鮮半島南部を経由して九州北部に伝わり、各地に伝播。「短期間の試行段階」で、西日本院定着。
紀元前4世紀初めころには、西日本に水稲農業と弥生式土器を作る文化、弥生文化が成立。


補足「研究の水準と教科書の記述の変更」

 当たり前のことですが、歴史学や考古学の研究の成果が進んでも、それが教科書の記述の変更に結びつくのにjは、相当な時間がかかります。言い換えれば、学会の研究レベルと、教科書の記載レベルには、相当な時間差タイムラグがあるということです。
 上表の場合、福岡県板付遺跡の「古い水田跡」の発見は、1978年のことです。しかし、この発見は新聞紙上には報道されましたが、すぐには教科書の記載の変更にはつながりません。
 そこからはじまった、「これまでの通説よりもっと前から水田稲作農業が行われていたのではないか」という疑問は、新しい遺跡の発見と研究の進展によって明らかとなっていき、ようやく、1993年の教科書に反映されたわけです。
 
板付での最初の発見から、15年がかかっています。
 
 また、クイズ112で比較した、縄文時代の生活に関する教科書の記述の場合においても、縄文時代の日本を、東西の樹林相の相違という視点で説明する記述は、1999年版の教科書で初めて登場しました。
 これは、中尾佐助氏や佐々木高明氏らを中心とする、照葉樹林文化とナラ林文化の研究の水準を反映したものですが、これも、教科書に登場するまでにはずいぶんの時間がかかりました。

 
中尾氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店)を発刊し、「照葉樹林文化」を提唱したのは、1966年のことです。私が、大学生になって初めて日本史の研究者の初歩の初歩を歩みはじめたことに発刊された、直木孝次郎著『日本の歴史1 倭国の誕生』(小学館 1973年)には、すでに「照葉樹林文化」という項目が設けられ次のように説明されています。

「以上が私の理解する照葉樹林文化論のあらましである。これを縄文時代にあてはめて考えると、日本文化に造詣の深い哲学者上山春平氏が論じたように、縄文時代の中期は半栽培の前期複合の段階、晩期には焼畑農耕のおこなわれる照葉樹林文化複合の段階にはいるのではないかと思われる。もちろんこの推定も、十分な証拠があるとはいえない。とくに縄文中期の半栽培についてはそうである。しかし縄文晩期の農耕については、別府大学の賀川光夫氏らが精力的に研究をすすめており、また文化地理学の佐々木高明氏も中尾学説を手がかりとして、その上に独自の研究をつみかさね、縄文後・晩期の西日本に焼畑農耕文化の存在したことを推定している。
晩期の西日本に農耕がおこなわれたという学説は、有力になりつつあるといってよかろう。
 (直木孝次郎前掲書 P112−113)

 この小学館の「日本の歴史」全32巻は、私が教師になった(1977年初任)時点で、授業の研究用に一生懸命に読んだ本ですから記憶に残っています。この本で勉強したことを、1年目の日本史の授業で説明し、「今の教科書には書いてないが、将来の教科書には、「照葉樹林文化」という言葉が掲載されると思う。」といいました。

 教科書に照葉樹林という記述が登場したのは、1999年版のことですから、教師になって、23年目ということになります。中尾氏が初めて提唱してから、33年後のことです。
 随分時間がかかります。

 最近は、考古学的発見についてのマスコミの報道も随分派手になっていますから、「登場」から教科書や補助教材の資料集への記載までのタイムラグは、もっと短い時間となってきつつあります。
 
 しかし、あまり早いのも、また危険です。
 旧石器時代の「捏造事件」を現実に経験している学界としては、慎重さもまた重要でしょう。
  (「旧石器捏造」については、クイズ011にあります。)


 さて、みなさん、これで安心しては行けません。何か説明が足らないと思いませんか?

 そうです、上の教科書D(図D)の説明はうまくできたと思いますが、上表の「発見」の
1992年モミ圧痕の説明はできていません。

 それから、クイズ113の中で引用した教科書の縄文時代の記述の中に、実は、見落としてはいけない、一言がありました。
 もう一度引用します。どの部分かわかりますか?

2004(平成16)年版の教科書「縄文時代」

「今からおよそ1万年余り前の完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇して日本列島も大陸と切り離されて、現在に近い自然環境となった。植物も亜寒帯性の針葉樹林に代わり、東日本にはブナやナラの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。また、動物も、大型動物は絶滅し、動きのはやいニホンシカとイノシシなどが多くなった。(中略)

 縄文時代の人々は、新しい環境に対応した。とくに植物性食料は重要で、
前期以降にはクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどを採取するばかりではなく、クリ林の管理・増殖ヤマイモなどの半栽培、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい。また一部にコメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘されているが、本格的な農耕の段階には達していなかった。土掘り用の打製の石鍬、木の実をすりつぶす石皿やすり石なども数多く出土している。
 狩猟には弓矢が使用され、落とし穴などもさかんに利用され、狩猟の主な対象はニホンシカとイノシシであった。また、海面が上昇する海進の結果、日本列島は入り江の多い島国になり、漁労の発達をうながした。今も各地に数多く残る縄文時代の貝塚からわかる。釣針・銛・やすなどの骨角器とともに石錘・土錘がみられることは、網を使用した漁法もさかんにおこなわれたことを示している。」

  石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9

 
 そうです。赤い太字の最後の部分に、「一部にコメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘」とあります。
 この、コメというのは何でしょうか?

 
弥生時代=コメ、という単純な図式は、現代の高校日本史の教科書では、すでに完全にくずれ、縄文時代にも「コメ」が登場するのです。一体どうなっているのでしょうか?

 次の 【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ4】 では、それをクイズにします。
 また、ずっと後回しにしてきました、
照葉樹林文化について考えます。

 ※一度問題編に戻ってください。こちらです。


このテーマ以外に、次の項目でも、日本の地域性・東西の差について触れています。
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるT 「現代日本人のルーツ」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるV 「酒に強い人弱い人」の東西分布
「クイズ日本史原始〜古墳時代編」へ・・・あなたの縄文人度・弥生人度をテストします
目から鱗 日本の東西文化の比較1 味 「日清のどん兵衛きつねうどんの東西比較」