バブル経済がいつ始まったのか。
これについては、実は、数学的な正解はないと思います。
つまり、上記の「バブルの定義」で示したように、バブルが「資産価格のうち経済の実態から離れて上昇した部分」と定義されているとすると、資産価値がいつどの時点で実態から離れたのかは、判定が非常に難しいからです。
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株式資産額は東証1部上場株時価総額各年の6月の値。
土地資産額は東京都の住宅資産額。東京都の地価は、全国の地価より早く上がり、早く下がっている。全国の地価は、後述の通り、1991年の後半から下落しはじめる。
GDPは各年度の名目値。
野口悠紀夫著『バブルの経済学』(日本経済新聞社 1992年)P23.24より作成 |
右のグラフは株式と土地資産額の対GDP比の推移です。
GDPの上昇に比べて、株式や土地資産額が、それぞれ別のペースで上昇し、また、下降したことが一目瞭然です。
このグラフの見てあとから分析すれば、1988年には株式と土地資産額の両方が、「バブル状態」であったことが分かります。
1987年2月に上場されたNTT株は、額面5万円であったにもかかわらず、第一次売り出し価格は119万7千円とされました。ところが、初値の株価はその一時価格を34%も上回り、160万円を付けた。
この後株価はさらに上昇し、87年4月には318万円の最高値を記録しました。
このNTT株騒動などは、バブルの典型であったといえるでしょう。
※斉藤精一郎著『金融恐慌と三つのバブルの物語 大崩壊が始まる時』(日経ビジネス文庫2002年)P48
しかし、その時でも、日本経済がバブルであるのかどうかについて、経済の指導者もマスコミも、むしろ否定的でした。
『昭和63年(1988)年版国土利用白書』は、東京圏を中心とする地価上昇の原因として、
東京への機能集中による商業地に受給逼迫
居住用財産の買い換え需要を通じる住宅地への普及
金融緩和
の三つの要因を挙げています。
つまり、地価上昇の原因は、東京への一極集中、オフィイスビルの需要の上昇による都心部の地価の上昇、および、都心部から周辺へと移り住むこととなったことによる買い換え需要、そして、公定歩合の低下であるとし、都市構造の変化や金融緩和というファンダメンタルズの変化によるものであるとしています。
※野口悠紀夫前掲書P107
また、下は日本経済新聞に現れた「バブル」という言葉を使った記事の件数です。
年 |
1985 |
86 |
87 |
88 |
89 |
90 |
91 |
92 |
件数 |
8 |
3 |
1 |
4 |
11 |
194 |
2546 |
3475 |
※野口悠紀夫前掲書P27 |
これを見ると、少なくとも株価が好調であった1989年までは、日本経済新聞もまたそれに投稿する学者達も、現状が「バブル」であることに気付いていなかったといえるでしょう。少なくとも、やがて深刻な状態がやってくるという思いはなかったことは間違いありません。
この認識は、もちろん、その時代を過ごしていた私たちにも同じだったのではないでしょうか。
私は、1989年2月の日本史の授業で、最後を次のように結んだ記憶があります。
「輸出が好調なおかけで日本は世界一の資産国になった。戦後これまでは、いわゆる『パックス・アメリカーナ』の時代だったが、ひょっとすると、21世紀は、『パックス・ジャポニカ』の時代が来るかもしれない。」
しかし、外国の経済学者の中には、もっと冷静に、シニカルにこの時期の日本経済を眺めている人物もいました。イギリス人経済学者ビル・エモットは、1989年に著した書物の中で、次のように述べています。
「だが、いつまでも昇り続ける太陽という比喩は、実際にはあたっていない。日はただ昇りつづけることはなく、やがて沈む。それが日本の新しい時代、日が沈む時代である。すでに1980年代半ばからそれははじまっており、日本が資本を輸出しつづけ、日本の力の台頭に対する推測と懸念が高まっているいっぽうで、着々と進行している。日本の興隆を特徴づけていた要素は、興隆それ自体のために変化した。つまり、豊かさ、国際的な場に引き出されたこと、余剰資本、強い円が変化をもたらしたのである。日本は消費者の国、快楽を求める国、輸入業者の国、投資家の国、そして投機家の国になった。ありあまる金と自由化金融市場が、この新しい投機家の国をブームと崩壊の国に変える危険性がある」
※ビル・エモット著鈴木主税訳『日はまた沈む』(日本語版は1990年草思社)P310 |