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街道を歩く3
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 もちろん最初は「お江戸日本橋」その3 07/07/31作成 
 何本の国道の起点?                                   | このページの先頭へ |

 日本橋は、江戸時代は、五街道のうちの4街道の起点となる場所でした。
 では、現在の日本橋は、
道路の起点という点からはどうなっているでしょうか?
 また、
何本の国道が日本橋をスタートにしているでしょうか?

 答えを下の地図に示します。


 このクイズで、答えが江戸時代の4(5)街道より少ないと、面白くも何ともありません。

 現代の日本橋も期待を裏切りません。
 なんと、
現在の日本橋は、7つの国道の起点となっています。
 
南方向へ向かう、@NS号線北方向へ向かう、CEMP号線です。
 詳細は以下のとおりです。


国道名 終点 説明

@号線

大阪府
大阪市

 いわば「花の1号線」ですが、江戸時代の東海道と違って、日本橋のすぐ南で西に折れて、皇居前へと向かいます。

C号線

青森県
青森市

 白河まではおおむね旧奥州道中に沿って北上します。そこからは五街道には入っていませんが、江戸時代の主要道路仙台道(白河−仙台)、松前道を経て青森へ向かいます。

E号線

宮城県
仙台市

 途中までは、M号線と同じルートをたどり、両国橋の手前、浅草橋で北へ向かい、浅草寺の東の言問橋で隅田川を渡って、水戸街道を経て仙台へ向かいます。

M号線

千葉県
千葉市

 両国橋を渡って千葉県へはいる国道です。これも五街道にはあがっていませんでしたが、江戸時代からある、成田街道(千葉県成田山への参詣道)と、木更津を経由して安房に至る街道に沿った道です。

N号線

神奈川県
横浜市

 日本橋からほぼ旧東海道にそって南に向かい、横浜まで到達する国道です。通称第1京浜国道です。

P号線

新潟県
新潟市

 群馬県高崎市までは、旧中山道に沿っていきます。そこから三国街道に入って、新潟へ向かいます。

S号線

長野県
塩尻市

 皇居西までは、1号線と同じルートです。桜田門外で分岐して、半蔵門から新宿を経て、旧甲州道中をたどって山梨・長野へ入り、下諏訪から旧中山道に入ります。



 日本国道路元票                                        | このページの先頭へ |

 では、この道路の起点はどうなっているのでしょうか?
 
 下の写真を見てください。戦前の、まだ、高速道路に覆われていない日本橋です。(南東の袂から北西側を写したもので、背景に三越日本橋店ビルが写っています。)
 橋の上には、3つの「街灯」のようなものが確認できます。  

 3つの街灯のうち一番左のもの、つまり、中央左隅を走っているバスの後に見えるものは、他の二つとは違います。一番右の大きなもの、次の小さなものは、橋の欄干上に立っている街灯です。
 しかし、一番左のものは、実は、道路の中央に立てられています。

 これこそが、「
東京市道路元標」です。つまり、東京のいや、日本の道路の起点となる「元標識」なのです。
 上の写真の時代より後に、この橋の上に市電の線路が敷設された際には、左右に突き出た腕は、市電に電気を供給する架線を引っかける役目も担いました。


 現在の日本国道路元票                                 | このページの先頭へ |

 しかし、現在の日本橋の道路上には、この「東京市道路元標」を見つけることはできません。
 
1972年、日本橋の上を通る市電が撤去された際に、自動車通行の邪魔となるこの元標も橋の上から撤去され、橋の西北の袂に移設されました。以後現在まで、その場所で保存されています。
 それが下の写真です。 


 これが移設された「東京市道路元標」です。右はその拡大写真です。
 足下には、いろいろの説明やら何やらがいっぱいあります。(撮影日 07/06/14)
 


 「東京市道路元標」を説明する記念碑群のひとつは、「日本国道路元標」です。
 石碑の下部には「
道路元標複製」と示されています。
 これは何でしょうか?
 実は、これは、上の
東京市道路元標が移設された際に、その後(つまり橋の中央)に埋設された新元標(柱ではなく、交通の妨げにならない板状のもの)の複製です。
 埋設されている本物の方は、自動車が頻繁に往来する状況では撮影できません。歩行者天国の日ならOKだそうです。


 これは里程標です。上の6つの国道及びそれ以遠の地までの里程標です。

 

 現在の日本橋の上には、もう一つの記念物が飾られています。首都高速道路の上下線の間を見上げて撮影したのが次の写真です。

 「道路元標地点」と説明されています。つまり、この標識の真下に、「日本道路元標」が埋め込まれているというわけです。(撮影日 07/06/14)


 日本橋の復元                                            | このページの先頭へ |

 最後に江戸時代の日本橋が復元されているのをご存じですか?
 日本橋の復元をメインの展示物とした博物館があります。
 それが、かの有名な、
東京都江戸東京博物館です。 



 
江戸東京博物館のメイン展示物、復元日本橋(実物大)。
 
 ここに復元されたのは、19世紀前半の日本橋です。当時は、長さ28間(約51メートル)、幅4間2尺(約8メートル)の規模でしたが、博物館には、その北半分の14間分が復元されています。
(撮影日 02/06/01)


 お江戸日本橋の歌があります。
 現在の高校生はほとんど知らないでしょうが、私たちの世代は、いつどこで習ったのか、ちゃんと歌えます。
 冒頭の一節は、「
お江戸日本橋七つ立ち、初上り、行列そろえてアレワイサのサ・・・」です。

 これは、江戸の日本橋を「七つ」、つまり現代で言うと「午前4時」に旅立って、「初上り」、つまり初めて東海道を京へ向かうという情景を歌ったものです。

 「午前4時」?いかにも早い出発です。この行列は、大名行列なのでしょうか?
 実は違います。
 答えは、以下の引用文をご覧ください。(赤太字や改行調整は引用者が施しました)

「七ッ立ち、一つまり朝午前4時ごろに日本橋を発つのですが、「初上り」の「上り」というのは、上方のほうへ行くという意味の「上る」ということです。「行列揃えて」行くと。ここで、うっかりすると参勤交代かなと思ってしまうのですが、これは江戸時代の、先ほどからお話のあった、大店の商店の話です。

 江戸の大商店は、だいたい京都や伊勢や近江の上方商人が多くて、従業員はそれぞれの地元から連れてきます。江戸では採用しません。自分の出た村の人を雇えば、親・兄弟・親戚など知り合いばかりですから、本人は悪さをしたくてもできない。一番それは使いやすいわけですね。
丁稚奉公といいますか、12・3歳でお江戸の店に勤め始める。当初は「故郷恋しや」で、12・33歳の丁稚奉公は辛いと思います。それで一所懸命勤めますと、これは店によって違うのですけれど、先ほどから話題になっている白木屋の話をしましょう。白木屋では、入店後9年目にですね、ご褒美として、「初上り」といって休暇をくれます。故郷に帰っていいと。往復の旅の日程がありますのでそれほど余裕は無いのですが、50日間休暇をくれます。これを「初上り」といいます。それはたぶん20歳ぐらいだと思います。

 入店後16年目、28歳から30歳ぐらいに、「中上り」というのがあります。今度は60日間の休暇
です。22年目には、「三度上り」というご褒美がございます。34・5歳です。それでまあ、無事つとめ上げますと、退役ということで「隠居仕舞上り」と。もう江戸へは帰ってこないのですけれど(笑)。
 そういうわけで、これはご褒美の休暇制度の、その一番嬉しい「初上り」なのです。大店ですから、もちろん一人二人が働いているわけではないので何人か揃うし、それからおそらく提携しているお店なんかもあるでしょう。そういった人たちが差配人に導かれて、行列して行くわけですね。」

東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編『東京都江戸東京博物館 調査報告書 第16集 平成13年度シンポジウム報告 日本橋』(東京都江戸東京博物館 2004年)P47



 これは、日本橋の北側4分の1と、北側の商人町の復元模型です。
(撮影日 02/03/01)

 現在は、通行人の姿もジオラマにされています。


 さてさて、「街道を歩く」というタイトルで始めましたが、3ページ使ってもまだ「江戸日本橋」です。ちょっとは歩かなければなりません。
 
銀座、新橋、品川と歩いて、京浜急行品川駅から電車に乗ってしまいます。行き先は六郷側(多摩川)を渡って、川崎を過ぎて、京浜生麦駅。神奈川県生麦です。
 生麦といえば、もちろん、・・・・・。


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