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鹿児島の歴史と伝統 | 先頭へ ||旅行記目次へ| |
鹿児島という場所は、日本の数ある地域の中でも、有数の歴史的伝統を持つ地域です。歴史というのはどこの地域にもあるといえばあるものですが、その地域の人々がどのくらいそれを意識しているかによって、あるなしが違ってきます。 |
鶴丸城と路面電車 | 先頭へ | |
そもそも、島津氏と鹿児島との縁はいつはじまったのでしょうか?島津氏の名字となった島津とはどこの地名なのでしょうか? |
しかし、その後島津荘は、その領域を隣接する大隅国(鹿児島県東部)や薩摩国に拡大していきます。
さらに、1197(建久8)年、惟宗忠久は薩摩・大隅両国の守護となりました。 |
島津氏歴代当主で最初に現在の鹿児島市に居城を構えたのは、5代島津貞久です。南北朝争乱期の1341(暦応4)年に、敵方の東福寺城を攻略して本拠としました。(場所は鹿児島駅北東の海岸線) |
写真04-01 鶴丸城御楼門跡 (撮影日 12/08/07) |
写真04-02 ここにも弾痕が(撮影日 12/08/07) |
鶴丸城には他の近世城郭と比べて、大きな特色があります。城とは言え、数百メートル四方を一重の堀と塀で囲っただけの建築物で、城郭的要素の乏しい居館というべきものでした。もちろん、天守閣はありません。 |
写真04-03 黎明館 (撮影日 12/08/07) |
写真04-04 篤姫像 (撮影日 12/08/07) | ||||||
左:御楼門から入って直ぐのところに、鹿児島県歴史資料センター黎明館があります。
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さて、鹿児島市内には、鹿児島市交通局が運営する路面電車が走っています。 |
写真04-05 鹿児島中央駅前の路面電車 (撮影日 12/08/06) |
一部の軌道敷の芝生化が実施されており、中央支柱とあわせて、とても美しい落ち着いた景観をつくっています。 |
仙巌園・尚古集成館(旧島津家庭園・工場) | 先頭へ | |
このページの主役は、島津家です。電車ではありません。(^_^)
その中心が仙巌園(せんがんえん、文化財指定 名勝)です。仙巌園というのは、もともと島津家第19代島津光久によって、1658年に築かれた別邸と築庭です。鹿児島駅の北東2km程の海浜沿いにあります。名前の由来は、中国の江西省にある奇岩名勝の地、龍虎山の仙巌にあります。 |
写真04-06 仙巌園入り口 (撮影日 12/08/06) |
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尚古集成館とのセットの入場券は、1000円です。見所がいっぱいあります。急いで回っても半日はかかります。丸一日充分楽しめます。 |
写真04-07 尚古集成館 内部は撮影禁止です(^_^) (撮影日 12/08/06) |
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写真04-09 磯御殿 (撮影日 12/08/06) |
写真04-10 御殿前借景庭園(撮影日 12/08/06) |
明治維新以降も島津家のみなさんが住居として使用していたのが、磯御殿です。 |
写真04-11・12 磯御殿前の庭園にある亀石と鶴の形の灯籠です。 (撮影日 12/08/06) |
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遠景を見ると、右手の方に、なにやら珍しいものが見えています。 |
写真04-13 錦江湾に停泊する護衛艦 (撮影日 12/08/06) |
この日の借景は錦江湾に停泊する海上自衛隊の護衛艦でした。 |
写真04-14 千尋巌 (撮影日 12/08/06) |
写真04-15 千尋巌アップ (撮影日 12/08/06) |
第27代当主島津斉興が山肌の岩に掘らせた千尋巌です。3文字分の長さが約11mという巨大な彫り物です。一体どうやって足場を組んで掘ったのでしょう。当時の失業救済事業の一つだったといわれています。 |
写真04-16 猫神神社 (撮影日 12/08/06) |
写真04-17 猫神クイズ (撮影日 12/08/06) |
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際、第17代島津義弘は7匹の猫を戦場に連れて行き、2匹が生き残って鹿児島に戻りました。その生還した2匹をその後に祀ったのがこの神社です。もちろん一連のお土産グッズもあります。 |
写真04-18 ここは海岸線 (撮影日 12/08/06) |
写真04-19 灰回収袋 (撮影日 12/08/06) | ||||||||
左:Y氏から説明を聞く妻です。「この辺は、以前は海岸線でした。」レストラン松風軒の下です。
※桜島の噴火と降灰については、以下で説明します。→「桜島」 |
写真04-20 この棒は? (撮影日 12/08/06) |
写真04-21 ここが訓練場 (撮影日 12/08/06) |
これは、鹿児島独特の剣法、薩摩示現流の木刀と訓練部屋です。 |
写真04-22 訓練用 (撮影日 12/08/06) |
写真04-23 削られています(撮影日 12/08/06) |
写真04-22の横木を打ちます。写真04-23の立木を袈裟懸けに打ち込みます。立木の方は、削られて細くなっています。 |
さて、仙巌園にはいろいろ見所がありますが、私が今回目的とした、つまり、これを見に行こうと思って出かけたのは、次のモニュメントです。 |
写真04-24・25 この石組みの土台は (撮影日 12/08/06) |
この構築物は、薩摩藩が藩主斉彬の時代に築造した反射炉です。 |
写真04-26 反射炉の説明です (撮影日 12/08/06) |
反射炉は、1850年代に対外的危機が意識され始めた時代に、大砲鋳造のために各地でつくられました。真っ先に取り組んだのは鍋島家佐賀藩です。ついで、斉彬の薩摩藩が取り組みました。 |
写真04-27 反射炉床面 (撮影日 12/08/06) |
写真04-28 韮山反射炉 (撮影日 03/12/28) |
仙巌園の反射炉は、土台の石組みはちゃんと残っていますが、右の伊豆韮山の反射炉のような上部構造は残っていません。 |
写真04-29 複製鉄製砲 (撮影日 12/08/06) |
これは、薩摩反射炉で鋳造された鉄製150ポンド砲のレプリカです。実物は、1857年に完成し、薩英戦争の際には2門が使用されました。全部で6門つくらています。 |
1850年代における各地の反射炉の建設、鉄製鋳造砲の製作については、これまでいろいろなところに取材に行きました。佐賀・韮山・萩、そして薩摩。目から鱗か、どこかのコーナーでテーマを設定して、詳しく語りたいと思っています。 |
福昌寺 島津家墓所 | 先頭へ | |
仙巌園に比べると、この福昌寺は、知名度は全くありません。友人Y氏から、「福昌寺に案内する」と言われたときも、全く予備知識がなく、なんのことかわかりませんでいた。 |
写真04-30 説明板に書かれている往時の福昌寺 (撮影日 12/08/06) |
玉龍山福昌寺は,1434(応永元)年に島津家第7代元久が建立した曹洞宗の寺院でした。代々島津家の菩提寺であり、南九州一円の僧侶を支配する僧録所となり、かつては「寺中常に1,500人の修行僧あり」といわれた繁栄ぶりでした。 |
写真04-31 墓地門前道路 (撮影日 12/08/06) |
写真04-32 墓地の門 (撮影日 12/08/06) |
写真04-33 注意書き (撮影日 12/08/06) |
写真04-34 黒色のマークが歴代当主の墓の位置、黄色いマークが正室等の墓の位置(撮影日 12/08/06) |
島津家6代目から28代目までの墓と福昌寺歴代住職の墓が並んでいます。1~5代目までの墓は、鹿児島市清水町の本立時跡ほか3カ所にあり、29代目からの墓地は、この墓地の西の常安峯(とこやすのみね)にあるそうです。 |
写真04-35 27代斉興の墓(撮影日 12/08/06) |
写真04-36 28代斉彬の墓(撮影日 12/08/06) |
左:斉興の墓は、写真の左手です。右の墓は、お家騒動のもととなった側室お遊羅さんの墓です。 |
写真04-37・38 久光の墓 (撮影日 12/08/06) |
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島津久光は藩主にはなっていません。その子忠義が、斉彬急死のあと、第12代藩主(第29代当主)となり、「藩主の父」=国父として権力を握りました。久光は、明治新政府においては最終的に左大臣に上り、従一位大勲位公爵に叙せられました。「他の方とは格が違うぞ」という感じの広い立派な墓域です。 |
写真04-39 住職の墓 (撮影日 12/08/06) |
写真04-40 犬の墓 (撮影日 12/08/06) |
左:フランシスコザビエルが鹿児島に来たときに、ザビエルと問答した福昌寺15世和尚、忍室の墓です。 |
写真04-41 つぶれた灯籠(撮影日 12/08/06) |
写真04-42 弾痕 (撮影日 12/08/06) |
左:入り口の注意書きに「危険」とあったのは、ひとつには、使われている石材が劣化して倒壊の危険があるからです。写真一番右の灯籠のように、明かりを入れる部分がつぶれてしまっているものもあります。 |
広い敷地に立派な墓がたくさんあることといい、いろいろな物語が共有されていることといい、この墓域が観光地化する魅力は十分あります。今後に期待です。
本当に恐れ入りました。鹿児島は本当にすごいところです。 |
写真04-43・44 照國神社正面鳥居と拝殿 (Y氏からいただいた写真です) |
桜島 | 先頭へ | |
鹿児島市内観光の目玉の一つは、勇壮な桜島の見物です。 |
写真04-45 桜島フェリー (撮影日 12/08/06) |
写真04-46 桜島港 (撮影日 12/08/06) |
料金は、レンタカーのホンダ・フィットの場合、3m以上4m未満の自動車で、1070円でした。釣り銭のないように準備してゲート(桜島港口のみに料金ゲートがあります)に行くと、「料金1220円」表示されました。運転手以外に人が一人(妻)乗っていて、その分がプラス150円でした。 |
写真04-47・48 フェリー内部 (撮影日 12/08/06) |
写真04-49 錦江湾の中央部。護衛艦うみぎりとMARIX LINEの クイーンコーラルプラス(撮影日 12/08/06) |
写真04-50 護衛艦さみだれ (撮影日 12/08/06) |
鹿児島と言えば桜島ですが、私達が訪問する2週間ほど前の2012年7月24日にも桜島南岳が爆発し、大量の降灰がありました。新聞によると、桜島火山の総灰噴出量は、この30年間では、1985年に2941万トンのピークがありました。1990年・91年・92年と1500万トンを越えましたが、92年の1647万トン以降は減少しました。 |
上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、桜島周辺の地図です。 |
桜島が誕生する前、すでに鹿児島湾北部には巨大なカルデラが形成されていました。これが姶良カルデラで、約29,000万年前の超巨大噴火によって誕生したものです。この噴火がシラス台地をつくりました。 |
写真04-51 桜島山頂 (撮影日 12/08/06) |
写真04-52 姶良カルデラ (撮影日 12/08/06) |
自動車で桜島西側の中腹にある湯之平展望所へ行きました。 |
写真04-53 灰煙にかすむ錦江湾です。2隻の護衛艦の間を桜島フェリーが通います。 (撮影日 12/08/06) |
友人Y氏の奥さんも、「夏の鹿児島はどうも・・・・」と言っていました。 |
【九州両端旅行 参考文献一覧】
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たった1日の鹿児島市内観光でしたが、歴史と伝統に桜島、いろいろ盛りだくさんで、大変満足な時間となりました。このページそのものも、掲載写真53枚の長編となってしまいました。 |
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