明治末〜昭和初期
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2002年05月25日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題
801
01/04/28

 右のマークをクリックすると写真が登場します。写真は、韓国で出版されている児童向けの偉人伝の絵本の表紙です。高校の日本史の近近代史の部分にも登場するその人物とは誰でしょう。(画像からここへ戻る時は、エクスプローラーの「戻る」をクリックしてください。)

802

01/06/17

 大正デモクラシーの時代の政治を象徴するものといえば、政党政治の実現でしょう。しかし、はじめての本格的政党内閣を率いた原首相は、在職中に暴漢に襲われ命を落としました。犯人が原首相を殺した理由はなんだったのでしょうか。

805

01/12/23

 日本が大正時代に、ワシントン条約を結んで世界各国と協調して海軍軍縮(新しい軍艦の建造の中止など)を実行します。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と10年おきに戦争をしてきた日本としては、この施策は、「異例」の措置と思われます。日本が軍縮に踏み切った理由は何でしょうか?

808 

12/03/10 

 岩手県の一関市一ノ関駅と大船渡市(さかり)駅を結ぶ大船渡線は、その形状からドラゴンレールと呼ばれていました。龍がうねっているように途中で路線が曲がっているからです。その特色ある路線が形成されたのは、大正時代後半の政治状況を反映していました。さてその独特の形状はどのようにして形成されたのでしょうか。 

807 02/05/25

 1925年6月、東京の帝国ホテルで開かれたダンスパーティーに右翼が乱入し、対応の仕方によっては、あわや大乱闘という緊急事態となりました。その時、ホテルの責任者は、機転をきかせて、その会場にいた「○○○に○○○の○○」を命じ、右翼集団の高ぶる気持ちを鎮めて、「大事件」にならずに事なきを得ました。さて、その機転をきかせた命令とは何でしょうか。
 正解の鍵は、ダンスパーティーという会場の状況をどこまで思い描けるかです。

803

01/06/17

 大正時代に完成した東京駅は、それ自体が立派な文化財ですが、完成以後これまで80年余の間に、二つの不幸な歴史的な事件の舞台となりました。それを記念して、駅構内のフロアーには、ポイントが埋められています。さてその不幸な事件とはなんでしょうか。

804

01/09/02

 戦前は、文部省が小学校の児童たちに歌わせる文部省唱歌というのがありました。次の歌は、1911(明治44)年に作られた文部唱歌です。□□□□□の中には、全て同じ人物名が入ります。誰のことを歌っているのでしょう。

 芝刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり  親の手を助け 弟を世話し
 兄弟仲良く 孝行を尽くす      手本は□□□□□
 骨身を惜しまず 仕事にはげみ 夜なべすまして 手習い・読書
 せわしい中にも たゆまず学    手本は□□□□□
 家業大事に 費えをはぶき   少しのものも 粗末にせずに
 ついには身を立て 人をもすくう  手本は□□□□□ 

806

02/05/04

 明治時代後半から、「勤勉・節約」などの代名詞として「二宮金次郎」が尊崇の対象となり、教育の場で重要な扱いを受けました。その象徴として、明治末から昭和の初めにかけて、各小学校に「二宮金次郎」像が建立されました。さて、現代の小学校にその「像」はどのくらいの割合で残っているでしょうか?


<解説編>

801 韓国の絵本の主人公は誰でしょう。                           | 問題編のTOPへ |

 高校の日本史Bの教科書で、全国的に最も多く使用されているのは、 石井進・笠原一男・児玉幸太・笹山晴生『詳説日本史』(1999年山川出版)です。そのP272には、日本による韓国植民地化、韓国併合が記述されています。
 途中から引用します。
 「これに対して韓国は、1907(明治40)年にハーグで開かれた第2回万国平和会議に皇帝の密使をおくって抗議したがいれられなかった(ハーグ密使事件)。日本はこの事件をきっかけに第3次日韓協約を結び、韓国の内政権もその手におさめ、ついで韓国の軍隊を解散した。それまで散発的におこっていた義兵運動は、解散された軍隊の参加を得て本格化した。日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが、そのさなかに伊藤博文がハルビン駅頭で
韓国の民族運動家安重根(アンチュングン)に暗殺される事件がおこると、憲兵隊を常駐させて韓国の警察権も奪った。こうした準備の上に立って、日本政府は翌1910(明治43)年に韓国併合を行って植民地とし、朝鮮総督府をおいた。」
 正解は、
安重根です。本の表紙の絵は、伊藤博文暗殺の場面です。
 
 2001年度採用の教科書の検定をめぐっては、「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二会長)の作製した教科書を中心として活発な論議がおこり、中国や韓国政府からの批判もありました。
 同会の教科書は、検定前と検定後とでは、次のように修正がなされました。
  ※時事新聞「官庁速報」より平成13年4月3日版

<検定前>

  •  朝鮮半島は戦略的には重要だが、軍事的には不安定だった。イギリス、アメリカ、ロシアの3国はいずれも支配を狙っていたが、実際に統治を維持するのは困難であると考えていた。自己負担はさけたいが、他の2国のどちらかが統治するのは困るという地域に対し、統治者としての新興国・日本の登場は、3国にとっては好都合であった。 日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて、支配権を強めていった。1910(明治43)年、日本は韓国を併合した(韓国併合)。これは、東アジアを安定させる政策として欧米列強から支持されたものであった。韓国併合は、日本の安全と満州の権益を防衛するには必要であったが、経済的にも政治的にも、必ずしも利益をもたらさなかった。ただ、それが実行された当時としては、国際関係の原則にのっとり、合法的に行われた。しかし韓国の国内には、当然、併合に対する賛否両論があり、反対派の一部からはげしい抵抗もおこった。

<検定後>
  •  日露戦争後、

    安重根

     日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス、アメリカ、ロシアの3国は朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので、これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。 韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。 韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。

 私は、教師になって以来、歴史を教える時の大事な視点として、「生徒が日本や日本の歴史に興味を持ち、好きになってくれること」を掲げて教育を進めてきました。
 その決め手は、「真実の持つ説得力」と「正義感につながるバランス感覚」であると思っています。

 「英国の哲学者であるバートランド・ラッセルは「どの国においても歴史は自国を大国のように教育する。子どもたちは自国がいつも正義の国であり、いつでも勝利を得、多くの偉人を生むなどあらゆる点で他国より、優越していると信じている」と歴史教育の一般的傾向を論じ、自国中心の歴史教育が内包する危険について警告している。自国民・自国を取り扱う教育の一次的目標が、民族的意義を意識する国民を育成することにあるのは言うまでもない。この点は世界のどの国でも同様である。歴史教育も一次的には国家の発展および民族の繁栄に役立つ自国民を養育することに、その目的がある。しかし、「地球社会的」的現代社会での歴史教育は、それとともに世界的視野および世界平和に貢献しうる歴史的基盤を作るもう一つの目的がある。現代の歴史教育は、民族的個別性の意義と世界的普遍性の意義を調和させうる歴史意識の教育でなければならない。」
  ※李元淳(ソウル大学名誉教授)『韓国から見た日本の歴史教育』(1994年青木書店)

 日本の教科書のにおける安重根の表記も、数年前とは変化しました。
 同じ、山川出版の教科書でも、1986年版の井上光貞・笠原一男・児玉幸太著『新詳説日本史』では「伊藤博文がハルビン駅頭で
韓国青年に暗殺されると」(P275)となっていました。
 安重根は、1879年黄海道生まれ。日本公使三浦梧楼による李朝の王妃閔妃殺害事件に立腹し、反日運動を志すようになった伝えられています。反日義兵闘争が展開されると、安もウラジオストクを中心とする300人の義兵部隊の参謀となって活躍しました。
  ※藤原彰他編『日本近代史の虚像と実像』(1990年大月書店)
 
 安もまた、日本史の授業ではあまり気にもとめられない人物ですが、韓国では、スーパーヒーローです。
  ※掲載書は、以下の書店で購入ができます。電話注文もOKです。定価1312円(送料400円)です。
   株式会社 高麗書林(こましょりん) 〒101-0061 東京都千代田区三崎町3−4−8
          山田ビル2F   T 03-3262-6801 F 03-3262-6878 URL http://www.komabook.co.jp/


802 政党内閣を率いた原敬首相が刺殺された理由とは?        12/05/15写真追加 | 問題編のTOPへ |

 授業中に実施するクイズには、三つの種類があります。 詳しくはクイズの解説参照

 このクイズは、その中の@のタイプ、学習の重要な内容を理解させるためのクイズです。
 中学校の教科書でもお馴染みの、はじめて本格的な政党内閣を作った原敬首相ですが、中岡艮一という青年に刺殺され、日本の現役総理大臣として殺された初めての人物となってしまいました。平民宰相と呼ばれ、国民の人気が高かった原が、何故刺殺されなければならなかったのでしょう。

 犯人の政治的な背後関係は明らかにされませんでしたが、中岡は、「
政党政治の腐敗に憤激」して、首相殺害に及びました。
 ※石井進他著『詳説 日本史改訂版』(1999年山川出版)P300
 
 初めてできた本格的な政党内閣が、その「腐敗」を攻撃されてしまったのは、日本のこの時期の政党政治の限界を示すものでした。つまり、大正デモクラシーの象徴として生まれた政党政治でしたが、自分の政党による政党政治が実現するためには、選挙で勝利することが絶対条件となります。
この選挙の勝利を至上目標とするあまり、地元への利益誘導・業者への利権供与と見返りの資金獲得という、今日の政党政治の持つ「負」の部分を早くも露呈してしまい、原敬内閣の時代には、汚職事件もいくつか発覚して、世間の不評を買ったのでした。
 犯人中岡は、政党政治が日本の政治を誤らせるとして、原の政治に憤慨したのです。

 原敬自身は、「潔白な政治家」として有名でした。つまり、彼が自身が汚職をしたという証拠はありません。しかし、たとえば、自分の地元の岩手県で、鉄道線路を敷設する時、反対党の憲政会の代議士の支持者が多い町はわざと迂回したとい云う事実も残っています。

 この部分では、大正時代の政党政治を語りつつ、「本来の政治の在り方とは」といった大問題を考えるべき部分です。
 この授業の以前に、明治の政治の中で、板垣など政党の指導者が、伊藤や山県など藩閥官僚政府の首相と争い、なかなか権力を握れない時代があることを生徒は学習します。
 しかし、政党政治に変わったとたん、汚職と金権選挙です。
 戦後の政治の中で、田中角栄型政治というものを学習しなければなりませんから、ここでは、その布石を十分ちりばめておきます。
 山口県は、伊藤や山県を初め、数々の官僚政治家を生み出しましたが、彼らは、自分の地元(たとえば山口県萩市)に対して、地元だからという利権供与はほとんどしませんでした。選挙で選ばれたわけではないのですから、地元に便宜を図る必要はないからです。

 私は、もちろん、官僚独裁の政治を良いと言うつもりはありませんし、政党政治がだめだと言うつもりはありません。
 政治というものが、経済的には、国民から集めた巨額な金銭を順位をつけてためになることに遣っていくというものであるとすると、どんな順位が妥当なのかを考えること、どんな順位の付け方が理想なのかを、これから選挙権を得る若い世代に学習させなければなりません。
 政治家と関係を持って自分の利権のみをもとめる、いわゆる「たかり政治」などというものは、理想的であるはずはありませんから。

 その点、明治の政治家をたくさん輩出して何も変わらなかった萩と、たった一人の政治家のおかげでずいぶん変わった新潟と、両極端を考える大事な素材が、本格的な政党政治のリーダー、原敬なのです。 

 写真01・02 盛岡市の中心部にある岩手県公会堂敷地内にある原敬像(撮影日 10/11/05)


803 東京駅構内で起きた二つの悲しい事件とは?                       | 問題編のTOPへ |

 赤煉瓦の東京駅は1908(明治41)年から6年の歳月をかけて建設が進められ、1914(大正3)年に完成しました。設計者は当時建築界の第一人者であった辰野金吾氏です。第二次世界大戦中に空襲で3階部分は焼失してしまいましたが、現在でも当時の部分をそのまま活かし、2階建ての美しい姿を保っています。

 写真01 建設当時への復元前の東京駅 (撮影日 01/05/17)


 上の写真の中央は、東京駅丸の内口中央です。その右手の丸の内南口の改札口の前の床に、左下の写真のような、プレートが埋められています。
 これは、1921(大正10)年11月におこった、当時の
原敬首相の刺殺現場を示すプレートです。 
 原が襲われた理由は、このページのクイズ002をご覧ください。

 写真02・03 左:原敬暗殺現場を示すポイント  右:浜口雄幸首相の遭難現場を示すポイント(01/05/17)


 犯人は中岡は、短刀を構えて原首相に体当たりする形で凶行に及びました。刃先は、肋骨の隙間から心臓を一突きし、原首相はほとんど即死の状態でした。原の故郷、岩手県盛岡には、その時彼が着ていたワイシャツが保存されていますが、血痕は胸の部分にほんの少し付着しているだけです。
 左下の写真は、横の壁に埋め込まれている、遭難現場を示す説明のプレートです。

 写真01・02 原首相・浜口首相の遭難を説明するプレート (撮影日 01/05/17)


 もう一つの事件は、1930(昭和5)年11月に起こった、浜口雄幸首相銃撃事件です。
 場所は、中央通路の新幹線の改札口に近いところです。右上の写真の床の黒い◆の部分がその現場です。また、遭難現場を示すプレートは、すぐ横の柱に取り付けられています。

 浜口雄幸は、張作霖爆殺事件等で行き詰まった田中義一政友会内閣の辞職のあとを継いで、立憲民政党総裁として、1929年7月に首相に就任しました。「ライオン宰相」とあだ名された、積極的で正義感の強い人物でした。
 名前の「雄幸」は、「おさち」と読みます。
 なかなか女の子が生まれなかった父親が、今回こそ女の子と期待して、「お幸」という名前を準備していたところ、男の子が生まれてしまい、そのまま雄幸となったそうです。
 ※城山三郎著『男子の本懐』(1982年新潮社)
  
 しかし、この内閣の経済政策の目玉であった金解禁政策(金本位制度への復帰)は、アメリカから始まった世界恐慌によって、破綻に瀕していました。
 また、1920年代を通して世界の基調であった国際協調の結果として調印されたロンドン海軍軍縮条約についても、軍縮の割合をめぐって、軍部等が強硬に反対し、世論は内閣に不利の状況にありました。

 原敬刺殺事件のあと、万一に備えて首相が乗降する時はホームに一般客を入れないようにしていましたが、浜口の意志によって取りやめになっていました。それが仇になりました。
 
 右翼思想に同調していた犯人佐郷屋留夫は、浜口の前方3メートルからピストルを発射した。浜口自身の回想録『随想録』には次のように書かれている。
「『ピシン』と云ふ音がしたと思うた一刹那、余の下腹部に異常の激動を感じた。その激動は普通の疼痛と云ふべきものではなく、恰も『ステッキ』位の物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じがした。」

 銃弾は浜口の腹部にとどまり、すぐに手術が行われました。しかし、一命をとどめたものの、健康体に戻ることはできず、翌年8月にこの傷がもとで死亡しました。
 その翌月には、後継者の若槻礼次郎内閣のもとで、満州事変が勃発することになります。


804 明治44年の文部唱歌、手本とすべき人ははいったい誰でしょう?        | 問題編のTOPへ |

 正解は、二宮金次郎です。1911年の文部省唱歌で次のように歌われました。

 芝刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり  親の手を助け 弟を世話し
 兄弟仲良く 孝行を尽くす      手本は
二宮金次郎
 骨身を惜しまず 仕事にはげみ 夜なべすまして 手習い・読書
 せわしい中にも たゆまず学    手本は
二宮金次郎
 家業大事に 費えをはぶき   少しのものも 粗末にせずに
 ついには身を立て 人をもすくう  手本は
二宮金次郎 


 私の母校、岐阜市立白山小学校の校庭にある金次郎の石像。1934(昭和9)年に建立されました。自分の在校中の記憶をたどって、20数年ぶりに訪れましたが、場所はかわっていたもののちゃんとありました。

 二宮金次郎は正式には二宮尊徳といいます。1787年、相模国栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市)の農民の子として生まれ、はやくに父母と死別したため伯父にあずけられ、農作業を手伝いながら独学で読み書き・算術をおぼえました。夜なべ仕事や荒れ地に菜種を植えることで、少しずつ財をためて田畑を持ち、20歳のとき生家を再興しました。しかし、自らは耕作せず、田畑は小作人に貸し、自分は奉公人となって、効率よく現金をかせぎました。

 奉公先で才覚がみとめられ、1818(文政元)年小田原藩の家老服部家の財政立て
直しをまかされました。きびしい倹約と小田原藩からの借用金運用によってこれを成功させ、さらに藩士のために五常講という金融制度をもうけ、藩に枡(ます)の統一も意見しています。続いて、小田原藩から分家の旗本である宇津(うつ)家の財政再建を命じられ、23年には一家で宇津家の領地の下野(しもつけ)国桜町領(現在の栃木県二宮町・真岡(もおか)市)へうつり、荒廃した農村の復興にとりかかりました。
 尊徳は、農民に至誠、勤労、分度、推譲を教えました。分度とは、自分の生産力に応じた消費生活を行って余剰を生み出すことであり、推譲とは分度によって生じた余剰を他へ譲ることを意味します。これら一連の施策は報徳仕法とよばれ、天保の飢饉(1833〜36)をのりきって桜町領の再興をなしとげます。尊徳から指導をうけた農民も、小田原藩領や北関東・東海地域の農村で報徳仕法をおこない、各地で「
報徳運動」が進められました。この功績により、尊徳は1842年に幕府に役人に登用され、幕府領でも報徳仕法を実施しました。
 
 さらに、明治に入ってからも、門人たちは、各地で報徳社という結社を作り運動を展開しました。
 明治国家が最初に二宮尊徳を注目したのは、1880年代の松方デフレ政策の進行の時でした。1891年には、幸田露伴が少年少女向けに『二宮尊徳翁』を出版し、また内村鑑三は1894年に、英文で『Japan and Japanese』を書き、西郷隆盛、日蓮上人、上杉鷹山などと並んで、二宮尊徳を世界に紹介しました。

 次いで、1904年には国定の教科書『尋常小学修身』に尊徳が登場します。つまり、金次郎のような不幸な境遇の貧しい子どもでもまじめに勉強し勤勉に働き、人の道を守るならば、必ずや立身出世ができるという教えを小学生に説いたのです。
 さらに、日露戦争以後の、国家意識の再編過程の中で、内務省は報徳会を国民意識の高揚に積極的に利用します。

 こうして、尊徳の名と「勤勉・節約」などの教えは、日本の社会の隅々にまで広がっていったのです。それとともに、あの有名な薪を背負って本を読みながら歩く「二宮金次郎」の像も、全国の小学校などに建立されていきました。

 二宮金次郎の銅像・石像は、未だに各地に残っています。ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにもあるそうです。東京駅前の八重洲ブックセンターには、開設後1991年に銅像が新しく作られています。本を読んで勉強する人が増えるようにとのことでしょうか。
 ※海野福寿著『集英社版日本の歴史18 日清・日露戦争』(1992年集英社)P225
 


805 日本が海軍の軍縮条約を結んだ理由は?                         | 問題編のTOPへ |

 日本史の教科書には、次のように書かれています。

「1921年アメリカは海軍の軍備縮小と太平洋および極東問題を審議するための国際会議を招集した(ワシントン会議)。アメリカの目的は、軍縮協定により米・英・日の建艦競争をおわらせ自国の財政負担を軽減すると同時に、東アジアにおける日本の膨張を抑制することにあった。日本は加藤友三郎らを全権とする代表団を会議に派遣した。(中略)
 さらに同年、米・英・仏・伊・日の5大国のあいだで海軍軍縮条約が結ばれ、米・英各5、日本3、仏・伊各1.67の主力艦保有比率が定められた。国内では海軍、とくに軍令部のあいだで対米7割が強く主張され、野党憲政会もこれを支持したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が海軍内の不満をおさえて調印にふみきった。」
 ※石井進・笠原一男・児玉幸多・笹山晴生著『詳説日本史【改訂版】』(1999年山川出版 P302

 日本は、日露戦争勝利後の1907(明治40)年、「帝国国防方針」を制定し、それに合わせて決定された「国防に要する兵力」において、対米英戦争をも意識して、海軍においては、八八艦隊計画を打ち上げました。
 これは、艦齢(艦の寿命)8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の合計16隻を必要兵力としてそろえるものでした。

 一方アメリカは、第一次世界大戦勃発直後の1914年8月に、パナマ運河が開通した事もあって、日露戦争後それまでの友好関係から一転して緊張関係に転じていた日本を意識して、1916年に海軍拡張の「3年計画」を発表し、建艦競争に乗り出しました。

 このような情勢の中で、1922年になって、何故日本が海軍の一部他の反対を抑えて軍縮条約を結んだのか?
 正解は、アメリカと日本とでは財政的にも工業的にも能力が違いすぎ、建艦競争(海軍拡張)においても、アメリカに対抗できる筈もなく、その現実を直視して、自国の能力に見合う軍備をのんだのです。

 いささか詳しくなりますが、次は、軍縮会議直前の1921年の日本とアメリカの建艦事情です。

日  本(八八艦隊計画)

アメリカ(三年計画)

艦名

建造状況

艦名

建造状況

長門
陸奥
加賀
土佐

1920年完成
1921年完成
1921年進水
1921年進水

@メリーランド
Aコロラド
Bワシントン
Cウエスト・バージニア

完成
進水
進水
進水

天城
赤城
高雄
愛宕

1921年起工建造中

Dレキシントン
Eコンステレーション
Fサラトガ
Gレインジャー
Hコンスティテューション
Iユナイテッド・ステーツ
Jサウス・ダコダ
Kインディアナ
Lモンタナ
Mノース・カロライナ
Nアイオワ
Oマサチューセッツ

1921年までに起工済み・建造中

紀伊
尾張
駿河
近江

1921年起工準備中

13号艦
14号艦
15号艦
16号艦

1921年設計のみ完成

 この表を見れば、ひとつひとつの軍艦の性能など比べなくても、アメリカの建造能力が日本より数倍上回っていることが一目瞭然です。
 
 日本は、財政的にも苦しい状況でしたが、造船能力からいえば、決定的なハンディをもっていました。
 この時代から太平洋戦争直前にかけて、
日本では、4万トン級の巨艦を建造できる施設は、呉海軍工廠、横須賀海軍工廠、三菱長崎造船所、川崎神戸造船所の僅か4カ所しかありませんでした。
 
 したがって、上表でも、オレンジの部分の4隻が建造中であるなら、それが進水してしまわない限り、次の軍艦は建造できない状態でした。(船は、下部構造ができあがって進水式を済ませば、あとは、造船所のそばの海に浮かべて、上部構造の工事(専門用語で艤装)を行います。)

 細かいことをいろいろ言いましたが、ここで重要なことは、たったひとつです。
 海軍大臣加藤友三郎は、まともに建艦競争することは日本の国益にならない、簡単に言えば、「アメリカには敵わない」、ということを認識し、観念論者や妄想家がどんなに反対しようとも、軍縮を実行する決断力をもっていたと言うことです。
  
 当たり前のことが、当たり前に行われた時代でした。
  ※御田俊一『帝国海軍は何故敗れたか』(芙蓉軍事記録リバイバル【新装版】2000年 芙蓉書房)
P11 

 この話は、日本が海軍軍縮条約から離脱し、無条約時代に入る事につながります。

 戦艦長門。竣工当時の姿で、2本煙突です。太平洋戦争前には、近代化改装が行われ煙突は1本となります。(戦前の写真はがきから)


806 現代の小学校に「二宮金次郎」像は、どのくらいの割合で残っているか?         | 問題編のTOPへ |

 他地域のみなさには、申し訳ありませんが、このクイズのデータは、我が郷土岐阜市に関するものです。
 現在岐阜市には、市立小学校が48校、国立大学教育学部附属小学校が1校、合計49の小学校がありますが、そのうち、いくつの学校に「二宮金次郎」像が残っているかという数値です。

 
正解は、49校中、27校に健在で、その割合は、55.1%です。 (ただし、足首だけが残っている1校もカウントされています。)

 また、近隣の市町村も含めた、111校では、65校に66体の金次郎像があります。その割合は、58.5%です。
 戦後の新設校の多い岐阜市・各務原市などは比較的低い割合ですが、羽島市と羽島郡や本巣郡では約7割が現存し、さらに山県市(2003年4月旧山県郡町村の合併により誕生)では、11校中10校が現存と非常に高い比率になっています。
 この数値は、岐阜市歴史博物館の青木秀樹さんと、元博物館職員で現在は市内木田小学校の小野木義浩教諭が調査したものです。
  
 お二人は、2000年から各校を回る現地調査を開始され、2001年12月に岐阜市分を、2003年7月に周辺市町村分をまとめられました。

 それによると、「二宮金次郎」像の大半は石像で、本読みながら歩く姿は同じでも、背負っているものは「シバ」であったり「薪」であったり、斧がついていたりなかったり、顔が幼かったり青年風であったり、と様々なバリエーションがあるそうです。

 戦争中には、ブロンズ製のものは、欠乏する金属資源を補うための「金属供出」によって撤去されてしまいましたが、その代わりに「陶器製」像を置いたところがあり、それが、三つの学校(三里、木田、常磐小学校)に残っているそうです。
 我が母校、白山小学校の像は、石像・少年顔・薪です。(こちらをご覧ください
 
 その他、足首だけが残っている長森北小学校、本に文字まで書いてあるリアルな鶉小学校など、それぞれの特色があって、研究心はつきません。

 小野木さんは、「そもそも金次郎はどんな人だったのか。どうして像があったり、なぜ陶製なのか。身近な教材として、とらえ直してみるのもいいのでは」とおっしゃっておられます。
 

 二宮金次郎、彼が背負うものは、ただの薪なのでしょうか、はたまた、廃れつつある日本の道徳心への警鐘という、重い責任でしょうか。

青木秀樹・小野木義浩「金次郎像について」『岐阜市歴史博物館研究紀要16 2003年』 (岐阜市歴史博物館)


807 右翼の乱暴を防いだ帝国ホテル責任者の機転とは?            | 問題編のTOPへ |

 事件は、大正13(1924)年6月7日に起きました。
 この日、東京の帝国ホテルでは、日本人男女とアメリカ人など外国人の男女も参加するダンスパーティーが開かれていました。
 そこへ右翼団体の壮士(この言葉は、歴史では時々登場してきますが、説明しにくい言葉です。広辞苑をそのまま引用します。「A意気の盛んなもの。血気にはやるもの。」でしょうか。)50余名が乱入し、刀を抜いて剣舞を始めました。日本の女性が外人相手に踊り狂うというのは国の恥辱であるから肝を冷やしてやろうという魂胆です。
 対応を間違えば死傷者も出てしまう大事件になってしまいます。

 帝国ホテルとしては、新装開店して1年とたたないこの時期に、ホテルで死人が出たとなれば、営業成績にも響きます。ちょっと脱線しますが、日本史の大正文化のところでたいていは東京駅と並んで出てくる、建築史上で有名な旧帝国ホテルは、このときの建物です。近代建築界の巨匠アメリカ人ライトの傑作と言われています。この建物は1967年に解体されましたが、今はその一部、中央玄関が、愛知県の博物館明治村(名古屋鉄道経営)に移築されていて、見学することが出来ます。
  ※明治村の公式サイトはこちらです。

 話を戻します。
 ホテルの責任者はびっくりしたでしょうね。一歩間違えば、流血の大惨事です。
 そこで、機転を利かして次のように対応しました。
 ダンスパーティーですから、音楽演奏のためのバンドがその場にいるのは当然です。
 正解、バンドの指揮者に君が代を演奏するように命令したのです。

 右翼の壮士達ですから、君が代が流れれば、剣舞をやめて直立不動で合唱となります。
 いったんはやる気持ちが収まれば、もう危険な事態は避けられます。

 右翼達は、歌い終わると勧告文を読み上げ、天皇陛下万歳を叫んで引き上げて行きました。もっとも、この事件により、しばらくの間、帝国ホテルのダンスパーティは中止になりました。
 ※今井清一著『日本の歴史23 大正デモクラシー』(中公文庫1974年)P476

 この事件は、大正の終わりに起こっています。
 ことの発端は、日米関係の険悪化でした。
 
 日露戦争の勝利で日本が、「一流国」の仲間入りをし、中国とりわけ満州に対して、排他的な利権を獲得しようとする意図があからさまになると、中国市場の門戸開放・機会均等・領土保全を主張するアメリカとの関係は、悪化しました。
 日露戦争では、共通の敵ロシアを倒すと言う目的があったので、アメリカやイギリスは日本を応援しましたが、勝利した日本が「独り立ち」し始めると、両者の国益は対立を始めます。

 資本力の弱い日本としては、中国進出の方法は、出来るだけ自分のなわばりをしっかり作り、他国を排除する方法が理想となります。これがアメリカの言う「排他的」方法です。
 一方アメリカは、このころまさしく日の出の勢いの資本主義の成長国、圧倒的な資本と生産物があるいじょう、どこへ行っても競争は出来るわけで、どこかの国のなわばり設定には当然反対、「自由に競争しよう」というのが、自分の国の利益にかなった政策であり、それが、門戸開放・機会均等・領土保全でした。

 第一次世界大戦の時は、両国はドイツを敵とする同じ陣営で戦い、戦勝国となりましたが、日本が大戦中に行った対中国21ヶ条の要求などを巡って、日米の対立は高まりました。
 その対立を協調を変えるための会議が1921年11月からのワシントン会議です。

 ただしこの会議は、事実上世界のリーダーとなり経済的には群を抜いて強力になりつつあったアメリカが、自国のスタンダードを世界に押しつけるために開かれた会議でした。20世紀は「アメリカの世紀」といえるでしょうが、これはその最初の会議だと位置づけることが出来ます。

 当時の日本は、彼我の力関係については非常に現実的かつ冷静で、アメリカの提案を受け入れ、中国に対して一時は獲得した利権を放棄し、海軍の軍艦建造競争もあきらめて軍縮条約を結びました。
  ※この軍縮については、このページのクイズ805「日本が海軍の軍縮条約を結んだ理由は?」参照
 これ以後しばらくの間、現実を見据えた「協調」路線がとられます。

 ただし、アメリカ国民自身の意識と、我が国の右翼の意識は、「協調」ではなかったようです。

 アメリカ国民の意識全般は、「よく分けも分からない東アジアの小国が生意気にもアメリカに楯を突いてきた」というのが、本音だったでしょう。
 このため、1923年12月のアメリカ議会に、日本人のアメリカ移民を全面的に禁止する、いわゆる「排日移民法案」が提出され、24年冒頭には、上院で可決されました。
 このような情勢を見たイギリス人海軍評論家バイウォーターは、『太平洋戦争』という、日米仮想戦争物語を出版し、日本の敗北を予想して、反響を呼びました。

 一方、日本の右翼も敏感に反応し、国民対米会・対米同志会・大亜細亜協会・東亜連盟協会・大日本国粋普及会など、反米を主張する右翼団体が多数結成されました。

 この事件は、そういう背景があったこの年、1924年6月7日の帝国ホテルの出来事だったのです。

 最後です。
 生徒達に、卒業後も今の社会を考える続けることが出来るようにいろいろな素材を教えるという点では、右翼・左翼という概念は、政治用語として学習上不可欠の言葉です。
 ところがまたこれが時代ごとに定義の詳細が変化して難しいものです。

 大正・昭和初期のこの時代においては、天皇家と皇室に発展に対する極度の積極性および絶対的肯定、中国大陸への積極的進出、社会主義運動・労働運動などへの暴力的弾圧、などを主義主張とする政治活動を行う団体と説明できます。 

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