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南の端の話を続けます 山川港について 12/09/03記述 12/09/10追加| 先頭へ | |
JR最南端の駅・西大山駅、JR最南端の有人駅・山川駅の話のあとは、山川の歴史についていろいろ考えてみました。 |
まず指宿・山川と言えば・・・・砂蒸し温泉(風呂) | 先頭へ | |
本題に入る前に、指宿・山川と言えば、やっぱり砂蒸し温泉(風呂)ですね。
砂蒸し温泉は、指宿市の摺ケ浜(すりがはま)海岸と、山川(現在は合併して指宿市の一部)の伏目海岸の二カ所にあります。霧島火山帯の温泉群の一つです。 |
写真02-01 湯煙と開聞岳(撮影日 12/08/05) |
写真02-02 砂湯里(撮影日 12/08/05) |
砂湯里からは児ケ水(ちょがみず)の海岸線越しに開聞岳が遠望できます。写真は、元々の雲に加えて湯煙も重なってぼんやりしています。 |
写真02-03 この日は閑散日(撮影日 12/08/05) |
写真02-04 この砂が熱い(撮影日 12/08/05) |
脱衣場でゆかたに着替えて砂蒸し風呂に入り、終わったら温泉でかけ湯して普通にお湯の温泉(伏目温泉、ナトリウム-塩化物温泉)に入るという入浴方法です。 |
脱衣場で下着も全部脱いで、浴衣一つに着替えて、海岸の砂浜にある「砂蒸し温泉」に向かいます。
妻の疑問の気持ちはわかります。確かに、下着も全部脱いで、男女が並んで砂蒸し風呂に並ぶのは、普通ではありません。この日は妻以外に誰もいませんでしたからなんの楽しみもありませんでしたが、若い女性が隣にいたら・・・、ちょっと色っぽいです。今度は、繁忙期に来よう。 他にお客がいないおかげで、係のお兄さんとの会話が弾みました。砂をかけてもらいながらの会話です。
あとで、ほんの少し深く掘ってもらった砂をかけてもらいましたが、熱いのなんの。こんな砂を全身にかけられたら、何分どころか何十秒も持ちません。拷問です。
砂蒸し温泉の効能は、全身の血行をよくし、老廃物を出すことだそうです。ちょうどサウナのような効果ですが、それ以上に、砂の重しがある分、ちょうど指圧を受けているような効果があるのは、砂蒸し温泉特有のものです。 |
写真02-05・06 温泉卵もいただきました。50円です。 (撮影日 12/08/05) |
指宿フェニックスホテルと山川郷土の歴史「薩摩口」 | 先頭へ | |
宿泊は、指宿市十二町にある指宿フェニックスホテルでした。指宿市と山川町とは元々別の自治体でしたが、平成の大合併で、2007年1月1日に指宿市・山川町・開聞町が合併して、新・指宿市が誕生しています。 |
上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、薩摩半島東南部地方(指宿市など)の地図です。 |
指宿フェニックスホテルは、上記地図上の指宿病院のやや南西にあります。2段階ズームすると登場します。 |
写真02-07 指宿フェニックスホテル 山川湾の対岸の山川町新栄町から (撮影日 12/08/06) |
写真02-08 ホテルから撮影した山川町市街地(左)と山川湾(右) (撮影日 12/08/06) |
左正面が山川町の中心部です。右のソテツの木の上が山川湾奥です。 |
7時からのおいしい食事が済んで、部屋に戻ろうとしたら、ロビーの一隅で、「ボランティアによる山川郷土史のお話し」というのが開催されようとしていました。妻はもう半分寝かけていましたが、こういうローカルな機会は、いろいろ面白い情報が得られるものです。
山川へ来なければ聞けないお話ばかりでした。 |
山川港のモニュメント | 先頭へ | |
ボランティアのお話に出てきたことのいくつかは、町内のモニュメントによって確認できました。 |
写真02-09 山川漁港 (撮影日 12/08/06) |
写真02-10 かつお節の本場(撮影日 12/08/05) |
鰹節に関しては、本場は高知県と思っていました。別名「土佐節」と呼ばれることや、土佐のカツオの一本釣りなどの古典的なイメージがあったためです。 |
続いてサツマイモです。 |
写真02-11 サツマイモ上陸地(撮影日 12/08/06) |
写真02-12 300年祭 (撮影日 12/08/06) |
山川の岡児ケ水の住人であった前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ったという案内です。 |
サツマイモ(甘藷)が高校の日本史の教科書に出てくるのは、享保の改革のところです。( )内は読み仮名
享保の改革というのは、18世紀の前半に8代将軍の吉宗がおこなった改革ですから、その直前の、1705(宝永2)年に鹿児島県の山川港にサツマイモが伝来していたのは、時代的にはよくわかる話です。 |
ここまでは、ボランティアさんのお話は、現地ならではの、「目から鱗の知識」でした。 |
ちょっと確かめたいお話し1 ザビエル上陸地 | 先頭へ | |
ボランティアさんのお話のうち、ちょっと確かめたいお話しが二つありました。そのうちの一つは、山川がザビエル上陸の地という点です。 |
写真02-12 漁港の県道脇 (撮影日 12/08/05) |
写真02-13 ザビエルの碑(撮影日 12/08/05) |
左の写真の右手が漁港です。「さつまいも上陸地」と「ザビエル上陸の地」の案内は、左奥の白いビルのやや向こうにひっそりと立っています。自動車でスピードを出して走っていると、見逃して過ぎてしまいます。私は、この前を3度通り過ぎました。 |
これは、通説とは大きく違っています。
そんなことを図書館に聞いていいのですか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。 |
ちょっと確かめたいお話し2 モリソン号事件と山川港 | 先頭へ | |
ボランティアさんのお話について、もう一つ疑問点があります。これはいささか細かい部分です。ただし、私がちょっとこだわっていた事件の一部でしたので、ザビエル上陸地以上に興味を持ちました。その内容は、モリソン号事件についてです。
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これまた教科書には、簡単に記述されています。
教科書には掲載されていませんが、「日本人漂流民」7人の名前も、遭難時の状況も、その後の経過も概ねわかっています。漂流者は二つのグループからなり、一つは、尾張国知多郡美浜町小野浦の船で三重県の鳥羽港に所属していた宝順丸(1832年11月遠州灘で遭難、14ヶ月後アメリカ大陸西海岸、現合衆国オレゴン州北端に漂着)の3人、肥後(熊本県)の庄蔵の持ち船(船名不詳、1835年12月天草沖で遭難、35日後フィリピンに漂着)の4人でした。
日本漂流民が日本へ帰る現実的な方法としては、長崎に出入りして貿易をおこなっている中国船に乗って長崎に運ばれるというのが行われていました。 |
8月11日は、水の供給があっただけで何事もなく経過しました。 |
写真02-14 児ケ水の風景 海を挟んで対岸は大隅半島佐多岬 (撮影日 12/08/06) |
1837年8月12日早朝、モリソン号はこの沖合で砲撃を受け、「脱出」します。 |
さて、ボランティアのお話しでは、モリソン号は現在の指宿フェニックスホテルの下の海岸にあった「五人番」から水の供給を受けたとのことです。考えられることは三つです。
これも、何か資料があって確かめられれば、幸いです。 |
モリソン号と漂流民音吉については、この旅行を機会にたくさん勉強できましたので、また、別に日本史クイズでさらに内容を深めたいと思います。乞うご期待。 |
追加記述12/09/10 暫定的結論 ザビエル上陸の地・モリソン号への給水 |
ボランティアさんのお話から、二つの疑問点が浮かび上がり、それをについて、指宿市立山川図書館の司書さんに、電話とメールでレファレンスをかけていました。2012年9月6日に担当の司書さんから、メールをいただきました。お世話をおかけしました。 |
ボランティアさんは、フェニックスホテル下にあった「五人番」からモリソン号に給水がされたというお話しでしたが、そのことを具体的に書いた資料は見つからなかったとのことです。 12日というのは、モリソン号滞在第3日目の児ケ水滞在時の日付です。 |
山川図書館のからの説明は、ザビエルの山川入港についても、それを示す史料は見つからなかったとのことでした。 ボランティアさんや指宿市立山川図書館の司書さんの、あちこち問い合わせていただいた丁寧なレファレンス(調べ物案内)のおかげで、いろいろなことや地元のみなさんの思いもわかりました。 |
【九州両端旅行 参考文献一覧】
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歴史の勉強が長くなりましたが、旅行記は、2日目の鹿児島市内へ向かいます。次の3ページ目へ続きます。 |
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