つまり、代理公使ニールは、旗艦ユーリアラス号以下7隻の艦隊が鹿児島におもむけば、薩摩藩はその武力に「ひれ伏し」、要求をのむことになるだろうと考えていました。いわば、楽観的見通しだったのです。
イギリス艦隊の出撃の1ヶ月前には、長州藩が関門海峡で外国船に対して「攘夷」を実行し、その情報が横浜に伝わっていました。客観的には、このような楽観論は非現実的と思われましたが、自らの軍事力に自信のある代理公使ニールは、戦わずして薩摩藩を屈服させることができると考えていたと思われます。
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「「薩摩では万事うまくゆくだろう」という期待を、ニールがド・ベルクール(注 駐日フランス公使)らと共有していたことは、まずまちがいない。というより、ド・ベルクールの口調から推して、この楽観論の出所は、おそらくニール自身であろう。ニールは軍艦2隻というキューバー提督の主張をしりぞけ、軍艦7の出動を要請したが、これは慎重を期したまでのことで、主としてニールの念頭にあったのは、強力な艦隊の存在が薩摩にあたえる威圧効果であったと思われる。それは、いみじくも、サトウが日記に述べていた「示威」だけで十分、とかさなるものであった。
なお、イギリス艦隊の出航後も、横浜港にはイギリス7隻(そのうち砲艦2隻)、フランス3隻、アメリカ2隻、オランダ1隻、計13隻の軍艦が碇泊していたから、フランスのジョレス提督の手にゆだねられた居留地の防衛に関して、ニールに不安の種はなかった(ド・ベルクールよりドルアン・ド・リユイ外相への報告、1863年8月6日付)。
こうして出航してゆくイギリス艦隊にも、これを見送る横浜居留地のひとびとにも、戦闘の予感はほとんどなく、連日晴天とおだやかな風(breeze)にめぐまれたイギリスの艦隊は、出航後3日の6月25日(陽暦8月9日)の正午に室戸岬の南方93海里(172キロ)、その翌日の正午に足摺岬の南南西81海里(150キロ)の洋上を過ぎ、6月27日(陽暦8月11日)の正午に佐多岬の東方16海里(30キロ)の地点に達した。岬を廻れば鹿児島湾である。」
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萩原延壽著『薩英戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄2』(朝日新聞社 1998年)P18 |
ちなみに、7隻の艦隊の総砲門数は、90門を数えており、その中には、21門の最新式砲=アームストロング砲(後ろから装填、長弾使用)が含まれていました。
もっとも、この艦隊の軍艦そのものは、当時のイギリス艦隊の最新鋭最強艦というわけではありませんでした。艦隊中の最大の軍艦、旗艦ユーリアラス号は、アメリカ艦隊のペリーの軍艦、サスケハナ号の外輪推進とは異なり、新鋭のスクリュー推進の軍艦でしたが、艦種は2番目に大きいフリゲート艦でした。
当時の軍艦の種類では、最大のものは、砲列艦といいました。これは4000トンから5000トンの大きさで、大砲を90門から120門ほど搭載している軍艦です。
ユーリアラス号は、その次に大きい艦種のフリゲート艦です。
イギリス海軍は、1860年の時点で、スクリュー推進の戦列艦を64隻、フリゲート艦を34隻保有しており、日本海域にいた艦隊は、世界を支配するその強大な戦力のほんの一部でした。
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元綱数道著『幕末の蒸気船物語』(成山同書店 2003年)P66−72 |
代理公使ニールのこの思いは、いわば、大英帝国の外交官としての思い上がりといえるものとも言えるでしょう。
しかし、そうであったからこそ、薩摩藩から意外に頑強な抵抗を受けた時、このニールの思いは、逆に薩摩藩への評価と変わっていくことになるのです。
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