満州事変・日中戦争期4
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<解説編>
 

0909 日中戦争時内蒙古地区は中国内への商品の供給地。商品とは?|世界史問題編へ||日本史問題編へ

 正解は、アヘンです。
 この問題の世界史的な全体構造については、クイズ世界史→「二つの世界大戦 イギリスに代わってアヘン貿易の主役となった国は?」をご覧ください。ケシの花の写真も掲載されています。

 これについて、高等学校の日本史の教科書の記述を調べてみると、最大シェアーの山川出版の3種類の教科書には、書かれていません。しかし、シェアーは少ないですが、実教出版の教科書には次のように書かれています。
 実教出版『日本史B 新訂版』(2008(平成19)年度教科書採用見本版)P341 
 

著者:脇田修、大山喬平、福永伸哉、栄原永遠男、勝山清次、平雅行、村田路人、高橋秀直、小路田泰直、江口圭一、広川禎秀、川島敏郎、豊田文雄、児玉祥一、矢野慎一 

 

「国民政府は首都を重慶に移し、アメリカ、イギリス、ソ連などの援助を受けて抗戦をつづけ、日本が期待した汪兆銘工作も効果を上げず、戦争は完全に長期戦化した。註G」 

 脚注G

「日本軍は中国戦線で国際法で禁止されている毒ガス(化学兵器)をしばしば使用した。また、ハルビンなどに「731部隊」等の細菌戦部隊を配置したり、内モンゴルなどでアヘンを生産し、中国占領地へ販売したりした。 


 実教出版『高校日本史A 新訂版』(2008(平成19)年度教科書採用見本版)P129 
 

著者:宮原武夫、石山久男、小宮恒雄、川尻秋生、川合康、峰岸純夫、佐藤和彦、北島方次、宮崎勝美、久留島浩、大日方純夫、大江志乃夫、君島和彦、渡辺賢二、加藤公明、小松克己

 

「中国軍民の抵抗に直面した日本軍は、1940〜43年にかけて華北の抗日根拠地への攻撃で「焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす」という「三光作戦」をおこなった。また、ハルビンの731部隊などでは、細菌戦・毒ガス戦の研究で、2000人ともいわれる中国人やロシア人を実験材料(マルタ)にし、しばしば中国各地でこれらを使った作戦を実行した。さらに、アヘンを生産して中国占領地で販売したりした。」 


 アヘンは、ご存じのように、ケシの花から採取します。 ケシの花はケシ科に属する二年草で茎の高さは100cm〜150cmぐらいになり、5月〜6月頃、白・紫・赤などの花を咲かせます。
 花は一日でしぼみますが、そのあとにできる果実の表面を傷つけると乳状の液が分泌し、それを採取して天日で乾かしたものを
生アヘンといいます。これに水を加え加熱・溶解・濾過などの処理をした上で冷却して練膏状にしたものがアヘン煙膏(えんこう)で、これをパイプに詰めてランプにかざして燃焼させ、その煙を吸うのが古典的な「アヘンの吸引」です。
 アヘンの麻薬作用は、生アヘンに5〜15%含まれているアルカロイド、
モルヒネC17H19NO)によって生じます。この物質の抽出に初めて成功したのは、ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュナーで、1804年のことです。ただし、すぐには普及せず、1850年代に皮下注射が開発されてから、鎮痛剤・麻酔剤として広がりました。日本ではモルヒネの国内製造は、第一次世界大戦中に星製薬によって初めて行われました。
 
ヘロインというのは、モルヒネをアセチル化したもの(ジアセチルモルヒネ)で、1870年代に初めて開発され、当初は1890年代にドイツの製薬会社バイエル社から発売された鎮咳薬の製品名でしたが、後にその名前が一般化しました。ヘロインもはじめは医薬品として用いられましたが、モルヒネ以上に多幸感・依存性が強く、容易に慢性中毒になる物質です。
 ※参考文献1 江口圭一著『日中アヘン戦争』P16−21

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 日本がアヘン貿易と直接関わるのは、日清戦争によって1895年に清朝から台湾を獲得し領有した時です。
 清朝といえば、アヘン戦争やアロー戦争によってイギリスのインド植民地からのアヘン輸入を公認させられ、19世紀後半には、アヘン吸引者がかなり広がっている状態でした。
 台湾は清朝の領土でしたから、本土と同じようにアヘン吸引が蔓延していました。日本政府や台湾統治のために設置された
台湾総督府は、このアヘンの流行に対して、「漸禁主義」という方法をとりました。これは直接の意味は、「だんだん禁止していく」という方針です。しかし、具体的には、すぐに全面禁止にしては、これまでアヘンを愛好していた人々が大変困るだろうから、政府の専売としてアヘンの販売は続け、次第にアヘン中毒者の数を減らしていこうという政策です。
 しかし、実際には、アヘン愛飲者は野放しにされ、むしろ、
専売制によってアヘン販売を続けることで政府が収入を確保するという形となっていました。この方法は、基本的には、日本がその後に中国に獲得した植民地や傀儡国家、つまり、関東州・山東半島の青島地域(第一次世界大戦期に占領、6年間支配)、満州国に対しても適用されました。
 特に満州国の吉林省東部や熱河省においては、かなりの面積のケシ畑が経営されました。
 また、1910年に植民地とした朝鮮においても、ケシが栽培され、アヘンとしてはもちろん、モルヒネ・ヘロインにも加工されて朝鮮内部での使用はもちろん、中国にも輸出されていきました。
 さらに、1937年に日中戦争が始まり、華北や内蒙古に傀儡政権ができると、そこを窓口にして中国占領地などに大量のアヘンが輸出されました。華北の冀察政務委員会、内蒙古の蒙疆政権です。
 生産という点においては、この時点から1945年8月の終戦までに間の期間に、中国におけるアヘン生産の拠点となったのは、蒙疆政権の管轄下にあった現在の内蒙古自治区でした。
 ※参考文献1 江口圭一著『日中アヘン戦争』P60〜168
 ※参考文献2 江口圭一編著『資料日中戦争期阿片政策』P13−80



【参考文献】 このページの記述には、次の文献・資料を参考にしました。

  江口圭一著『日中アヘン戦争』(岩波新書 1988年)  
  江口圭一編著『資料日中戦争期阿片政策』(岩波書店 1985年) 

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