正解、これは、1872年に新橋-横浜間に初めて鉄道が開通して以来、鉄道線路の起点を示すものとして立てられた「ゼロ哩標識」を復元したものです。
この標識の0は、現在の新橋駅の東の汐留「シオサイト」の一角にある、復元建築物「旧新橋停車場」にあります。
場所は、右の地図の一番下の部分です。
その部分の全景が左下の写真です。
江戸時代には、現在の溜池と江戸湾とは水路でつながれ、これが江戸城の外堀の一部となっていました。
この汐留の地は、その水路の途中にあって、海水の侵入を防ぐ堰があったところから、「汐留め」と呼ばれ、汐留と表記されました。
この地には、仙台藩伊達家、会津藩保科家(のち松平家)の藩邸が作られました。
鉄道が日本が近代国家として発展する重要な要素であることを知っていた明治新政府は、財政難であるにもかかわらず、鉄道の建設を最優先目標の一つと決定しました。
長州藩出身で、幕末の秘密渡航以来長くロンドンの地にあって鉄道技術と土木工学を学んだ井上勝(のち日本の鉄道の父と呼ばれる)を事業の中心に据え、イギリスから若き技術者エドモンド・モレル(1841年生まれ、のち日本の鉄道の恩師と呼ばれる)を招いて、1869年11月10日、汐留-横浜間に日本最初の鉄道の建設を開始します。
この鉄道は、2年半の短期間の工事で、1872(明治5)年10月12日(旧暦9月12日)に開業を迎えました。この時、駅の名称自体は「新橋駅」となり、新橋-横浜間の開業となったわけです。
新橋駅は、しばらくの間、東京の表玄関となりました。
1914(大正3)年に現在と同じ場所にモダンで壮麗な駅舎の東京駅が開業し、新橋は東京の玄関の地位をそちらに譲ります。この時、新しい東海道線の烏森にあった駅が、新しい新橋駅となりました。旧新橋駅は貨物専用の汐留駅となります。
1934(昭和9)年から1936年にかけて汐留駅の大改良工事が行われた結果、本格的な貨物駅の機能が強化され、日本の近代化を物流面から支える場所となりました。
この間に、明治時代の水害、大正時代の関東大震災によって、開業当初の建築物や遺構は失われてしまっていましたが、大改良工事の際に諸資料を基に創業時の線路の起点が計測され、1936(昭和11)年に、ゼロ哩標識と線路の一部が復元されました。
これは、1965(昭和40)年には、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として、国の史跡となりました。
汐留貨物駅は戦時中にB29爆撃機の度重なる爆撃を受け壊滅的な打撃を受けました。しかし、戦後まもなく復興され、それ以後は、物流の大拠点として、日本の高度経済成長を支え続けました。
しかし、1970年代以降次第に鉄道の貨物輸送の役割は低下していきます。1986(昭和61)年10月28日、最後の貨物列車を出発させたのち、その月末をもって、汐留貨物駅は廃止となりました。
国鉄の民営化と汐留再開発事業構想によって、1991年から創業当時の遺構の発掘調査が行われ、駅舎やプラットホームなどの遺構が良好な状態で出土しました。
1996(平成8)年12月10日には、史跡「旧新橋停車場跡」と変更され、旧駅舎・プラットホーム一帯が史跡となりました。
そして、この春に開業した汐留シオサイトの開業に伴い、旧駅舎跡地に復元駅舎が完成し、0哩標識も上の写真のように整備されました。
※汐留シオサイトの話はこちらです。
|