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 南の端の話を続けます 山川港について 12/09/03記述 12/09/10追加| 先頭へ | 

 JR最南端の駅・西大山駅JR最南端の有人駅・山川駅の話のあとは、山川の歴史についていろいろ考えてみました。
 【12/09/10 記述追加】 
 
「モリソン号の給水」・「山川港のザビエル上陸の地」について、山川図書館のレファレンス結果を追加。↓

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 まず指宿・山川と言えば・・・・砂蒸し温泉(風呂)   | 先頭へ |

 本題に入る前に、指宿・山川と言えば、やっぱり砂蒸し温泉(風呂)ですね。

「指宿に行ったら、絶対砂蒸し温泉に入りたい。」

「ホテルにもあるようだし、時間がないから、それですまそうか。」

「いや。海岸にある本物がいい。鉄道写真を撮りに行く時間があるなら、砂蒸し温泉も行きたい。」

「・・・・・。」

 砂蒸し温泉は、指宿市の摺ケ浜(すりがはま)海岸と、山川(現在は合併して指宿市の一部)の伏目海岸の二カ所にあります。霧島火山帯の温泉群の一つです。
  ※参考文献1 今吉弘編『鹿児島県の不思議事典』(新人物往来社 2003年)
   鹿児島県の地理等の情報は上記文献を参考に記述しました。

 旅行ガイドブックで調べると、
西大山駅から伏目海岸は直ぐ近くで、開聞岳が見える海岸で砂蒸し温泉ができる施設が見つかりました。伏目海岸の山川砂蒸し温泉砂湯里です。
  (指宿市山川福元3339-3、電話0993-35-2669)

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 写真02-01 湯煙と開聞岳(撮影日 12/08/05)

 写真02-02 砂湯里(撮影日 12/08/05)

 砂湯里からは児ケ水(ちょがみず)の海岸線越しに開聞岳が遠望できます。写真は、元々の雲に加えて湯煙も重なってぼんやりしています。
 ところで、私もちょっと勘違いしていました。砂蒸し温泉の砂に埋まっている客と開聞岳が写っているポスターを見ていましたから、砂蒸し温泉に埋まりながら雄大な開聞岳を見ることができるものと思っていました。
 しかし、実際は違います。
 この施設からは西側に開聞岳が臨めますが、入浴中は山を見ているヒマはありません。ただひたすら、上を向いて耐えているだけです。まあ、正面の海(東シナ海)から波の音は聞こえます。
 入浴料金は800円です。貸しタオル料はプラス100円です。
 


 写真02-03 この日は閑散日(撮影日 12/08/05)

 写真02-04 この砂が熱い(撮影日 12/08/05)

 脱衣場でゆかたに着替えて砂蒸し風呂に入り、終わったら温泉でかけ湯して普通にお湯の温泉(伏目温泉、ナトリウム-塩化物温泉)に入るという入浴方法です。 

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 脱衣場で下着も全部脱いで、浴衣一つに着替えて、海岸の砂浜にある「砂蒸し温泉」に向かいます。

「えっー、パンツも全部脱ぐの?

「そりゃそうだろう。砂だらけのパンツをはいていたら、帰る時はどうするの。」

 
 妻の疑問の気持ちはわかります。確かに、下着も全部脱いで、男女が並んで砂蒸し風呂に並ぶのは、普通ではありません。この日は妻以外に誰もいませんでしたからなんの楽しみもありませんでしたが、若い女性が隣にいたら・・・、ちょっと色っぽいです。今度は、繁忙期に来よう。

 他にお客がいないおかげで、係のお兄さんとの会話が弾みました。砂をかけてもらいながらの会話です。

「これって、何分ぐらい砂をかぶっているのですか。」

「そうですね。10分から15分ぐらいでしょうか。熱い場合は、そんなに長く入っておられない場合もあります。」

「そんなに熱いの?私は今はあまり感じてないけど。」

「私は熱い。こんなん、10分は我慢できない。」

「場所と浅い深いの砂の掘り方で、温度が微妙に違ってきます。あまり熱い場合は、おっしゃって下さい。」

「どのぐらい掘ると熱いのですか?1m?2m?」

「いえそんな深くは掘りません。夕方なら10・20cm、朝なら表面の少し下でも相当熱くなっています。夜のうちに熱がたまりますから。夕方は、砂を2度3度かけますが、朝は1回しかかけません。また、地面の下の温泉脈が微妙につながっていますから、場所によって熱さが違います。この砂掘りと砂かけの微妙な調節が、快適な砂蒸し風呂につながります。いろいろ苦労があります。
 あとで、ちょっと掘ってみて、熱いのを経験してみますか。」
 

 あとで、ほんの少し深く掘ってもらった砂をかけてもらいましたが、熱いのなんの。こんな砂を全身にかけられたら、何分どころか何十秒も持ちません。拷問です。
 ただ砂をかけているだけのように見える係のお兄さんですが、やはりどこにでもプロの技術はあるものです。

「今日はお客さんは少ないですが、賑わうときはすごいんでしょうね?」

「今日は日曜日の夕方ですから、すいています。夏休みでもの平日なら1日120人ぐらい、お盆のときは300人ぐらいです。最も混むのはゴールデンウィークの時で、1日1000人以上になります。」

「えっー、1000人。20人が一度に並んで、一人15分で回転しても、1時間80人だから、すごい人数ですね。」

「すごいときは、最後の客さんの入浴時間は、午後10時頃になります。」

「夜の海岸の砂蒸し風呂も、また風情があっていいかもしれませんね。」

「あのー、熱くなってきたんですけど。」

 砂蒸し温泉の効能は、全身の血行をよくし、老廃物を出すことだそうです。ちょうどサウナのような効果ですが、それ以上に、砂の重しがある分、ちょうど指圧を受けているような効果があるのは、砂蒸し温泉特有のものです。
 とても、気持ちよくリフレッシュできました。


 写真02-05・06 温泉卵もいただきました。50円です。        (撮影日 12/08/05)

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 指宿フェニックスホテルと山川郷土の歴史「薩摩口」   | 先頭へ |

 宿泊は、指宿市十二町にある指宿フェニックスホテルでした。指宿市と山川町とは元々別の自治体でしたが、平成の大合併で、2007年1月1日に指宿市・山川町・開聞町が合併して、新・指宿市が誕生しています。
 
指宿フェニックスホテルは、旧山川町と旧指宿市の境の旧山川町側にあり、目の前には山川湾が広がっています。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、薩摩半島東南部地方(指宿市など)の地図です。

 指宿フェニックスホテルは、上記地図上の指宿病院のやや南西にあります。2段階ズームすると登場します。
 南九州は霧島火山帯に属し、桜島や霧島のような現在でも活動している火山もあります。開聞岳も今は緑に覆われていますが、1000年ほど前までは活火山でした。
 また、火山の噴火口の跡も数多く見られます。池田湖・鰻池は噴火口跡に水がたまったカルデラ湖です。また、山川港は噴火口が海に近かったため、その一部が崩れて海につながり湾となったものです。
 そのため、水深が深く、天然の良港となっています。 
 


 写真02-07 指宿フェニックスホテル 山川湾の対岸の山川町新栄町から              (撮影日 12/08/06)


 写真02-08 ホテルから撮影した山川町市街地(左)と山川湾(右)         (撮影日 12/08/06)

 左正面が山川町の中心部です。右のソテツの木の上が山川湾奥です。


 7時からのおいしい食事が済んで、部屋に戻ろうとしたら、ロビーの一隅で、「ボランティアによる山川郷土史のお話し」というのが開催されようとしていました。妻はもう半分寝かけていましたが、こういうローカルな機会は、いろいろ面白い情報が得られるものです。
 夫婦で眠い目をこすりながら1時間、お話しを聞きました。なかなか面白いお話しでした。
 

 薩摩半島南部一帯は、活火山開聞岳に代表される火山地帯です。池田湖も鰻池も火山のカルデラ湖であり、山川湾も火山の噴火口です。そのため、山川港は昔から水深の深い天然の良港でした。

 江戸時代は、鎖国をしていて日本と外国との交易や外交は長崎の出島に限定されていたというイメージがありますが、それは日本史の授業がつくった間違ったイメージです。出島の他にも、窓口はありました。
 松前は、アイヌとの交易の窓口。対馬は朝鮮との外交の窓口。そして、
薩摩山川は、琉球王国との外交・交易の窓口です。通称、薩摩口です。

 山川の伝統的な産物が4点あります。かつおぶし漬け物サツマイモ焼酎です。

 山川漬けは、文禄元(1592)年に、豊臣秀吉の命令で島津義久が朝鮮に出兵する際に、保存用食料として附近の農家が漬けた漬け物を積み込んだのが起源とされています。4つの中では、一番歴史が古く、400年の歴史があります。

 次に古いのは、サツマイモです。1705(宝永2)年に山川の前田利右衛門が琉球より持ち帰ったとされています。

 元々気温が高い南国でしたので、米から酒を醸造するのは不向きな土地でした。サツマイモの伝播により芋焼酎が造られるようになりました。

 4つの名物のうち、一番新しいものは、鰹節です。まだ、100年の歴史しかありません。枕崎と山川で全国生産の70%程になります。

 

 日本にキリスト教を伝えた人物はご存じですか?そう、フランシスコ・ザビエルですね。彼が初めて上陸したのも、この山川です。

 

 江戸時代末期にモリソン号事件が起きます。その時、来航したモリソン号が砲撃されたのは、この山川児ケ水(ちょがみず)海岸の沖合です。また、このホテルの直ぐ下の海岸に五人番(五人が詰める番屋)があり、そこからモリソン号に水を供給したとのことです。

 山川へ来なければ聞けないお話ばかりでした。

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 山川港のモニュメント   | 先頭へ |

 ボランティアのお話に出てきたことのいくつかは、町内のモニュメントによって確認できました。
 まずは鰹節です。ホテルから山川駅に向かう国道の海端に大きな看板がありました。「
かつお節の本場・山川港」です。


 写真02-09 山川漁港  (撮影日 12/08/06)

 写真02-10 かつお節の本場(撮影日 12/08/05)

 鰹節に関しては、本場は高知県と思っていました。別名「土佐節」と呼ばれることや、土佐のカツオの一本釣りなどの古典的なイメージがあったためです。
 しかし、そうではありません。
 「さつま鰹節協会」のHPなどによれば、現在、鰹節の生産地として最多の生産量を誇るのは、原料となる鰹の水揚げにおいても国内屈指の漁港を持つ鹿児島県
枕崎市指宿市とのことです。平成23年度の鰹節生産量は、鹿児島県枕崎が12,074トン(全体の34%)、山川は10,563トン(全体の34%)です。第3位は、静岡県焼津で6,779トンです。この3地域で、全生産量の95%を占めます。
  ※さつま鰹節協会 
http://www.satsuma-katsuobushi.com/sabu5.html 


 続いてサツマイモです。
 山川駅からぐるっと回って山川漁港へ向かう1本道の県道の漁港の入り口のところに、「さつまいも伝来300年祭実行委員会」の案内板がありました。「
さつまいも上陸地」の説明です。


 写真02-11 サツマイモ上陸地(撮影日 12/08/06)

 写真02-12 300年祭 (撮影日 12/08/06)

 山川の岡児ケ水の住人であった前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ったという案内です。 


 サツマイモ(甘藷)が高校の日本史の教科書に出てくるのは、享保の改革のところです。( )内は読み仮名
「<享保の改革>(前略)また、甘藷(かんしょ)・さとうきび・櫨(はぜ)・朝鮮人参の栽培など、新しい産業を奨励し、漢訳洋書の輸入制限をゆるめるなどした。④
脚注④青木昆陽を登用して救慌(きゅうこう)用の甘藷の普及を実現させ、青木・野呂玄丈にオランダ語を習わせ、蘭学興隆の基礎を築いた。」 

※参考文献1

笹山晴生他著『詳説日本史』'(山川出版 教科書センター用見本)P218-219

  享保の改革というのは、18世紀の前半に8代将軍の吉宗がおこなった改革ですから、その直前の、1705(宝永2)年に鹿児島県の山川港にサツマイモが伝来していたのは、時代的にはよくわかる話です。

 ちょっと詳しく解説します。
 サツマイモの原産地は、中南米です。15世紀末にコロンブスがカリブ海に到達し、それ以降サツマイモがヨーロッパを経由してアジアに伝播していきます。(ヨーロッパ人によらない伝播としては、太平洋のイースターとなどのポリネシアの島々への伝播があります。また、同じヨーロッパ人でも、スペイン人は、支配したメキシコから太平洋を渡ってフィリピンに伝えています。)
 ヨーロッパでは、伝来当初、サツマイモのことを、西インド諸島の呼称である、「
batata」もしくは「padada」がなまって、「ポテト」と呼んでいました。しかし、中南米ほどは暑くない土地柄であるヨーロッパではサツマイモの栽培は広がりませんでした。サツマイモより80年ほど遅れて、同じく中南米からジャガイモが伝わりました。このイモはヨーロッパの涼しい気候に適合し、栽培が広がっていきます。いつのまにか、ヨーロッパで「ポテト」といえば、サツマイモではなく、ジャガイモのことを指すようになったということです。サツマイモとしては名前を乗っ取られた感じです。
  ※参考文献3 財団法人イモ類振興会編『サツマイモ事典』(財団法人イモ類振興会 2010年)P44-45
   以下、サツマイモとイモ焼酎に関しては、この文献を参考にしました。

 サツマイモは、ヨーロッパを経て、16世紀の末には中国まで伝播しました。そののち、1605(慶長10)年には、琉球の
野國總管(明への朝貢船の事務長を務める)が鉢植えにしたサツマイモを琉球へ伝え、それから僅か15年で琉球本島全域に広がりました。
 さらに、1698年には種子島の領主種子島久基によって種子島に伝えられ、栽培が広がっていきます。そして、案内板の説明のように、1705年に山川の
前田利右衛門によって、琉球から薩摩へサツマイモ伝えられたというわけです。もっとも、現在でも、薩摩ではこのイモのことをサツマイモとはいわず、「カライモ」と呼んでいます。中国(唐=カラ)から伝わったイモといういう意味です。利右衛門は、琉球との貿易に従事する山川港の船乗りでした。

 そして、
青木昆陽です。
 将軍吉宗の享保の改革を支えた人物に、大岡越前守忠相がいます。青木昆陽は、大岡越前に取り立てられていましたが、1733年にはサツマイモが
備荒作物、つまり米などが不作の場合に大飢饉になることを救う作物として優れた性質を持っていることを『蕃藷考』(ばんしょこう)という本にまとめて将軍吉宗に提出しました。
 おりしも、その前年の1732年には、西日本を中心としてウンカの被害を原因とする
享保の大飢饉(江戸時代3大飢饉のひとつ、残りは天明の大飢饉、天保の大飢饉)を経験していました。その時点ですでに栽培されていた場所(例 伊予(現愛媛県)の大三島)においては、この大飢饉の時に多くの人を救ったのです。

 将軍吉宗は、1734年に
青木昆陽を薩摩芋御用掛に任命し、救荒作物としてサツマイモの栽培を奨励させました。薩摩から小石川薬草園等に運ばれて試し植えされたサツマイモは、やがて全国へ栽培が広がっていきます。
 サツマイモは貯蔵することに難がある以外は、作物本体がほふく性の地上部をもつという性質から風害や干ばつに強く、また大被害を与える病害虫も少なく、エネルギー源としてのでん粉をイモに多量に含み、さらに鉄、カルシウムなどのミネラルも含んでいて、栄養価が高い作物だったのです。

 これを極端に短く表現すると、教科書のような無味乾燥した文章となります。(^_^)

 また、気温が温かすぎて米から清酒をつくることに不向きな鹿児島では、古くから米焼酎が生産され飲まれてきました。サツマイモのが伝播してからは急速にイモ焼酎がひろまり、明治時代には、すでに米焼酎:イモ焼酎=3:7となっていました。
 戦後は、焼酎醸造の技術的な改良が進み、酒の法制度上の正式な分類、「乙類焼酎」に代わって、「本格焼酎」(名付け親は宮崎県の業者)という呼称を広めることに成功して、イモ焼酎は今や鹿児島を代表するブランドとなりました。酒が飲めない私には、ほとんどぴんと来ませんが・・・・。(-_-;)


 ここまでは、ボランティアさんのお話は、現地ならではの、「目から鱗の知識」でした。
 しかし、次の二つについては、ボランティアさんのお話について深く考えなければなりません。

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 ちょっと確かめたいお話し1 ザビエル上陸地   | 先頭へ |

 ボランティアさんのお話のうち、ちょっと確かめたいお話しが二つありました。そのうちの一つは、山川がザビエル上陸の地という点です。
 実は、上の「
さつまいも上陸地」の看板の右下に、「ザビエル上陸の地」という木製の道標が立っています。


 写真02-12 漁港の県道脇 (撮影日 12/08/05)

 写真02-13 ザビエルの碑(撮影日 12/08/05)

 左の写真の右手が漁港です。「さつまいも上陸地」と「ザビエル上陸の地」の案内は、左奥の白いビルのやや向こうにひっそりと立っています。自動車でスピードを出して走っていると、見逃して過ぎてしまいます。私は、この前を3度通り過ぎました。 


 これは、通説とは大きく違っています。
 どの教科書も、ザビエルの到着地は「鹿児島」と表現しています。この場合の「鹿児島」は、現在の鹿児島県という意味ではなく、鹿児島市の特定の場所という意味です。実際に、
鹿児島市の祇園之洲公園には、この近くにザビエルが上陸したことを記念して、「ザビエル上陸記念碑」が建立されています。上の山川港の標識とは、建築費の比較では、比較しようもないきな構造物です。
 私も長年日本史の授業で、「
ザビエルは鹿児島に上陸し」と教えてきました。

 また、公刊されているザビエルの書簡を見ても、
「こうして神は私たちが憧れていたこの地にお導きくださり、1549年8月、聖母の祝日(15日)に到着したのです。日本の他の港によることができず、聖信のパウロの郷里である鹿児島(Cangoxima)にやってきました。」
   ※参考文献4 河野純徳訳『フランシスコ・ザビエル全書簡』(平凡社 1985年)P474
とあります。これを素直に読めば、直に鹿児島にやってきたと読み取れます。
 では、上の山川港の「ザビエル上陸の地」は、一体何なのでしょうか?

 岐阜の図書館等で手に入る文献、つまり、全国版の文献では、どれを見ても上陸地は鹿児島です。
 山川港の標識は、どういう資料をもとに考証されたのでしょうか。
 こういう時に、どこに聞いて調べるのがいいでしょうか?

 文献資料のことなら、インターネット等の不確かで断片的な情報を苦労して探すより、なんといってもここに聞くのが一番です。
 8月26日に、
指宿市立図書館山川図書館に電話してみました。

「すみません。岐阜県のものですが、今月初めに、鹿児島県に旅行し、山川港にも行きました。お世話になりました。大変お忙しいところ申し訳ありませんが、山川の歴史について、二つレファレンスをお願いしたいのです。
 その時、指宿フェニックスホテルで地元ボランティアの方のお話しがあり、山川港はフランシスコ・ザビエル上陸の地であることを聞きました。翌朝、妻と二人で自動車で行ってみると、確かに山川漁港のかたわらに、ささやかな標識がありました。
 ところが、旅行から帰っていくら調べてみても、文献上、ザビエルの山川上陸は資料で確認できませんでした。地元でそのように話され,標識まであるのですから、きっと、そちらでは
根拠となる文献資料があると思うのですが、教えていただけないでしょうか?」

「ザビエルの山川上陸ですか。今すぐにはわかりませんので、お時間をいただきます。連絡方法を教えて下さい。」

「では、こちらからメールを送りますので、それに返信をして下さい。」

 そんなことを図書館に聞いていいのですか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。
 大丈夫なんです。
 図書館は、あらゆる文献に関する
調べ物相談を、時間的に可能な限り受けてくれます。これが、レファレンスです。

 9月3日現在、まだ返事は帰ってきてません。
 解明でき次第、お話しします。
02/09/10 答えがきました。追加記述です↓】 

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 ちょっと確かめたいお話し2 モリソン号事件と山川港 | 先頭へ |

 ボランティアさんのお話について、もう一つ疑問点があります。これはいささか細かい部分です。ただし、私がちょっとこだわっていた事件の一部でしたので、ザビエル上陸地以上に興味を持ちました。その内容は、モリソン号事件についてです。

モリソン号事件って何?」

「江戸時代、日本はずっと鎖国政策を続けていた。1700年代末から外国の通商要求がしだいに高まってくる。その一つに、アメリカのモリソン号の来航がある。1837年のことだ。モリソン号は、日本人の漂流民をつれて来航し、通商を求めたが、江戸湾口の浦賀で砲撃され、さらに鹿児島湾口の山川でも砲撃され、退散した。」

「なぜ日本人漂流民を助けてつれて来てくれた恩人を、砲撃するなんてことをしたの?」

「アメリカ側もそこがねらいだったのだが、当時江戸幕府は、1825(文政8)年に来港外国船に対する非常に強硬な対応を命令していた。異国船打払(うちはらい)と呼ばれているが、来港したオランダ・中国以外の外国船は、理由はどうあれ、躊躇なく砲撃して打ち払えという命令だ。原文では、躊躇することなくを、「無二念」(二念無く)と表現していることから、無二念打払令ともいわれる。」

「浦賀でも山川でも、その命令通り砲撃したということね。」

「そのとおり。漂流民を乗せていることは考慮されなかった。」


  これまた教科書には、簡単に記述されています。
 モリソン号事件が教科書に登場するのは、水野忠邦の天保の改革の前の部分です。( )内は読み仮名
「<大塩の乱>(前略)国内問題(内憂)に加えて、対外問題(外患)も続いていた。1837(天保8)年アメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易をはかろうとしたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させた(モリソン号事件)。」

※参考文献1

笹山晴生他著『詳説日本史』'(山川出版 教科書センター用見本)P218-219


「モリソン号ってのは、ペリーの来航とはどう違うの?」

「う~ん。いろいろ違うけれど、まず、ペリーは大統領の命令でやってきた国の正式な使節、モリソン号は、当時中国で活躍していたアメリカの民間会社の船で、政府とは関係がない。ペリーは軍艦を率いて来たが、モリソン号は元々商船で、搭載していた少数の大砲もわざわざおろしてやってきた。」

「ペリーとは、重々しさが違う。」

  「とはいえ、漂流民たちにとっては、苦労の結果やっと手にした、本国に帰ることができる機会だった。」 

 教科書には掲載されていませんが、「日本人漂流民」7人の名前も、遭難時の状況も、その後の経過も概ねわかっています。漂流者は二つのグループからなり、一つは、尾張国知多郡美浜町小野浦の船で三重県の鳥羽港に所属していた宝順丸(1832年11月遠州灘で遭難、14ヶ月後アメリカ大陸西海岸、現合衆国オレゴン州北端に漂着)の3人、肥後(熊本県)の庄蔵の持ち船(船名不詳、1835年12月天草沖で遭難、35日後フィリピンに漂着)の4人でした。
 このページのモリソン号の記述については、宝順丸の最年少漂流者、音吉を主人公にした次のノンフィクションに依拠しています。

参考文献5 春名徹著『にっぽん音吉漂流記』(中央公論社 中公文庫版 1988年)
この作品は、1980年第11回大宅壮一ノンフィクション賞、日本ノンフィクション賞を受賞。

 日本漂流民が日本へ帰る現実的な方法としては、長崎に出入りして貿易をおこなっている中国船に乗って長崎に運ばれるというのが行われていました。
 しかし、この7人は、アメリカの中国貿易の商社オリファント商会の出資者であるチャールス・ウィリアム・キングの支配下に入り、交易の扉を開く手段として利用されてしまいました。つまり、江戸幕府との交渉の種と考えられたのです。
 しかし、江戸幕府は、モリソン号が日本へやってきた時期は、1825年の
異国船打払令によって、もっとも強硬な外交方針をとっていた時期(1842年の天保の薪水給与令で緩和)であり、モリソン号は自ら武装を外して平和な交渉をポーズしましたが、日本側は堅持した方針を貫くのみでした。
 1837年7月30日に浦賀に近づくとすでに遠くから砲撃を受け、日本側砲台から遠く離れた野比沖(現在の横須賀市野比、浦賀湾の一つ南がのちにペリーが上陸する久里浜、そのもう一つ南が野比海岸)に停泊しましたが、翌7月30日は夜明けとともに海岸の大砲(夜中に移動して来て布陣)から至近距離の砲撃を受け、緊急避難しました。そのうち1弾は船の前部に命中して軽微な損害を与えています。

 そのまま中国へもどるか、他の港に立ち寄るか検討された結果、モリソン号は、薩摩に入港することを決意します。
 薩摩が選ばれたのは、ひとつは当時の風と操船の状況によるものであり、もうひとつは最強の軍事力を持つと評判があり自立の気風が強い薩摩藩なら別の状況が展開するかもしれないという、漂流民たちの意見によるものでした。
 8月10日の朝、
大隅半島の南端の佐多岬を回ったモリソン号は、ほど近い佐多浦の沖に停泊し、ボートをおろして、薩摩藩側役人との交渉を行いました。この時には、浦賀での失敗を懲りて、漂流民二人を伴って事情を説明し、キングの文書を渡すことに成功しました。
 しかし、文書の鹿児島への報告は拒否され、午後になって薩摩半島側への移動を命じられます。そして、山川港の西、児ケ水の浜の沖合1,200m、水深11m程のところに停泊しました。

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 8月11日は、水の供給があっただけで何事もなく経過しました。
 しかし、翌12日の朝には、小舟が近寄って、「漂流民の受け入れは拒否され、船は撃退されるはずだ」という予告があり、ほどなく、海岸には幔幕が引かれ、中では慌ただしく何かが準備されはじめました。
 そして、程なくして幔幕の中から砲撃が始まりました。
 もはや交渉は無理だと悟ったモリソン号は、逆風の中、児ケ水をあとにし、東シナ海を中国に向かわざるを得ませんでした。


 写真02-14 児ケ水の風景 海を挟んで対岸は大隅半島佐多岬             (撮影日 12/08/06)

 1837年8月12日早朝、モリソン号はこの沖合で砲撃を受け、「脱出」します。


 さて、ボランティアのお話しでは、モリソン号は現在の指宿フェニックスホテルの下の海岸にあった「五人番」から水の供給を受けたとのことです。考えられることは三つです。

 「五人番」という番所があったことから推定された単なる想像で、事実を示す根拠はない。

 モリソン号が上記の推定航路から離れて、山川湾の方へ移動し、五人番から補給を受けた。

 「五人番」から小舟を出し、児ケ水のモリソン号まで水を運んだ。

 これも、何か資料があって確かめられれば、幸いです。
 ということで、このことについても
指宿市山川図書館の司書さんに、根拠となる資料があるかどうか、調べていただくことをお願いしました。
 これはザビエル以上に細かいことなので、正直なかなか難しい質問だとは思いますが、さすが司書さん、「とにかく挑戦しますから、少しお時間を下さい。」とのことでした。
 大変ですけど、よろしくお願いします。
02/09/10 答えがきました。追加記述です↓】  


 モリソン号漂流民音吉については、この旅行を機会にたくさん勉強できましたので、また、別に日本史クイズでさらに内容を深めたいと思います。乞うご期待。

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 追加記述12/09/10 暫定的結論 ザビエル上陸の地・モリソン号への給水

 ボランティアさんのお話から、二つの疑問点が浮かび上がり、それをについて、指宿市立山川図書館の司書さんに、電話とメールでレファレンスをかけていました。2012年9月6日に担当の司書さんから、メールをいただきました。お世話をおかけしました。


① モリソン号へ番屋から給水がされたことについて                 ↑疑問の発端はこちら

 ボランティアさんは、フェニックスホテル下にあった「五人番」からモリソン号に給水がされたというお話しでしたが、そのことを具体的に書いた資料は見つからなかったとのことです。
 山川図書館の司書さんの調査では、
モリソン号について、
「(前略)同十二日難民ハ宜シク和蘭人ニ依嘱スベキヲ示シ、而テ国法ニ依リテ放撃スベキヲ示喩ス、難民等百方哀願スト雖モ、素ヨリ国法ノ允サゝル処ナルガ故、食糧薪水ヲ与ヘテ慰諭シ…」
と書かれている文献を教えてもらいました。
  ※参考文献6 鹿児島県歴史資料センター黎明館(編)「鹿児島県史料 斉宣・斉興公史料」P256

 12日というのは、モリソン号滞在第3日目の児ケ水滞在時の日付です。
 史料の大意は、この日に難民受け取りの拒否を示し(長崎で対応するという理由から)、さらに命令通りの打ち払いの実施を告げ、このため漂流民の哀願があったので食糧薪水を与えて慰めたという意味になるでしょう。
 一方、モリソン号側の外国人の史料にも依拠している春名徹『にっぽん音吉漂流記』には、10日と11日に児ケ水で「水を与えられた」と記載しており(P150・151)、記述に矛盾が見られます。
 
 どうもこの問題は、今のところ、これ以上の解明は無理で、推定するに、児ケ水に停泊するモリソン号に、日本側が小舟で水を供給したという、ごく普通の推定ができるだけのようです。
 図書館からボランティアさんに史料のあるなしもわざわざ聞いていただきましたが、「依拠する史料はない」とのことでした。


② 山川港のそばに、「ザビエル上陸の地」という標識案内があることについて ↑疑問の発端はこちら

 山川図書館のからの説明は、ザビエルの山川入港についても、それを示す史料は見つからなかったとのことでした。
 ただ、こちらは調べていただいて、はっきりしたことがあります。
 「
ザビエル上陸の地」の標識を立てたのは、指宿市教育委員会とかではなく、「元気な山川町づくりの会」(地元のボランティアの団体さん)でした。標識を立てた当時の会長さんに聞いていいただきましたが、確固たる史料に基づいたわけではないとのことでした。
 また、地元の歴史研究家の方にも聞いていただきましたが、「ザビエル上陸」を示す文献は存在していない」とのことでした。

 といってしまえば、「なんだ、地元の方の捏造か」ということになり元も子もありませんが、私には、「元気な山川町づくりの会」の方々の思いもわからぬ分けではありません。
 それは次のような事実があるからです。
 日本史や世界史の教科書の世界には出てきませんが、実は、ザビエルには日本行きを決心させ、一緒に行動した日本人がいます。通称
アンジロー(日本名は正式にはヤジローだったと思われる。1510年頃の生まれ)という人物です。彼は、日本で殺人を犯し、1546年に山川の港からポルトガルの商人、ジョルジェ・アルヴァレスの船によって脱出をしました。インドのゴアでキリスト教徒の洗礼を受けた後、1547年マラッカでフランシスコ・ザビエルと出会います。このヤジローこそが、ザビエルに日本でのキリスト教布教の可能性を示し、日本行きを決意させた人物です。
  ※参考文献7 大住広人著『ザビエルとヤジロウの旅』(葦書房 1999年)P22-91

 話を元に戻します。
 
ヤジローを乗せてマラッカまで連れて行った商人ジョルジェ・アルヴァレスは、マラッカでザビエルの依頼を受け日本で見聞きしたことを『日本報告』という本に著しました。これは来日経験者のヨーロッパ人が書いた最初の本格的な日本見聞記という位置づけになります。この本には、日本人が名誉を重んじ盗みを厳しく罰することや、知識欲が豊富なこと、食事は少量で肉を食べないことなどが書かれていますが、米で造る焼酎を飲むことや、海岸の砂を掘って温泉に入る様子なども記述されています。
  ※参考文献8 原口泉・永山修一・日隈正守・皆村武一著『県史46 鹿児島県の歴史』P155-156

 これを読めば、『日本報告』というよりは、自分が見聞きした「鹿児島報告」であり、とりわけ、「指宿・山川報告」となっています。読んだザビエルから見れば、事実上
山川港こそが日本の入り口と写ったはずです。当然、来日する場合は、真っ先に立ち寄る港は鹿児島湾口の山川港となるのが普通の発想です。
  
 山川図書館の司書さんも書いておられます。
 ザビエル上陸の地の標識は、「ジョルジ・アルバレスやヤジロウとの関わりもあり、こういったことがあったのでは、との思いや願いも込められての設置のようです。」
 そうでしょう。その心意気や、立派です。ボランティアのみなさん頑張ってください。

 ボランティアさんや指宿市立山川図書館の司書さんの、あちこち問い合わせていただいた丁寧なレファレンス(調べ物案内)のおかげで、いろいろなことや地元のみなさんの思いもわかりました。
 ただの風景見学や物見遊山ではない、コミュニケーションが広がるひと味違う旅は、なかなかいいものです。

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 【九州両端旅行 参考文献一覧】
  このページ02の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

今吉弘編『鹿児島県の不思議事典』(新人物往来社 2003年)

笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦他著『詳説日本史』'(山川出版 2012年 教科書センター用見本)

財団法人イモ類振興会編『サツマイモ事典』(財団法人イモ類振興会 2010年)

河野純徳訳『フランシスコ・ザビエル全書簡』(平凡社 1985年)

春名徹著『にっぽん音吉漂流記』(中央公論社 中公文庫版 1988年)

  鹿児島県歴史資料センター黎明館(編)「鹿児島県史料 斉宣・斉興公史料」(鹿児島県 1985年) 
  原口泉・永山修一・日隈正守・皆村武一著『県史46 鹿児島県の歴史』(山川出版 1999年) 


 歴史の勉強が長くなりましたが、旅行記は、2日目の鹿児島市内へ向かいます。次の3ページ目へ続きます。


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