原始〜古墳時代3
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<解説編>
 

012 縄文時代、東日本と西日本とではどちらが人口が多かったでしょうか?              問題へ

【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ1
 そう広くない日本列島でも、各地域ごとの文化の独自性には、大変興味をそそられます。
 高校の日本史の学習内容にも、東日本の文化と西日本の文化の相違という大きな枠組みのものをはじめとして、列島の地域性をテーマとするものがたくさん設定できます。

 平成15年からの学習指導要領では、課題追究学習の重要性が改めて強調されたため、各教科書は、日本列島の地域的差違を主題学習のテーマとして記載するものが増えました。

 しかし、ただ漠然と教科書に記載されているだけでは、おそらくは学習にはなりません。
 生徒の思考の中に、
「文化の地域性による相違」という視点を植え付けるためには、授業中のテーマ設定(発問)やそれに基づく学習活動など、たんに、「教科書読んどけ」を越える何かがないといけません。

 ここでは、【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ1〜5 で具体的に、その素材を提供します。

生徒諸君が自分の中に新しい視点を自主的にもってくれるようにするには、たった一つのことからでは無理かもしれません。
手を変え品を変え、いろいろな素材を提供しなければならないと思います。


このテーマ以外に、次の項目でも、日本の地域性に触れています。
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるT 「現代日本人のルーツ」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるV 「酒に強い人弱い人」の東西分布
「クイズ日本史原始〜古墳時代編」005・・・あなたの縄文人度・弥生人度をテストします
目から鱗 日本の東西文化の比較1 味 「日清のどん兵衛きつねうどんの東西比較」


【次の順に説明します】

正解、縄文時代の日本の人口多いのは東?西?

縄文時代の人口の変化

なぜ格差がうまれたか−ずいぶん変わった教科書の記述−


正解、縄文時代の日本の人口多いのは東?西?     このページの先頭へ

 下に、縄文時代(通常は、早期・前期・中期・後期・晩期の5期に区分)と弥生時代の人口の分布を図示しました。人口密度によって、色分けがされています。これを見れば、人口が多いのは東日本か西日本か、一目瞭然です。


 この縄文時代の人口分布は、小山修三著『縄文時代−コンピュータ考古学による復元』(中公新書 1984年)のP31に掲載されたデータをもとに作製しました。
 小山氏の著書を解説した、佐々木高明著『集英社版日本の歴史@ 日本史誕生』(集英社 1991年)P210−216も参考にしました。
 以下の記述の数値データについても同じです。
 


 正解、縄文時代の人口は、東日本の方が圧倒的に多かったのです。

 ただし、その格差は、時代によって異なります。
 縄文時代で最も人口が多かった中期では、
関東地方の人口密度が10平方kmあたり298人であったのに対し、西日本は、九州の13を除いてはすべて一けた台です。

 中期の人口は、
東日本の25万1800人対し、西日本は、総計でわずか9500人(全体の3.6%)しかありませんでした。(推定全国人口は、26万1300人
 
東対西は、96.4:3.6という圧倒的な格差でした。

 細かい話ですが、上表では、全国規模で「面積100平方kmあたりの人口密度」が算出されています。この計算の場合の日本の国土は、現在と違って、北海道と沖縄の面積を除外して計算しています。


 上の表では、縄文弥生時代の人口の密度を示す数字として、100平方kmあたりの人口を使っています。(通常は1平方km)
 
100平方kmというのはどれぐらいの広さなのでしょう。
 面積とか体積とかの説明では、多くの場合説明者はその広さや量が概ね分かっていても、説明される方はまったく分からずただ数字として聞いている場合が多くあります。
 この場合も、何も説明しないとそうなります。そこで、わが岐阜市の場合を例に、100平方kmを実際に示してみたのが左の航空写真地図です。
 赤線で囲まれたエリアが、
100平方km、つまり、1辺が10kmの正方形のエリアです。

 上記のデータを使うと、縄文時代で最も人口密度が高かった縄文中期の美濃地方は、この中に、240人がいたことになります。
 現代では、私も含めて20数万人が住んでいます。

この地図は、いつもの、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の衛星写真を使って作ってみました。  


縄文時代の人口の変化                       このページの先頭へ

 上の表でも分かるように、縄文時代の人口は、中期が最高で、後期になると人口減少に転じ、晩期には、中期の30%程に落ち込んでしまいます。

 この理由は、
気温の冷涼化によるものです。
 実は、縄文時代の気候は、縄文早期の終わりか縄文前期のはじめ頃に当たる、
今から6500年から6000年前ぐらいが、最も温暖でした。もちろん日本だけでなく全世界的に温暖な気候となっており、現在より東日本では2度ほど気温が高かったと推定されています。

 したがって、この時は海面が今より内陸部まで広がっており、関東地方では、千葉県の内陸部など現在の海岸よりはるかに内陸で貝塚が見つかっています。
 この時代の海水面が高い状態を、
縄文海進と呼んでいます。

 ところが、
その後は次第に気温が下がりはじめます。
 さがりはじめてから最初の2000年間(前期の1000年間、中期の1000年間)は、人びとの生活に大きな影響はもたらしませんでした。
 しかし、今から4000年前以降、縄文後期・晩期になると、気候の冷涼化の影響が出て、食糧確保が難しくなり、人口が減少していったというわけです。

 もちろん、水稲耕作の技術がもたらされ全国に広がっていく
弥生時代には、総人口は再び急激に増加しはじめます。




 ところで、この「東・西どっちが人口が多い」の質問を授業ですると、常識ある生徒から次のような質問が出ます。

生徒

「先生、縄文時代の人口って、まだ戸籍も何にもないんでしょ。そんなの正確にわかる?」

「もちろん、戸籍なんかない。」

生徒

「じゃ、どうやって計算したの?」

「インチキや、いい加減な数字ではない。ちゃんと科学的に計算されて数字だ。」

生徒

「わかった、発掘された骨の数だ。」

「発掘の成果だけではなく、コンピュータを使ったシミレーション利用されている。」

生徒

「へー、なかなかのもんだね。」


 そのなかなかことを研究され論文を書かれたのは、現在は
国立民族学博物館の名誉教授の小山修三氏です。
 もともと、縄文時代の人口という話は、戦前からの考古学の大家の
山内清男先生(1902年生-1970年没)が初めて提唱されたものです。山内先生は、膨大な量の縄文時代の遺跡の研究の経験から、縄文時代の総人口を25万人と推定されました。(その後、アメリカ・インディアンの遺跡との比較から30万人に修正)

 これに対して、小山修三氏は、次の方法で、縄文時代の人工を推定しました。

T

縄文時代の各時期の遺跡数を東北〜九州の9地域ごとに集計する。

U

各地域ごとの人口数値で信頼できる数値とされている奈良時代(8世紀)の人口数値を計算の元にする。奈良時代の人口は、540万人

V

たとえば、関東地方の奈良時代の遺跡数5495カ所、人口94万人の基準的な遺跡から、一つの遺跡の収容可能人口を1人/坪で確定する。(1遺跡あたりの人口は170人)

W

同じように、縄文時代・弥生時代の関東地方の基準遺跡を1つ決め、「V」の数値との住居面積比から、対奈良時代の人口比率を算定する。1遺跡あたり24人。

X

縄文時代各時期の各地方の1974年までの発見遺跡数に、「W」の24人をかけ算して、各時代ごと各地域ごとの推定人口を算出。


 つまり、
人口が比較的把握されている奈良時代の人口を元に、遺跡の人口収容能力と、遺跡数から、各時代の人口を算出したわけです。

 奈良時代の人口を最初に推定したのは、数学者の沢田吾一氏です。
1927年刊行の『奈良町時代民政経済の数的研究』(冨山房)で、『
和名類聚鈔』(わみょうるいじゅうしょう 10世紀成立の日本最初の分類体百科事典)の中に示された、全国の郷の数、一郷に含まれる戸の数、一戸に含まれる平均人口から、奈良時代の総人口を560万人と推定。

 それ以後長く傍証はされてきませんでしたが、1985年の茨城県立歴史館の報告によれば、同県の鹿ノ子C遺跡の発掘調査で発見された
漆紙文書(漆は壷に入れられて保存されたが、気化・乾燥を防ぐために古紙を坪口に被せて坪の首の部分をヒモで縛ってを蓋していた。その古紙は、漆を吸って、ぱりぱりの状態となり、その後埋没しても消滅せずに残る。)の中に、延歴年間(800年前後)の常陸の国(茨城県)の人口総数の記録があり、それが、沢田氏の推定とほとんど変わらないことから、事実に近い数字と期待されています。
 

以上の沢田氏に関する記述は、次の資料を参考まとめました。
速水融「人口誌(Demography)」『岩波講座日本通史 第1巻日本列島と人類社会』(岩波書店 1993年)P121


 小山氏も自身述べているように、もともとの推定値の算出方法や、遺跡発見数が、当時の実態を示しているかどうかなど曖昧な点があるため、各地域ごと時代ごとの人数は、絶対的に信頼が置けるかどうかと言えば、そういうものではありません。

 しかし、東西の人口比較など、大まかな傾向を見るのに使う数字としては、意味があると思われます


なぜ格差が生まれたか−ずいぶん変わった教科書の記述−  このページの先頭へ

 
 さて、授業での発問では、東西のどちらが人口が多いかという答えを求めるだけでは、不十分です。それだけでは、その判断の背景が分かりません。

 また、生徒諸君は次のような勘違いをしている場合が多いです。

江戸時代以前は日本の政治・経済の中心は西日本であり、人口も西日本が多いと思う。

今と同じ東京がある東日本が人口が多いと思る。

古い時代は、文化は朝鮮半島を通じて入ってくるのだから、文化の中心(=人口が多い)のは、西日本だと思う。


 このクイズを考えていただいた皆さんは、いかがでしたか。上記の誤答を思い浮かばれた方も多かったと思います。

 こういう誤解、錯覚、思いこみをネタにしないと、思考は深まりません。こういう誤答があってこそ、なぜ、東日本が人口が多いのか、その理由の説明の意味が高まります。
 
 では、
縄文時代に、東日本の方が西日本より人口維持力が高かった理由は何でしょうか。もちろん、東の方が、食料が豊富だったからなのですが、ではどういう食料なのでしょうか。また、そういう差を生む出す自然環境の違いとは、何だったでしょうか?
 
 本題に入る前に、 縄文時代の自然環境や生活について、高校の日本史の教科書が15年前と今とでは、その記述が大きく変化したことを説明します。
 歴史の教科書というのは、そうころころと変わるわけではありません。しかし、縄文だ時代については、新しい発見や研究の進展によって、ずいぶん変わりました。

1989(平成元)年版の教科書「縄文時代」

「今から約1万年前に氷河の時代は終わり、気候も温暖となり、氷河がとけて海面が上昇してきた。このころ日本列島は完全に大陸と切り離され、今日とほぼ同じ自然環境になった。この時期を地質学では沖積世とよんでいる。植物は針葉樹林にかわって、くるみ・栗などの落葉広葉樹林となり、動物も象や大鹿などの大型の動物が姿を消し、鹿・猪・兎などの中小動物がふえてきた。(中略)

 この時代には食料獲得の技術も進歩し、人々は弓矢や石槍・落とし穴などを用いて
動物をとらえた水辺では貝をとったり、丸木船を使い、釣針や銛・やすなどの骨角器を用いて魚をとった。また土錘や石錘が発見されていることから、網を使用した漁法も行われていたことがわかる。そして、くるみやなども木の実を採集したり、打製石斧で山いもなどの球根類を掘り出し、石皿やすり石でこれらを加工して食べていた。」

  井上光貞・笠原一男・児玉幸多他著『新詳説日本史』(山川出版 1989年)P10−13

 

1999(平成11)年版の教科書「縄文時代」

「今からおよそ1万年余り前、完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇して日本列島も大陸と切り離されて、現在に近い自然環境となった。植物相も亜寒帯性の針葉樹林にかわり、東日本にはブナやナラの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。また、動物相も、大型獣は絶滅し、かわりに動きのはやいニホンシカとイノシシなどが多くなった。(中略)

 約1万年にもおよぶ縄文文化の時代には、人びとは狩猟・漁労・植物性植物の採取の生活に明けくれた。狩猟は、弓矢のほか、落とし穴などもさかんに利用され、狩猟のおもな対象はシカとイノシシであった。いっぽう海進の結果、日本列島が入り江の多い島国になっtことは、漁労の発達をうながした。今も各地に数多く残る縄文時代の貝塚は、このことを物語る。釣針・銛・やすなどの骨角器とともに石錘・土錘がみられることは、網を使用した漁法もさかんにおこなわれたことを示している。(中略)

 彼らの生業のなかで、狩猟や漁労にもおとらず重要な位置を占めたのは、
植物性食料の採取活動であった。クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどが食料とされた。土掘用の打製の石鍬、木の実をすりつぶす石皿やすり石なども数多く出土している。

  石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9

 
 

これに対して現在の教科書の記述は、次のようになっています。

2004(平成16)年版の教科書「縄文時代」

「今からおよそ1万年余り前の完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇して日本列島も大陸と切り離されて、現在に近い自然環境となった。植物も亜寒帯性の針葉樹林に代わり、東日本にはブナやナラの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。また、動物も、大型動物は絶滅し、動きのはやいニホンシカとイノシシなどが多くなった。(中略)

 縄文時代の人々は、新しい環境に対応した。とくに植物性食料は重要で、
前期以降にはクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどを採取するばかりではなく、クリ林の管理・増殖ヤマイモなどの半栽培、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい。また一部にコメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘されているが、本格的な農耕の段階には達していなかった。土掘り用の打製の石鍬、木の実をすりつぶす石皿やすり石なども数多く出土している。
 狩猟には弓矢が使用され、落とし穴などもさかんに利用され、狩猟の主な対象はニホンシカとイノシシであった。また、海面が上昇する海進の結果、日本列島は入り江の多い島国になり、漁労の発達をうながした。今も各地に数多く残る縄文時代の貝塚からわかる。釣針・銛・やすなどの骨角器とともに石錘・土錘がみられることは、網を使用した漁法もさかんにおこなわれたことを示している。」

  石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P7−9

 

 1999年の教科書Bでは、

樹林相の表現が、東の落葉広葉樹林と西の照葉樹林と地域別に

クリ・クルミに加えて、トチ・ドングリ 

が追加されました。
 さらに、2004年の教科書Cでは、

クリ林の管理・増殖

ヤマイモなどの半栽培 
 ・ マメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培 
 ・ コメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘 

 つまり、縄文時代人が、植物については単なる採集だけではなく、栽培や管理を行っていた可能性が指摘されています。
 ということは、20代後半以上の方が学習された「縄文時代」像と、今の高校生が学習するそれは、ずいぶん異なっていることになります。この辺の所の説明も必要ですね。 


次の 【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ2 では、「東西の人口の違いを生んだ、東西の食料の違い」について考えます。

 「
縄文時代、東日本の方が人口維持力が高かった理由は何でしょうか?」です。

 その説明の中で、
照葉樹林文化とナラ林文化について説明します。
  ※一度問題編に戻ってください。こちらです。