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バブル経済1
   
 問題提起 バブル経済に対する認識 教える重要性02/12/15作成 
  
 はじめに

 バブル経済とそれ以後の失われた十年。
 大人である自分たちには、バブルは自分たちが大人になってからの経験でした。しかし、現在の高校生には、すでに「歴史上のできごと」となっています。
 わが次男は1986年4月、日本がバブル経済に入る直前に生まれました。彼らに彼らが今まで大きくなってきたその時代のことを語ることは、社会科・地歴公民科教師としての、「使命」であると考えます。
 
 ところが、正直な所、社会科・地歴公民科の教師は、必ずしも現代の動きに敏感ではありません。理由は二つあります。
 ひとつは、日常的に新聞を読み、TVのニュースを聞いていても、授業で生徒に語るだけの情報を整理整頓して蓄積していくという仕事は、実に大変に骨の折れる仕事です。したがって、自分も含めて普通に教員をやっている方では、「バブル経済とは何だったか」という問いに対して、「実はね、・・・」という目から鱗の話は、なかなかできません。簡単な話、太平洋戦争はいつからいつまでかは、正確に答えることができても、バブル経済はいつからいつまでかを、ちゃんと答えることができる人は、そうたくさんはいません。

 もう一つは、同時代に展開していることの実態は、その時代に生きている人間には、なかなか掴みにくいということです。
 これには、自分の確かな記憶があります。
 私は、1992年9月にアメリカに研修に行きました。その時の自分たちの感覚は、「金持ち国」となった日本が、これからの世界経済をどのように支配していくとか、また、日本の企業がアメリカの企業や資産を次々と買収して、だんだん米国人の対日感情が悪くなっていくとか、レーガン・ブッシュ(先代)政権のサプライサイドの経済学に基づいた経済政策によって、アメリカの経済力は取るに足らなくなってきている、とかいうものでした。

 これは、決して私ひとりのだけの感覚ではなく、日米双方の教員60名ほどが参加した研修会でも、少なくとも日本の教員の間では共有されていた感覚でした。
 その研修会で、私は、あの任天堂がアメリカ・メジャーリーグのシアトルマリナーズの筆頭株主になったこと、ソニーが映画会社を買収したこと、三菱地所がマンハッタンのビルを買い占めたことなど、いろいろ「日本が優位」な現象を取り上げて、議論の種にしたことを覚えています。

 しかし、実は、1992年9月この時、すでにバブルの崩壊は始まっていました。
 その時の自分たちは、少し前の「過去の栄光」に支配され、実態を掴んでいなかったのです。このことは自分たちがとらわれていた傲慢さの根が、いかに深いものであったかを示す証拠とすることができます。

 もしご覧のあなたが、地歴公民科・社会科の教員なら、どう教えたらいいか一緒に、考えていきましょう。ご意見を下さい。


 他のところで取り上げた「バブル経済」・「バブル以後」の項目一覧

 バブル経済とバブル以後の失われた10年間については、クイズ・現物教材等のその谷の項目でも扱っています。以下に一覧表を載せましたので、参考に願います。

地価日本一のビル

クイズ現代社会 現代日本経済1 02/11/16

岐阜市の最高路線価

クイズ現代社会 現代日本経済1 02/10/29

ロサンゼルスのホテルを日本企業が買収した金額

クイズ現代社会 現代日本経済1 01/12/02

17世紀前半のオランダ人が投機対象としたものは

クイズ世界史 近代ヨーロッパ 02/12/08

山一証券の株券

現物教材 現代社会 02/08/11

 
 バブルとは何か 02/12/15作成           | このページの先頭へ |    
  
 バブルの定義

 授業では、最初の素朴な質問から入ります。

「バブル経済というからには、バブルの様な経済だったのだろう。では
バブル=泡のような経済とは何を意味するのでしょう。」
 生徒からは、「ぱちんとはじける、急にふくらむ」といった答えは返ってきますが、もう一つ大事な答えが忘れられがちです。
 それは、「中味がない」ということです。
 すなわち、経済学的に定義すれば、バブルとは、「資産価格のうち経済の実態から離れて上昇した部分」です。つまり、「実際の資産価格とファンダメンタルズ価格の差」と定義されます。
  ※野口悠紀夫著『バブルの経済学』(日本経済新聞社 1992年)P57
 
 こんな小難しい説明は生徒にはできません。
 わかりやすくいえば、 土地・物件などの資産の実際の価格が、何らかの異常な投機熱(物件を購入したいという多くの人間の欲望)によって、本来あるべき価格から離れて高くなってしまった部分をバブルといいます。
 子どもたちが、キャラクターのカードを売り買いします。本来、200円あたりが妥当な相場であったものが、次第に人気が出て1枚2000円になってしまった、この差1800円がバブルです。
  
 つまり、商品の価格が本来の中味の価値を離れて膨らんでしまい、実態を失ってしまった姿がバブルです。
 したがって、ふくらむ・中味がない・ぱちんとはじける というイメージが、正確なバブルのイメージです。中味がないからこそ、実態と遊離しているからこそ、国民の投機熱が冷めれば、ある時突然にはじけてしまうのです。それがバブルの崩壊なのです。

 しかし、この定義を実際の経済活動に当てはめると、ひとつ難点が生じます。
 
実態価格が正確には把握できないのです。キャラクターカードが1枚2000円であれば、これはもう、バブルであると感覚的に分かります。では、210円ならバブルでしょうか、280円ならバブルでしょうか。
 つまり、
バブルが起こり始める当初、それがバブルであるかどうかは、実は神のみぞ知るという世界なのです。
  ※野口前掲書にはファンダメンタルズ価格に関する説明があります。
    しかし著者自身、結論として「その測定は難しい」と述べています。P65    


 世界のバブル事件

 世界の歴史上、ある国の経済がバブルに陥り、数年後には破綻したという例は、いくつもあげることができます。但し、バブル経済という以上、ある程度の商品と金融の市場が、少なくとも国民的規模で成立していなければならず、その初見は、17世紀になってからです。主な例を挙げると、次の通りです。

17世紀前半のオランダ

 1634年から37年にかけて、チューリップに対する投機熱が高まり、チューリップバブルが起きた。詳しくは、クイズ世界史17世紀前半のオランダ人が投機対象としたものは

18世紀前半のフランス

 1720年頃フランスに置いて、ジョン・ローというスコットランド人が、増大した国家赤字を解消するためのシステムととしてローのシステムを提唱。王立銀行が銀行券を発行し、これを特権貿易会社が引き受けてこれを政府に貸し付け、政府はその資金で支出やこれまでの債務の償還を行うというシステムで、ポイントは特権会社が業績を上げ、株式を発行して民間の資金を集めることができるかにかかっていました。国民は政府のお墨付きというわけでこの特権会社(ミシシッピ会社、北アメリカのフランス領植民地ルイジアナで、金鉱を開発する)に熱狂的に投資しましたが、結局は、この会社が金鉱を掘り当てていないことが判明し、1720年バブルは崩壊しました。

18世紀前半のイギリス

 1711年にイギリスで設立された南海会社(政府から、植民地との通商の特権を与えられ、そのかわりに国債の引き受けを任された。この会社に対する投機熱が高まり、バブルが発生。この会社以外にも、人々の投機熱に乗じて得体の知れない会社が多数作らたが、結局は利益は上がるはずもなく、1720年バブルは崩壊。英語では、直接には、この時の得体の知れない会社=泡沫会社をBubbleと呼びます。記録によれば、科のニュートンもこの投機で大損をしました。

20世紀前半のアメリカ

 第一次世界大戦後のアメリカは、空前の経済的繁栄を見せ、一般民衆の投資熱を受けて株価が上昇。1929年10月24日(いわゆる暗黒の木曜日)の株価大暴落によって、バブルは崩壊。世界恐慌へ突入した。

 アメリカの有名な経済学者ガルブレイス博士は、その著『大崩壊』で、人間は60年から100年に一度、世界のどこかで狂乱の投機熱に浮かされるといっています。


 バブル発生の条件

 日本のバブル経済を含めて、これらのバブルには特有の共通した現象が見られます。
  ※斉藤精一郎著『金融恐慌と三つのバブルの物語 大崩壊が始まる時』(日経ビジネス文庫2002年)P45

  1. その国の経済全体として金が余っている(金余り現象)

  2. 国民の多数が参加する投機ブームが一定期間継続する

  3. 特定の投機対象に対して「値が上がり続ける」という神話が生まれる

  4. 成金が誕生し、拝金主義が横行する

  5. 贅沢品嗜好が高まり、物価上昇か資産(株価・地価など)上昇が始まる

  6. モラルが退廃する=モラルハザード(例 詐欺的商法の流行など)

  7. その国の国民には、自分の国が世界の経済における優位性について自信過剰となっており、それ故高慢な姿勢が見られる。

 日本のバブルについては、次回にお話ししますが、この共通項だけでも、うんうんと頷けるものばかりではありません? 
 
 日本のバブルはいつはじまりいつ終わったのか02/12/23作成 
  
 日本のバブルのはじまり                 | このページの先頭へ |

 バブル経済がいつ始まったのか。
 これについては、実は、数学的な正解はないと思います。
 つまり、上記の「バブルの定義」で示したように、バブルが
資産価格のうち経済の実態から離れて上昇した部分と定義されているとすると、資産価値がいつどの時点で実態から離れたのかは、判定が非常に難しいからです。

 株式資産額は東証1部上場株時価総額各年の6月の値。
土地資産額は東京都の住宅資産額。東京都の地価は、全国の地価より早く上がり、早く下がっている。全国の地価は、後述の通り、1991年の後半から下落しはじめる。
GDPは各年度の名目値。

野口悠紀夫著『バブルの経済学』(日本経済新聞社 1992年)P23.24より作成

右のグラフは株式と土地資産額の対GDP比の推移です。

 GDPの上昇に比べて、株式や土地資産額が、それぞれ別のペースで上昇し、また、下降したことが一目瞭然です。
 このグラフの見てあとから分析すれば、1988年には株式と土地資産額の両方が、「バブル状態」であったことが分かります。

 1987年2月に上場されたNTT株は、額面5万円であったにもかかわらず、第一次売り出し価格は119万7千円とされました。ところが、初値の株価はその一時価格を34%も上回り、160万円を付けた。

 この後株価はさらに上昇し、87年4月には318万円の最高値を記録しました。
 このNTT株騒動などは、バブルの典型であったといえるでしょう。

 ※斉藤精一郎著『金融恐慌と三つのバブルの物語 大崩壊が始まる時』(日経ビジネス文庫2002年)P48

しかし、その時でも、日本経済がバブルであるのかどうかについて、経済の指導者もマスコミも、むしろ否定的でした。

 『昭和63年(1988)年版国土利用白書』は、東京圏を中心とする地価上昇の原因として、

  1. 東京への機能集中による商業地に受給逼迫

  2. 居住用財産の買い換え需要を通じる住宅地への普及

  3. 金融緩和

 の三つの要因を挙げています。
 つまり、地価上昇の原因は、東京への一極集中、オフィイスビルの需要の上昇による都心部の地価の上昇、および、都心部から周辺へと移り住むこととなったことによる買い換え需要、そして、公定歩合の低下であるとし、都市構造の変化や金融緩和というファンダメンタルズの変化によるものであるとしています。
 ※野口悠紀夫前掲書P107

 また、下は日本経済新聞に現れた「バブル」という言葉を使った記事の件数です。

1985 86 87 88 89 90 91 92
件数 8 3 1 4 11 194 2546 3475
 ※野口悠紀夫前掲書P27

 これを見ると、少なくとも株価が好調であった1989年までは、日本経済新聞もまたそれに投稿する学者達も、現状が「バブル」であることに気付いていなかったといえるでしょう。少なくとも、やがて深刻な状態がやってくるという思いはなかったことは間違いありません。
 
この認識は、もちろん、その時代を過ごしていた私たちにも同じだったのではないでしょうか。
 私は、1989年2月の日本史の授業で、最後を次のように結んだ記憶があります。
「輸出が好調なおかけで日本は世界一の資産国になった。戦後これまでは、いわゆる『パックス・アメリカーナ』の時代だったが、ひょっとすると、21世紀は、『パックス・ジャポニカ』の時代が来るかもしれない。」

 しかし、外国の経済学者の中には、もっと冷静に、シニカルにこの時期の日本経済を眺めている人物もいました。イギリス人経済学者ビル・エモットは、1989年に著した書物の中で、次のように述べています。 
「だが、いつまでも昇り続ける太陽という比喩は、実際にはあたっていない。日はただ昇りつづけることはなく、やがて沈む。それが日本の新しい時代、日が沈む時代である。すでに1980年代半ばからそれははじまっており、日本が資本を輸出しつづけ、日本の力の台頭に対する推測と懸念が高まっているいっぽうで、着々と進行している。日本の興隆を特徴づけていた要素は、興隆それ自体のために変化した。つまり、豊かさ、国際的な場に引き出されたこと、余剰資本、強い円が変化をもたらしたのである。日本は消費者の国、快楽を求める国、輸入業者の国、投資家の国、そして投機家の国になった。ありあまる金と自由化金融市場が、この新しい投機家の国をブームと崩壊の国に変える危険性がある」
 ※ビル・エモット著鈴木主税訳『日はまた沈む』(日本語版は1990年草思社)P310


 日本のバブルはいつからいつまでか
 それではバブルの終わりはいつなのか。
 ※『日本経済新聞』2002年3月20日付より

 株価は、右表のように、1989年の12月29日の最終日に、3万8915円を記録したのを最後に、1990年1月4日の株式市場の幕開けからいきなり下落し、4月には2万8000円となり、10月には一時2万円を割る事態となりました。
 
 それ以後、現在に至るまで、多少の上下動はあるものの、長い目で見れば、一貫して下がりつづけています。
 株価のバブルの崩壊は、1990年に起こったというべきです。

 では地価はどうでしょう。
 右下のグラフは、1983年を100とした地価動向です。
 商業地・住宅地によって変化率はちがいますが、1992年には、地価の指数は下がっています。
 このデータは、1月1日発表の公示価格を比較していますから、地価は、1991年のうちには下がりはじめたと結論できます。

 また、このグラフには表されていませんが、東京やその他の大都市圏と地方圏とでは、ピークが違います。


 地方は、商業地・住宅地とも1991年中は上がりつづけ、1992年になって下降します。
※田中隆之著『現代日本経済バブルとポストバブルの軌跡』(日本評論社2002年5月)より作成

 土地と株価、どちらを持ってバブルの崩壊と表現すべきか、これも難しい所です。

 もう一つ、政府が発表したはっきりとした指標があります。

 1993年11月に、経済企画庁は、「
平成景気は86年12月に始まり、91年4月に終わって、景気後退に転じた」と発表しました。

 バブルがいつからいつまでかという表現は難しいですが、バブルを生んだ母体となった景気は、上記の期間であったということができます。
 ※衣川恵著『日本のバブル』(日本経済評論社2002年8月)P202 


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