各務原・川崎航空機・戦闘機01
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 □はじめに−各務原と川崎航空機 かみがはら航空宇宙博物館− 
    
 はじめに            

 岐阜市の東隣に各務原市があります。
 各務原市のイメージはというと、市民や周辺市町村住民にとっては、「基地の町」「川崎の町」です。
 
 その意味を説明します。
 
 各務原(かかみがはら)という呼び方は、この地の台地を示す言葉として、古くから使われていました。
 現在の各務原市自体は、1963(昭和38)年に、当時の稲葉郡の那加町、稲羽町、鵜沼町、蘇原町が合併して誕生しています。

 この地域が航空基地の町として発展するきっかけは、ここに陸軍の飛行場が建設されたことでした。1917(大正6)年のことです。
 第一次世界大戦が始まり、各国では飛行機が新しい兵器として注目を集めていましたが、日本でも最初の航空隊(陸軍航空大隊)が埼玉県の所沢で編制されました。ところが、所沢の飛行場は手狭であったため、他所に予備の飛行場をつくる必要がありました。
 
 やがて、広大な平坦地であった各務原が、飛行場建設の適地として選ばれました。各務原台地の東半分は、明治時代前半から、 すでに陸軍の大砲射撃場となっており、用地の買収等もほんの少しですむという利点がありました。

 飛行場といっても、当時は、滑走路も舗装する必要はなく、平坦な草原であればよかったので、1年足らずで完成しました。
 新飛行場に、1番機が着陸したのは、1917年6月11日のことです。
 このあと、1918年には航空第2大隊が大伊木北に新設され、さらに、1920年には所沢から航空第1大隊が那加に移駐して来る及んで、各務原は陸軍航空部隊の拠点の一つとなりました。蘇原には、航空隊の補給部隊も設置されていきます。 
 ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P13−15

  一方、神戸の川崎造船所(1896年創設、現在の川崎重工の前身)は、第一次大戦中に航空機の開発に目を向け、1918年には兵庫工場でフランス製軍用機のライセンス製造を開始しました。
 その川崎が目を付けたのが、当時の蘇原村三柿野の地です。
 陸軍の飛行場に隣接しているため、航空機を開発し、試験飛行を実施して完成品を軍に納入することができるという点で、優れた立地条件でした。

 1923年、川崎造船飛行機部(のちに川崎航空機として独立)の各務原分工場が完成しました。これにより、各務原は、航空機生産の町としてもスタートしたのです。

 1937(昭和12)年には、川崎の飛行機生産部門が独立し、
川崎航空機工業株式会社が設立されました。この結果、蘇原村の工場は、川崎航空機工業各務原機体工場となりました。1939年には、岐阜工場と改称されます。

 それから1945(昭和20)年の終戦まで、各務原は、陸軍の飛行機生産の拠点の一つであり続けました。(他には、陸軍では中島航空機、海軍では三菱、川西などが有名です。)

 1945年、川崎航空機の各務原工場は空襲により壊滅し、また、敗戦により、陸軍基地はアメリカ軍に接収されました。これにより、一度は、「基地の町・川崎の町」は終わりを迎えたかに見えました。

 しかし、川崎は、川崎重工業として復活し、また、基地は、1957(昭和32)年にアメリカ軍から一部が返還されると、航空自衛隊の飛行開発実験団などが移転し、「各務原」は再び自衛隊の基地と航空機産業の町として復活しました。
 ※県連のサイトはこちらです。
    ○航空自衛隊岐阜基地ホームページ→
    ○川崎重工業→
    ○各務原市役所公式ホームページ→
 

 市役所を中心とする各務原市中心部(那加・蘇原地区)の概要は以下のとおりです。 

@航空自衛隊各務原基地飛行開発実験団

A補給処

B滑走路 長さ2700m

C川崎重工業各務原工場

D国道21号線、市の中心部を走る旧国道のバイパスとして建設され、基地のすぐ北側を走る。

E各務原市役所(ちなみに、各務原は、市の名前としては、「かかみがはら」)

国土情報ウェブマッピングシステムの1987(昭和62)年のカラー空中写真から合成。2枚の写真をつなぎ合わせてあるため、多少誤差(例 滑走路が屈折しているように見えます)があります。


 問題提起                                         | このページの先頭へ | 

 この「各務原・川崎航空機・戦闘機」では、戦時中に、川崎航空機各務原工場がどのような航空機をつくっていたか、とりわけ、1945年6月のB29による空襲でこの工場が壊滅したとき、どのような航空機が生産されていたか、を焦点に説明をしていきます。

 このような問題を取り上げたのは、次のようなちょっとした契機があったからです。
 
 もし普通に、「戦時中に川崎航空機岐阜工場で作られていた代表的な戦闘機は何か」、という質問に答えよと言われたら、その分野にちょっと詳しい方は、すかさず、「
飛燕」と答えます。
 その詳しい説明はあとに譲るとして、「川崎」といったら「
飛燕」と結びつくくらい、「飛燕」という戦闘機は、川崎航空機を代表する戦闘機とされています。

飛燕の現物は、現在、日本にたった1機存在しています。

太平洋戦争末期の陸軍の特別攻撃隊の基地として有名な鹿児島県知覧の知覧特攻平和会館に展示されています。
この飛行機がここに展示されるまでの経緯は、佐伯邦明さんが明らかにしておられます。
 →佐伯邦明さんのインターネット航空雑誌「ヒコーキ雲」
   現存する飛燕について解説「ある戦闘機の戦後史」 (知覧の現物の写真があります)


 1945年6月の際の空襲の時に、どのような状況であったかについて、たとえば、前掲各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)には、次のように書かれています。

「6月26日の大空襲 6月22日の空襲は破壊力の大きい最大級の爆弾を主目標に向かって投下したものであったが、これに対し、4日後の26日の第二次攻撃は、主に前回より小型の爆弾を多数搭載した、より多数(東海軍管区発表で90機、『鵜沼の歴史』では70機)のB29による高密度の執拗な破壊であった(各務原空襲)。このときの爆撃の効果について、米軍戦略爆撃調査団報告書には、「6月26日9時10分から10時49分までの空襲では500ポンドの高性能爆弾が用いられ、
キ−61の最終組立工場・実験工場・工作事務室・小組立工場・労務者の宿舎・学校の建物・圧延工場などに命中弾を受けた。(中略)製作活動がすっかり止まってしまった。」と記されている。」(同書P203)
 引用文中の、
キ−61とは、飛燕のことです。

  『わかりやすい岐阜県史』という本があります。2001(平成13)年3月に岐阜県が発行したものです。
 上述の先達の業績を受けて、この本には、その「第5章近代」の「第4節恐慌から戦争へ」の「E空襲」の掲載写真の説明に、次の一節があります。
「各務原空襲 1945年(昭和20)年6月22日、B29によって各務原が空襲された。県内においては初めての本格的な爆撃であった。各務原の川崎航空機岐阜工場では、新鋭戦闘機といわれた「飛燕」が製造されていたが、その機能はほとんど失われた。」

 これらによると、川崎航空機が戦時中に生産していた戦闘機は
飛燕、1945年の空襲で、その工場が爆撃をうけ、飛燕生産の「機能が失われた」という説明になっています。

 実は、この『わかりやすい岐阜県史』の近代史部門は、私が執筆グループの一員としてかかわった部分なのです。
 ところが、この記述を再検討しなければならないことになりました。

 きっかけは、この「未来航路」に空襲の記事を書こうとして調べている時に、岐阜空襲誌編集委員会編『熱き日の記録 岐阜空襲誌』(岐阜空襲を記録する会 1978年)の中に、次の一節を発見したからです。B29ではなく、戦闘機による機銃掃射に関する記述です。

「8月2日、工場が破壊され二十軒(注 市内の地名)に疎開した川崎工場の第2全組組立工場で、岐商四年の吉安辰夫氏らが五式戦闘機
キ100にもぐりこみ、テスターで電気配線試験を行っていた。やがて正午になったので、機外へ出て弁当を食べかけたところで「バリッ、バリッ」ときた。すぐに横の防空壕に飛びこむ。横穴の壕の中は50人ほどで混雑していた。すぐに近くで機銃掃射の弾が土煙をあげる。それから空襲警報のサイレンが鳴った。砂がバラバラ落ちてくる壕の中に約20分間、やっと終わって外へ出ると、自分がもぐって仕事していた飛行機に小型爆弾が命中、バラバラに飛び散って大きな穴が空いていた。」(P124−125)

 6月に空襲を受けた川崎の本工場のことではありませんが、製造されていたのは、「
五式戦闘機」です。
 
五式戦闘機というのは、簡単に言えば、飛燕の水冷式エンジンを空冷式に置き換えて新しく作り直した別の戦闘機です。
 したがって、終戦時に
五式戦が生産されていたことは確かです。問題は、その時に、飛燕の生産が続いていたかどうかです。

 つまり、1945(昭和20)年夏、川崎の岐阜工場が空襲によって被害を受けたとき、生産されていた飛行機は、
飛燕五式戦なのか、五式戦のみなのかということです。

 もちろん、教科書などにはまったく登場もしない些細な問題ですが、自分が関係した『わかりやすい岐阜県史』の記述が誤ったものなら、そのままにしておくわけにはいきません。
 
 飛燕
五式戦について、調査してみました。 


 かかみがはら航空宇宙博物館                           | このページの先頭へ |   

 各務原市に、「かかみがはら航空宇宙博物館」があります。まずはここへ行きました。

 地元の方には有名なこの博物館は、航空機産業を市の中心産業としてきた各務原市が、その技術を記録し、後世に残すために建設した博物館です。
 ※〒504-0924 岐阜県各務原市下切町5丁目1番地 電話:0583-86-8500
   公式ウェブサイトはこちらです。

 川崎航空機や川崎重工業が生産にかかわってきた航空機を中心に、多くの飛行機が展示されています。大変わかりやすい展示で、映像や写真や実物や模型を通して、各務原と航空産業の歴史を学ぶことができます。お薦め博物館です。
 展示物の写真を撮影して、個人のHPに掲載することは問題ないとのことでしたので、現物と模型を中心にかなりの数をこの「各務原・川崎航空機・戦闘機」の項目で使用させていただきました。ありがとうございます。

 さて、飛燕のことを語る前に、他の展示品のいくつかを紹介します。 

(同博物館で撮影した写真をウェブページで利用し、同博物館の紹介をすることについては、同博物館事務室の了解を得ています。) 

YS−11A 500R 中型輸送機。ご存じ、戦後初めて国産された、ターボプロップエンジンの中型旅客機です。
1990年代前半まで日本の空を飛んでいました。

P−2J 対潜哨戒機。1990年代前半まで海上自衛隊の主力対潜哨戒機でした。


 飛燕についてはというと、飛燕の他にも数々の航空機を設計した川崎航空機(川崎重工業)の名設計士、土井武夫さんのコーナーがあり、たくさんの飛行機が紹介されていました。
 
 もちろん、飛燕の現物は、鹿児島県の知覧にしかありませんから、この博物館にあるのは、エンジンの部品の一部と、主輪と尾輪だけです。

 一方、
五式戦はというと、これは土井さんが設計にかかわったという以外は、詳しいことはまったく触れられていませんでした。
 戦争末期に僅かしか生産されなかった戦闘機は、この博物館でもあまり注目されていません。

 やはり、文献でしっかり確認しなければなりません。

かかみがはら航空宇宙博物館に展示されている飛燕の模型です。

飛燕のエンジンの部品。

これは、飛燕の主輪の一つです。


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