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街道を歩く9
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件6 薩英戦争1  07/09/16作成 
 生麦事件と薩英戦争                                 | このページの先頭へ |

 前ページに指摘したように、明治時代の中村正直が生麦事件記念碑に「我邦変進亦其源」(我が国の大きな変化もまたその源はここにある)と刻んだごとく、生麦事件は、これを原因として発生した薩英戦争によって、結果的に明治維新につながる大きな変化を起こしました。
 
 日本史の教科書には次のような記述になっています。(文字色つけと改行は引用者が施しました。)

「すでに薩摩藩は前年に、さきの生麦事件の報復のため鹿児島湾に進撃してきたイギリス艦隊の砲火を浴びており(薩英戦争)、攘夷の不可能なことは明らかになった。(中略)

 薩摩藩は、
薩英戦争の経験からかえってイギリスに接近する開明政策に転じ、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が藩政を掌握した。」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P233−234


 つまり、薩摩藩とイギリスは、生麦事件の後処理をめぐって、一時は戦争という事態になったのですが、戦後和解してむしろ急速に接近し、イギリスの援助を得た薩摩藩は、長州藩と並んで武力倒幕を果たす一大勢力に成長していったわけです。
 
 こう書いてしまえば簡単ですが、ことはそれほど簡単ではなく、
いろいろな事情(要因)がうまくつながって、そうなっていきました。

 
うまくいった要因とは何でしょうか?
 ここでは、普通の教科書レベルにはない、
生麦事件から薩英戦争とその後の薩摩イギリスの接近という結末を導いた要因という視点から、いくつかの目から鱗の話ができたら幸いです。


 事件直後のイギリス公使の対応                          | このページの先頭へ |

 最初は、事件直後のイギリス公使の対応です。
 
 もう一度事件直後に話を戻します。
 リチャードソン一行が薩摩藩の行列に斬りつけられたことは、ほぼ時を同じくして横浜外国人居留地にたどりついた、マーシャルの従者と真っ先に逃げ帰ってきた一行のうちの唯一の女性ボラデイル夫人(マーガレット、髪を切られる程度の軽傷)によってもたらされました。

 この時横浜にいたイギリスの外交官中最上席の人間は、
代理公使のニールという人物でした。

 日本史の教科書をよく勉強した人のために解説です。
 日本史の教科書に出てくる幕末の日本駐在イギリス公使というと、前半は
オールコック(1859−1865、後半はパークス(1866−)のはずです。上記のニール代理公使とは何者でしょう?
 この人物は、
公使オールコックが下賜(公的に賜った)の休暇をにより日本を離れた間に代理で公使を務めた人物です。代理といってもその期間は長く、1862年5月から翌64年3月に及んでいます。生麦事件も、薩英戦争も代理公使ニールの出来事です。
 ニールはもともと軍人として名をなしたのち1839年から外交官となった人物で、1860年からは北京のイギリス公使館の副公使を務めていました。  

宮澤眞一著『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン−』(新潮選書 1997年)P116などより


 

「イギリス商人殺害」という情報が飛びこんできた時、代理公使ニールはどういう対応をしたのでしょうか。これが第1のポイントです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。



 説明します。
 リチャードソン殺害の時点までにも、日本人武士による「攘夷」はしばしば行われ、犠牲者が出ていました。しかし、それらは、
外交官や軍人・兵隊などに対する「攘夷」で、直接一般人に対する殺傷事件ではありませんでした。

 このため、
商人であるリチャードソン等一行の襲撃の報を聞いた横浜在住の一般の外国人は、イギリス人ならずとも非常に興奮激高し、すぐさま犠牲者の救出のために人員を派遣する一方、非常に過激な行動を考えていました。犯人逮捕と断罪のために、軍隊を派遣して下手人である島津久光の一行を逆に襲撃するというものでした。
 島津久光の一行は、本来なら、事件当日の8月21日(旧暦)は神奈川宿で宿泊する予定でしたが、さすがに横浜に近い神奈川宿泊はまずいと判断して避け、8km弱さきの次の
程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)宿で宿泊し、警備を固めていました。

 住民集会の強硬な意見を受けた
イギリス領事ヴァイスは、イギリスも含めた各国公使・領事が参加して翌22日早朝から開催された会議(「安全委員会」)において、軍隊の派遣を主張しました。

 しかし、代理公使ニールはあくまで冷静で、
事件の処理は慎重に外交交渉を進めるという方針で会議をリードしました。ニールはまた、襲撃はともかく警備隊や軍艦によって東海道を通る大名行列に示威を行うというフランス公使の意見にも、いたずらに日本人を刺激すべきではないといって反対しました。
 
 ここでいえる大事なことは、アヘン戦争やアロー号戦争を起こしたイギリスですが、本国政府と議会の方針によって対日外交も動いており、昭和前半の関東軍とは違って、
やみくもに武力衝突によって日本から利権を奪うという行動は、当然ながら現地外交官や現地派遣軍にはなかったということです。

 イギリス政府の通訳官であった
アーネスト・サトウは後年まとめた記録、『A diplomat in Japan』(『日本における一外交官』)で、次のように言っています。

「約25年を経た今になって回顧すると、私はニール大佐が最上の方策をとったものと思う。商人連中の計画は、向こう見ずで、威勢がよくて、ロマンチックと言ってよかった。それはおそらく、あの有名な薩摩侍の勇敢さを圧して、一時は成功したかもしれない。しかし、外国水兵によって日本の有力な大名が大君の領内で捕えられたとなると、大君が「外夷」に対して国家を防御し得ないという明白な証左になるわけだ。そうなれば、大君の没落は、実際に没落したよりもずっと以前に、そして、新政府の樹立を目ざす各藩の連合がまだできあがらぬうちに到来しただろう。その結果、是はおそらく壊滅的な無政府状態となり、諸外国との衝突がひんぴんと起こって、容易ならぬ事態を招いたであろう。保土が谷を襲撃すれば、その報復として長崎の外国人が直ちに虐殺され、その結果は英・仏・蘭連合の遠征軍の派遣を見るようになり、幾多の血なまぐさい戦争が行なわれて、天皇の国土は滅茶滅茶になっただろう。その間に、われわれの日本へやってきた目的たる通商は抹殺されてしまい、ヨーロッパ人と日本人の無数の生命が、島津三郎の生命と引き替えに、犠牲に供されたにちがいない。

アーネスト・サトウ著坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上』(岩波文庫1960年)P63−64


 イギリス外交官ニールの冷静な初期対応が、ポイントその1です。


 イギリス艦隊出撃、代理公使ニールの思い                 | このページの先頭へ |

 代理公使ニールは、本国の外務大臣ラッセル卿に直ちに事件の報告をおこない、対応方針を確認しました。
 しかし、この時代の日本とイギリスの間の情報伝達は、長崎・上海・香港・シンガポール・セイロン・紅海・スエズ・地中海を経由して船便で郵便が送られるという状況でしたから、片道早くとも2ヶ月を要しました。

 当時のイギリスは、のちに「パックス・ブリタニカ」「世界の工場」と呼ばれる黄金時代の前半期にあたっていました。
ヴィクトリア女王の治世下で、事件が起こった時は、保守党のパーマストン首相が政権の座にありました。
 処理方針を指示したラッセル外務大臣からニール代理公使への訓令は、1862年12月24日にようやく発せられました。その内容は2点です。

 幕府への要求
(1)正式の謝罪  (2)10万ポンドの賠償金支払い

 薩摩藩への要求
(1)犯人の即時逮捕、及びイギリス海軍関係者の立ち会いの下に死刑執行
(2)リチャードソンの遺族と負傷者に対する総額2万5000ポンドの賠償金支払い


 
もし日本側が要求に応じない場合の措置、報復措置(軍事行動)は、具体的にはイギリス艦隊の司令長官、キューパー提督に委任されました。

 幕府との交渉は難航しましたが、1863年5月(旧暦)にようやく妥結にいたり、幕府は、賠償金11万ポンドを支払いました。(第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンドも含みます。)

 しかし、薩摩藩は犯人の逮捕などイギリスの要求に応じる態度を見せず、ついにイギリス艦隊のキューパー提督は、艦隊に鹿児島へ向けての出撃を命令しました。
 1863年6月22日(旧暦)の朝、旗艦ユーリアラス号(排水量3,125トン、砲46門)以下7隻のイギリス艦隊は、ニール代理公使以下8名のイギリス外交部を同乗させて、横浜を出航しました。

 さて、
この時の代理公使ニールの「開戦に対する見込み」が、第二のポイントです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 つまり、代理公使ニールは、旗艦ユーリアラス号以下7隻の艦隊が鹿児島におもむけば、薩摩藩はその武力に「ひれ伏し」、要求をのむことになるだろうと考えていました。いわば、楽観的見通しだったのです。

 イギリス艦隊の出撃の1ヶ月前には、長州藩が関門海峡で外国船に対して「攘夷」を実行し、その情報が横浜に伝わっていました。客観的には、このような楽観論は非現実的と思われましたが、自らの軍事力に自信のある代理公使ニールは、戦わずして薩摩藩を屈服させることができると考えていたと思われます。


「「薩摩では万事うまくゆくだろう」という期待を、ニールがド・ベルクール(注 駐日フランス公使)らと共有していたことは、まずまちがいない。というより、ド・ベルクールの口調から推して、この楽観論の出所は、おそらくニール自身であろう。ニールは軍艦2隻というキューバー提督の主張をしりぞけ、軍艦7の出動を要請したが、これは慎重を期したまでのことで、主としてニールの念頭にあったのは、強力な艦隊の存在が薩摩にあたえる威圧効果であったと思われる。それは、いみじくも、サトウが日記に述べていた「示威」だけで十分、とかさなるものであった。

 なお、イギリス艦隊の出航後も、横浜港にはイギリス7隻(そのうち砲艦2隻)、フランス3隻、アメリカ2隻、オランダ1隻、計13隻の軍艦が碇泊していたから、フランスのジョレス提督の手にゆだねられた居留地の防衛に関して、ニールに不安の種はなかった(ド・ベルクールよりドルアン・ド・リユイ外相への報告、1863年8月6日付)。

 こうして出航してゆくイギリス艦隊にも、これを見送る横浜居留地のひとびとにも、戦闘の予感はほとんどなく、連日晴天とおだやかな風(breeze)にめぐまれたイギリスの艦隊は、出航後3日の6月25日(陽暦8月9日)の正午に室戸岬の南方93海里(172キロ)、その翌日の正午に足摺岬の南南西81海里(150キロ)の洋上を過ぎ、6月27日(陽暦8月11日)の正午に佐多岬の東方16海里(30キロ)の地点に達した。岬を廻れば鹿児島湾である。」

萩原延壽著『薩英戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄2』(朝日新聞社 1998年)P18


 ちなみに、
7隻の艦隊の総砲門数は、90門を数えており、その中には、21門の最新式砲=アームストロング砲(後ろから装填、長弾使用)が含まれていました。

 もっとも、この艦隊の軍艦そのものは、当時のイギリス艦隊の最新鋭最強艦というわけではありませんでした。艦隊中の最大の軍艦、
旗艦ユーリアラス号は、アメリカ艦隊のペリーの軍艦、サスケハナ号の外輪推進とは異なり、新鋭のスクリュー推進の軍艦でしたが、艦種は2番目に大きいフリゲート艦でした。

 当時の軍艦の種類では、最大のものは、
砲列艦といいました。これは4000トンから5000トンの大きさで、大砲を90門から120門ほど搭載している軍艦です。
 ユーリアラス号は、その次に大きい艦種のフリゲート艦です。
 イギリス海軍は、1860年の時点で、スクリュー推進の
戦列艦を64隻、フリゲート艦を34隻保有しており、日本海域にいた艦隊は、世界を支配するその強大な戦力のほんの一部でした。

元綱数道著『幕末の蒸気船物語』(成山同書店 2003年)P66−72


 代理公使ニールのこの思いは、いわば、大英帝国の外交官としての思い上がりといえるものとも言えるでしょう。
 しかし、そうであったからこそ、薩摩藩から意外に頑強な抵抗を受けた時、このニールの思いは、
逆に薩摩藩への評価と変わっていくことになるのです。


薩英戦争に参加したイギリス艦隊の軍艦
 

艦 名

トン数

艦 種

備砲数

建造年

全長

ユーリアラス

3,125

フリゲート

46

1853改造

64.6m

パール

2,187

コルベット

21

1855

60.9m

パーシュース

1,365

スループ

1861

56.3m

アーガス

1,630

スループ

1852

57.9m

レースホース

877

砲艦

1860

56.3m

コケット

不明

砲艦

1855

55.3m

ハボック

284

ガンボート

1856

32.3m

岩堂憲人著『世界銃砲史 下』(国書刊行会 1995年)P704などより

 当時の軍艦の艦種は、大きい順に、砲列艦、フリゲート、コルベット、スループ、砲艦、ガンボートです。
 1860年当時のイギリス海軍には、
砲列艦、フリゲート、コルベットあわせて、98隻保有していました。この戦争には、僅か2隻が参加しているのみです。全世界的には、「強力な艦隊」というわけではありませんでした。

元綱数道前掲著『幕末の蒸気船物語』(成山同書店 2003年)P66


 旗艦ユーリアラス号の写真は、手持ちの中にはありません。
 軍艦の大きさというのは時代が違うと比較しづらいものですが、とりあえず、有名な軍艦の写真を載せて、 比べられるようにします。
 上の写真は、太平洋を渡ったあの有名な咸臨丸です。排水量625トン、備砲12門です。ペリーの乗ってきたアメリカ軍艦サスケハナ号は、同じ蒸気船でも外輪船でした。ユーリアラス号も咸臨丸もスクリュー推進です。数年の間に軍艦も進歩しました。
  ※佐賀城本丸歴史館(説明は下の写真の説明参照)の中に展示されている模型です。(撮影日 07/07/28)


 これは、幕末の幕府軍艦で榎本武揚の「蝦夷政府」の最強力艦であった開陽です。
 排水量2,590トン、備砲26門。
ユーリアラスはこの開陽よりも少し大きな軍艦です。

この写真は、2003年から2006年まで、京都の壬生寺の隣にあった、土産物店「新選組御用達 京屋忠兵衛」の店内にあった展示物の複写です。


 幕末の戦いのいくつかで、勝敗のゆくえを左右したイギリス製のアームストロング砲の模型。

 それまでの大砲は
前装円弾滑空砲でした。つまり、陸上競技の砲丸投げの砲丸のような丸い弾丸を大砲の砲身の先から火薬とともに装填し、その弾は、砲塔の中を滑って発射されるものでした。

 これに対し、
アームストロング砲は、後装長弾施条砲でした。
 つまり、砲身の後部から現在のような椎の箕形の長い弾丸を装填し、砲身内には施条(ライフル)がめぐらしてあるため、弾丸は回転して、正確に長く飛ぶことができるという優れものでした。

 この模型は、佐賀藩が長崎のグラバー商会を通して輸入し戊辰戦争で活躍した陸用砲のものです。 佐賀市内の旧佐賀城跡内に整備された
佐賀城本丸歴史館に入る鯱の門の内側に置かれています。(撮影日 07/07/28)


 
 幕府軍艦開陽の備砲、
アームストロング砲の弾丸。
 開陽は、1868年11月に荒天により座礁沈没しました。
 1990年には、沈没地の北海道檜山郡江差町に復元され、財団法人開陽丸青少年センターが設立されました。


この写真は、上の軍艦開陽と同じ京都の土産物店「新選組御用達 京屋忠兵衛」の店内にあった展示物の複写です。


 イギリス艦隊は、1863年6月27日(旧暦)の夕刻に鹿児島湾内に入り、夜遅くなって、鹿児島の町から12km程南に離れた、谷山村平川の沖合にある七ツ島付近に投錨しました。
 このあと戦闘の経過はどのようなものだったのでしょうか。
 そこに、第3、第4のポイントがあります。

 長くなってしまったので、また次週ということでお願いします。
 東海道生麦から遠く鹿児島までやって来て、さらに寄り道です。おつきあいください。


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