さて、授業での発問では、東西のどちらが人口が多いかという答えを求めるだけでは、不十分です。それだけでは、その判断の背景が分かりません。
また、生徒諸君は次のような勘違いをしている場合が多いです。
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江戸時代以前は日本の政治・経済の中心は西日本であり、人口も西日本が多いと思う。 |
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今と同じ東京がある東日本が人口が多いと思る。 |
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古い時代は、文化は朝鮮半島を通じて入ってくるのだから、文化の中心(=人口が多い)のは、西日本だと思う。 |
このクイズを考えていただいた皆さんは、いかがでしたか。上記の誤答を思い浮かばれた方も多かったと思います。
こういう誤解、錯覚、思いこみをネタにしないと、思考は深まりません。こういう誤答があってこそ、なぜ、東日本が人口が多いのか、その理由の説明の意味が高まります。
では、縄文時代に、東日本の方が西日本より人口維持力が高かった理由は何でしょうか。もちろん、東の方が、食料が豊富だったからなのですが、ではどういう食料なのでしょうか。また、そういう差を生む出す自然環境の違いとは、何だったでしょうか?
本題に入る前に、 縄文時代の自然環境や生活について、高校の日本史の教科書が15年前と今とでは、その記述が大きく変化したことを説明します。
歴史の教科書というのは、そうころころと変わるわけではありません。しかし、縄文だ時代については、新しい発見や研究の進展によって、ずいぶん変わりました。
A |
1989(平成元)年版の教科書「縄文時代」 |
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「今から約1万年前に氷河の時代は終わり、気候も温暖となり、氷河がとけて海面が上昇してきた。このころ日本列島は完全に大陸と切り離され、今日とほぼ同じ自然環境になった。この時期を地質学では沖積世とよんでいる。植物は針葉樹林にかわって、くるみ・栗などの落葉広葉樹林となり、動物も象や大鹿などの大型の動物が姿を消し、鹿・猪・兎などの中小動物がふえてきた。(中略)
この時代には食料獲得の技術も進歩し、人々は弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物をとらえた。水辺では貝をとったり、丸木船を使い、釣針や銛・やすなどの骨角器を用いて魚をとった。また土錘や石錘が発見されていることから、網を使用した漁法も行われていたことがわかる。そして、栗やくるみやなども木の実を採集したり、打製石斧で山いもなどの球根類を掘り出し、石皿やすり石でこれらを加工して食べていた。」 |
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井上光貞・笠原一男・児玉幸多他著『新詳説日本史』(山川出版 1989年)P10−13 |
B |
1999(平成11)年版の教科書「縄文時代」 |
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「今からおよそ1万年余り前、完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇して日本列島も大陸と切り離されて、現在に近い自然環境となった。植物相も亜寒帯性の針葉樹林にかわり、東日本にはブナやナラの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。また、動物相も、大型獣は絶滅し、かわりに動きのはやいニホンシカとイノシシなどが多くなった。(中略)
約1万年にもおよぶ縄文文化の時代には、人びとは狩猟・漁労・植物性植物の採取の生活に明けくれた。狩猟は、弓矢のほか、落とし穴などもさかんに利用され、狩猟のおもな対象はシカとイノシシであった。いっぽう海進の結果、日本列島が入り江の多い島国になっtことは、漁労の発達をうながした。今も各地に数多く残る縄文時代の貝塚は、このことを物語る。釣針・銛・やすなどの骨角器とともに石錘・土錘がみられることは、網を使用した漁法もさかんにおこなわれたことを示している。(中略)
彼らの生業のなかで、狩猟や漁労にもおとらず重要な位置を占めたのは、植物性食料の採取活動であった。クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどが食料とされた。土掘用の打製の石鍬、木の実をすりつぶす石皿やすり石なども数多く出土している。
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石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9 |
これに対して現在の教科書の記述は、次のようになっています。
C |
2004(平成16)年版の教科書「縄文時代」 |
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「今からおよそ1万年余り前の完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇して日本列島も大陸と切り離されて、現在に近い自然環境となった。植物も亜寒帯性の針葉樹林に代わり、東日本にはブナやナラの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。また、動物も、大型動物は絶滅し、動きのはやいニホンシカとイノシシなどが多くなった。(中略)
縄文時代の人々は、新しい環境に対応した。とくに植物性食料は重要で、前期以降にはクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどを採取するばかりではなく、クリ林の管理・増殖、ヤマイモなどの半栽培、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい。また一部にコメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘されているが、本格的な農耕の段階には達していなかった。土掘り用の打製の石鍬、木の実をすりつぶす石皿やすり石なども数多く出土している。
狩猟には弓矢が使用され、落とし穴などもさかんに利用され、狩猟の主な対象はニホンシカとイノシシであった。また、海面が上昇する海進の結果、日本列島は入り江の多い島国になり、漁労の発達をうながした。今も各地に数多く残る縄文時代の貝塚からわかる。釣針・銛・やすなどの骨角器とともに石錘・土錘がみられることは、網を使用した漁法もさかんにおこなわれたことを示している。」 |
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石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9 |
1999年の教科書Bでは、
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樹林相の表現が、東の落葉広葉樹林と西の照葉樹林と地域別に
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クリ・クルミに加えて、トチ・ドングリ |
が追加されました。
さらに、2004年の教科書Cでは、
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クリ林の管理・増殖
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ヤマイモなどの半栽培 |
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マメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培 |
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コメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘 |
つまり、縄文時代人が、植物については単なる採集だけではなく、栽培や管理を行っていた可能性が指摘されています。
ということは、20代後半以上の方が学習された「縄文時代」像と、今の高校生が学習するそれは、ずいぶん異なっていることになります。この辺の所の説明も必要ですね。
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