2007-04
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102 2007年06 月03 日(日)  映画「俺は、きみのためにこそ死にに行く」   

 2007年初めての映画鑑賞記は、「俺は、君のためにこそ死にに行く」(監督 新城卓)です。
 う〜ん、いかにも重いテーマです。それでもあえて、書きます。今週の日記と、次次週の「教育を考える」と続けて、戦争と平和をテーマに書きます。

 私自身は、この映画を、5月23日(水)の東京出張の際に、なんと東京は府中市の東宝シネマのシネコンで見ました。当然一人でです。
 このテーマの映画に家族で行くということは、戦争映画好きのわが家でも、さすがになかなか難しいことでした。唯一一緒に行ってくれそうな、無口な映画評論家次男Yは、この春から自宅を離れて大学の近くでアパート暮らしをしており、簡単に誘うわけにはいきません。このため、結局一人で見るはめになりました。
 どうせ一人で見るならどこで見ても一緒、というわけで、出張先でホテル宿泊の日という比較的ヒマなシチュエーションでの映画鑑賞ということになったわけです。

 この映画は、東京都知事の
石原慎太郎氏が制作総指揮をとり、「苛酷な時代を生きた、美しい日本人の姿を残しておきたい。」との思い入れから生まれた映画です。
 私の評価は次のようになりました。

お薦め人

お薦め度

(3点満点)

コ  メ  ン  ト

★★

 テーマへのまじめな取り組みは評価できるが、これまでの、たとえば、「ホタル」(降旗康男監督、高倉健主演、2001年)などとくらべて、特に秀逸ということはない。戦争を「戦後世代」に伝えるのは、難しいものです。

映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」の公式サイトはこちらです。http://www.chiran1945.jp/


 最上の評価を下したわけではありません。
 それでも、やはり特攻、つまり、太平洋戦争時の特別攻撃隊については、一言書いておきたいとの思いから、ここでは、若干の解説と問題提起をします。


1 そもそも航空特攻はなぜ始まったのか

 航空機による特別攻撃隊は、1944年10月にフィリピン戦線ではじめて編成されました。その事情は次のとおりです。

  1.  1944年6月にアメリカ軍のサイパン攻略にともなって生じたマリアナ沖海戦で惨敗した日本海軍には、もはや、優勢なアメリカ空母機動部隊に対抗する空母艦隊はありませんでした

  2. この結果、続く1944年10月のアメリカ軍のフィリピン侵攻に際しては、来襲するアメリカ海軍空母機動部隊に対抗できる手段としては、陸上基地の航空隊による攻撃と、その時点まで比較的温存され生き残っていたた日本海軍の戦艦(大和・武蔵・長門以下9隻が健在)・重巡洋艦等による艦隊決戦しかありませんでした。ただし、艦隊決戦の場合は、それが成功するには、絶対必要な条件があります。陸上基地航空隊がアメリカ艦隊からの航空攻撃を妨害し、日本艦隊を援護することです。

  3.  ところが、その陸上基地航空隊は、アメリカ軍のフィリピン上陸を前に発生した台湾沖航空戦で甚大な被害を受けてしまいます。この戦いでは、アメリカ軍の巧妙な誘いに乗せられた日本の陸海軍航空兵力が、貴重な戦力をいたずらに消耗してしまった結果となりました。

  4.  こうなると、残された手段は、上記2の艦隊決戦を、しかも、ほとんど手持ちの航空機がなくなってしまった状況で実施するしかありません。少ない航空機でいかに効果ある攻撃を実施するか。そこで考え出されたのが、爆弾を抱いた戦闘機自らが敵艦に体当たりするという戦法でした。

 1944年10月当時、フィリピンに展開していた海軍の第一航空艦隊は、台湾沖航空戦で大きな被害を受け、数百機はあると予想される敵機動部隊の航空機に対して、僅か、30数機kという有様でした。しかも、戦闘機は比較的たくさんあるものの、爆弾や魚雷を持って敵艦を攻撃するタイプの飛行機、攻撃機や雷撃機はさらに少ない状況でした。
 通常の方法では、アメリカ艦隊を攻撃することも、日本艦隊を援護することもできません。

 
第1航空艦隊司令官大西瀧次郎中将は、この非常事態に、本来戦闘機であるゼロ戦(零式艦上戦闘機)に、250kgの爆弾に搭載して、敵航空母艦に体当たり攻撃を敢行し、日本艦隊が敵艦対を攻撃する間、少なくともアメリカ空母の甲板を使えなくするという「作戦」を発案しました。
 部下を自殺的行為で死に追いやることが「作戦」なのかという反対を押し切って、決死隊が編成されます。戦闘機26機から編成された部隊は、
神風(しんぷう)特別攻撃隊と名付けられ、その指揮官には、23歳の関行男大尉が選ばれました。この場面は、映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」でも描かれています。

海軍は、「神風(しんぷう)特別攻撃隊」としましたが、新聞には「神風(かみかぜ)」と記載され、それがそのまま定着しました。


2 航空特攻が日常化したのは何故か

 関行男大尉ら26機は、1944(昭和19)年10月25日に出撃し、アメリカ軍の護衛空母5隻に体当たりを敢行、1隻撃沈、2隻大破の戦果を挙げました。当然ながらアメリカ軍が神風攻撃を予想していなかったこともあり、5/26という高い命中率を上げ、ねらい通り航空母艦を1隻撃沈するという、「大戦果」をあげたのです。

 しかし、この戦果が日本軍の戦争指導をさらに誤った方向へ導きました。
 そもそも、特攻作戦の当初目的は、「
250kgの爆弾に搭載して、敵航空母艦に体当たり攻撃を敢行し、日本艦隊が敵艦対を攻撃する間、少なくともアメリカ空母の甲板を使えなくする」でした。

 実はこの表現には、「特攻」という攻撃方法の核心の部分が表現されています。
 戦闘機が爆弾を抱いたまま敵航空母艦に体当たりするという作戦では、確かに、爆弾を落とすよりも命中率は高いと予想されます。しかし、
高空から落とした爆弾が自然落下し、重力の加速度によって十分な速度で敵艦に当たる通常の攻撃と、大きな構造物である飛行機が爆弾を抱いて飛行機の速度で体当たりする攻撃とでは、前者の方が敵に与えるダメージははるかに大きいのです。
 
 これは、当初から予想されたことであり、そのため、第1航空艦隊司令部も、「空母撃沈」ではなく、「
アメリカ空母の甲板を使えなくする」ことを狙ったのでした。
 つまり、緩い速度で飛行機もろとも空母の飛行甲板に命中しても、アメリカ空母(正しくいうと、大型の空母、別名
正規空母)は甲板の装甲が厚いため、爆弾は、敵艦の奥深くまでは突入せず、したがって通常は甲板ぐらいは燃え上がらせることはできても、撃沈などそれ以上のことは期待できないとの予想でした。
  
 ところが、戦果は、
護衛空母1隻撃沈、2隻大破、その他4隻に被害でした。
 ちゃんと空母が沈んだのです。

 これはどういうことでしょうか?体当たり攻撃は予想以上の物理的打撃を与えたのでしょうか?
 いえ違います。
 体当たりした空母の種類が違ったのです。
 第1航空艦隊が想定した空母は、全長270m、排水量3万トン、搭載航空機を80〜100機、日本艦隊との決戦用に建造された
エセックス級正規空母でした。このタイプが、フィリピン近海に8隻進出していました。
 しかし、現実に、神風特別攻撃隊が襲ったのは、
護衛空母でした。護衛空母というのは、輸送船団等の護衛用に大量生産された小型空母のことです。沈没した空母セントローは、全長156m、排水量7800トン、搭載航空機数28機のカサブランカ級の護衛空母でした。
 この空母は、甲板の装甲も弱く、特攻機でも十分撃沈できる相手でした。

 日本海軍は、偵察していた飛行機からの報告で、特攻隊が敵空母部隊に撃沈等の重大な被害を与えたことは確認しましたが、
その相手は、正規空母部隊だと判断しました。
 仲間がせっかく一命とひきかえに狙った空母です。大きな相手であると思うのが人情です。

 この結果、誤った判断が生じました。「
飛行機1機の体当たり攻撃で敵正規空母が撃沈できる。特攻はきわめて有効な攻撃手段である。」
 この認識と、「
若者の肉体の散華こそが、日本を守る」という「美的な精神論」が上層部を支配し、これ以後のフィリピン戦でも、そして、それに続く沖縄戦でも、航空特攻が日本海軍航空部隊の攻撃の主役となりました。

 陸軍も、やや遅れて11月にはフィリピン海域で特攻作戦を展開。海軍に続くことになります。
 この結果、多くの若者が、フィリピンや沖縄などの海に散っていきました。1944(昭和19)年10月から翌年8月の敗戦までの間に、航空特攻によって4615人が戦死したとされています。


 襲来する日本軍機に対するアメリカ空母機動艦隊の対空砲火網。
 
1944年7月のマリアナ沖海戦以降、アメリカ艦隊は、VT信管を利用した対空砲火網を完成し、日本軍機の接近を阻みました。この写真は、たぶん戦後直後に発行されたと思われる「写真はがき」の写真です。

VT信管。電波を発信し跳ね返り波に反応して起爆する特殊装置を弾頭に備えた信管。直接飛行機に当たらなくとも、その接近に反応して近くで爆発し、日本軍機に損傷を与え撃退した。現在のようなITがない時代なので、弾頭に付ける装置には、高性能の真空管が使われた。


3 映画の舞台 鹿児島県知覧 

 この映画の舞台となったのは、鹿児島県西部の薩摩半島にある陸軍基地知覧です。
 1945(昭和20)年3月になって、沖縄戦が始まると、鹿児島県には特攻隊の出撃基地がいくつかできました。その代表が、
薩摩半島の陸軍基地、知覧。そして、大隅半島の海軍基地、鹿屋です。両基地を中心として、沖縄方面へ飛び立った特攻機の数は、海軍1637機、陸軍931機とされています。


 
 映画の主役は知覧基地にやって来ては短期間の滞在ののちに沖縄方面へ飛び立っていった陸軍航空隊の若者たちです。
 
 そして、それの出撃を見送ったのが、知覧の町の陸軍指定食堂の経営者、鳥濱トメ(俳優は岸 恵子)という女性です。
 映画の基本ストーリーは、その鳥濱トメさんの娘さんから聞いた話を元に構成されています。

 本来朝鮮人でありながら、「立派な大日本帝国臣民」として死にゆくことに意義を見いだそうとする若者、出撃前夜に故郷から来た新妻と会うことができたがために却って苦悩する若者、出撃したものの部隊の中で一人生き残ってしまう若者、特攻隊に志願した息子を複雑な思いで送る家族・・・・・。

 知覧では、石原慎太郎氏が、「雄々しく美しい」と表現したヒューマンドラマが展開されていきます。
  


【追記】 2012年9月10日以下を追記しました。
 2012年8月5日に、鹿児島県の知覧の知覧特攻平和会館へ行ってきました、そのレポートは、次のところに掲載しています。
  ※旅行記「九州両端旅行記03 戦跡を訪ねて 特攻基地知覧


 基地を出撃する陸軍の戦闘機一式戦隼(はやぶさ)。
 映画では、知覧から出撃する陸軍の航空機として
が想定されています。
 
は太平洋戦争の開始時から終末時まで活躍した日本陸軍の代表的戦闘機です。
 典型的な軽戦闘機として設計され、戦争前半期は、その優れた運動性能故に活躍しました。しかし、アメリカ軍が次々と高性能の重戦闘機投入するにつれ、隼の劣勢は明らかになりました。B29爆撃機相手では本土防空にも活躍できず、多くの隼が特攻機として沖縄に向かいます。

写真は、戦中の新聞写真からの切り抜きです。以下のサイトから複写させていただきました。
終戦前後2年間の新聞切り抜き帳http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/index.htm

軽戦闘機とか重戦闘機の説明は、岐阜・美濃・飛騨の話「各務原・川崎航空機・戦闘機4」(飛燕開発前夜、日本の戦闘機に求められたもの)にあります。


 
 戦時中の「山形新聞」紙上に掲載された特別攻撃隊の出撃風景です。
 写真の説明には、「機上に別れの手を振りつつ発進する特攻新鋭機。」とあります。
 
 写真の複写元は、上の写真と同じです。


4 特攻から何を学ぶべきか

 特攻について、日本とアメリカの高校ではどのように教えているか?
 教科書の記述のレベルでは、その差ははっきりしています。次のとおりです。


 神風特別攻撃隊についての教科書の記述 

 日本 

アメリカ

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説 日本史』(山川出版 2004年)

McDougal Littell 『The Americans』(1998年)

「レイテ沖で連合艦隊は米艦隊に大敗し、日本海軍は組織的な戦闘能力を喪失した。この際はじめて、海軍の神風特別攻撃隊による体当り攻撃がなされた。」P343

「The Japanese threw their entire fleet into the battle for Leyte Gulf. They also tested a new tactic, the kamikaze, or suicide-plane, attck in which Japanese pilots crashed their bomb-laden planes into Allied ships.(Kamikaze means "divine wind" and refers to a legendary typhoon that saved Japan in 1281 by deatroying a Mongol invasion.) In the Philippines, 424 kamikaze pilots embarked on suicide missions, shinking 16 ships and damaging another 80.
 Americans watched these terrifying attacks with "a strange admixture of respect and pity" according to Vice Admiral Charles Brown. "You had to admire the devotion to country demonstrated by these pilots". recalled Seaman Gerge Marse. "Yet, When they were shot down, rescued and and brought aboard our ship, we were surpraised to find the pilots looked like ordinary, scared young men, not the wide-eyed fanatical "devils" we imagined them to be."」P749

(右の日本語訳 引用者の訳です。)
 日本はレイテ湾の戦いに持てる海軍力のいっさいを投入した。また、彼らは、カミカゼ攻撃(別名自殺飛行機攻撃)という新しい戦術を試した。この戦術は、日本人飛行士が爆弾を抱えた飛行機ごと連合軍の艦船に体当たりするというものである。(カミカゼは神によって起こされた風を意味し、その名は1281年にモンゴル軍の侵略をはねのけ日本を救った伝説的な台風に由来する。)
 フィリピン海域では、424名のカミカゼ飛行兵士が自殺的命令に従って飛び立ち、16隻の艦船を沈め、他の80隻に損害を与えた。
 アメリカ人は、これらの恐るべき攻撃を、チャールズ・ブラウン准将によれば、畏敬と憐れみの混ざった異常な思いで眺めた。応召海軍兵のジョージ・マースは、「これらの飛行士によって示される国家への献身に対し、賞賛の気持を持たなければならない。」「しかし、日本の飛行士が撃墜され救助されて連合軍艦船に引き揚げられた時、我々は大いに驚かされた。それは、彼らが、我々が予想した目が引きつった狂信的な悪魔のような人間ではなく、ごく普通のおびえた若者だったことに気が付いたからである。」


 日本の若者が、授業では「特攻」についてその内容はほとんど習っていないのに対して、アメリカの若者は、「自殺攻撃」など自分たちにとって興味ある情報を得ています。
 これが、2001年9月11日、イスラム過激派によるニューヨーク、ワシントンにおける同時多発テロの際に発行された新聞に、「
Kamikaze attack」という見出しが踊った背景です。

 我々は、太平洋戦争中の特別攻撃隊に参加し国家に殉じた若者から何を学び、何を生徒に伝えていくべきでしょうか。
 ちょっと難しい問題になりましたが、敢えて、項目を変えて書き続けます。

 「教育について」の031「愛国心をどのように教えるか −特攻隊と靖国神社−」で、続きを書きますので、お読みください。
 また、アメリカ空母バンカーヒル、同エンタープライズ、戦艦ミズーリ、駆逐艦キッドへの体当たり攻撃とその後の物語については、次をご覧ください。
  ※日本史クイズ 太平洋戦争期「空母バンカーヒルの体当たり機の操縦員の氏名が判明した理由は?」


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