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戦跡を訪ねて 12/09/10記述 12/09/11修正 12/09/16再修正 |先頭へ| |
今回の旅行でも、各地の戦跡を訪ねました。 |
特攻基地 知覧 | 先頭へ | |
まずは太平洋戦争の戦跡です。 |
写真03-01 知覧特攻平和会館(撮影日 12/08/05) |
写真03-02 特攻勇姿の像 (撮影日 12/08/05) |
左:知覧町では、1955(昭和30)年に特攻平和観音堂を建立するなど特攻作戦を伝えるための努力をしてきました。1975(昭和50)年には知覧特攻遺品館を開設し、さらに、1986(昭和61)年には、現在の新館が建設されました。4,500点の遺品が展示されているとのことですが、その多くは、初代館長の板津忠正氏が収集されました。 |
写真03-03 母の像 (撮影日 12/08/05) |
写真03-04 戦闘機隼レプリカ(撮影日 12/08/05) |
左:勇姿の像のそばにある母の像、「やすらかに」。「母とともに安らかに 母の温かい胸で 御霊の安らかならんことと 世界・平和を祈念して」 |
私は「特攻」に関しては、近現代史を専攻した地歴公民科の教師として、これまでのいろいろなところで向き合ってきました。たまたま、知覧を舞台にした映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」(監督 新城卓)も見ました。その時の日記に、特攻とどう向き合うかについての自分の思いは書いていますので、ここではくり返しません。 |
写真03-05・06 杉林の中に、三角兵舎が復元されていました(撮影日 12/08/05) |
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知覧基地は、特攻のための訓練をする基地ではありません。特攻隊員は、日本全土の各基地で編成され訓練を受けて、最終的な出発地である知覧へ集結してくるわけです。したがって、最後の出撃命令まで、特攻隊員が知覧基地で過ごす時間はそう長くはありません。最短の場合、到着した直ぐ翌日に出撃という場合もありました。 |
写真03-07 三角兵舎内部 (撮影日 12/08/05) |
写真03-08 飛行機の部品(撮影日 12/08/05) |
いくら、戦争末期の資材不足の折とはいえ、いかにも粗末な兵舎です。日本軍の発想には、消耗品である兵士の居住空間に手厚い配慮をするという考え方はありませんでした。 |
知覧特攻平和会館の入館者は、2009年8月にその累計が1500万人を突破し、毎年70万人前後の入館者を記録しています。 |
特攻で散華した若者たちの思いを大切にしなければなりません。 |
鹿児島市内の戦跡1 薩英戦争 | 先頭へ | |
明治維新前後、鹿児島は二つの戦争を経験します。1863年の薩英戦争と1877年の西南戦争です。 |
写真03-09・10 薩英戦争のメモリアル (撮影日 12/08/06) |
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1863(文久3)年8月15日・16日(7月2日・3日、旧暦)に行われた薩英戦争は、イギリス艦隊7隻と薩摩側砲台との間の砲撃戦に終始したため、世に有名な戦いの割には、両軍の死傷者は、少なくすんでいます。薩摩側死傷者18名、イギリス艦隊側死傷者63名でした。 |
上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、鹿児島錦江湾中央部の地図です。 |
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写真03-11 錦江湾と噴煙(灰)にかすむ桜島 (撮影日 12/08/05) |
鹿児島中央駅横のアミュ・プラザ屋上の観覧車からの撮影です。夏は、桜島の噴煙が鹿児島市内側にふりかかかる風向きの場合が多くなります。 |
訪問したのは、薩摩藩が構築した市街地側の6基の砲台のうち、一番北の祇園之洲(ぎおんのす、表記には「祇園洲」と「之」を書かない場合もある)砲台跡と一番南の天保山(てんぽうざん)砲台跡です。 |
天保山砲台 |
写真03-12・13 砲台石組みと表示板・説明板 (撮影日 12/08/05) |
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この砲台あとも現在の海岸線からずいぶん離れ、海はマンションに隠れて見えません。 |
写真03-14・15 左写真の右側が当時の海岸です。 右写真は調所広郷像 (撮影日 12/08/06) |
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甲突川(こうつきがわ)の河口に当たるこの場所は、以前は河口部分の海でした。しかし、甲突川の度重なる洪水によって河口部に土砂が堆積し、それを浚渫した砂泥を捨てる場所がやがて陸地化していきました。天保年間に山のような陸地となった場所ということで、天保山と名付けられました。 |
祇園洲砲台 |
写真03-12 海側から見た砲台 (撮影日 12/08/05) |
写真03-13 「𦾔薩藩砲台跡 (撮影日 12/08/06) |
写真03-14 砲台北側 (撮影日 12/08/06) |
写真03-15 砲台南側 (撮影日 12/08/06) |
この地域は近くにある祇園社(八坂神社)に因んで、祇園浜と呼ばれていました。第27代藩主斉興の元で藩政改革を推進した調所広郷(ずしょひろさと)によって、兵士の屯集所とするため、埋め立てが行われました。 |
その後、1851年に第28代藩主となった斉彬によって、祇園之洲に砲台が設置されました。 |
海岸砲台に90門以上の大砲を並べた薩摩藩に対し、イギリス艦隊も7隻合計90門の大砲を搭載していました。
砲数から見ると同じ戦力になりますが、日本の大砲が円弾の前装滑空砲(火薬が詰まってない鉄の円形弾、陸上競技の砲丸のようなものを前から砲身に詰めて射撃する)であったのに対して、イギリス軍には最新式のアームストロング砲(長弾後装式施条砲、火薬を詰めた椎の実型砲弾をライフルを刻んだ砲身に後から装填して射撃する)を多数装備しており、実際の戦力はイギリス軍が圧倒的に強力でした。砲弾の射程距離も、薩摩1km程度に対し、英軍は3・4kmでした。 |
戦跡とは直接関係はありませんが、砲台跡のある祇園之洲公園と、隣の石橋記念公園には、立派な石橋があります。 |
写真03-20 西田橋 (撮影日 12/08/06) |
写真03-21 玉江橋 (撮影日 12/08/06) |
5橋とも1840年代の藩主斉興時代に築造されました。1993(平成5)年の鹿児島大水害で、5橋のうち2橋(新上橋・武之橋)が流され、その後、歴史的建築物を公園に保存することになり、2000(平成12)年に、残る3橋(西田橋・玉江橋・高麗橋)が祇園之洲公園と石橋記念公園に移設されました。 |
鹿児島市内の戦跡2 西南戦争 弾丸痕 | 先頭へ | |
西南戦争は、1877年に起こった、我が国史上最も新しい内乱です。これ以降、現代まで日本の国内で、武力による内乱は起こってはいません。 |
写真03-22 西南の役官軍戦没者慰霊塔 (撮影日 12/08/06) |
薩英戦争の砲台跡のある祇園之洲公園の一角にあります。西南戦争の最後の激戦地、鹿児島市内で戦死した政府軍の兵士1270人余りがこの祇園之洲に葬られ、そののち慰霊塔が建立されました。 |
写真03-23 私学校跡 (撮影日 12/08/06) |
写真03-24 弾痕の碑 (撮影日 12/08/06) |
鹿児島城(別名、鶴丸城)の隣に、西郷党が設立した私学校跡があります。そこに、「明治十年戦役 弾痕」という碑があります。 |
写真03-25・26 各地に残る弾痕跡 (撮影日 12/08/06) |
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左は私学校跡の石垣、右は鶴丸城本丸跡の石垣。次ページで紹介しますが、他にも残っています。 |
今から130年以上前の戦争のこんな激しい傷跡が残っている地域も、珍しいと思います。 |
【九州両端旅行 参考文献一覧】
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次ページは、さらに鹿児島の歴史と伝統について話を続けます。 |
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