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 鹿児島の歴史と伝統  | 先頭へ ||旅行記目次へ

 鹿児島という場所は、日本の数ある地域の中でも、有数の歴史的伝統を持つ地域です。歴史というのはどこの地域にもあるといえばあるものですが、その地域の人々がどのくらいそれを意識しているかによって、あるなしが違ってきます。
 そういう意味では、一つの大名家である
島津家が、中世以来長くこの地を統治し、現在もその当主(第32代修久〔のぶひさ〕氏)が、地元の経済界等の中心人物として活躍されているというのは、他ではないことです。
 ここでは、その鹿児島の歴史と伝統をほんの少し紹介します。
 
 ところで、鹿児島では、大学時代からの友人、安川氏(Y氏)の世話になりました。彼は、元々は神戸の出身ですが、現在は
株式会社島津興業仙巌園(下で説明します)の常務取締役しており、鹿児島で案内をしてもらうにはうってつけの人物でした。以下、このページで時々登場します。

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 鶴丸城と路面電車   | 先頭へ |

 そもそも、島津氏と鹿児島との縁はいつはじまったのでしょうか?島津氏の名字となった島津とはどこの地名なのでしょうか?

 その物語は、11世紀前半にさかのぼります。
 11世紀、すでに律令国家体制は大きく変容し、地方は、中央政府から徴税請負人の地位を与えられていた国司(どんな内容の政治を行ってもかまわないが一定の租税は中央政府に納める)による公領支配と、地方有力者が中央の貴族や寺社の権威を頼って成立させた荘園とが混在する
荘園公領体制となっていました。
 この時代、太宰府の役人をしていた人物に、平季基(すえもと)という武士がいました。季基は、教科書にも出てくる、平将門の乱の鎮圧者である平貞盛の弟の子孫ということが判明しています。
 平季基は、誰も所有していなかった土地を開発し、万寿年間(1024~28年)に、藤原頼通に寄進して荘園として成立させたました。この荘園こそが
島津の荘です。
 その荘園となった土地の場所はというと、
日向国諸県郡島津の地です。現在の宮崎県都城市郡元付近(日豊本線都城駅の北東2km程の地域)です。つまり、「島津」の根源は、実は鹿児島県内ではなく、宮崎県ということです。


 しかし、その後島津荘は、その領域を隣接する大隅国(鹿児島県東部)や薩摩国に拡大していきます。
 平氏政権の時代になると、以前から太宰府を押さえていた平氏の九州支配は強まりました。平清盛の弟の忠度(ただのり)が「薩摩守」の名前でよく知られているように(隠語では、列車の「ただ乗り」は、「サツマノカミ」)、平氏の支配が薩摩にまで及んでいました。もっとも、忠度自身は、薩摩守となっても現地には赴かない遥任国司であり、家来が現地を支配していました。そして、
島津荘も平氏によって支配されたのです。

 治承・寿永の内乱(源平の争乱)が終わり鎌倉幕府が成立すると、1185(元暦2)年
惟宗忠久(これむねただひさ)という人物が、薩摩・大隅・日向に広大な領地を持つ島津荘の下司職(げすしき)に任命されました。

薩摩国だけに限っていえば、国内総田数4010町7段のうち、島津荘は2934町3段と相当な面積を占めていました。ただし、このうち一円支配地(年貢等すべてを徴収する権利をもっている支配地)は少なく、多くは国司の方にも租税の一部を得る権利がある土地でした。

下司職(げすしき)というのは、荘園の現地を支配する荘官の呼称の一つです。

 さらに、1197(建久8)年、惟宗忠久は薩摩・大隅両国の守護となりました。
 この
惟宗忠久というのが、島津家の祖となる人物です。この一族の祖先は、古代史で高校の教科書にも登場する渡来人の秦氏です。惟宗一族は、朝廷や藤原摂関家に実務官僚として仕えました。
 通常、鎌倉幕府成立時に守護や地頭に任命された御家人は、源頼朝の縁がある東国の御家人という説明がなされますが、この惟宗氏はそういうタイプの御家人ではなく、全く別の経歴の一族です。鎌倉政権としては、摂関家との関係も考えて、この一族を重用する必要があったのでしょう。
 
惟宗氏は、1198年に領地の荘園名、島津を名字として、島津忠久と名乗ります。
 
 
島津氏は、北条氏に対抗した比企能員(よしかず)一族の事件に連座して、守護職・総地頭(下司)職を解任されてしまいますが、続いて起こった和田義盛一族の反乱事件の鎮圧に寄与したことで、再び、薩摩国守護に任命され島津荘薩摩方総地頭職を与えられています。
 ただし、
島津氏の初代忠久や2代目忠時の時代は、全く現地薩摩には赴任せず、鎌倉に在住していました。しかし、3代久経(ひさつね)は、蒙古襲来に対する諸国の警備動員の時期に、領国の支配の強化の必要性を感じ薩摩に向かいました。これを機会に、島津氏は薩摩の地に根を広げていくことになります。
  ※参考文献1 原口泉・永山修一・日隈正守・皆村武一著『県史46 鹿児島県の歴史』P78-128


 島津氏歴代当主で最初に現在の鹿児島市に居城を構えたのは、5代島津貞久です。南北朝争乱期の1341(暦応4)年に、敵方の東福寺城を攻略して本拠としました。(場所は鹿児島駅北東の海岸線)
 その後いくつかの変遷を経て、第18代
家久の時に、城山(旧名上山)とその麓の居館を一体とした居城が整備されました。
 
鶴丸城と呼び習わされていますが、これは俗称で、正式には鹿児島城といいます。当初は城山を本拠とする山城でしたが、山城部分はしばらくして使われなくなり、裾野の居館部分が鶴丸城と呼ばれるようになりました。
  ※参考文献2 松尾千歳著『鹿児島歴史探訪』(高城書房 2005年)P68

 鹿児島県立図書館にある寛文10年頃の「薩藩御城下絵図」には、「大隅守居宅」と書かれて部分があり、これがいわゆる本丸で、現在鹿児島歴史資料センターが建っています。


 写真04-01 鶴丸城御楼門跡 (撮影日 12/08/07)

 写真04-02 ここにも弾痕が(撮影日 12/08/07)

 鶴丸城には他の近世城郭と比べて、大きな特色があります。城とは言え、数百メートル四方を一重の堀と塀で囲っただけの建築物で、城郭的要素の乏しい居館というべきものでした。もちろん、天守閣はありません。 


 写真04-03 黎明館 (撮影日 12/08/07)

 写真04-04 篤姫像  (撮影日 12/08/07)

 左:御楼門から入って直ぐのところに、鹿児島県歴史資料センター黎明館があります。
 右:黎明館の敷地の北端に、2008(平成20)年のNHK大河ドラマ『篤姫』の像が建っていました。「天璋院篤姫像」です。いつの建立かと思って説明板を見たら、「NHK大河ドラマ「篤姫」の放送にあわせて設置した「篤姫館」は県内外から66万人余りの入館者を見た。この像は、その収益を基に、天璋院の功績を顕彰するために建立するものである。
 平成22年12月19日  「篤姫館」実行委員会 制作 中村晋也」
 とありました。とてもわかりやすい、新しい像です。

「篤姫は、今年も何回目だかの再放送をBSでやっている。一体どういう理由であんなに人気があるんだろう?」

「毎週見ている。」

Y氏

「あのドラマは、女性が苦労して立身出世していくドラマで、女性に受ける基本的要因をもっていて成功した。ちょうど、昔の「おしん」のようなドラマなんだ。」


 さて、鹿児島市内には、鹿児島市交通局が運営する路面電車が走っています。
 ここでいつものシリーズ、
お城と路面電車に挑戦しなければなりません。とはいっても、鶴丸城には元々天守閣はありませんから、熊本・高知・松山・岡山のように、天守閣と路面電車というわけにはいきません。
 これは、このページではなく、
目から鱗の話:「各地の鉄道26 各地の路面電車 その9 鹿児島市電 電車と城6」をご覧ください。(2012年10月中旬以降にアップロードします。)


 写真04-05 鹿児島中央駅前の路面電車              (撮影日 12/08/06)

 一部の軌道敷の芝生化が実施されており、中央支柱とあわせて、とても美しい落ち着いた景観をつくっています。

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 仙巌園・尚古集成館(旧島津家庭園・工場)   | 先頭へ |

 このページの主役は、島津家です。電車ではありません。(^_^)

 
島津家の財産は、明治維新後いろいろ紆余曲折を経て、現在では、株式会社島津興業によって管理運営されており、同社は、観光業・ゴルフ場経営・林業等を業務としています。

Y氏

「旧大名家の財産が株式会社の形で運営されているというのは、全国でも島津家以外には例がない。」

 その中心が仙巌園(せんがんえん、文化財指定 名勝)です。仙巌園というのは、もともと島津家第19代島津光久によって、1658年に築かれた別邸と築庭です。鹿児島駅の北東2km程の海浜沿いにあります。名前の由来は、中国の江西省にある奇岩名勝の地、龍虎山の仙巌にあります。
 単なる日本庭園ではなく、中国伝来の孟宗竹の竹林・千尋巌など、中国・琉球文化の影響が至る所に見られる庭園です。
 明治維新以後も庭園として維持され、1891年に来訪したロシア皇太子ニコライ2世(このあと大津事件で警官に斬りつけられます)の日記には、「(仙巌園は)日本人の得意な手の込んだ造作がある素晴らしい庭」と書かれています。
  ※参考資料3 松尾千歳(現尚古集成館副館長)著『鹿児島歴史探訪』P204-205

 また、直ぐ隣にある
尚古集成館は、1851年に藩主となった島津斉彬が、仙巌園のすぐ西にある竹藪を切り開いて、下で紹介する溶鉱炉と反射炉と、ガラス工場、陶磁器工場、農具製造所などの工場群を設置したことにはじまりをもちます。この工場群が集成館と呼ばれました。
 集成館は薩英戦争で大きな打撃を受けましたがその後再建されました。現在
尚古集成館と呼ばれている建物は、1865(慶応元)年に再建されたもので、現存する日本最古の洋風工場建築物(洋風建築でこれより古いものは長崎のグラバー邸)です。
  ※参考資料3 松尾前掲著 P184-185
  ※
仙巌園の公式ウエブサイト 仙巌園 http://www.senganen.jp/
 
 公式サイトにはたくさんの写真が掲載され魅力が説明されていますので、詳しくはそちらをご覧ください。以下このページでは、私が気付いたり、友人のY氏から聞いた話を紹介します。


 写真04-06 仙巌園入り口             (撮影日 12/08/06)

Y氏

「平成22年に入館者が51万人を記録し、毎年50万人が訪れている。90%が県外からのお客さんです。」

「地元の児童生徒の学習の場としてもいいね。」

 尚古集成館とのセットの入場券は、1000円です。見所がいっぱいあります。急いで回っても半日はかかります。丸一日充分楽しめます。


 写真04-07 尚古集成館  内部は撮影禁止です(^_^)     (撮影日 12/08/06)

Y氏

「普通ならここは登録博物館「尚古集成館」となるべきところだが、株式会社の所有施設なので、正式には博物館相当施設となっている。館長・副館長とその他の2人、合計4人の学芸員がいる。いろいろな所蔵物に関して本や論文を書いている。」 
  ※参考文献3は現副館長松尾氏の著書です。

斉彬はなぜこの地を選んで工場群を立てたのだろう。」

Y氏

「理由は三つ考えられる。
一つ目は、藩主別邸の隣接地に築造すれば、藩主として直接指揮を執りやすい。二つ目は、石炭を動力にできない当時としては、水力を利用しやすい土地が工場には必須条件だが、裏の山から得られる豊富な水は水車を回すのに最適だった。三つ目は、錦江湾に面して物資の輸送に適しており、造船にも適していた。ただその分、薩英戦争では、イギリス艦隊の砲撃を受けるはめになった。」

「なるほど。」

 Y氏

「斉彬時代の集成館については、2000(平成12)年に佐賀県武雄市の市立歴史資料館から、同館が所有する武雄鍋島家の資料の中にも、「薩州見取絵図」というのがあると連絡が来た。鹿児島にあった資料は薩英戦争の時になくなってしまったが、武雄に詳しい説明図があったということだ。
 当時の集成館には、大砲の砲身を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身をくりぬく鑽開台(さんかいだい)、薩摩切り子のような美術工芸品から日用雑貨まで生産するガラス工場、蒸気機関の研究所などが立ち並び、最盛期には1,200人もが働いていた。」
 

  ※尚古集成館の公式サイトhttp://www.shuseikan.jp/


 
 写真04-08
 旧鹿児島紡績所技師館

 尚古集成館と並ぶ現存する幕末の西洋風建築です。
 竣工は1867(慶応3)年頃とされています。西洋式紡績工場に技術指導にきていたイギリス人技師のために薩摩藩が建てたものです。
 四方にベランダをめぐらしたコロニアルスタイル(アジア・アフリカの植民地でよく採用された植民地風スタイル)です。
 この写真は、Y氏から送ってもらいました。
 


 写真04-09 磯御殿  (撮影日 12/08/06)

 写真04-10 御殿前借景庭園(撮影日 12/08/06)

 明治維新以降も島津家のみなさんが住居として使用していたのが、磯御殿です。
 御殿前には桜島の雄大な姿が目の前に迫る借景庭園があります。私達が訪問した日は、雲と噴火の灰で桜島の全景を見ることはできませんでした。
 


 写真04-11・12 磯御殿前の庭園にある亀石と鶴の形の灯籠です。  (撮影日 12/08/06)

 遠景を見ると、右手の方に、なにやら珍しいものが見えています。 


 写真04-13 錦江湾に停泊する護衛艦  (撮影日 12/08/06)

 この日の借景は錦江湾に停泊する海上自衛隊の護衛艦でした。
 手前は、4,400トン型護衛艦さみだれ(2000年就役)です。呉を本拠とする第4護衛隊群第4護衛隊所属の艦です。後方は、さみだれと同じ隊に所属する護衛艦うみぎり(3,500トン型、1991年就役)です。海港がない岐阜県人にとっては、桜島以上に海上自衛隊護衛艦も驚きの「借景」です。
 手前の緑は、庭園の生け垣です。護衛艦の上の線は、仙巌園と海との間を通るJR日豊本線(単線)の架線です。
 


 写真04-14 千尋巌  (撮影日 12/08/06)

 写真04-15 千尋巌アップ  (撮影日 12/08/06)

 第27代当主島津斉興が山肌の岩に掘らせた千尋巌です。3文字分の長さが約11mという巨大な彫り物です。一体どうやって足場を組んで掘ったのでしょう。当時の失業救済事業の一つだったといわれています。 


 写真04-16 猫神神社 (撮影日 12/08/06)

 写真04-17 猫神クイズ  (撮影日 12/08/06)

 文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際、第17代島津義弘は7匹の猫を戦場に連れて行き、2匹が生き残って鹿児島に戻りました。その生還した2匹をその後に祀ったのがこの神社です。もちろん一連のお土産グッズもあります。 


 写真04-18 ここは海岸線  (撮影日 12/08/06)

 写真04-19 灰回収袋  (撮影日 12/08/06)

 左:Y氏から説明を聞く妻です。「この辺は、以前は海岸線でした。」レストラン松風軒の下です。
 右:桜島の降灰を回収する鹿児島市の黄色い袋。市のネーミングは、「克灰袋」です。

Y氏

「この灰袋も、ちゃんと管理していないといけない。」

「誰がこんなものもっていくの?」

Y氏

「このあいだも、中国人観光客のガイドが、ごっそりもっていった。鹿児島旅行記念にあとで灰を小分けして、お客に配るらしい。」

「甲子園の砂みたいな、「鹿児島仙巌園の灰」ってか。」

 ※桜島の噴火と降灰については、以下で説明します。→「桜島」


 写真04-20 この棒は? (撮影日 12/08/06)

 写真04-21 ここが訓練場 (撮影日 12/08/06)

 これは、鹿児島独特の剣法、薩摩示現流の木刀と訓練部屋です。 


 写真04-22 訓練用 (撮影日 12/08/06)

 写真04-23 削られています(撮影日 12/08/06)

 写真04-22の横木を打ちます。写真04-23の立木を袈裟懸けに打ち込みます。立木の方は、削られて細くなっています。 


 さて、仙巌園にはいろいろ見所がありますが、私が今回目的とした、つまり、これを見に行こうと思って出かけたのは、次のモニュメントです。


 写真04-24・25 この石組みの土台は   (撮影日 12/08/06)


 この構築物は、薩摩藩が藩主斉彬の時代に築造した反射炉です。


 写真04-26 反射炉の説明です             (撮影日 12/08/06)

 反射炉は、1850年代に対外的危機が意識され始めた時代に、大砲鋳造のために各地でつくられました。真っ先に取り組んだのは鍋島家佐賀藩です。ついで、斉彬の薩摩藩が取り組みました。


 写真04-27 反射炉床面  (撮影日 12/08/06)

 写真04-28 韮山反射炉  (撮影日 03/12/28)

 仙巌園反射炉は、土台の石組みはちゃんと残っていますが、右の伊豆韮山反射炉のような上部構造は残っていません。
 この場所には説明図しかありませんが、尚古集成館の中には、上部構造物も含めた模型が設置されています。ただし、写真撮影は禁止です。

 反射炉は外国から導入した技術でしたが、日本のいずれの場所においても、建築に関する外国人指導者がいたわけではありませんでしたので、失敗を重ねての苦労の連続でした。頼りになるのは、オランダ陸軍のヒューゲニン砲兵少将の著書『ルイク国立鋳砲所における鋳造砲』に書かれた僅かな記述と簡単な図面のみでした。
 薩摩藩では、佐賀藩主鍋島直正から同書の訳本を譲り受けた斉彬が、まず1851(嘉永4、ペリー来航の2年前)年に鶴丸場内で実験用の小型炉を作り、ついで、磯の別邸の竹林の一部を開いて第1号炉を建設しました。

 ところが、湿気対策が不十分で炉内の温度が上がらないことから鉄が十分溶けなかったり、耐火煉瓦の精度が悪くて鉄の中に溶けてしまったり、はたまた土台が不十分で炉そのものが傾いてしまうということが起こり、残念ながら失敗に終わりました。
 しかし、ここであきらめず、第2号炉がつくられます。
 湿気対策、土台の強化、耐火煉瓦の品質向上が行われ、1857年に完成した第2号炉は、見事に鉄製大砲の鋳造に成功しました。
 1号炉の築造費用は5,000両、2号炉の築造費用は、15,000両とのことです。
 写真の炉跡は、この2号炉のものです。
  ※参考資料3 松尾前掲著 P162-163
  ※参考資料4 金子功著『反射炉Ⅰ ものと人間の文化史77-1』(法政大学出版局 1995年)P150-170


 写真04-29  複製鉄製砲              (撮影日 12/08/06)

 これは、薩摩反射炉で鋳造された鉄製150ポンド砲のレプリカです。実物は、1857年に完成し、薩英戦争の際には2門が使用されました。全部で6門つくらています。
 砲身長4.56m、砲重量8.3トン、弾丸重量68kg(1ポンド=453.592グラム)、弾丸直径(68kg÷鉄の比重7.85g/㎤=8667㎤、半径から球の体積を求める公式を逆算して)25.49cm、砲射程約3kmの大砲でした。
 このレプリカそのもの製作費は、2000万円ほどだそうです。


 1850年代における各地の反射炉の建設、鉄製鋳造砲の製作については、これまでいろいろなところに取材に行きました。佐賀・韮山・萩、そして薩摩。目から鱗か、どこかのコーナーでテーマを設定して、詳しく語りたいと思っています。

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 福昌寺 島津家墓所   | 先頭へ |

 仙巌園に比べると、この福昌寺は、知名度は全くありません。友人Y氏から、「福昌寺に案内する」と言われたときも、全く予備知識がなく、なんのことかわかりませんでいた。
 ところが、行ってみて驚きました、全く観光地化されていない、すごい場所がありました。
 
福昌寺は、島津家の墓所です。


 写真04-30 説明板に書かれている往時の福昌寺              (撮影日 12/08/06)

 玉龍山福昌寺は,1434(応永元)年に島津家第7代元久が建立した曹洞宗の寺院でした。代々島津家の菩提寺であり、南九州一円の僧侶を支配する僧録所となり、かつては「寺中常に1,500人の修行僧あり」といわれた繁栄ぶりでした。
 ところが、明治新政府の廃仏毀釈の命令によって廃寺となってしまいました。薩摩では廃仏毀釈は他の地域に比して徹底的に行われました。
 戦後になって、この跡地に新制高等学校が移転し、1957年の改称の際に、旧
玉龍山福昌寺の名前をもらって、鹿児島玉龍高校と名付けられ、現在に至っています。この学校は、2006年に中学校を併設し、鹿児島市立の併設型中高一貫教育校となっています。


 写真04-31 墓地門前道路 (撮影日 12/08/06)

 写真04-32 墓地の門 (撮影日 12/08/06)

 写真04-33 注意書き (撮影日 12/08/06)
 門前道路の南側は
鹿児島玉龍高校の裏手に当たります。バスなどは入れない普通の狭い道があるだけです。門にはカギはかかってはいません。注意書きを読むと、自己責任でかってに見学しなさいという感じです。
 「島津興業内 
島津修久」と肩書きは何も書いてありませんが、この方が第32代当主で、島津興業の会長さんです。


 写真04-34 黒色のマークが歴代当主の墓の位置、黄色いマークが正室等の墓の位置(撮影日 12/08/06)

 島津家6代目から28代目までの墓と福昌寺歴代住職の墓が並んでいます。1~5代目までの墓は、鹿児島市清水町の本立時跡ほか3カ所にあり、29代目からの墓地は、この墓地の西の常安峯(とこやすのみね)にあるそうです。
 右上、大きな墓域が、第25代
重豪のもの、その左隣は、藩主にはならなかった久光の墓です。第28代斉彬の墓は、左手中央やや上にあります。


 写真04-35 27代斉興の墓(撮影日 12/08/06)

 写真04-36 28代斉彬の墓(撮影日 12/08/06)

 左:斉興の墓は、写真の左手です。右の墓は、お家騒動のもととなった側室お遊羅さんの墓です。
 右:
斉彬の墓は右側です。左は夫人の英姫の墓です。  


 写真04-37・38  久光の墓  (撮影日 12/08/06)

 島津久光は藩主にはなっていません。その子忠義が、斉彬急死のあと、第12代藩主(第29代当主)となり、「藩主の父」=国父として権力を握りました。久光は、明治新政府においては最終的に左大臣に上り、従一位大勲位公爵に叙せられました。「他の方とは格が違うぞ」という感じの広い立派な墓域です。 


 写真04-39  住職の墓 (撮影日 12/08/06)

 写真04-40 犬の墓  (撮影日 12/08/06)

 左:フランシスコザビエルが鹿児島に来たときに、ザビエルと問答した福昌寺15世和尚、忍室の墓です。
 右:ちょっと変わった墓もあります。これは愛犬「子ロ」(コロ?)の墓です。
 


 写真04-41 つぶれた灯籠(撮影日 12/08/06)

 写真04-42  弾痕 (撮影日 12/08/06)

 左:入り口の注意書きに「危険」とあったのは、ひとつには、使われている石材が劣化して倒壊の危険があるからです。写真一番右の灯籠のように、明かりを入れる部分がつぶれてしまっているものもあります。
 右:ここの壁にも、西南戦争の時の弾痕が残っています。
 


 広い敷地に立派な墓がたくさんあることといい、いろいろな物語が共有されていることといい、この墓域が観光地化する魅力は十分あります。今後に期待です。

「ところで、現在の当主、第32代修久〔のぶひさ〕氏は、島津興業の会長だから、そちらの仕事はそれほど忙しくないよね。他に忙しい仕事はあるの?」

Y氏

「今一番忙しいのは、照國神社の宮司職だと思う。」

照國神社というのは、島津家とどういうかかわりがあるの?」

Y氏

島津斉彬照國大明神として祀った神社が、照國神社。」

  「よくわかりました。まいりました。」 

 本当に恐れ入りました。鹿児島は本当にすごいところです。 


 写真04-43・44 照國神社正面鳥居と拝殿  (Y氏からいただいた写真です)

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 桜島   | 先頭へ |

 鹿児島市内観光の目玉の一つは、勇壮な桜島の見物です。
 私達は、レンタカーを利用していましたから、そのまま車でフェリーに乗りました。


 写真04-45 桜島フェリー (撮影日 12/08/06)

 写真04-46 桜島港 (撮影日 12/08/06)

 料金は、レンタカーのホンダ・フィットの場合、3m以上4m未満の自動車で、1070円でした。釣り銭のないように準備してゲート(桜島港口のみに料金ゲートがあります)に行くと、「料金1220円」表示されました。運転手以外に人が一人(妻)乗っていて、その分がプラス150円でした。
 このフェリーの時刻表がまたすごいです。
 朝晩の通勤・通学時には便数が多いのは当然ですが、10分間間隔です、
 そして、電車と違って終船はありません。真夜中も23時から4時の間、ちゃんと1時間い1本は運行されています。
 


 写真04-47・48 フェリー内部  (撮影日 12/08/06)


 写真04-49 錦江湾の中央部。護衛艦うみぎりとMARIX LINEの クイーンコーラルプラス(撮影日 12/08/06)


 写真04-50 護衛艦さみだれ              (撮影日 12/08/06)


 鹿児島と言えば桜島ですが、私達が訪問する2週間ほど前の2012年7月24日にも桜島南岳が爆発し、大量の降灰がありました。新聞によると、桜島火山の総灰噴出量は、この30年間では、1985年に2941万トンのピークがありました。1990年・91年・92年と1500万トンを越えましたが、92年の1647万トン以降は減少しました。
 1993年からは一気に500万トン以下に減少し、15年以上少ない時期が続きました。しかし、2010年に久しぶりに500万トンを突破し、昨年も同様となりました。2012年は、7月までですでに610万トンを越えており、このままでは年間1000万トンを越えそうです。1992年以来の記録となってしまいます。
  ※参考文献5 『岐阜新聞』2012年8月16日朝刊
   元データは、京都大学防災科学研究所 http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/web_j/index_topics.html


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、桜島周辺の地図です。

 桜島が誕生する前、すでに鹿児島湾北部には巨大なカルデラが形成されていました。これが姶良カルデラで、約29,000万年前の超巨大噴火によって誕生したものです。この噴火がシラス台地をつくりました。
 それから3,000年後の今から26,000年前、
姶良カルデラの南端で、新しい噴火が起こりました。これが現在の桜島の北岳の噴火です。この火山の活動は約21,000年間続きましたが、今から5,000年ほど前に活動はおさまります。
 ところが、おさまってから500年後、つまり今から4,500年ほど前、新たに前の火口の少し南から噴火がはじまりました。これが現在の
桜島南岳です。現在まで活動を続けています。
 二つの噴火口の間の頂が、地図に示された中岳です。
 また、
南岳の頂上から東側に下がったところから1946年に爆発が起こり、これは昭和火口と呼ばれています。
 桜島の継続的な活動は、
昭和火口における小爆発の連続です。しかし、上記の2012年7月24日の爆発は、南岳の火口のものです。こちらは、昭和火口と比べて規模が大きいため、大規模な降灰となるのです。 


 写真04-51 桜島山頂  (撮影日 12/08/06)

 写真04-52 姶良カルデラ (撮影日 12/08/06)

 自動車で桜島西側の中腹にある湯之平展望所へ行きました。 


 写真04-53 灰煙にかすむ錦江湾です。2隻の護衛艦の間を桜島フェリーが通います。 (撮影日 12/08/06)


「灰がなければ、もう少し見晴らしがいいのにね。」

「灰が降らない鹿児島は、鹿児島らしくない。これはこれでよかったんだ。」

「洗濯物が大変そう。」

 友人Y氏の奥さんも、「夏の鹿児島はどうも・・・・」と言っていました。
 秋以降は風向きが変わるため、降灰は気にならなくなるそうです。

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 【九州両端旅行 参考文献一覧】
  このページ04の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

原口泉・永山修一・日隈正守・皆村武一著『県史46 鹿児島県の歴史』(山川出版 1999年)

松尾千歳著『鹿児島歴史探訪』(高城書房 2005年)

松尾千歳著『鹿児島歴史探訪』(高城書房 2005年)

金子功著『反射炉Ⅰ ものと人間の文化史77-1』(法政大学出版局 1995年)

『岐阜新聞』2012年8月16日朝刊


 たった1日の鹿児島市内観光でしたが、歴史と伝統に桜島、いろいろ盛りだくさんで、大変満足な時間となりました。このページそのものも、掲載写真53枚の長編となってしまいました。
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