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街道を歩く5
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件2 事件はどこで起きた?二つの現場  07/08/12作成 
 生麦といえば生麦事件                                    | このページの先頭へ |

 自分が高校生の時、日本史の教科書に「生麦」という地名を見つけた時は、思わず「早口言葉ではあるまいに」と苦笑したことを覚えています。

 今の教科書にも
生麦事件のことはちゃんと記載されています。

1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦で、江戸から帰る途中の島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷され(生麦事件)、(以下略)」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P231
教科書の何気ない表現ですが、この「
横切った」という書き表し方については、本当にそうなのかどうか、あとで問題にします。(先にご覧になりたい方はこちらです。→


 この翌年1863年には、賠償と犯人差し出しを求めるイギリス政府と要求に応じない薩摩藩との間に
薩英戦争がおこるなど、生麦事件は、明治維新につながる重要な事件として有名です。

 その生麦事件の地を歩いてみました。
 以下、「未来航路」定番の、写真地図と現地取材での構成です。


 生麦とはどこ?                                         | このページの先頭へ |

 1862年の事件当時、生麦村は、正確には、「武蔵国橘樹郡生麦村」と呼ばれ、東海道の川崎宿と神奈川宿の間の村でした。江戸から東海道を進むと、川崎宿を過ぎて、鶴見川を渡ってから、鶴見・生麦・東子安・西子安・新宿と5つの村が街道に沿って続きます。生麦村は、そのうちの二つ目にあたり、事件が起こらなければ教科書にはのるはずもない、街道に沿って集落が立ち並ぶごく普通の村でした。現在では、横浜市鶴見区生麦です。
 
 生麦村は、江戸時代は初めからずっと
幕府領(天領)で、幕府の代官の支配をうけていました。
 横浜開港後は、神奈川に
神奈川奉行がおかれたため、その預所(あずかりどころ)として、奉行の支配下に入りました。

 村の規模は、
面積76町(約76ha)であり、人口は、事件翌年の1863年の段階で、戸数282軒、人口1637人となっていました。このうち、東海道の沿いの2km両側に、185軒の家が立ち並び、商業に従事する村人も多くいました。

 村のすぐ南は現在とは違って太平洋海岸線であり、漁業もさかんで、
1ヶ月に3度将軍に魚を献上する「幕府の御用」を務めており、その見返りとして、江戸(東京)湾内のどこでも自由に漁ができる権限を与えられていました。

江戸時代の村の研究については、近年、村人の日記が公刊されることによって、生活の細かい部分が分かるようになってきました。
生麦村については、
同村名主の関口家の当主が代々書き続けた「関口日記」が横浜開港資料館に残されており、その分析によって村の様子がさまざまな角度から明らかにされています。
このページの生麦村に関する細かいデータは、関口日記を分析した論考を集めた、横浜開港資料館「横浜近世史研究会」編『日記が語る19世紀の横浜 関口日記と堤家文書』(1998年 山川出版)より引用しました。

 
 生麦の場所は、以下の地図をご覧ください。  


 地図1は、東京湾全体の地図です。
 話が幕末・開港の時代のことですから、それに関する地名をいくつか挙げておきました。

 
地図1の黄色い□の地域を拡大したのが、下の地図2です。

 
地図2の「京急生麦駅」のの周囲の黄色い□の部分をアップしたものが、下の地図3です。
 

この地図1・2は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真から作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。



 幸運な出逢い、元生麦事件顕彰会会長さんの説明             | このページの先頭へ |

 「現在の横浜市鶴見区生麦には、生麦事件に関係する史跡が二つある」

 現地に行く前に本やインターネットで調べた情報では、生麦では東海道沿いに二つの史跡があるらしいことは分かりました。
 私は、「現地踏査」する際、ある程度の事前勉強はしますが、根掘り葉掘り調べて現地におもむくことはしません。あまり調べてしまうと、現地で「悩む楽しみ」がなくなってしまうからです。

 これまでのこの未来航路をお読みの方はおわかりと思いますが、悩みながら現地でいろいろな方に尋ねると、予想外の発見や、結果的に親切なお導きに出会えることが多くあり、それはまた、旅行記や探検記を豊かにさせる重要な要素となります。

 今回はどうだったでしょうか?

 左 京浜急行生麦駅、普通電車しか停車しない、ごく普通の駅です。待避線を含めて線路3本、ホーム3面。
 右 駅舎から出てすぐのところに鉄道線路を踏みきりで交差する市道が通っています。それを南に向かいます。写真の画面で言うと右手です。(撮影日 07/06/13) 


 京浜急行生麦駅で下車して、南南東の方角へ向かい、途中国道15号線を渡ると、駅から400m程(徒歩6・7分ほど)で旧東海道にたどり着きます。

 生麦駅から市道を真っ直ぐに歩いてくると旧東海道とのT字路です。

 
 写真の手前から奥へ向かう道が旧東海道です。写真奥が鶴見川、川崎、江戸方面です。

 トラックの来た方角が京急生麦駅です。

 この角に、材木店があります。ここのご主人との出逢いが、今回の旅のポイントでした。


 T字路で写真を撮影して、さてどちらへ行ったらよかろうとうろうろしていると、写真の角の材木店の中から声がかかりました。

「 大変立派なカメラをもっておられますが、旧東海道の撮影ですか?」

 
 声の主は、材木店のご主人(正確にはご隠居さんというべきかもしれません)で、牛頭(ごず)昭二さんという方でした。

「 はいそうです。
 生麦事件の現場を撮影したいと思っています。岐阜から来ました。
 あのー、ご存じでしたら教えてください。事件のゆかりの場所が2カ所あるということですが、どちらに行けばいいのでしょうか。」

「 そうですか、岐阜からですか。ご苦労様です。
 はい、それはちょうどよかった。私は、以前は、
生麦事件碑顕彰会の会長をやっておりました。今、冊子をもってきますから、お待ちください。」 

 あれれ、まったくの偶然ですが、なんとも頼もしい方に声をかけていただいたものです。

「 これが生麦事件の概要を示した冊子です。もとは、『横浜市史』に掲載してあった文章ですが、顕彰会の方で許可をもらって分冊にしました。
 このページにあるように、現在、
最初にイギリス人が薩摩藩士に斬りつけられた場所には、生麦事件発生現場の説明板が掲げられています。
 ここから500mあまり東の方角です。

 そして、反対側、キリンビールの工場に沿って西に500mあまりいくと、国道15号線との合流点があり、そこに、
1983(明治16)年に立てられて以来、守り続けられている、生麦事件の碑があります。」

「 説明板の所は、最初の発生場所ですね。では、碑のあるところはどういうところですか?」

「 イギリス人が傷を負ったまま逃げて、最終的に絶命したところとされています。」

「なるほど、そういうことですか。この道を、イギリス人は斬られたあと逃げたのですね。」

 地図にまとめると、以下のようになります。
 
A地点が薩摩藩士が最初にイギリス人に斬りつけた現場です。
 
B地点がイギリス人の死亡現場、事件碑が立っているところです。
 ちょうど中間に、
牛頭材木店があります。


 A地点からB地点までの間は、街道に沿った旧生麦村の西半分にあたります。
 東半分(鶴見、川崎より)は、上の写真の右上方、鶴見川の河岸を鶴見の方へ北上していく街道に沿って集落が続いていました。こちらはいまでも、生麦魚河岸通りとなっていて、鮮魚店等が並んでいます。

上の地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。


 ちょっと脱線ですが、こちらは、上の写真地図にはない、鶴見川に沿った旧東海道の生麦村東半分の部分です。
 
JR鶴見線の国道駅手前から南方向を撮影したものです。
 上の写真の説明に書いた
鮮魚店など写っていないように見えますが、実は、両側はほとんど鮮魚店なのです。
 店先で後かたづけをしているおばちゃんに言われてしまいました。
 「ここの営業時間は朝から昼まで。
魚河岸に昼過ぎに来ても何もない。

 なるほど、失敗でした。街道は、ただ歩けばいいと言うものではありません。 (撮影日 07/08/11) 


「牛頭さんの家は、古くからここにあるのですか?」

私の家は、江戸時代末は宿屋をやっておりました。
 事件ののちは彦根藩士が警備のためにうちの宿に滞在し、そのため蔵の中には、彦根藩ゆかりの品物も残っております。これは私の想像ですが、宿代の代わりに置いていったんじゃないかと。

 また、私の祖母は、元治元年(1984年、事件の翌々年)生まれで、小さい頃から事件の時の村の様子を聞いていて、私たちにも話してくれたものです。事件のあとは、街道沿いの民家は、全部雨戸を閉めてひっそりとしていたそうです。

 私の友人の曾祖父の話が伝わっていて、神奈川宿までいってミソ樽を買って担いで帰ってきたら、遠くで刀が光ったとのことです。」
  ※事件は旧暦8月21日、新暦9月14日の午後2時頃発生、当日は晴天でした。

「ご自宅の蔵には、いろいろなものが眠っているのですか?」

「 いろいろあるようです。例の有名な現場写真もわが家にあります。」
 ※この写真については、別のページで解説します。

「事件は、1862年のことですから、145年前のことですね。昔と今とでは、このあたりの様子もずいぶん違っていますよね。」

「ええ、あのころは、街道は海岸線に沿って走っていました。つい戦後になって、埋め立て地が作られて、工場群になってしまいました。
 道のすぐ向こう(南側)も、私の小さい頃まではまだ海で、もちろんビール工場なんかできたのは、戦後の話です。」

「 いろいろありがとうございました。まだお話をうかがいたいんですけど、街道も歩かなければなりません。このへんで失礼します。
 また、分からないところがあれば、電話等でうかがっていいですか。」

「どうぞどうぞ、名刺に書いてありますから、連絡してください。」


 さてそれでは、歩きましょう。まずは、東からです。



 牛頭材木店前から旧東海道の東方面を写した写真です。

 遠くの交差点の信号の所までおよそ250m、そこで、ほんの少し北へ折れてさらにまっすぐ300m程進むと、最初の斬りつけ現場があります。

 斬られたイギリス人は、この道を馬に乗って逃げたわけです。
(撮影日 07/06/13) 


 牛頭材木店前から旧東海道の西方面を撮影。
 はるか遠方の青いガードは、横浜港へ向かう
JR貨物線高架橋ですが、このすぐそばに、顕彰碑があります。
 ここから西へおよそ500m程です。

 すぐ西に、
キリンビール横浜工場の正門があります。(写真上部に赤地に白文字の「KIRIN」の「IN」だけが見えます。)
 

 道路で写真を撮っていて、ちょっと工場内が写るアングルにカメラを構えたら、守衛室から守衛さんが飛んできて、「許可取っていますか」とえらい剣幕でした。建物そのものの写真に著作権も何もないと思いますから、道路から写すのに許可とか何とかは必要ないと思いますが、まあ、喧嘩はやめときました。 


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