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<1992年の研修記録> 2009年8月13日追加修正

@ 通常の文部省の研修ではない研修

 1992年に私たちが参加した研修は、文部省が行う通常の研修とはいくつか異なる点があって、個人的には、通常より意味のある研修だったと思っています。

 この研修プランは、文部省が計画したものではなく、アメリカの民間の財団である「
クロースアップ(Close up)財団」が計画し全面的に資金を援助して実施されたものです。ちなみに、費用も渡航費から現地の宿泊代・食事まで、すべて財団に負担していただけるという、素晴らしいプランでした。 


 この研修の最大の特色は、これが、日本の教員とアメリカの教員の両方が、それぞれ同じメニューで研修し、同時に相互に交流しあうという点にあります。つまり、日米それぞれ5つの州・県から各7・8人が参加し、お互いに首都とその州・県を訪問するという双方向の交流研修でした。しかも、対象は、公民・地理歴史科の教員を中心とするもので、研修プログラムも、議会・州庁舎、大統領選挙事務所の見学、民主党大統領候補の演説会場への参加などなど、公民や歴史の教員にとってとても興味深いものでした。
 これは4年間続けられましたが、私たちはその1年目に参加したのです。岐阜県・香川県など5県から集まった50名ほどの日本人教員が、9月から10月にかけてワシントンとそれぞれのペアの州を訪問しました。他県の団体は地理歴史公民科の教員ばかりで編成されている場合が多かったですが、本県は、通訳などのサポートをしていただくために、英語の先生が二人混じるという編成でした。
 そして、岐阜県グループは内陸の海のない地域という理由から
アイオワ州と教員とペアになり、私たちは、後半の1週間をその州都デモインで過ごしました。
 
 反対に私たちが帰国したあと、10月下旬から11月にかけて、米国の教員が来日し、東京での研修のあと、それぞれペアの県に行き、一月前と同じメンバーで研修をしました。今度は、アイオワ州の教員が岐阜にやってきて研修したのです。
 双方の研修期間をあわせると5週間近くになります。もちろん毎日行動をともにするというわけではありませんでしたが、岐阜市とデモイン市滞在中は、それぞれが、ペアとなっている教員同士でホームステイしあうというプログラムもあって、参加した日米の教員同士は、深い交流をすることができたのです。これは、普通のプログラムには見られない効果です。


 私たちの研修での訪問地は、首都ワシントンDCと、中西部のアイオワ州
 アイオワ州は日本人一般にはあまり知られていない州だと思います。社会科の教師である私たちでさえ、出発までは、どの辺に位置しているか正確には誰も知りませんでした。
 州都は、
Des Moines と書いてデモインと発音します。この地域は東海岸の13州が独立した当時はフランス領でしたから、地名の綴りにはその名残が見られます。

 アイオワ州は、中西部の典型的な農業州です。少しうねりがある大平原に、
トウモロコシ・大豆の畑が延々と続きます。ここで生まれて初めてまっすぐな地平線に沈む夕日を見ました。

 冬は2ヶ月近く雪に閉じこめられます。初めてそれを聞いたとき、「スキーができていいね。」といったら怪訝な顔をされました。平地ばかりで斜面がないので、スキーはあまりしないとのことでした。納得。


○写真左
 研修での訪問地はアイオワ州と首都ワシントン。
○写真左下
 私が撮影したホワイトハウスです。残念ながら、この中へは入る機会はありませんでした。
○写真右下
 ホワイトハウスのゲートの前です


 アイオワ州の州都デモインの中心部です 

○写真上
 アイオワ州の主産業は農業です。
 デモイン郊外には、トウモロコシ畑が広がっています。
 訪問した10月の上旬はちょうど収穫の時期でした。
○写真右
 トウモロコシ畑での撮影
○写真左下 とても大きな収穫機械です。
○写真右下 デモインの州庁(キャピトル) 
日本のコンクリート造りの県庁とは違って、歴史を背負った建物です。 
 


 アメリカ到着2日目、9月21日の午前の研修日程。研修内容は社会科の教師向けにうまくセットされたもので、毎日がわくわくと感動の連続だった。

 ワシントンDCでの宿泊所、キーブリッジ・マリオットホテルでの夕食時の写真。私のパートナー、スティーブン・ハンソンとは、1992年9月21日に初めてであった。以後ずっとつきあいが続いている。

 デモインのキャピトル、アイオワ州ブランスタッド知事との記念撮影。アメリカでの研修は、日本のそれとは大きくイメージが異なっていた。1時間の予定なら、説明は多くても30分ほど、残り半分は、質疑応答だった。日本のひたすら「講義」とはずいぶん違い、言うまでもなく、主体的な研修ができた。これ以後、日本でもその方法をできるだけやるように努めている。 


A 我が友スティーブ・ハンソン | 目次へ戻る |

 私とぺアを組んだ教員は、アイオワ州デモインの郊外に住み、市の中心部にあるリンカン高校に勤務する社会科の教師スティーブ・ハンソンです。相互にホームステイをした私たちは、幸運にも二人とも好奇心旺盛で「目立つこと」を気にとめないという共通した性格を持っていたこともあって、それ以後現在に至るまで、ずっと交流を続けるという幸運な関係を築くことができました。おかげで、アメリカの情報は、彼を通していつでも知ることができます。はじめは電話か手紙という手間か金がかかる方法でしたが、現在では、e-mailという画期的な手段のおかげで、リアルタイムで入手できます。
 
 クロースアップ財団のプログラムは、はじめから、日米の社会科の教員同士の草の根の交流を図るという目的で計画されましたが、私たちはその成果の見本のような存在となっているわけです。


 アメリカ到着2日目、9月21日の午前の研修日程。研修内容は社会科の教師向けにうまくセットされたもので、毎日がわくわくと感動の連続だった。

 ハンソン家の納屋。手前のトラックの後ろにつながっているのは、馬を輸送するためのトレーラー。
 彼は牧場をもっているわけではないが、馬に乗るのが趣味で、立派な納屋と3頭の馬と馬場がある。高校と中学の教師夫妻だから、ごく普通の家庭なのだが、日本とは住環境が違う。

 あたしも一度だけ乗馬の経験があるので、スティーブの手ほどきを受けて、にわかカウボーイになった。
 よく訓練されている馬なので、主人(スティーブ)がそばにいると、従順に言うことを聞いてくれた。


○左
 ハンソン夫妻には娘さんが二人いる。
 上の娘さんは、メアリー・グレース。この時10歳。妹はヒラリー、この時、8歳。
○右
 奥様は、メアリーさん。彼女はネイティブインディアンの血を引く美人で、中学校の
地理の教師兼モデル。落馬してケガをしなければ、この後すぐに作成されて大ヒットした映画「マディソン郡の橋」(アイオワが舞台)に端役で出演できるはずだった。



 日本側の研修が終わった後、10月の下旬に、今度はアメリカ側の同じメンバーが、日本へやってきた。
 スティーブは、私が勤務していた高校に来て先生方と懇談をし、また、別の高校では、剣道部の活動に参加し、試合もした。

 11月3日の文化の日には、家族とスティーブとで京都に行った。京都府立博物館、金閣寺、清水寺、三十三間堂と巡った。
 この写真にはないが、三十三間堂の1001体の仏像は、彼を感動せしめた。遠し矢にも興味を持っっていた。
 


B アメリカの教育・日本の教育 1 進む方向 | 目次へ戻る |

  スティーブが語るアメリカの教育の話と私が語る日本の教育の話は、お互いの理解と絆を強くし、課題を明確にし、そしてふたりに勇気を与えました。
 私は彼に日本の教育の欠点のひとつが画一的な詰め込み教育であると説明しました。 これに対して、彼はその問題を認識しつつ、反対にアメリカは個性や独創性を重視しているが、そのために中高校生の知識量の相対的低下が問題視されていることを説明しました。その後の両国の教育行政を見れば、1992年の時点で、すでに両国の進む道は、現場いる私たち教師に充分把握されていたと言えます。
 
 この時アメリカは全米の教育水準を高めようと、「アメリカ2000年計画」というプランをまさに進めようとしているところでした。日本は、ご承知のとおり、「ゆとりの教育」を目指して義務教育段階の学習内容の削減、選択の多様性の実現による個性の伸張という方向へ向かいます。
 彼はまた、両親の子どもの教育に対する関心は相対的に以前より低下しており、日本でいう保護者懇談会を開いても、学校へくるのは3分の1ぐらいであると嘆きました。その理由を尋ねると、彼は基本的に子どもの自主性を尊重することを説明した上で、他の原因のひとつに、自分と同世代である保護者が学校へ対して持っている考え方にあるといいました。意外にもベトナム戦争の影響があるというのです。
 
 つまり、彼らベトナム戦争従軍世代は、政府のいうことを信じて戦いを支持したにもかかわらず、アメリカの撤退と南ベトナムの消滅という現実によって、戦争後価値観を変えなければなりませんでした。そのため、この世代の一部には、政府や行政に対する不信感があり、それが公教育への無関心に反映されているという説明でした。もちろん、彼の説明はアメリカのほんの一部を語っているにすぎませんが、映画等で感じてきた「ベトナム戦争が現代アメリカ社会に与える影響」について、あらためて考えさせられました。
 デモインは、高校に関しては小学区制度を取っており、高校入試はありません。つまり、公立高校には居住者の違いによる地域的特色はあっても、日本のようないわゆる「成績による輪切り」という違いは基本的にはありません。


C アメリカの教育・日本の教育 2 学ぶべき点 | 目次へ戻る |

 アメリカの学校や教育には、いろいろな問題があります。日本で繰り返して報道される学校内での発砲事件などはその典型例でしょう。そういう問題点は認めるとして、それでも我々がアメリカから学ばなければならない「アメリカの教育の素晴らしい点」はいくつもあります。

【セントラル・キャンパス】
  デモイン市内にセントラル・キャンパスという施設があります。これは、市内にある高校の授業を補完する「学校」で、各学校にはない特殊な科目が開講されています。各高校の生徒は、自分の学校の授業を選択し、自分の学校にない科目はここへ来て学習するのです。移動するためのバスも運行されています。日本的な「生徒の管理」という点からは発想しづらいシステムですが、授業というサービスを「多品種少量生産」しなければならない事情の中では、必要不可欠な施設です。

【エリア・エデュケーション・エージェンシー(AEA)】
 アイオワ州全体で99の教育委員会がありますが、いくつかのAEAがあって、指導をしています。その任務は、次のようになっています。

  1. 教育部門    教育課程作成、学校運営管理補助、授業方法の指導、非行・家で生徒指導など

  2. メディア部門  授業等に利用する資料や情報の提供

  3. 特殊教育部門 各学校に在籍している特殊学級の生徒の指導への援助
     

 日本でいうと教育事務所のような機能を持っているところですが、大きく違うのは、メディア部門です。ここでは、教員が授業で使用するあらゆる教材、たとえば、ビデオ教材の作成と安価での販売、スライドの作製、マイクロフィルムの収録などのサービスを提供するほか、各種メディア機器も貸し出しします。
 今本県では、来年度以降本格的にITの導入を実施しようとしていますが、このAEAのメディア部門のようなサービス部門が存在しないと、「忙しい」教員にはITをうまく利用することができなくて、宝の持ち腐れとなってしまう危険性があります。

【授業の方法】
 アメリカでは高校でも、「生徒は10分以上同じ学習活動をしていると効果が上がらない」という理論のもと、講義・グループ討議・スライドなど変化に富んだ授業が行われています。その結果、生徒は意見を発表すること、討議することになれています。
 
 研修中に日米両国の参加者が議論するという機会が何度もありましたが、通訳が困ることがしばしばありました。米国の発言者はうまく要点をまとめ簡潔にしかもユーモアを含めつつ話を進めるのに対して、日本の発言者は、一体何がいいたいのかさっぱりわからないという発言が少なからずあったからです。そのうちのいくつかは、通訳によって、見事な論理的意見にすり替わりました。英語が多少分かる私としては、通訳の才能に驚くばかりでした。日本人の発言能力(プレゼン能力)の向上は、21世紀の教育の大きな課題でしょう。
 右上の写真の小学校の授業は、アメリカで普通に行われている典型的パターンです。最近では、日本でも盛んになってきていますが、中学・高校へと進むと、ほとんどが一斉授業(講義)となって、子どもたちの発言の力は、ひからびていきます。「My Diary学校・役所雑感へ」

 デモイン市を管轄するハートランドAEAのコンピュータ室。1992年段階で、すでにIT化は日本より数段先に進んでいた。

 これはスティーブの次女ヒラリー(左手椅子に腰掛けている)の小学校の授業。毎週、star of week というのがあって、誰かがクラスのスターとなって自分の何かを語る時間がある。彼女は、巨大な愛犬ブリッターについて語った。犬の補助に父親スティーブも参加している。         


D アメリカに対する誤解・片思いの日米関係| 目次へ戻る |

 この研修で個人的に得た大きな成果のひとつは、日米関係が「片思い」であることを確認できたことです。
 日本の外交・政治・経済・文化にとって、アメリカという国がほかの世界の国と比較して、ずば抜けて特別な国であるという認識は、多くの日本人が共有していると思います。
 アメリカで起こったことは日本に重大な影響を及ぼします。「全米でなんとか」というキャッチコピーは、常に確実に日本人を動かします。
 
 ところが、逆はほとんど起こり得ません。
 つまり、政府関係の特別の人、経済上の利害がある人など特別な人を除いては、一般のアメリカ人は、日本を世界の中のひとつとしか思っていません。
 我々が交流をはじめたとき、悲劇的な事件が発生しました。ルイジアナ州に留学していた愛知県の高校生服部くんが、訪問先を間違えて銃で撃たれて死亡するという事件でした。この事件などは、日本では大ニュースとなり、高校生も含めて知らない人はいないくらい状況でした。
 
 ところが、アメリカでは、こういう事件も、全米津々浦々まで知れ渡るということはありません。
 アメリカの高校生が日本にどのくらい関心があり、知識があるか(ないか)ということを端的に示す数値があります。私は、アメリカの高校生に、日本の総理大臣の名前を知っているかと聞いたことが、これまで三度あります。1度目は、リンカン高校訪問時に自分で約30名の生徒に質問しました。2度目は、1999年3月。3度目は2001年2月。それぞれスティーブを通して、彼の授業を受けている生徒約100人以上に聞いてもらいました。3度のそれぞれの首相名は、宮沢・小渕・森です。答えは、すべて同じです。知っている高校生は一人もいませんでした。
 日本の高校生の意識では、どのくらいの国に相当するでしょうか。韓国首相、フィリピン大統領、タイの首相、インドの首相。誰一人にも知られていないでしょうか。
 
 また、これも重要なことですが、私が何気なく、「これについてアメリカ人はどう考えているか?」と聞くと、スティーブは、「私の答えは説明できても、アメリカ人の考えというような一般的なものは無理だ。人種・民族、住んでいるところ、いろいろ違えば、答えは違ってくる。アメリカ人はこうだという答えはあり得ない。」といいました。これも、日本では忘れがちな真理です。あなたは、気軽に「我々日本人は・・・・」といいません?
 「My Diary学校・役所雑感へ」


E 素晴らしきアメリカ | 目次へ戻る |

 前半のワシントン研修の3日目、9月22日は夕食後のナイトツアーでした。
 ところが名所をいろいろ回っているうちに土砂降りの雨になってしまい、ちょうどうまくリンカン記念堂の大きなホールに着いたので、みんなで雨宿りです。そこで、素晴らしい経験ができました。

 日米100人以上の関係者がリンカンの巨大な座像の回りで小グループごとに談笑していると、ある黒人の米国教員が大きな声でみんなに呼びかけをはあじめました。早口の説明のため細部はわかりません。やがて少しずつ彼女の言いたいことがわかってきました。リンカンは偉大な人であること、彼によってスタートが切られてこと、キング牧師の話、そしてcivil right movement。

 
 最後に彼女がみんなで歌を歌おうといった時は、たとえ日米に分かれていても「同じ世代」の我々は、もうすべてを理解しました。その歌の題名は「We shall overcome」、そう、1960年代に黒人の権利を認める運動として進められた公民権運動のシンボルの歌です。私達は中学・高校時代に、あまり詳しい事情は知らずに、「何かへの抵抗の歌」として、よく口ずさんでいました。 

 We shall overcome,
 We shall overcome,
 We shall overcome someday.
 Oh, deep in my heart,
 I do believe,
 We shall overcome someday.

 We are not afraid,
 We are not afraid,
 We are not afraid today.
 Oh, deep in my heart,
 I do believe,
 We shall overcome someday.
 We'll walk hand in hand,
 We'll walk hand in hand,
 We'll walk hand in hand someday.
 Oh, deep in my heart,
 I do believe,
 We shall overcome someday.

 We shall overcome,
 We shall overcome,
 We shall overcome someday.
 Oh, deep in my heart,
 I do believe,
 We shall overcome someday.

 私たちはお互いの雨に濡れた衣服を気にもとめず、知らぬもの同志肩を組んで、、何度も何度も合唱を繰り返しました。貴重な歌声が、何冊の本を読むよりもはっきりと、差別とそれへの戦いの重みを知らせてくれた一夜でした。
 世界史クイズアメリカの独立と発展編へ

 ※どんな歌かしらない方は、「TAD」さんのページへどうぞ
   http://village.infoweb.or.jp/~fwgf0768/music/music_28.htm 
 ついでに、このリンカン記念堂の前で、1963年8月28日、公民権運動の黒人指導者キング牧師が行った有名な演説「I Have a Dream」を付記します。

  • I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slaveowners will be able to sit down together at a table of brotherhood. I have a dream that one day even the state of Mississippi, a desert state, sweltering with the heat of injustice and oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice. I have a dream that my four children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character. I have a dream today.

  •  私には夢がある。いつかジョージア州の赤い丘の上でかつての奴隷の子と、かつての奴隷を所有していた者の子が兄弟のように同じテーブルにつくことを。
     私には夢がある。いつか不正と圧制の炎熱に苦しむ砂漠の州、ミシシッピーが自由と公正のオアシスに変わることを。
     私には夢がある。いつか私の4人の子供たちが肌の色ではなく、彼らの人格で判断される国に住むのを。
     私には、今、夢がある。


 We shall overcome 合唱のあとリンカン記念堂で。

 ハ

 あ


 1992年9月27日は忘れられない日になった。事前にもらったこの日の予定は、上の写真にあるように、「Democratic Political Rally Indianola」となっていた。 

 「Rally」の意味がよくわかっていなかったので、最初は何のことかと思った。実は、郊外のインディアノーラという牧草地で行われる民主党の集会に参加するという計画だった。


 大勢の人が集まり、しばらくすると、なんとクリントン大統領候補がやってきて、演説を始めた。もちろん、ヒラリー夫人(現オバマ政権の国務大臣)もいた。

 クリントン大統領候補の演説の後、強引に前に出て、クリントン氏と握手することができた。
 すっかりファンになった私は、選挙事務所で買ったTシャツを愛用する事となった。


 アメリカを考えるときにいつも思うのですが、全体的にアメリカ国民は政治家の業績を正しく評価し、それによって偉大な政治家を自然に尊敬します。スティーブの勤務する高校はリンカン高校ですが、デモインにはほかにフーバー高校・ルーズベルト高校など大統領の名前を付けた学校がいくつもあります。リンカン高校などは全米にいくつあるでしょうか。もし調べることができたらクイズネタにできますね。
 
 ワシントン研修の4日目の夜にフォード劇場でミュージカルを見ました。ミュージカルそのものは特に有名なものではなく、さすがにこれには同時通訳は付きませんから、私は隣にいるスティーブにストーリーの展開を何度も聞きましたが、結局はちんぷんかんぷんでした。問題は、この劇場です。
 この劇場はあのリンカン大統領が南北戦争の勝利後の1865年に暗殺された劇場なのです。劇場は今もそのままの姿で建っているのです。(写真がなくてごめんなさい)もちろん内部には、どこに座っていて、どこから撃たれたとかが事細かに説明してあります。
 
 スティーブをはじめアイオワの先生の多くは、ワシントンが初めてですから、この「暗殺の場」に来たことは彼らを興奮させました。スティーブは「ここを見るのは最も楽しみにしていたひとつ。」といいました。
 これには、いささか驚きました。確かにリンカンは偉大な政治家です。でも、120年も前の大統領がこれほど大切に扱われていて尊敬を集めているとは知りませんでした。日本でいうなら、明治維新の英雄大久保利通が暗殺されたのが1878年、東京の皇居の北側の紀尾井坂でのことです。しかし、この英雄は日本では単に歴史の授業の時間の人物ですし、どこにも大久保利通高校はないでしょうし、紀尾井坂を興味深く訪れる人もまずいないでしょう。「diary」にも書きましたが、日本の政治家の悲しい現実です。「My Diary学校・役所雑感へ」
 
 デモインでの研修の2日目、9月27日に我々は民主党の上院議員候補の野外政治集会に参加しました。
 この年1992年はアメリカ大統領選挙の年でした。共和党の現職ブッシュ大統領に民主党の新人候補クリントンが挑戦し、後者が若干有利と伝えられていました。上院議員も半数は改選ですから、アイオワでも選挙があっても不思議ではありません。とてもいい経験になるだろうと思って郊外のインディアノーラの大草原に向かいました。
 途中で、クリントン大統領候補が応援演説に来るという噂が聞こえてきました。もし本当なら、未来の大統領を間近に見ることができるかもしれません。
 
 上院議員やその他いろいろな人の演説のあと、やはり、やってきたのです。クリントン候補が。
 上の中央の写真のあるようにラフなスタイルで登場です。30分ほど応援演説を聞くことができました。テレビを見てもそうですが、アメリカの政治集会は、演説者も上手に盛り上げるつぼと間合いを知っていますが、観客もまた、拍手によって盛り上げることを知っています。何か勇気がわいてきそうな集会でした。
 授業は一方通行、集会では号令をかけて「礼」をさせる日本型学校教育を、21世紀には真剣に考え直す必要があるでしょう。
 
 さて、圧巻はクリントン候補の退場の時。
 群衆が彼めがけて駆け寄ります。私も、鞄とカメラを抱えて必死に走りました。そしてもみくちゃになりながらクリントン候補に接近、ついに彼と握手をすることに成功しました。これがこのアメリカ研修の最大の経験となりました。政策の上でも、人柄でも、クリントンのファンとなった私は、クリントングッズをしっかりと購入してしまいました。
 偉大な国アメリカ、夢のある国アメリカです。 


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