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街道を歩く4
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件1 銀座,新橋,品川,六郷,生麦まで 07/08/05作成 10/07修正 
 歩きと電車で生麦まで                                | このページの先頭へ |

 このページからは、生麦事件についてお話をします。
 とはいえ、江戸日本橋からいきなり生麦まで飛んでしまうのはもったいことです。このページは、銀座、新橋、品川と歩いて、品川から京浜急行線の電車に乗って、多摩川(六郷川)を渡って、生麦駅につくまでの途中のエピソードをお話しします。
 一番の売りは、「JR品川駅」です。 


 下の地図をご覧ください。
 旧東海道で日本橋から京へ上る道筋は、現在では横浜までは、現国道15号線と重複している部分が多くあります。
 日本橋から南下していくと、しばらくの間は、国道15号線が旧東海道です。
 


 このページで話題にした地名です。

 【1銀座】
 【2旧新橋駅】
 【3JR品川駅】
 【4六郷の渡し】
 【5京急生麦駅】
 



この地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真から作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。

 

 生麦まで1 銀座         | このページの先頭の地図へ |

 京橋を過ぎると、銀座に入ります。もともと銀貨の鋳造所があったことに由来する地名ですが、江戸時代は正式には新両替町という町名でした。
 1869(明治2)年に、それまでの通称の「銀座」が、正式な地名となりました。
 この町は、明治維新直後から、煉瓦造りの建物が建ち並びガス灯がともる「文明開化の象徴」の市街地となりました。
 現在も、ここの地価は日本一です。
 東京では、新宿、池袋、六本木、新橋、東京駅丸の内と、いくつも高層ビル群が建設され、それぞれが集客力を競っていますが、地価だけは、この旧東海道沿いの銀座が、まだ第一位を守り続けています。えらいもんです。

 

 上の写真は、昭和30年前後の銀座4丁目の交差点を、5丁目側から北を向いて撮影したものです。です。
 戦災の傷跡もようやく消え、これから高度経済成長に向かう前の様子と言うことになります。北西角にはお馴染み
和光ビルの時計台、東北角には、三越銀座店が写っています。(当時の写真はがきから)


 左は、2002年に上と同じ交差点を三越の7階から撮影したものです。

 右側の円柱型のビルの一つ向こう、上部に「京セラ」と書かれている茶色の四角いビルが、
銀座鳩居堂ビルです。(銀座5丁目)上の写真でいうと、都電が3両停留している左側の部分です。

 このビルは、毎年発表される
全国「路線地価」のランキングで、この22年間トップを守り続けている場所です。(2007(平成19)年8月1日国税庁発表)
 2007年1月1日時点でのこの土地の路線地価は、本年の1平方メートルあたりの地価は、2496万円でした。

 かのバブル経済の時代の1992年には3650万円を記録しました。その後暴落しましたが、ここ数年回復してきており、今年の地価は、バブル途中の1989年の水準となっています。
 一部の評論家が「ミニバブル」と懸念する所以です。

地価の話は、「クイズ現代日本経済の諸相」で説明しています。こちらです。
また、バブル経済全体は、目から鱗「バブル経済とその後を考える」で詳しく説明しています。
こちらです。

 生麦まで2 旧新橋駅                           | このページの先頭の地図へ | 

 旧東海道は、現JR新橋駅旧新橋駅(最初の新橋−横浜間鉄道開通時の駅)の間を通っています。
 明治時代になってからもメインロードであった東海道の東に新橋駅が開業し、その後、鉄道線路が現東京駅方面へ伸ばされる際には、旧東海道をはさんだ西側を通るルートが選択されたため、旧新橋駅は廃止されて、現新橋駅が開業しました。旧新橋駅は貨物専用駅の汐留駅となりましたが、1986年10月には、廃止されました。
 旧貨物駅跡地は、現在は、2003年から開業した高層ビル群、「
汐留シオサイト」となっています。

汐留駅の話は、「クイズ日本史 自由民権−日露戦争」で説明しています。こちらです。

汐留シオサイトの話は、「日記 2003年5月10日 東京の変容」で説明しています。こちらです。


  上左は、現在の新橋駅東側の地図です。
 東海道は、日本橋から途中少しだけ屈折するだけでほぼ真っ直ぐ南西方向へ進み、新橋から芝方面へ向かっています。

 1872(明治5)年に新橋−横浜間に初めて鉄道が開通した時は、新橋駅(新橋停車場)は、その東海道のすぐ東側に設けられました。右図の
の部分です。
 その後、鉄道を北に延ばし、皇居前に東京駅を作る計画の段階では、路線は、旧東海道の東側ではなく、西側の外堀の内側の土地をあてることになりました。
 このため、新路線は、新橋で東海道をまたぎ、北へ向かうことになりました。
 上右は復元された旧新橋駅。左は、当時の新橋駅です。

 生麦まで3 JR品川駅                          | このページの先頭の地図へ | 

 東海道は品川では下の地図のようになっています。
 道路も鉄道も、西側に大きく彎曲しています。この彎曲は何故でしょうか?


 
 彎曲の解説の前に、ちょっと見、不思議な地名についての解説です。

 地図左下の
JR品川駅の西隣(地図の左側)には、京浜急行品川駅があります。

 京急は、JRを
八ツ山橋でまたいで南に向かいますが、品川駅の次(品川駅の南)の駅がなんと「北品川」なのです。南に向かって「」品川なのです。???

 これは、本来品川駅が地理上は、高輪(たかなわ)にあり、旧品川宿のある品川ではないことに原因があります。「
北品川」の方が正しいのです。

上の地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。


 下の写真は、江戸時代末から明治初期に、上の写真のどこかの地点から撮影されたと思われる貴重な写真です。
 この写真の撮影場所が分かりますでしょうか?そうすれば、彎曲の理由もおわかりいただけると思います。

上の写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 実は上の写真は、現在の八ツ山橋付近(当時の品川宿の北端)から、高輪・田町方面を撮影したものです。もちろん、鉄道の開業前の状況です。
 そして、手前の両端を垣根で区切られた道こそが、
東海道です。右側の白く見える部分はというと、これは海なのです。つまり、現在のJR品川駅から東は、明治初めまでは、海と干潟でした。東海道は、この海岸線に沿って、作られていました。これが彎曲の理由です。
 
 次は東海道線についてです。
 明治初期において鉄道の開業は、新政府の国家的事業として進められました。
 しかし、政府役人の思い入れとは反対に、地域住民は、鉄道(蒸気機関車)という得体の知れないものに対しては、ごく普通に強い拒否反応を示しました。
 そのため、最初の鉄道は新橋−横浜間の僅か29kmのレール敷設でしたが、用地買収、ルート設定など、ずいぶん苦労をしました。

 上の2枚の写真をよく見ると、その苦労が分かります。苦労した点は二つあります。

 品川駅は、品川宿の住民の反対で、品川宿内に建設できず、その北の地名で言うと高輪の一番南部に建設せざるを得ませんでした。
 下の写真でのちに品川駅が建設された場所は、写真の中央の樹木の向こう側あたりと推定されています。

 上の1で、「樹木の向こう」と書きましたが、樹木の向こうは海です。
 駅はどうやって作ったのでしょうか?
 実は、この写真の地域は、海岸線の低地が狭隘だったこともあって、買収が進まず、田町から北品川にいたる路線は、海の中に堤防を築いて線路を通したのです。


 つまり、品川駅は、品川宿の北の宿外の海を埋め立てて作られたという、建設時に大変苦労があった駅なのです。 


 これは、現在の八ツ山橋から真っ直ぐに田町方向を写した写真です。(撮影日 03/10/29)
 手前の線路は京浜急行の線路です。正面は新幹線の品川駅です。140年の間の変化は、想像を絶するものですね。

【以下の画像は07/10/07に追加】

 八ツ山橋から京浜急行線の鉄橋越しに品川駅を臨んでいます。(撮影日 07/10/04) 


 品川駅を東南の方角から撮影。一番手前を新幹線が走っています。(撮影日 07/10/04)


 八ツ山橋です。写真左端に東京都が設置した旧東海道の案内表示があります。ここから品川宿です。(撮影日 07/10/04)
 1872年の新橋−横浜間の開業の際、鉄道を道路がまたぐ跨線橋は2カ所造られました。そのひとつがこの八ツ山橋です。もうひとつは、後のページで取り上げる、横浜駅手前の青木橋です。→こちらです。


 八ツ山橋南詰めの京急線踏切から、京急北品川駅を臨んでいます。駅に止まっている赤い電車の手前の踏切の道路が、旧東海道です。(撮影日 07/10/04) 


 踏切から奥への道路が旧東海道。昔の品川宿です。右手の電車は京急北品川駅を発車した所です。(撮影日 07/10/04)

 生麦まで4 六郷の渡し                           | このページの先頭の地図へ | 

 品川宿の次の宿駅は、川崎宿です。
 その手前には、武蔵の国を代表する大河、現在の多摩川、昔の言い方でいう六郷川が流れています。
 徳川家康は、この川に1600(慶長5)年に橋を架けました。しかし、たびたびの洪水で、何度も補修やかけ直しが行われました。1688(元禄元)年に流されてからは、明治時代まで架橋されることはなく、江戸時代の後半は、「六郷の渡し」が人々を運びました。


 
 現在の多摩川。
 京急線の車窓から、第1京浜国道(国道15号線)の新六郷橋を撮影。
 旧東海道には、この橋のすぐ下流に渡し場がありました。
(撮影日 07/06/13)

 生麦まで5 京急生麦駅                           | このページの先頭の地図へ | 

 京急線とJR線は、京急線が品川駅の南の八ツ山橋でJR線をオーバーパスして以降、JR線が陸側、京急線が海側という位置関係でほぼ並行して横浜へ向かいます。
 そのさらに海側を旧東海道や現国道15号線(第1京浜国道)が通るという位置関係になっています。



 

併走する京浜急行線(左端の赤地に白帯の電車)とJR線。横浜へ向かうJR線の車内から撮影しました。
 JR線は、東海道線、京浜東北線、横須賀線、新宿湘南ラインとたくさんの路線が走っている。
(撮影日 07/06/15)


 
 京浜急行生麦駅。普通電車しか止まらない小さな駅です。
 JR線には、こういう名前の駅はありません。
(撮影日 07/05/23)


 さて、ようやく生麦駅に到着しました。

 旧東海道は、駅から南南東へ向かって400m程行ったところを通っています。ただし、旧東海道に行くのは、間にある幹線道路の国道15号線(第1京浜国道)を渡らねばなりません。

 さてさて、かの有名な事件の場所は・・・・。


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