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<1992年の研修記録> 2009年8月13日追加修正 |
@ 通常の文部省の研修ではない研修 |
1992年に私たちが参加した研修は、文部省が行う通常の研修とはいくつか異なる点があって、個人的には、通常より意味のある研修だったと思っています。 |
この研修の最大の特色は、これが、日本の教員とアメリカの教員の両方が、それぞれ同じメニューで研修し、同時に相互に交流しあうという点にあります。つまり、日米それぞれ5つの州・県から各7・8人が参加し、お互いに首都とその州・県を訪問するという双方向の交流研修でした。しかも、対象は、公民・地理歴史科の教員を中心とするもので、研修プログラムも、議会・州庁舎、大統領選挙事務所の見学、民主党大統領候補の演説会場への参加などなど、公民や歴史の教員にとってとても興味深いものでした。 |
私たちの研修での訪問地は、首都ワシントンDCと、中西部のアイオワ州。 |
○写真左 |
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アイオワ州の州都デモインの中心部です |
○写真上 |
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アメリカ到着2日目、9月21日の午前の研修日程。研修内容は社会科の教師向けにうまくセットされたもので、毎日がわくわくと感動の連続だった。 |
ワシントンDCでの宿泊所、キーブリッジ・マリオットホテルでの夕食時の写真。私のパートナー、スティーブン・ハンソンとは、1992年9月21日に初めてであった。以後ずっとつきあいが続いている。 |
デモインのキャピトル、アイオワ州ブランスタッド知事との記念撮影。アメリカでの研修は、日本のそれとは大きくイメージが異なっていた。1時間の予定なら、説明は多くても30分ほど、残り半分は、質疑応答だった。日本のひたすら「講義」とはずいぶん違い、言うまでもなく、主体的な研修ができた。これ以後、日本でもその方法をできるだけやるように努めている。 |
A 我が友スティーブ・ハンソン | 目次へ戻る | |
私とぺアを組んだ教員は、アイオワ州デモインの郊外に住み、市の中心部にあるリンカン高校に勤務する社会科の教師スティーブ・ハンソンです。相互にホームステイをした私たちは、幸運にも二人とも好奇心旺盛で「目立つこと」を気にとめないという共通した性格を持っていたこともあって、それ以後現在に至るまで、ずっと交流を続けるという幸運な関係を築くことができました。おかげで、アメリカの情報は、彼を通していつでも知ることができます。はじめは電話か手紙という手間か金がかかる方法でしたが、現在では、e-mailという画期的な手段のおかげで、リアルタイムで入手できます。 |
アメリカ到着2日目、9月21日の午前の研修日程。研修内容は社会科の教師向けにうまくセットされたもので、毎日がわくわくと感動の連続だった。 |
ハンソン家の納屋。手前のトラックの後ろにつながっているのは、馬を輸送するためのトレーラー。 |
あたしも一度だけ乗馬の経験があるので、スティーブの手ほどきを受けて、にわかカウボーイになった。 |
○左 |
日本側の研修が終わった後、10月の下旬に、今度はアメリカ側の同じメンバーが、日本へやってきた。 |
B アメリカの教育・日本の教育 1 進む方向 | 目次へ戻る | |
スティーブが語るアメリカの教育の話と私が語る日本の教育の話は、お互いの理解と絆を強くし、課題を明確にし、そしてふたりに勇気を与えました。 |
C アメリカの教育・日本の教育 2 学ぶべき点 | 目次へ戻る | |
アメリカの学校や教育には、いろいろな問題があります。日本で繰り返して報道される学校内での発砲事件などはその典型例でしょう。そういう問題点は認めるとして、それでも我々がアメリカから学ばなければならない「アメリカの教育の素晴らしい点」はいくつもあります。
日本でいうと教育事務所のような機能を持っているところですが、大きく違うのは、メディア部門です。ここでは、教員が授業で使用するあらゆる教材、たとえば、ビデオ教材の作成と安価での販売、スライドの作製、マイクロフィルムの収録などのサービスを提供するほか、各種メディア機器も貸し出しします。 |
デモイン市を管轄するハートランドAEAのコンピュータ室。1992年段階で、すでにIT化は日本より数段先に進んでいた。 |
これはスティーブの次女ヒラリー(左手椅子に腰掛けている)の小学校の授業。毎週、star of week というのがあって、誰かがクラスのスターとなって自分の何かを語る時間がある。彼女は、巨大な愛犬ブリッターについて語った。犬の補助に父親スティーブも参加している。 |
D アメリカに対する誤解・片思いの日米関係| 目次へ戻る | |
この研修で個人的に得た大きな成果のひとつは、日米関係が「片思い」であることを確認できたことです。 |
E 素晴らしきアメリカ | 目次へ戻る | |
前半のワシントン研修の3日目、9月22日は夕食後のナイトツアーでした。 |
We shall overcome, We shall overcome, We shall overcome someday. Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday. We are not afraid, We are not afraid, We are not afraid today. Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday. |
We'll walk hand in hand, We'll walk hand in hand, We'll walk hand in hand someday. Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday. We shall overcome, We shall overcome, We shall overcome someday. Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday. |
私たちはお互いの雨に濡れた衣服を気にもとめず、知らぬもの同志肩を組んで、、何度も何度も合唱を繰り返しました。貴重な歌声が、何冊の本を読むよりもはっきりと、差別とそれへの戦いの重みを知らせてくれた一夜でした。
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We shall overcome 合唱のあとリンカン記念堂で。 | |
ハ |
あ |
1992年9月27日は忘れられない日になった。事前にもらったこの日の予定は、上の写真にあるように、「Democratic Political Rally Indianola」となっていた。 |
「Rally」の意味がよくわかっていなかったので、最初は何のことかと思った。実は、郊外のインディアノーラという牧草地で行われる民主党の集会に参加するという計画だった。 |
大勢の人が集まり、しばらくすると、なんとクリントン大統領候補がやってきて、演説を始めた。もちろん、ヒラリー夫人(現オバマ政権の国務大臣)もいた。 |
クリントン大統領候補の演説の後、強引に前に出て、クリントン氏と握手することができた。 |
アメリカを考えるときにいつも思うのですが、全体的にアメリカ国民は政治家の業績を正しく評価し、それによって偉大な政治家を自然に尊敬します。スティーブの勤務する高校はリンカン高校ですが、デモインにはほかにフーバー高校・ルーズベルト高校など大統領の名前を付けた学校がいくつもあります。リンカン高校などは全米にいくつあるでしょうか。もし調べることができたらクイズネタにできますね。 |
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